BLMのプロパガンダフィルム、13thを観て

ネットフリックスで「13th」というドキュメンタリーが制作され、期限限定でユーチューブで全編観ることが出来るという。リンクはあえて張らないが、日本語字幕がついてるバージョンもあるらしいので、興味のある方は検索してみることをお勧めする。しかしこんな左翼プロパガンダに二時間も無駄にする気になれないという方々のために、わたくし苺畑カカシが観てせんじたので説明しよう。一応白状しておくと実は私も全編は観ていない。しかし半分も観ればこのフィルムが過激派左翼BLMによる陰謀論説であることがはっきりする。

先ず13thというのはアメリカの憲法補正案13条のことで、南北戦争後にアメリカにおける奴隷制度を廃止するという憲法である。このフィルムでは、奴隷制度が廃止された後でも、犯罪者は拘束して強制労働を課してもよいという法の抜け道を使い、地方政府は黒人を些細な犯罪や冤罪で拘束して引き続き奴隷のように扱ったと語る。まあそういうことは確かにあっただろう。しかし犯罪者がチェーンギャングとして強制労働を強いられたのは黒人だけではない。南北戦争後に書かれた「風と共に去りぬ」でも白人のチェーンギャングが登場し、スカーレットの従弟メラニーが「犯罪者を使うなんてひどい。なんで黒人を使わないのよ」なんて場面が登場するくらいだ。

奴隷制度が廃止されたからといってすぐさま黒人差別がなくなったはずがないことくらいは誰でも想像がつくし、差別は引き続きあったことは誰もが知っていることだ。しかしこれは1860年代の話である。

ウッドロー・ウィルソン大統領の時代(1913-1921年)になっても、黒人差別は引き続きあった。特にウイルソン大統領の黒人差別は悪名高い。ウイルソンン大統領はホワイトハウスで「国家誕生」という黒人を猿に見立てたようなひどい黒人差別映画の試写会をやったほどのレイシストだった。無論彼はバリバリの民主党。ウイルソン政権が黒人は犯罪者の集まりだという印象を国民に広げたというのは全くの事実である。

13thは四期も大統領を務めた反ユダヤ人で反日本人のレイシストであるルーズベルト時代をすっとばし、民主党が施行していた黒人差別法のジム・クロー法の時代も無視し、人権運動後の共和党大統領ニクソン(1969-1974)の話を始める。ニクソンの公約は「法と秩序」だったが、人権運動で荒れていた国家をひとつにまとめようと言う彼の努力をフィルムは反黒人政策だったと決めつける。

ニクソンの「法と秩序」とは黒人差別の犬笛だとし、伝統的に民主党支持者だった南部の低所得白人を共和党に引き付けたとする。フィルムは無視しているが、黒人差別の悪法を取り除き黒人を白人と平等に扱おうという人権法を通したのは共和党である。そして黒人と白人が平等に公立学校に通えるようになるのを最後まで反対していたのは民主党なのだ。だから黒人への差別意識が強い白人が黒人の人権を守る法律を通した共和党になびくはずがない。この時点で民主党から共和党に移党した白人がいたとしたら、それは民主党の人種差別に嫌気がさした白人たちだろう。

それと、アメリカにはアファーマティブアクションというものがある。これは黒人学生が白人と同じように高度な勉学が出来るようにと、恵まれない黒人に手を差し伸べる法律だ。そしてこれを積極的に通したのが誰あろうニクソン大統領だったのだ。フィルムはこの新政策のおかげで黒人学生は未だに大学受験や就職で優遇されているという事実があることを都合よく忘れている。

