イラク・アフガニスタン帰還兵は自殺率が高いって本当?

11月最後の木曜日は感謝祭。私も久々に休みをとってうちでゆっくりしているところである。
しかし11月は11日にベテランデイといって元軍人に感謝する日があるので、反米メディアはこぞって元軍人の悪口を報道するのが常になっている。今年も例外なく軍隊バッシングがおこなわれたが、イラク帰還兵の自殺率はほかの人口より高いとか、アメリカの浮浪者の1/4が帰還兵だなどという記事が目に付いた。
これについて、従軍記者などのバリバリやっている自分も元軍人のマイケル・フメントは、この自殺率の話はかなり眉唾だと指摘している。
私はこの番組は見なかったのだが、二回に分けて報道されたこの特別番組では、自殺した兵士の妻などへのお涙ちょうだいのインタビューで埋め尽くされていたらしい。しかもCBSは2005年の調査によると、元軍人は一般市民よりも自殺する可能性が二倍の率であると断言したという。
しかしCBSは偏向のない独立した調査会社に調査を依頼したのではなく、自分らでこの調査を行っており、視聴者はその真偽を確かめるすべがない。またこの数はDepartment of Veterans Affairs(VA)という元軍人について扱っている政府機関の調査の数よりもずっと多いことをCBSも認めている。
番組中で、このVAの調査は疑わしいとCBSのインタビューに答えている元軍人ふたりは、フメントによると結構名の知れた政治活動家で、そのうちの一人はイラク戦争反対の反戦運動かなのだという。およそ公平な立場でものがいえる人たちではない。そういう人間の身元をはっきりさせずにインタビューしたということだけでも、この番組の意図は明白だ。
しかし調査以外にネットワークの悪質な嘘を証明するもっとも決定的な証拠はほかにあるとフメントはいう。例えば、CBSが現在の戦争の帰還兵に特別な焦点を当てていることだ。

「ひとつの年代が目立ちます。」と番組。「元軍人の20歳から24歳で対テロ戦争に参加したグループです。彼等は元軍人のなかでも自殺率がもっとも高く、一般の同年代の若者より二倍から四倍の率といわれています。」

CBSは若い元軍人の自殺率は10万人につき22.9人から31.9人だという。
しかし現在対テロ戦争についている現役軍人の数と比べてみるとこの数字はどうも変だ。先月陸軍は現役軍人の自殺率に関する調査結果を発表したが、2006年における現役軍人の自殺率は10万人につき17.3人だったという。CBSの元軍人の率よりかなり低い。なぜ現役の軍人よりも最近除隊したひとたちのほうが高い率で自殺したりするのだろうか。

フメントの最後の質問はちょっと変だと思う。現役でバリバリ戦ってた戦士より、除隊して一般社会に溶け込めずに気が滅入って自殺する人は結構いるかもしれないし、戦場では押さえていた恐怖心とか猜疑心とかが、除隊した後で沸き上がってきて絶望するなんて例もあるかもしれないからだ。しかし、肝心な点は、軍人や元軍人の方が一般市民よりも自殺をする率が高いのかどうかという問題だが、この点についてフメントはそんなことはないと書いている。
軍隊、特に戦地からの帰還兵は圧倒的に男性が多い。自殺率は若い男性の方が若い女性よりも高いというのはごく一般的なことだ。であるから、軍人の自殺率を計る場合には一般市民も軍隊と同じく男女の比率を調整してからでなくては意味がない。陸軍はその調整をおこなって調査をした結果、一般市民の自殺率は10万人につき19人と陸軍より高い数値になったという。
となると、帰還兵の年、性別、人種などを一般市民の間でも調整したら、CBSのいうような一般市民の「二倍から四倍」も高い率などという数字が出てくるとは思えない。
湾岸戦争の70万にもおよぶ帰還兵や、2004年に行われたベトナム戦争帰還兵対象の調査でも、元軍人が一般市民より自殺する確率が高いという結果は出ていない。過去半世紀にわたるアメリカの大きな戦争でも、帰還兵の間で自殺率が高くなるという傾向がないのに、CBSは現在の対テロ戦争だけは特別に軍人らを絶望のふちに追い込んでいるというのである。
元軍人の間でもベトナムや湾岸での戦闘体験のある人とない人の間で自殺率はかわらないという。戦争時で勤めたひとでも平和時で勤めた人でも自殺する率に変化はないのである。となるとCBSが強調したい、『元軍人の間では対テロ戦闘によって心的外傷後ストレス障害(PTSD)を起こして自殺におよぶケースが増えている』という主題がかなり怪しくなってくる。
無論PTSDはばかにできない病気だ。フメント自身もイラクはラマディで待ち伏せされた戦闘の後で2〜3日はPTSDに悩まされたという。しかしPTSDについては多くの調査が行われいるが、PTSDが自殺の要因となるケースは非常にすくないという。事実ほんの一週間前にVAが発表したPTSDの比較調査結果によればPTSDと診断されたひとより、そうでない人のほうが自殺率は高いという結果がでたのだ。
この調査は80万人を対象にPTSDと診断された人とそうでない人の間の自殺率を比べた結果、PTSDと診断された人の自殺率は10万人につき68.16人、そうでない人の間では10万人につき90.66人と、PTSDでない人の自殺率のほうが圧倒的に多かったのである。この原因に関して調査者たちは、PTSDと診断された人は治療を受けている可能性が高いため、自殺を防げるのかもしれないと語っている。
また戦闘体験の後遺症についても、1998年に行われた調査によると、戦闘での衝撃的な体験が将来身体に及ぼす害は非常に少ないという結果がでている。
つまり、帰還兵がより自殺する傾向にあるという納得のいく証拠など存在しないのである。
フメントは自殺は常に悲劇であり、数が多い少ないに関わらず減らすことを考えるべきだとしながらも、そのためには自分らの政治的アジェンダを持ち出していてもはじまらないという。全くその通りだ。
CBSが本気でアメリカ軍人の精神状態を慮っているのであれば、元軍人が格安で簡単に治療を受けられるような施設つくりに貢献してはどうか?ボランティアをつのってPTSDに病んでいる軍人らの手助けをしてはどうか?そんな努力もしないで、一部の元軍人らの悲劇を自分らの政治的アジェンダに悪用するなんて、CBSのニュースは下の下である。


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米軍、APのストリンガーを正式にテロリストとして起訴

APのカメラマンとして賞までとったことのあるイラク人、ビラル・フセインという男がテロリストとしてアメリカ軍に取り押さえられた話は、去年の暮れ頃ここでも紹介した
彼はアメリカの記者の代わりに現地で取材をする所謂(いわゆる)ストリンガーだが、彼が撮ったテロリストの写真は、どう考えてもテロリストの協力を得て撮ったものが多々あった。フセインは去年アメリカ軍に逮捕されテロリストとしてイラクで拘束されている。そのフセインにアメリカ側から正式にテロリストとして罪が課されることになったと、当のAPが報道している。(Hat tip Powerline)

NEW YORK (AP) – 米軍はビューリツァー受賞者のアソシエイトプレス(AP)のカメラマンに対して、イラクの裁判所で犯罪訴訟を起こす考えをあきらかにした。しかしどのような罪で起訴するのか、どのような証拠があるのかはいっさい明らかにしていない。

APの弁護側はこの決断に断固とした抗議をしており、米軍の計画は「いかさま裁判だ」と語っている。このジャーナリスト、ビラル・フセインはすでに19か月も起訴されないまま拘束されている。
ワシントンではペンタゴンの報道官ジェフ・モレル氏が起訴内容について「フセインに関する新しい証拠が明らかになった」と説明している。…
モレル氏は軍が「ビラル・フセインのイラク反乱分子の活動につながりがあり、イラクの治安維持に脅威を与える人物であると確信できる確かな証拠がある」とし、フセインを「APに潜入したテロ工作員」と呼んだ。

APは自社の記者に関するニュースだけに、いまだにこのストリンガーがテロリストではないと言い張っている。弁護側にいわせると軍はフセインの罪について詳細をあきらかにしていないため、どのように弁護していいかわからないということだ。APはフセインがテロリストとは無関係だという根拠として、彼の撮ったほとんどの写真がテロ活動とは無関係なもであり、テロ活動が写っている写真でもストリンガーがテロリストと前もって打ち合わせをしていた事実はないと断言している。しかしパワーラインも指摘しているが、「ほとんど」がそうでなくても、テロ活動を一枚でも写真に撮ることができるとしたら、フセインにはそれなりのコネがあると考えるのが常識だ。フセインの撮った写真で有名なのは私が上記で掲載したイタリア人記者殺害後のテロリストがポーズをとってる写真。(2005年におきたイラクはハイファ通りでの真っ昼間の暗殺事件を撮ったのもフセインだという話があるが、これはAPは否定している。)

Bilal Hussein and his picture    Italian

テロリストと一緒に逮捕されたAPカメラマン、ビラル・フセイン(左)フセイン撮影イタリア人記者の遺体の前でポーズを取るテロリストたち(右)


ビラル・フセインがピューリツァー賞をとった写真はこれだが、テロリストがイタリア人記者を殺しているところにたまたまAPの記者が居合わせるのが不可能なのと同じように、テロリストがアメリカ軍に向かって撃っているところを真横にたって撮影するなんてことがテロリストの仲間でもないカメラマンに出来るはずがない。これらの写真はどう考えても、まえもって打ち合わせをしてのみ撮れるものである。はっきり言ってフセインの撮った写真そのものが、ビラル・フセインの正体を証明しているようなものだ。


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ずさんな身元調査、女テロリストスパイに潜入されていた米諜報組織

ヒズボラの女スパイがアメリカの諜報組織、FBIとCIA双方に潜り込んでスパイ行為をして起訴されていた事件で、11月15日、被告のナディア・ナディウム・プロウティ(Nadia Nadim Prouty)は罪を認めた。プロウティは旧姓Al Aouarといい、ヒズボラ関連の逃亡者を義兄に持つ。
問題なのは、どうしてこのような人物がFBIとCIAの双方で雇用されていたのかということなのだが、取り調べが深まるにつれて、アメリカの移民局および諜報局のずさんな身元調査が浮かび上がってくる。
アメリカは移民の国なので、あらゆる職種に外国生まれの移民がついているが、公務員といえども例外ではない。ただ一般の民間企業と違って公務員の場合はアメリカ市民でなければ応募できないことになっている。とはいえ、一旦合法で永住権をとってしまえば、時間はかかるが、特に犯罪などをおかしていなければ市民権は手続きさえ踏めば自動的に取得できる。ただし、秘密情報を手掛ける国防総省や国務省などへの勤務をする場合は、厳しい身元調査を通らなければならないことになっている。
「なっている」とはいうものの、いったいどのように調査しているのか、かなり怪しいということが今回のことでかなり明らかになった。スティーブン・エマーソンによると、ナディアは1990年に移民ビザではない一時滞在ビザで入国し、滞在期間が切れた後も違法滞在したままミシガン州のアメリカ市民と偽造結婚をして後にアメリカ市民権を得たという。
1999年、ナディアは取得したばかりの市民権を使ってFBIに就職。身元調査にも見事に合格して秘密情報を扱えるセキュリティクリアランスを得た。ナディアはその特権を利用してFBIの秘密データベースを使って自分や姉そしてミシガンでレストラン経営をしている姉の夫に関してFBIがどういう情報を持っているかを調べたりしていた。ナディアは2003年にFBIを辞めた後、今度はCIAに就職した。彼女に有罪判決が言い渡されれば、15年の禁固刑および60万ドルの罰金が課せられることになっている。
ところでこのナディアの姉と姉婿のChahineだが、彼等は2006年に脱税で起訴されているが、それ以前に2002年にレバノンのイラン系テロリストグループであるヒズボラで自爆テロリストをした子供の家族に資金援助をする募金運動に積極的に参加しており、ほかにもミシガンを基盤にしているヒズボラ系の市民団体と深いつながりがあるという恐ろしい夫婦である。
ナディアの潜入ぶりはFBIとCIAだけではない。ニューヨークポストによると、なんとナディアはパキスタンのアメリカ大使館で働いていたことのある国務省の役人と結婚していたことが今月18日に明らかになったという。
私は常々、アメリカの国防省や国務省にやたら移民が多いと感じていた。特に中近東や中国系の従業員をみると、このひとたちの身元調査はどのくらいきちんとされているのだろうかと疑問に思えたのである。また民間企業でも秘密情報を扱うところは厳重な身元調査をすることになっているが、この間も防衛関係の民間企業につとめる中国系科学者が中国共産党のスパイをしている兄に秘密情報を流していて捕まったという事件が起きたばかりだ。
移民の多いアメリカで移民を雇うなというのは理不尽な理屈だ。またアメリカはイスラム系テロリストと戦争関係にあるからとか、中国共産党はアメリカには危険な存在であるからとかいうだけで、これらの国出身の移民を雇わないなどということになったら、これは完全に人種差別ということになってしまう。アメリカでは第二次世界大戦中に日系移民を永住権や市民権のある人間まで収容所に強制移動させたという忌わしい過去がある。私自身が日系移民であり大人になってから市民権を得た身であるから、そのような差別は真っ先に反対だ。
しかし、これは国家警備の問題である。差別はいけないが、だからといってそれを気にして十分な身元調査もおこなわずに怪しげな外国人を雇用するとはどんなものだろう? だいたい身元調査というのは本人のみならず、家族や親戚にどういう人間がいるのかを調べるのではないのだろうか?
秘密情報を扱う国家施設では建物のなかは警備が厳重だが、それ以上に内部で働く人間が大丈夫なのかどうか、そちらの警備にもう少し気を使ってほしいという思う事件である。