さて、そのあとでフィルムはレーガン大統領時代(1981-1989)の話になる。レーガン大統領の減税は金持ちだけが得をし黒人層に大打撃を与えたという。1980年代のアメリカはものすごい好景気だった。資本主義社会では金持ちがもっと金持ちになることで貧乏人が余計に貧乏になるということはない。よく80年代の記憶がない人が、80年代は金持ちが余計に金持ちになって貧乏人が余計に貧乏になったというが、そんなことは起きていない。金持ちと貧乏人の格差が広がったというのはそうかもしれないが、それは必ずしも貧困層がより貧乏になったという意味ではない。国全体が豊かになれば低所得者の給料も上がるからだ。

さてそれはともかく、レーガン大統領のファーストレデイであるナンシー夫人が始めた「Just Say No!」が黒人を標的にした政策だったとフィルムは主張する。その理由というのがクラックコケインの取り締まりが不当に黒人を標的にしているというものだ。クラックは黒人が好む傾向があり、同じコケインで白人が好むのはパウダーのほうだという理屈である。それでクラックの取り締まりを厳しくすることによって黒人が大量に拘束されたというのだ。

しかしこの理屈には無理があるだろう。アメリカでは麻薬所持は違法だ。クラックがパウダーより罪が重いのは量の問題だろう。白人がクラックを使っても罪にならないというのなら別だが、クラックを使ったものは黒人でも白人でも同じ罪に問われる。もし大量に拘束されたくなければクラックを止めればいい話だろ。つまりこれは、黒人には麻薬中毒患者が白人よりずっと多いと認めているようなものだ。

ニクソン大統領の法と秩序が反黒人だという理屈にしても同じことが言える。黒人というだけで無実の人間が冤罪をかけられて逮捕されるということがしょっちゅう起きているというのなら別だが、そんな事実は証明されていない。つまり逮捕されたということは犯罪を犯したということになる。大量拘束されたくないなら犯罪を犯さなければいいではないか?

レーガン大統領ほど民主党と共和党をまとめた大統領も珍しい。当時リベラルといわれる民主党支持者が大量にレーガン支持なり共和党に移行した。いわゆるネオコンサーバティブといわれる人々がそれだ。

ここから先のフィルムは観ていないが、まあここまで観れば、これがいかにくだらない陰謀論説フィルムであるかがお分かりいただけたと思う。

結局BLMの連中は共和党大統領はこぞって反黒人で、一見して正当に見える政策もすべて黒人弾圧のためのものだと言いたいらしい。

しかし喜ばしいことにアメリカのほとんどの黒人はBLMのような悪質なテロリストでもその従者みたいにバカでもない。この間の世論調査ではなんと黒人有権者の41%がトランプを支持していると答えている。大統領選で共和党は黒人票を15%集められれば楽勝だといわれている。ということは41%も支持率があったらトランプは雪崩勝利すること間違いなしである。

BLMやアンティファがどれほど騒ごうが、聡明なアメリカ市民は(黒人も含めて)トランプ大統領を信頼しているということなのだ。


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ハリウッド大物セクハラプロデューサー、ハーベー・ワインスタイン強姦罪で有罪判決で釈然としないミーツー運動の偽善

2017年ミーツー運動のきっかけとなった、セクハラ常習犯として告発されたのがハリウッドの大物プロデューサー、ハーベー・ワインスタイン。先日その彼がニューヨークの裁判で強姦罪などで有罪となった。

ニューヨーク(CNN) 米ニューヨークの裁判所の陪審は24日、女性に対する性的暴行などで起訴されたハリウッドの大物プロデューサー、ハーベイ・ワインスタイン被告に有罪評決を出した。被告は直ちに収監され、最短で5年、最長で20年超の禁錮刑が言い渡される見通し。 (略) 同被告は女性1人に対して性的行為を強要した罪と、別の女性へのレイプの罪で有罪となった。ただ起訴内容にあったより重い性的暴行の罪に関しては無罪となった。

ハーベー・ワインスタインは悪名高いセクハラ及び強姦男。自分の立場を悪用して多くの女優や若手女優志望者らに性関係を強要してきた。彼の悪行は周りのみんなが知っていた。だが誰もそれを表立って批判せず、それどころかアカデミーは彼のプロデュースした作品のいくつもに作品賞を授与していた。メリル・ストリープなどはワインスタインを神とまで呼んで賞賛していた。