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ブログエントリー復活のおしらせ

この度、やっとネットアクセス不能状態から復帰し、エントリーを継続することができることになりました。一週間も間をあけてしまいましたこと、読者の皆様に深くお詫び申し上げます。
皆様もご存じのように私は出張先からまた出張で、移動移動の毎日という気違いじみたスケジュールを何か月も過ごしていますが、今回の出張はこれまで以上のハードスケジュール。土日に休むという概念ゼロのチームリーダーにこき使われております。それで金曜日には帰って来れるという当初の予定が変わって戻ってきたのは月曜日。おかげでブログエントリーもまる一週間のお休みとなってしまいました。
今週の木曜日は感謝祭のため、やっとなんとか休みをもらってカリフォルニアに帰宅中です。この間にお休み中に全く読んでいなかったオンラインニュースや他のブログへの訪問をし、失った分を取り戻さねばなりません。この先アメリカはホリデーシーズンに突入するため、これもかなり難かしくなるかと思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。
カカシ


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お知らせ

金曜日までネットアクセス不能となります。本来ならばその間のエントリーを事前に考えておくべきなのですが、今回は仕事が通常以上い忙しく、しかもハワイで合流した日本企業の皆様と夜間はつきあいの宴会が続いたため、(日本企業ってこういいうとこ徹底してるのよね。)事前に用意すべくエントリーを書くことが出来ませんでした。
そこで仕方なくブログエントリーを金曜日の夜までお休みします。読者の皆様にご迷惑をおかけすることを 心からお詫び申し上げます。
金曜日にワイキキに帰ってきたら必ずなにか書きますのでよろしく。
苺畑カカシより。


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ジェンダーフリーという神話

アップデート:*エントリーの内容に間違いがあったので訂正しました。*
瀬戸さんのブログを読んでいたら、瀬戸さんがジェンダーフリーという言葉を使っているのが目に付いた。実を言うと、私はェジェンダーーフリーという言葉を今まであまりきいたことがなかった。アメリカのフェミニズム、つまり女性運動は一般にジェンダー(性別)フェミニズムと*エクゥイティ(平等)*フェミニズムに分かれるが、ジェンダーフリーというのはその言葉からして性別を完全に無視したものという印象を受ける。フリーという英語はこの場合「~ぬき」という意味になるからだ。だから多分アメリカでいうところのジェンダーフェミニズムと共通するものがあるのだろうという憶測はできる。

ジェンダーフリーは主として「ラディカル・フェミニズム」の一環として、あるいはその考え方を中心にした文脈で理論、運動が展開されたため、この運動において用いられる「ジェンダー」の概念は、人文系の学問において一般的に用いられる中立的・客観的な意味での「社会的文化的性別」という概念とは異なっている。

「ラディカル・フェミニズム」においては、「ジェンダー」は、男性と女性を平等で相互補完的に位置づけているものではなく、「男が上で女は下」「男が支配し女が従う」といった、一方的な支配関係として機能している、と捉えている。「ジェンダー」は男女の支配従属の関係を維持するための装置であり、また、ジェンダーを根底から規定し、女性を差別的状況におく社会的仕組みの中心をなすのが、性別役割分業であるとしている。
すなわち、ジェンダーフリー運動における「ジェンダー」は、中立的な概念・用語ではなく、性別役割分業を階級構造であると見なし、また、これを解消すべきという意図を持った政治的な概念・用語となっている。
また、この運動においては、「社会に男女の区別や性差の意識があるために役割分業も発生するから、男女を分ける制度を失くしてしまおう」という考え方のもとに、男女の差異そのものを否定・相対化してしまおうという主張を展開する。

上記の日本語版ウィキの説明を読んでいると、かなりアメリカのジェンダーフェミニズムの悪影響を得ている概念だということがわかる。ではここでジェンダー・フェミニズムとエクィティフェミニズムの違いについて説明しておかなければならないだろう。
先ず私が信じているエウィティフェミニズムだが、これは男女の性別にかかわりなく才能によって個人は判断されるべきという考えだ。つまり、ある会社がセールスマンを募集していたとして、その採用の判断は応募者の性別ではなく、個々の経歴とか才能で判断されるべきというもの。だから私は消防署の隊員であろうと、警察官であろうと、軍隊の戦闘員であろうと、もしある女性が男性と同じように重たいものを持ったり、長距離を走ったり、敵と取っ組み合いをするだけの能力があるのであれば、女性だというだけで特定の職種に応募する資格すらないという考え方には反対なのである。
しかし、これは決してどのような職種にも女性が雇われなければならないという意味でもなければ、女性が男性と同じ率で昇格させられなければならないという意味でもない。たとえば単純な例として、女性は一般的に男性に筋力では劣る。これはそのように作られているのだから仕方ない。無論これは一般にという意味であり、個人的には一般の男性よりずっと力持ちの女性は存在する。しかしその数はまれである。必然的に筋力を必要とする職種では必要な条件に当てはまる女性は男性にくらべて少なくなる。時には全くいないということもあるだろう。しかしこれは単純に必要な筋力を持ち合わせている人間が女性にいなければしかたないことであり、男女差別ではない。
これに引き換えジェンダーフェミニズム、いわゆるジェンダーフリーの思想はこうした男女の違いを完全に無視して、あたかも男女はなにもかもが同じであるかのように扱うというものだ。これは一見公平なようで非常に不公平な(特に女性に対して)思想だと私はおもう。
私の職種はエンジニアリング、日本語でいえば工学だが、こういう職種に女性は少ない。うちの大学などは女性の生徒への考慮はゼロで、工学部の校舎には1990年代まで女子トイレがなかったくらいだ。(笑) しかしこうした職種を選ぶ女性は別にジェンダーフリーを望んでいるわけではない。頭脳では男性に負けない工学士でも、筋力では男性に劣る。そういう女性に男性と同じ重たい荷物を持たせたり、男性でも耐え難い肉体労働の勤務に女性を配置するのは、かえって不公平だと私はおもう。か弱い女性に肉体労働をさせることはかえって女性への差別だと私は考えるからだ。
無論肉体労働に耐えられるタフな女性が存在するのであれば、存分にやってもらえばそれでいい。私の祖母などは重たい荷物を背中にしょって売りまわる商人だった。今はとんと見かけなくなったが、昔は背中に自分の体重以上の荷物かごをしょってあちこち売り歩く女性を見かけるのは極普通だった。その血を引いてる私は普通の女性よりは力持ちだと自負している。しかし、私は個人的に重たいものは筋力のある男性に持ってもらうようにしている。自分で持てる荷物でも必ず男性の助けを求めることにしている。(笑)
男女差別というのは、個人の能力を無視して性別だけで判断するというもので、男女の違いを意識してそれなりに反応することは性差別ではない。私はジェンダーフリーという考え方はか弱い女性に男性の仕事を無理強いする女性にとって非常に迷惑な考え方だと思うし、男性が本能的に持っているか弱い女性を守りたいという意識に反する悪質な考え方だと思う。だから私は女性の立場からジェンダーフリーは女性には害あって益なしと考えている。
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アップデート:2007年1月4日
エントリーのなかで私はアメリカのフェミニズムはジェンダーとウォリティーに分けられると書いたが、これはジェンダーとエクゥイティの間違いだったので訂正した。この間違いを指摘してくださったのは*minx* [macska dot org in exile]というブログ。

アメリカのフェミニズムを「ジェンダーフェミニズム」と「クォリティフェミニズム」に分けるなんて話は聞いたことがない、一体どこから出て来た話なんだろうと言っていたのだけれど、この種の議論を知っている人にとってソースははっきりしている。保守派哲学者クリスティーナ・ホフ・ソマーズが代表作『Who Stole Feminism? How Women Have Betrayed Women』(「デビューボ」でおなじみのエドワーズ博美氏のネタ元)で主張している「ジェンダーフェミニズム」と「エクイティフェミニズム equity feminism」を間違って覚えているだけ。そもそもソマーズの分類自体一般的なものではない(スティーブン・ピンカーが紹介して知られた程度で、一般には使われない)のに、「アメリカでは一般にこうである」とまで言って間違ってるんだから、どーしよーもない。

私はこの言葉使いが一般的だと書いたのではなく、一般にこのように分けることができるという分析をしたまで。言葉を間違えたのは私の落ち度だが、もう少し気をつけて読んでほしいものだ。
ところでこのブロガーはカカシのことを「アメリカ保守の真似をする在米日本人ブロガー」とおっしゃているが、私はアメリカの保守派であり真似をしてるわけではないので、あしからず。


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反戦映画が不入りなのはなぜか?

私が好きな映画のひとつに第二次世界大戦中につくられたフォロー・ザ・ボーイズという映画がある。これはユニバーサルスタジオのオールスターキャストの映画だ。筋自体は非常に単純で、戦争当時に兵士慰問の目的で組織されたUSOの成り立ちの話だ。主役の興行師がどうやってハリウッドのスター達を集めて慰問公演を実現するに至ったかという話に沿って戦地での慰問公演に積極的にスター達がボランティア活動をしたという筋立てになっている。主な役柄以外の出演者達はすべて本人として出演し、スターが出てくるたびに歌ったり踊ったり手品をやったりする。当時はハリウッドスタジオはどこもこういう映画を作ったが、要するに戦地で慰問公演を直接見られない兵士らのために、人気スターたちを集めたもので、筋そのものはどうでもいいようなものである。
とはいうものの、それはさすがに昔のハリウッドだけあって、そんな映画でも結構まともな筋になっている。それに人気スターたちが自分らの身の危険も顧みずに戦地への慰問を積極的におこなった姿勢が出ていて、ハリウッドがこんなに戦争に協力してくれるとは本当にいい時代だったなあとつくづく感じるような映画である。
それに比べて現在のハリウッドときたら、戦争に協力して軍人を慰めるどころか、反戦が講じてアメリカ軍人やアメリカ政府を悪く描く映画しか撮らない。
ここ最近、連続してイラク戦争や911以後のアメリカの対テロ政策に関する映画が公開されたが、どれもこれも不入りで映画評論家からも映画の娯楽価値としても厳しい批判を浴びている。下記はAFPの記事より。

CIAの外国へテロ容疑者の尋問を外注する政策を描いたリース・ウィザースプーンとジェイク・ギレンハール(Reese Witherspoon and Jake Gyllenhaal)主演の「レンディション( “Rendition”)」は売り上げ1000万ドルという悲劇的な不入りである。

オスカー受賞者ポール・ハギス監督のイラクで死んだ息子の死について捜査する父親を描いた「インザ・バレーオブエラ(”In the Valley of Elah”)は、 いくつか好評を得たが9月公開以来売り上げが9百万ドルにも満たない。
アクションを満載したジェイミー・フォックスとジェニファー・ガーナー(Jamie Foxx and Jennifer Garner)主役の「ザ・キングダム(”The Kingdom”) ですら、4千7百万の予算をかけたにもかかわらず、売り上げが7千万を切るという結果になっている。

こうした映画の不人気は公開予定のロバート・レッドフォード監督の「ライオン・フォー・ラムス」やアメリカ兵によるイラク少女強姦を描いた「リダクテド」の売り上げも心配されている。どうしてイラク戦争や対テロ戦争関連の映画は人気がないのかという理由についてAFPはムービードットコムの編集者ルー・ハリスにインタビューをしている。