ハリウッドではキャスティングカウチといい、いわゆる日本で言うところの枕営業は普通だ。ハリウッド映画界が出来た当初から女優や(時には男優も)出世のためにプロデューサーや監督と寝るのは普通に起こなわれてきた。にも拘わら関係者がずっと口をつぐんできたのは、プロデューサーや監督の権力が大きすぎ、それに逆らったり告発したりしたら自分のキャリアが損なわれるのは火を見るよりもあきらかだったからである。2017年のニューヨークタイムスの記事では、ワインスタインが民事訴訟を起こした被害者たちに多額の慰謝料と口止め料を支払っていたことが暴露された。

ではなぜ突然、長年行われてきたワインスタインの悪行が暴かれたのであろうか?ここでハリウッドの偽善者たちが突然正義感に芽生えたなどと思うのは甘い。

中国共産主義社会でも時々贈賄罪などで共産党幹部の人間が逮捕され罰せられる事件が起きるが、誰もが腐敗している共産党内で何故突然誰かが罰せられるのかと言えば、それは彼が特別悪いことをしたからでも突然証拠が挙がったからでもなく、単にその人間の権力が衰えたからにすぎない。つまり共産圏内部の権力争いに負けたということなのだ。

ワインスタインの件も同じだ。彼の悪行が暴かれたのは、そういうことをやっても大丈夫な状況になっていたから。つまり、彼のプロデューサーとしての力がハリウッド内部で弱まったため、ここぞとばかりにライバルたちから付け込まれたのである。 ワインスタインはセクハラ以外にもその汚いキャンペーンのやり方で多くの敵を作って来た。 彼を好ましく思わないライバルたちはいくらもいたはず。そんな彼らが今こそ彼を叩き潰すチャンスとばかりに一斉に彼を叩き始めたのだ。

さて、ミーツー運動に話を戻すと、私が彼女たちの運動に全く同情できないのはその偽善さにある。ワインスタインが権力者だった頃には自分らも彼の権力を少なからず利用して枕営業をしたり、実際にセクハラにあってもそれを逆手に取って自分に都合のいいように利用したりしてきた女たちが、ワインスタインが落ちぶれてから一斉に彼を叩きはじめた。中にはワインスタインと付き合っていた女たちのなかからレイプされたなどと言い始める輩も出た。

ワインスタインに限らず、自称フェミニストたちは、セクハラや強姦の被害者女性たちをかばうような発言をしておきながら、実際にセクハラ強姦常習者だった男たちを自分たちに都合がいいからと何十年も庇ってきた。

例えば、左翼リベラルフェミニストたちから圧倒的な人気があったビル・クリントン元大統領は、候補者の頃から不倫疑惑やセクハラ疑惑で色々取沙汰されていた。彼にセクハラされたとか強姦されたと訴えた女性たちは何人もいた。弾劾裁判まで巻き起こしたインターンとの不倫事件など、クリントンの女癖の悪さは誰も無視できなかった。にも拘わらず左翼フェミニストたちはクリントンを責めなかった。

いやそれどころか、ビルの被害者女性たちの口封じを脅迫を使って積極的に行ったヒラリー・クリントンをフェミニストの代表のように祭り上げて大統領候補にまでしたのが左翼リベラルとフェミニストたちなのである。ヒラリーは自分以外の女のことなど考えたこともないアンチフェミニストであるにもかかわらず、左翼フェミニストたちはそれを完全無視して彼女を推した。

そういう彼女たちが今更ミーツーとか言ってセクハラ批判などしてみても、彼女たちの本意が女性救済にあるなど、全く説得力がない。

セクハラも強姦も誰がやってもダメなはずだ。相手が自分と同じ政治見解を持っていれば許されるなどと考える人間がフェミニストを気取る資格はない。そんなご都合主義がフェミニズムなら、そんな運動が支持されないのは当然だ。多くに人がミーツー運動に共感できないのも、そういう偽善があまりにもあからさまに見えるからだろう。