「映画には娯楽性がなくちゃいけません」とハリスはAFPに語った。「反戦だとか反拷問だというだけの映画をつくって人があつまるわけがありません。」

ハリスはまたイラク戦争そのものが人気がないので、人々の関心を集めることが出来ないとも語っている。AFPはさらに、イラク戦争や対テロ戦争は第二次世界大戦と違って凶悪な敵がはっきりしないため、人々が興味をもって映画を見ようという気にならないのではないなどと書いている。(テロリストが悪いという判断が出来ないのはハリウッドとリベラルだけだろうと私はおもうが。)テレビニュースで戦争の話をいやというほど聞かされている観客は映画でまで戦争について観たくないのではないかなどと色々な理由をあげて分析している。
しかしAFPが無視している一番大事な点は、これらの映画がすべて反米だということだ。ハリウッドのリベラルたちの反戦感情は必ずしもアメリカの観客の感情とは一致していない。映画の観客の多くは自分が軍人だったり家族や親戚や友達に軍人がいるなど、軍隊に関係のある人が多いのである。そうした人々が、アメリカは悪い、アメリカ軍人は屑だ、イラク戦争も対テロ戦争も不当だという内容の映画をみて面白いはずがない。これはイラク戦争や対テロ戦争が国民の支持を得ているかどうかということとは全く別問題だ。また、戦争に反対だったり戦争の状況に不満を持っている人々でも、彼らはアメリカ人なのである。アメリカ人が金を払ってまで侮辱されるのが嫌なのは当たり前だ。しかしハリウッドの連中は自分らの殻のなかに閉じこもって外の世界を観ようとしないため、これらの映画がどれほど不公平で理不尽なものかなどという考えは全く浮かばないのだろう。
私はアフガニスタンやイラク戦争について現地からのニュースをかなり詳しくおってきたが、これは映画の題材としては完璧だなと感じる記事をいくつも読んできた。アメリカの観客がみて胸がすっとしたり、ジーンと来るような話はいくらでもある。たとえば先日も紹介した「ローンサバイバー」などがいい例だ。これはアメリカのアフガニスタン政策の落ち度を指摘する傍ら、アメリカ兵の勇敢さを描いた話になっている。他にもアメリカ兵が地元イラク人と協力してつくった病院とか学校が残虐なテロリストに爆破される話とか、テロリストによって苦しめられてきた地元イラク人がアメリカ兵の勇敢な姿に打たれてアメリカ軍と協力してテロリストと戦うようになった話とか、イラク兵養成学校でイラク兵を育てるアメリカ兵の話とか、いくらでも説教抜きでイラク戦争やアフガニスタン戦争をテーマにした愛国主義の映画を作ることは可能なはずだ。
ところでローンサバイバーは映画化される予定になっている。監督がキングダムのピーター・バーグなのでどういうことになるか、かなり心配なのだが、もしもバーグが原作の精神に乗っ取った映画をつくることができたとしたら、この映画の人気次第でアメリカの観客が戦争映画に興味があるのかないのかがはっきりするはずだ。もしもハリウッドの評論家たちがいうように、最近の戦争映画に人が入らない理由がイラク戦争に人気がないからだとか、ニュースでみてるから観客があきあきしているというような理由だとしたら、ローンサバイバーも不人気かもしれない。だがもしもこのアメリカの英雄や親米なアフガニスタン人の話が売り上げ好調だったら、観客は反米映画が嫌いなだけで、戦争映画がきらいなのではないということがはっきりするだろう。
なんにしても、この映画の出来具合と人気次第でハリウッドもなにか学ぶことが出来るはずだ。


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戦争は兵隊に任せろ! アメリカ兵に手かせ足かせの戦闘規制

今朝、ハワイの地方新聞Honolulu Advertiserを読んでいたら、ハワイ出身の陸軍兵が犯したとされるイラク市民殺人事件について、この兵士が意図的にイラク人を殺したと言う証拠はないとして、裁判をしない推薦がされたという記事が載っていた。この事件は逮捕して武装解除されたイラク市民を上官の命令で部下が銃殺したという容疑だったが、部下は殺すのが嫌でわざとはずして撃ったと証言していた。すでに捕らえて直接危険でない人間を殺すのは戦闘規制に反する行為ではあるが、果たしてこれが犯罪といえるのかどうかその時の状況によって判断は非常に難しい。正直いって、アフガニスタンやイラクの戦争では、少しでも怪しい状況があるとすぐに兵士を逮捕して取り調べると言う事件があまりにも多すぎる。兵士らは当たり前の戦闘行為をしているのに、いちいち自分らの行動が犯罪としてみなされるかどうか心配しながら戦争をしなければならないのだからたまらない。
たとえばこの状況を読者の皆さんはどう判断されるだろう。アフガニスタンの山奥にテロリストのアジトがあるので偵察に行って来いと命令を受けた海軍特別部隊シール4人が、偵察中に羊飼いの村人三人に出くわした。戦闘規制では非武装の非戦闘員を攻撃してはいけないということになっているが、彼らの顔つきから明らかにアメリカ人を憎んでいる様子。シールの4人はこの三人を殺すべきか開放すべきか悩んだ。開放すれば、中間達に自分らの任務を知られ待ち伏せされる可能性が多いにある。かといって、キリスト教徒としてまだあどけない顔の少年を含む一般市民を殺すのは気が引ける。第一タリバンかどうかもわからない市民をやたらに殺したりすれば、殺人犯として帰国してから裁判にかけられる可能性は大きい。シールたちはどうすればよかったのだろうか?
結論から言わせてもらうと、シールたちは殺すという意見が一人で、もう一人はどっちでもいい、他の二人が殺さずに開放するという意見で羊飼いたちは開放された。そしてその二時間後、シール4人は200人からのタリバン戦闘員たちに待ち伏せされたにもかかわらず敵側を100人近くも殺した。しかしいくら何でもたった4人で200人の敵にはかなわない。大激戦の末、味方側の三人が戦死、一人が瀕死の重傷を負って逃げた。この生き残った一人は、羊飼い達を解放すると決めたひとりだったが、あとになって「どんな戦略でも、偵察員が発見された場合には目撃者を殺すのが当たり前だ。それを戦闘規制(ROE)を恐れて三人を開放したことは私の生涯で一番の失態だった」と語っている。無論そのおかげで彼は自分の同胞三人を殺されてしまったのだから、その悔しさは計り知れない。
上記は2005年アフガニスタンで同胞3人をタリバンとの激戦で失い、救援に駆けつけたチームメンバーたちの乗ったヘリコプターをタリバンのロケット弾に撃ち落され全員死亡。ひとり生き残ったシール、マーカス・ラテレルの身に起きた実話だ。彼の体験談はLoan Survivorという本につづられている。
私は理不尽なROEがどれだけアフガニスタンにいる特別部隊やイラクの戦士たちの任務の妨げになっているか以前から書いてきたが、それが実際に十何人というアメリカ軍でもエリート中のエリートを殺す結果になったと知り、改めて怒りで血が煮えたぎる思いである。
実は先日、私はCBSテレビの60ミニッツという番組で、アフガニスタンにおけるNATO軍の空爆についての特集を観た。詳細はカカシの英語版のブログbiglizards.net/blogで数日前に書いたのだが、関連があるのでここでも紹介しておこう。
この番組では司会者のスコット・ペリーはアフガスタンではタリバンによって殺された一般市民の数と同じかそれ以上の数の市民がNATO軍の空爆の巻き添えになって殺されていると語った。いや、ペリーはさらにNATO軍(特にアメリカ軍)は敵側戦闘員が居る居ないの確認もせずにやたらに市民を攻撃しているとさえ言っているのである。
ペリーが現地取材をしたとするアフガニスタンからの映像では、明らかに爆撃をうけて破壊された村の一部を歩きながら、ペリーは女子供や老人を含む親子四代に渡る家族がアメリカ軍の空爆で殺され、ムジーブという男の子だけが生き残ったと、お涙頂戴風の臭い演技をしながら語った。確かにアメリカ軍が意味もなく一般市民の家を破壊して四世代の非戦闘員を殺したとしたらこれは問題だ。だがこういう話にはよくあることだが、本当はもっと複雑な背景がある。
実際破壊された家の家主で、生き残った少年の父親は地元タリバンのリーダーで、アメリカ軍がずっと捜し求めているお尋ねものである。空爆時には家にはいなかったが、家主がタリバンのリーダーということは部族社会のアフガニスタンでは家族も必然的にタリバンである。そんな家が建っている村は必然的にタリバンの村なのであり、村人はすべてタリバンだと解釈するのが妥当だ。しかも、アメリカ軍がこの村を空爆した理由はその直前に丘の上にあるアメリカ軍基地にロケット弾が数発打ち込まれ、激しい打ち合いの末、ライフル銃をもったタリバンがこの村へ逃げ込むのが目撃されたからなのである。ペリーはこの状況をこう語る。

時間は夜でした。アメリカ軍は地上で敵との接触はなかったにもかかわらず、モーター攻撃の後に空爆援助を呼ぶ決断をしました。アメリカ空軍の飛行機はこの近所にひとつ2000ポンドの重量のある二つの爆弾を落としました。(瓦礫の中を歩きながら)これが一トンの高性能爆発物が当たった泥つくりの家の跡です。爆弾は標的に当たりました。しかし煙が去った後、ライフルをもった男達の姿はありませんでした。いたのはムジーブの家族だけです。

敵と地上での接触がないもなにも、この村の付近からアメリカ基地はロケット弾を撃たれているのである。しかもライフル銃をもった男達がタリバンのリーダーが住んでいる村へ逃げ込んだのだ。アメリカ軍はこの状況をどう判断すべきだったとペリーは言うのだ?第一、破壊さえた家でライフルをもった男達が発見されなかったという情報をペリーは誰から受け取ったのだ?もしかしたら自分らはタリバンではないと言い張っている村でインタビューをしたタリバンの男達からか?
だいたいアフガニスタンの村でライフルを持っていない家など存在しない。だからといって彼らが皆テロリストだとは言わない。強盗や盗賊に襲われても警察など呼べない山奥の部族たちは自分らの手で自分らをまもらなければならない。ソ連軍が残していったカラシニコフ(AKライフル)がいくらでも有り余ってるアフガニスタンだ、一般人がライフルをもっていても不思議でもなんでもない。もしタリバンのリーダーの家でライフルが一丁も発見されなかったとしたら、それこそおかしいと思うべきだ。

このアフガニスタン人たちは、他の市民と同じようにアメリカが支援している政府を支持するかどうか迷っています。私たちは怒りは予想していましたが、これには驚きました。

ペリー:(村人の一人に)あなたはまさかソビエトの方がアメリカよりも親切だなどというのではないでしょうね?
村人:私たちは以前はロシア人をアメリカ人よりも嫌っていました。でもこういうことを多くみせつけられると、ロシア人のほうがアメリカ人よりよっぽど行儀がよかったと言えます。

タリバンがロシア人よりアメリカ人を嫌うのは当たり前だ。すくなくともタリバンはロシア人を追い出したが、アメリカ人はタリバンを追い詰めているのだから。
マーカスの本にも書かれているが、タリバンやアルカエダの奴らは西側のボケナスメディアをどう利用すればいいかちゃんと心得ている。イラクでアメリカ軍に取り押さえられたテロリストたちは、アメリカ兵に拷問されただのなんだのと騒ぎたて、アルジェジーラがそれを報道すれば、西側メディアはそれに飛びついてアメリカ軍やブッシュ大統領を攻め立てる。テロリストたちは自分らの苦情を聞き入れたアメリカ軍がアメリカ兵を処罰するのを腹を抱えて笑ってみていることだろう。「なんてこっけいな奴らなんだ、敵を殺してる味方の戦士を罰するなんて、間抜けすぎてみてらんねえや。」ってなもんである。
だからこのタリバンの奴らも取材に来たアメリカの記者団を丁重に扱い、何の罪もない善良な村人に扮してCBSの馬鹿記者の聞きたがる作り話をしているにすぎない。それも知らずにペリーのアホは村人が自分らはタリバンではない、ただの平和を愛する羊飼いだと言っているのを鵜呑みにし、村人がソビエトよりアメリカが嫌いだという証言に衝撃を受けたなどと、とぼけたことをいっているのだ。
私はこういうアメリカのボケナス記者どもに一度でいいからアメリカの部隊に従軍でもして実際に敵と面と向かってみろと言いたいね。殺さなければ殺されるかもしれない状況でとっさに自分らの目の前に居る人間が敵か味方か判断できるかどうか、自分で体験してみろ!それができないんなら黙ってろ!お前らのいい加減で無責任な報道がどれだけのアメリカ兵を殺す結果になるとおもってるんだ!
マーカスの体験談を読むに付け、私はこういう無知蒙昧なリポーターをぶん殴ってやりたい思いでいっぱいになった。


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イラクの民主化にアメリカが出来ることとは?