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英雄から容疑者へ、アトランタオリンピック爆弾犯人に仕立て上げられた男の悲劇。リチャード・ジュエル

本日の映画紹介はクリント・イーストウッド監督の「リチャード・ジュエル」。

この話は1996年のアトランタオリンピックで 死者二人負傷者100人以上を出した 爆弾テロ事件をめぐり、最初は爆弾の第一発見者として英雄扱いされた会場警備員のリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)が、2~3日のうちにFBIの第一容疑者となってメディアやFBIに何週間にも渡って執拗に攻められた気の毒な男性の話で実話である。

きっかけは色仕掛けで近寄って来た地元新聞記者キャシー・スクラッグス(オリビア・ワイルド)に口の軽いFBI職員トム・ショウ(ジョン・ハム)がうっかりジュエルが容疑者だと漏らしてしまい、それをスクラッグスが実名で報道したものだから大騒ぎ。まだ起訴もされていないのにジュエルはメディアに容疑者扱いされ、何週間にも渡ってFBIやメディアに散々叩かれることとなった。私もこの事件はよく覚えているが、あのメディアサーカスは異常だった。

FBIがジュエルを犯人扱いしたのは、彼のプロファイルが単独テロ犯罪者のプロファイルと一致しているというだけの理由だった。物的証拠は全くなかったにも拘わらず、ジュエルの生い立ちだの過去の仕事だのが毎日のように報道された。ジュエルの家の前には報道陣が押しかけ犬の散歩にも出られないひどい状況だった。まだ何も解っていない時から、いくら何でもあれはやりすぎだろうとニュースを観ながら思ったものだ。

ジュエルが容疑者扱いされた理由のひとつとして南部蔑視があると思う。FBIは地元警察ではないので、地方人の関して偏見を持っていてもおかしくない。またジュエルは小太りで南部訛り丸出しだったので、彼を田舎者扱いしたFBIやメディアの持つ犯人像と一致したのだろう。

ジュエルは当時30代半ばの独身男で母親ボビ(キャシー・ベイツ)と二人暮らしだった。事件当初はオリンピック会場の警備員だったが、もともと警察官志望で地方警察で巡査をしていたこともあるが、全く融通が利かないため色々問題を起こし首になった。その後も大学の警備員の職につくが、ここでも学生たちに必要以上の厳しい態度を取ったり、高速を走る学生の車を止めるなど、無茶な行為をしたため首になっていた。こうした過去が、警官にあこがれるあまり英雄になりたがってわざと爆弾を仕掛けて第一発見者になろうとしたのではないかと疑われる要素となった。

ジュエルの良いところでもあり悪いところでもあるのは、彼がどんな仕事でも真剣に取り組むということだ。例えば、警備員になる10年前、法律事務所で事務員をしていた時、事務員としては最下位のメールルームクラークだったジュエルは、事務所の弁護士の一人だったワトソン・ブライアント(サム・ロックウエル)と出会う。ジュエルは観察力が抜群でブライアントの引き出しにセロテープが足りなくなっているのに気づきすぐに足したり、ゴミ箱にスニッカーズキャンディーバーの包装紙が捨てられているのを見ていくつもスニッカーズを引き出しに置いておくなどしたため、ブライアントはジュエルにレーダーとあだ名をつけた。口は悪いが根はやさしいブライアントとの出会いは後にジュエルの人生を変える大事な出来事だった。