皆さん、六日ぶりにワイキキビーチへ戻り、ホテルも先のネットアクセスの悪いホテルからちょっと割高ですが、通りをひとつ隔てた海側のホテルに越してきました。 ネットは無料ですが駐車料金がいちにち18ドル。痛いなあこれは。
さて、留守中に読者のhatchさんから興味深いご意見をいただいたので、これはひとつエントリーの主題として考えてみたいと思う。以下はhatchさんのコメントより抜粋。

さて、苺さんが力説しているようにこちらの意のままになる独裁政権がうまくいかないのは確かです。長い目で見ればです。しかし、だからといって他国が力によって、他国を民主化できるのですかねえ。

ブッシュJ大統領は、第二次大戦時の日本とドイツを例に挙げるのがお好きですが、日本とドイツは第二次大戦によって初めて民主化したわけではありません。ドイツのことは他国ですから言えませんが、日本の民主化は、明治維新から始まります。そして、その明治維新でさえ、その前の江戸時代270年間の太平時代に培わられた国力の下地がありました。
…力で押さえつけた奴隷は、誇りがありません。誇りがない人々が自らを主人公とする民主主義を作り上げられますか?
苺さん、あなたは矛盾しています。
強権的な独裁政権にはアメリカは何度も失敗してきたとあなたは言われます。その通りです。私は異存がありません。しかし、アメリカがその軍事力によって他国に民主主義を樹立することはできません。力によって押さえつけた民衆はその力に対して媚びるだけで自立できないからです。ではアメリカはどうしたらよいかですか。悪人を演じるしかないでしょうね。もし、どうしてもアメリカの力で他国に民主主義を根付かせたいのならです。アメリカが敵役となり、握っていなければ砂になるアラブ人を結束させて、自分たちの力で国を作ったとアラブの人々に思わせなければなりません。自らが正義とは決していえない戦争を何年も何十年も、何千人何万人もの犠牲を払ってアメリカが続ける覚悟がおありですか、苺さん?

私は以前から日本には民主主義の下地があったと主張してきた。第二次世界大戦時の日本が民主主義だったとは言わないが、明治維新直後から、それまで自分は薩摩藩の人間だとか土佐藩の人間だとかいっていた人たちが、自分は日本人だという自覚を驚くべき速さで持ち始めたことは事実である。私は日本海軍の歴史について最近読んでつくづく感じたのだが、日本の文明開化の迅速さは世界ひろしといえども稀に見る速さであり、日本海軍の発達は奇跡に近い。つまり日本は特別例だということをブッシュ大統領並びに西洋諸国は理解すべきだろう。アメリカが日本を占領したとき、日本はすでに20世紀の社会だった。それに比べてイラクはまだまだ7世紀の部族社会なのである。そんなイラクを日本と比べて日本で出来たのだからイラクでも出来るなどという考えは甘すぎる。
イラクのような部族主義の文明的に遅れに遅れをとった国を突然21世紀並の民主国家にするなどという大それた野心を持ったのは過去の歴史を振り返ってもジョージ・W・ブッシュ大統領が始めてである。つまりこの大仕事は誰もやったことがないのだ。こんな前例のないことをやろうというのだから試行錯誤なのは当たり前。
とはいうものの、以前にここでもよくコメントを下さったアセアンさんもおっしゃっていたが、アメリカのいきあたりばったりの政策に付き合わされるイラク人は迷惑至極だという考えもまったくその通りだろう。
だが、これはアメリカの試練であると同時にイラク人にとっても試練なのだ。なぜならばイラクがこのまま7世紀の部族社会として独立国として生存することは不可能だからである。それはアメリカが許さないだけでなく、イランをはじめ近隣諸国やアルカエダのようなテロリスト達が許さないだろう。つまり、これはアメリカが武力で強制的にイラクを民主化するとかどうかという問題ではなく、イラクには民主化する以外に生き延びる道はないということなのだ。
hatchさんは、アメリカが悪役となることでイラク人の心がひとつにまとまるとお思いのようだが、2003年から繰り広げられているイラクでの混乱を考えれば、イラク人の心はアメリカへの憎しみをもってしてもひとつにはまとまらないのだということがお分かりいただけると思う。アルカエダの悪玉であるオサマ・ビンラデンですら、どうしてイラク人は仲たがいをやめてアメリカ打倒のため一致団結して戦おうとしないのかと嘆くほどなのだから。
しかしいみじくもhatchさんがおっしゃっているように、「力で押さえつけた奴隷は、誇りがありません。」と同様に押し付けている側への忠誠心もない。イラクの部族たちがこぞってアルカエダに反旗を翻したのも、アフガニスタンで同民族のパシュトン族が次々にタリバンを見捨てているのも、すべてこれらの勢力が暴力で地元民をコントロールしようとしてるからに他ならない。とすれば明らかにアメリカが悪者となってイラク人を弾圧するのは最悪のやり方である。
アメリカがイラク人に民主主義しかイラクには未来がないと理解してもらうためには、先ずイラク人が平和な暮らしが出来るようになることを保証することが大切だ。アメリカがイラク人の守護神となってイラク人を内外からの敵から守るという保証をすることだ。無論イラクが自立できるように今アメリカ軍がイラク軍を教育しているように、イラクの治安維持の役割を地元軍や地方政治にどんどん代わってやってもらうようにすることも大事である。タリバンやアルカエダのように地元民に恩を着せておいて、部族の義理人情やしがらみを悪用して地元民に無理難題を押し付けてくるのと違って、アメリカ軍やイラク軍はイラク人のために命がけの戦いをするにもかかわらずに、イラク人に求めることといったら法にもとづいた公平な態度だけだということを地元市民に理解してもらうことが大切だ。
私はイラクが日本のような中央政府を設立してイラクの憲法にのっとった民主主義を設立することが簡単に出来るとは考えていない。だが、地元レベルで隣近所が部族の違いを乗り越えてなんとか共存することができるようになれば、それがだんだんと上部の政治にも反映していくのではないかと考える。イラク人はそれがクルドであろうとシーアであろうとスンニであろうと、みんながみんな同じ法律の下で裁かれる公平な社会だとイラク人自身が納得できるような社会ができてくれればそれでいいのだ。
アメリカはイラクに武力で民主主義を押し付けようとしているのではない。武力を使って民主主義を妨げるイラク市民の敵を退治しイラクの文明開化の手助けをしているのである。イラクは大急ぎで7世紀の幼児時代から21世紀の大人へと成長しなければならないからだ。


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イスラムの危機:テロリズムはイスラムの教えに反する

現代のテロはイスラム教とほぼ同義語になってしまっているので、テロリズムがイスラムの教えに反するなどといっても、そんなことは頭の弱いリベラル連中のプロパガンダとしか受け止められない読者も多いだろう。私がここで何度も紹介してきたロバート・スペンサーなどもその口で、テロリズムこそがイスラムの真髄だなどと平気で言う。だがここでルイス教授はあえて、イスラムは平和な宗教だと主張する。無論、現在世界の平和を脅かしているテロリストがイスラム過激派であることは否定できない。親イスラム教の人間がいくら「イスラムは平和な宗教だ」と言おうとテロリストの信念がイスラム教から派生したものであることは無視できない現実だ。ルイス教授もそのことは充分に認めている。イスラム教が戦いの宗教であることは過激派が好んで使うジハード(聖戦)という言葉に表れている。これについてはコーランの教えを説明するハディース(hadiths)では次のように示されている

ジハードはそなたの義務である、それが神のような支配者の下であろうと邪悪な支配者の下であろうとも。

日夜前線で戦う一日は一月の断食と祈りよりも勝るものである。
殉職者にとって武器による刺し傷よりも蟻の噛み傷のほうが痛い。
なぜなら刺し傷は彼にとって甘く冷たい真夏日の水のように歓迎されるからだ。
この合戦に参加せずに死ぬものは無信心者の死を迎える。
神は鎖によって天国へ引きずりこまれた人々を大切にする。
撃ち方を学べ、的と矢の間は天国の庭だ。
天国は刀の陰にある。

これだけみていると、いったいテロリストの説く言葉とどう違うのだという気がするが、ジハードをするにあたり、戦士はどのような戦闘規則(ROEs)に従わなければならないのかがハディースには明確に記されているという。

捕虜を優しく扱かうことを忠告しておく。
略奪は腐った肉ほども合法ではない。
神は女子供を殺すことを禁ずる。
モスリムはこれらの合意が合法であるとして縛られている。

またユダヤ教とキリスト教から派生したイスラム教は二つの宗教と同じように自殺を堅く禁じている。

預言者曰く、刃で自分を殺すものは地獄の火の中でその刃によって苦しめられるだろう。
預言者曰く、自分の首を吊ったものは地獄でも首を吊られ、自分を刺したものは地獄でも指され続ける…
自分を殺したものは地獄でも同じ方法で、復活の日が来るまで苦しめられる。

つまり、イスラム教徒はイスラム教を守るために戦うことは義務付けられているが、非戦闘員を殺したり虐待することは禁じられている。死を覚悟で戦うことは期待されるが、自ら命を絶つことは許されない。だとしたら、テロリストのやっていることは完全にこのイスラムの教えに反することになるではないか?何故このようなことをしている人間がイスラム教原理主義者だなどと大きな顔をしていられるのだろう?
イスラム過激派もいくつか種類が分かれる。サウジ体制の先制原理主義、イランの革命主義、そして無論アルカエダ過激派。どれもイスラム教の名の下に行動してはいるが、彼らの説くイスラム教はコーランを自分勝手に都合のいいところだけを選りすぐり、自分らの行動に都合の悪い部分は割愛するという、かなりいい加減なものだとルイス教授は指摘する。その典型的な例として教授は1989年の2月14日にイランのアヤトラ・ホメイニが小説家のサルマン・ラシディに向けて発布した「ファトワ」を挙げている。これは、ラシディが預言者モハメッドを冒涜する著書を書いたとしてホメイニがラシディの首に三百万ドルの賞金をかけた事件だが、暗殺者を雇って犯罪者を殺させるなどという行為はおよそファトワとは似ても似つかないものだそうだ。ファトワとは言ってみればシャリア法の起訴のようなもので、その後に容疑者は裁判によって裁かれ有罪となれば罰を言い渡されるのが筋である。ファトワの段階で罰を言い渡すだけでも違法なのに、暗殺者を募って容疑者を殺させるなど歪曲にもほどがあるのだ。
非戦闘員を大量に殺し自殺までする自爆テロにおいてはイスラム教の教えをいくつも違反していることは言うまでも無い。そういう人間を殉職者などと美化した言葉で呼び、自爆後には天国へ行って72人の乙女に囲まれるなどと、よくもまあ見え透いた嘘が言えるものである。
私は911直後にイスラム教諸国からテロリストを糾弾する声は何度か聞いたが、彼らのテロリストへの批判は必ず条件付だった。「テロリストは悪い、、だが、、」「罪の無い人々を殺すのは良くない。だが、、、」この「だが」の後につくことによって、これらの批判は何の批判にもなっていないことが常であった。つまり、「テロリストは悪い。だが最大のテロ国家はアメリカだ」「罪の無い人々を殺すのは良くない。だがアメリカに罪の無い人間などいない」といったように。
しかしこのように自分達の都合のいいように適当にコーランの解釈を変えられるというのであれば、私が考えてきた以上にイスラム教の穏健化には希望が持てることになる。自分らを原理主義などといって悪行の限りを尽くしている過激派は、実は原理主義どころかイスラムの教えから完全に離れた背信者であると穏健派は一般のイスラム教徒を納得させる必要がある。ミスター苺は最近、ジハードという言葉を使わず背信者という意味のハラビという言葉をつかってテロリストを表現するようにしている。我々異教徒がそのようなことをいくらやっても無駄なような気がするかもしれないが、実はそうではないと我々は考える。
これまで欧米諸国はイスラム教過激派に迎合しすぎてきた。彼らが自分達の戦いを聖戦と呼んだり、自分らの聖戦士だの勇士だのと呼んでいるのをわけもわからず彼らの言葉で繰り返してきた。我々は今後そのようなことをせず、テロリストはテロリストと彼らの言葉で呼んでやるべきである。彼らをジハーディストだのムジャハディーンだのと呼んで相手を讃えるべきではない。コーランを持つときにわざわざ手袋をするような自分らが卑しいものだというような態度を示すのは止めるべきである。そして我々は自分らのことをインファデル(無信心者)などと呼ばずに、きちんと彼らの言葉で「聖書の人々」と呼び、自分らの宗教に誇りを持った態度を見せるべきである。対テロ戦争は熱い戦いと共にプロパガンダ戦闘でもあるのだ。我々がテロリストを打倒したければ、そのどちらの戦場でも勝たねばならない。
イスラム教過激派はイスラム教の名のものとに西洋に宣戦布告をした。彼らの解釈はコーランの正しい解釈のひとつである。だが、テロリストを正当なイスラム教徒として扱ってはならない。テロリストを原理主義者などと呼んではいけない。コーランの解釈はひとつではない。長くつづられたコーランのなかには戦争を唱える箇所もあれば平和を唱える箇所もある。他宗教に寛容となり、弱いものを守り無実の人間を傷つけてはならないという教えもイスラム教の原理なのである。イスラム教徒の中には、西洋文化の落ち度も理解しながら、また自分らの社会の弱点を捉えながら近代化を進めようとしている人々がいる。前者とは戦い以外に道はない。だが、後者とは歩み寄れる。我々現代人はこの二つのグループを十分に見極める目を養ない、穏健派を出来る限り応援しなければならない。
これは現在イラクで行われているCOIN(対反乱分子作戦)の重要な鍵となるだけでなく、将来我々がイスラム教全体を敵に回すような大悲劇を起こさないためにも非常に大切な知識なのである。


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