ジュエルはまた勉強家でもあり、警察官にあこがれていたため、テロや爆弾や犯人像などといった犯罪に関する本もたくさん読んでいた。オリンピック会場のコンサート広場に置かれていた爆弾の入ったバックパックを発見できたのも、彼が人一倍観察力がありテロリストに関する知識を持っていたからなのである。 そしてまた彼は射撃も得意でしょっちゅう射撃の練習をしており、家にも多くの銃砲を所持していた。このように彼の知識の豊富さや観察力や射撃の腕などがかえって災いし、FBIはジュエルは爆弾犯人にピッタリだとこじつけをしたのだ。

このジュエルの無実を信じ彼の弁護士となるのが、10年前に出会ってその後ずっと会っていなかったブライアント。彼はその時はすでに独立しており、従業員は秘書のナディア・ライト(ニナ・アリアンダ)だけという流行らない法律事務所を営んでいた。

ジュエルが無罪なのは、ちょっと捜査すればすぐにわかることだった。FBIほどの資源がある組織がそのことに気が付かないなど考えられない。では一体何故FBIは執拗にジュエルを犯人扱いしたのだろうか?

ジュエル役のハウザーは本当に地方都市に居そうな太っちょ警備員をうまく演じている。私が好きなのはジュエルはお人好しだしちょっとやりすぎな面もあるが、決してFBIやメディアが思うような馬鹿な男ではないこと。いや、実は結構頭が切れる。見かけや南部訛りで偏見を持って馬鹿にしてるFBIのトム・ショウの小細工にも騙されない。

ところで悪役のショウを演じるジョン・ハムは凄いハンサムだし、記者役のオリビア・ワイルドもすごい美人。悪役二人が美男美女で主役がふとっちょ男というのも面白いもんだ。メディアや一般人がいかに見かけに騙されるかがわかるというもの。余談だがキャシー・スクラッグス当人はすでに他界しているが、彼女の描写がひどいと言って遺族がイーストウッド監督に謝罪を求めているという話だ。はっきり言って彼女のやったことを考えたらあの程度は生ぬるいと思うがね。

すべての登場人物に無駄がなく、演技も申し分ない。特に弁護士役のサム・ロックウエルと母親役のキャシー・ベイツが光る。憎たらしいジョン・ハムや自分のやったことの恐ろしさに気づくオリビア・ワイルドも説得力ある。

本当はキャッツを観に行く予定で映画案内を観ていたのだが、映画館でこの映画を上映してることを知って気が変わった。観てよかった!


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ミュージカル仕立てのエルトン・ジョン伝記映画、ロケットマン

前回の晩年だけを描いたジュディ・ガーランド伝記映画とは正反対に、幼児期から現在に至るまでのエルトン・ジョンの半世紀を描いたロケットマンはとってもよかった。映画の売り上げはクィーンのフレディ・マーキュリーを描いたボヘミアンラプソディほどよくなかったようだが、映画としてこちらの方がよく仕上がっていると思う。

先ずなんといってもいいのが、映画が完全にミュージカル仕立てになっていること。歌手の伝記だから時々彼のうたう場面があるというのではなく、実際に登場人物が会話の途中で歌い出し、周りの人達が踊り出すという正真正銘の恥じないミュージカルなのだ。 タロン・エジャトンがエルトン・ジョンを演じ全曲みごとに歌いこなす。

エルトン・ジョンといえば奇抜な恰好でピアノを弾きながらワイルドな歌を歌うことで有名だ。映画の冒頭ではジョンが悪魔のようなギラギラ衣装でスポットライトを浴びながら廊下を歩いてくる。扉が開き満場のスタジアムが繰り広げられるのかと思いきや、なんとそこは薬物依存症回復病院のオリエンテーション室。他の依存症患者たちに交じって、ジョンは折り畳みのパイプ椅子に座り、「僕はエルトンジョン。アル中、薬物依存症、セックス依存症です。」と言って自分の生い立ちを話はじめる。ここで「ビッチイズバック」をジョンが歌い出し、回想シーンが始まる。この出だしのミュージックナンバーがこの映画のトーンを決める。

ジョンは1950年代のイギリスでレジョナル・ドワイト(子役マシュー・イレズリー)として生まれ育つ。子供の頃からピアノの才能があり、ピアノ教師の勧めで王立音楽学校( The Royal Academy of Music )へ奨学金で入学。しかし両親の仲は悪く、父親のスタンリー(スティーブ・マッキントッシュ)は幼いレジーに全く愛情を示さない。結局父親は母親(ブライス・ダラス・ハワード)の浮気が原因で母子を捨てて出ていく、子供のレジーにさよならも言わず。この頃からジョンは愛情に飢えていた。

十代のジョンはイギリスツアー中のアメリカのソールバンドの伴奏バンドの一員となる。バンドメンバーの勧めで作曲も手掛けるようになり、名前もエルトン・ジョンと改名。 ディック・ジェイムス(ステファン・グラハム)のDJMレコードと契約し、レイ・ウィリアムス(チャーリー・ロウ)をマネージャーとして本格的なミュージック活動を始める。ここでウィリアムスの紹介で生涯の大親友そしてビジネスパートナーとなる作詞家のバーニー・トーピン(ジェイミー・ベル)と出会う。

トーピンの詩に曲を付けながら歌う「ユアソング」のシーンは感動的だ。これでジョンとタウピンの作詞作曲コンビがどれだけ素晴らしいものであるかがはっきりする。

エルトン・ジョンが同性愛者であることは周知の事実だが、私はてっきりジョンとトーピンは恋人同士なのだと思っていた。しかし映画によれば、彼らの関係は兄弟のような大親友であり愛人関係にはなかった。トーピンは異性愛者でジョンのアメリカ遠征などにもずっと付き添っていたが、パーティーで出会う様々な女性たちと楽しんでいた。

そんなアメリカでのパーティーで、トーピンが美女と消えた後、一人残されたジョンの傍に近づいてきたのがジョン・リード(リチャード・マデン)。ジョンはリードのエキゾチックな魅力に一目ぼれ、二人は一夜を共にする。これがジョンの後の自堕落な暮らしのきっかけとなる。

ジョンのキャリアはロケットのようにうなぎのぼりに成功していく。数々のヒットを飛ばし1970年代最高のアーティストとなっていく。この頃からジョンは奇抜な衣装を着て、そのステージもかなりワイルドなものとなっていった。しかしその反面、マネージャーとなったリードによる悪影響で酒や麻薬におぼれるようになるジョン。リードからの虐待や裏切りが続き、薬物やセックス依存がひどくなり、大親友のトーピンまでも遠ざけてしまい、遂には自殺未遂、、、

その後どうなるかは映画を観てもらうとしても、ジョンはいまでも元気に生存しているし、男性と結婚して子育てに励んでいるくらいなので、ハッピーエンドであることは間違いない。ジョンのヒット曲がその場その場に合わせてミュージカルのナンバーとしてちりばめられている。

個人的にジョンの最初のマネージャーを演じたチャーリー・ロウとトーピンを演じたジェイミー・ベルが光ってると思う。ミュージカル好きでジョンのファンにはたまらない映画。是非お勧め。

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伝記映画(バイオピック)の難しさを感じた「ジュディ」

先日往年のミュージカルスター、ジュディー・ガーランドの晩年を描いた レネー・ゼルウィガー主演 「ジュディ」を観て来た。

私はジュディー・ガーランドの大のファンで彼女の出演した映画は若いころミッキー・ルーニーと共演したアンディー・ハーディのシリーズから、オズの魔法使いといった少女時代から、ミートミーインセントルイスやハービーガールズといった青春期、そしてサマーストックやイースターパレードといった大人になってからの映画も大好き。スター誕生では歌や踊りだけでなく強い演技力も見せた。彼女の主演した映画はすべてではないがMGM時代のものはほとんど観てる。であるから、彼女のような大スターの人生を描くなら、こうした功績についても色々語ってほしいと思うのは一ファンとして当然のこと。

しかし、往年のミュージカルスターの伝記とはいえ、この映画「ジュディ」は彼女の過去についての描写がほとんどない。それどころかガーランドが落ちぶれて一文無しになり、住む家すらない麻薬とアルコールの中毒に苦しむ惨めな中年女性という印象が全面に押し出されている。

ゼルウィガーが吹替を使わずにすべての曲を熱唱しているところはすばらしいし、かつての面影が歌っている時だけかすかに見え隠れする描写はさすがゼルウィガーという気がするが、それでもあんな偉大なスターの終わりがこんなに惨めだったと強調したいなら、かつての輝かしい時代との比較が必要だったのではないだろうか?

映画はかつての大女優とは思えないほど落ちぶれ、安キャバレーで歌いながら宿泊していたホテルからも追い出されてしまうような一文なしのガーランドが、別居中の夫シドニー(ルーファス・ソウル)から二人の幼い子供たちの親権を取るためにイギリスの人気ナイトクラブで出演していた数か月を描いている。

身長150センチという小柄な体系のため、太っていなくてもぽっちゃりに見えてしまうガーランドは、MGM時代にスタジオから痩せるように常に圧力を受けていた。厳しいマネージャーが付いていて食事もろくろく食べさせてもらえなかった。また長時間の撮影に耐えるために覚せい剤を渡され、夜は眠れないため睡眠薬を処方された。1930年代のハリウッドスタジオによる子役虐待は悪名高い。そのせいでガーランドは少女時代が終わっても薬に頼らずには機能しないほどの中毒患者になっていた。

薬物依存症であるため、時間はきっちり守れないし、舞台に穴をあけてしまうなど日常茶飯事。ガーランドのキャリアが破壊されてしまったのも、過去三回の結婚が破滅したのも、ほとんどこれが原因。だからイギリスのクラブ出演もかなり危ないスタートを切る。

そんな彼女の面倒をみるのがロザリン(ジェシー・バックリー)。本人の昔のインタビューによると、ガーランドの世話は大変だったが、一旦スイッチが入ると彼女の歌は最高だったと語っていた。ゼルウィガーは舞台袖で「だめ、歌えない」と言ってたガーランドが、舞台に立った途端に素晴らしいパフォーマンスを見せるのを対象的に見せる。

ゼルウィガーはプロの歌手ではないので、ガーランドの声にしてはちょっと弱々しい感を否めないが、ガーランド自身がかなり衰弱していたことでもあり、この頃の彼女の声はかなり弱っていた可能性はあるから、結構現実的なのかもしれない。

ただガーランドのファンとしては、往年の力強い歌声をもっと聞きたかったなという気がする。

ガーランドはこの公演中に12歳年下のミッキー(フィン・ウィットロック)と結婚するが、結局うまくはいかない。数か月後、薬物摂取で事故死したガーランドの遺体を自宅で見つけたのが、最後の夫ミッキーだった。享年47歳という若さだった。


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往年の人気コメディコンビ、スタン・ローレルとオリバー・ハーディーの晩年を描いた「僕たちのラストステージ」

ローレル&ハーディーと言っても日本の観客には昔の映画によっぽど詳しいひとでないとあまり馴染みはないかもしれないが、二人はチャップリンやバスター・キートンやハロルド・ロイドと同年代で一躍かもしたコメディチーム。しかも彼らの場合は無声映画がトーキーへと移行しても人気が落ちるどころかさらに人気が上がったという珍しい存在。スタン・ローレルはイギリスのミュージックホール(アメリカでいうボードビル)でチャップリンの代役をしていたこともあり、チャップリンの渡米後、自分もアメリカへ渡り、50以上の映画に出演し脚本や演出も手掛けていた。オリバー・ハーディーのほうもアメリカの映画界で250もの作品に出演しそれなりに人気を得ていた。

二人がコンビを組んだのは1926年に何本かのショートフィルムに共演したのがはじまりだが、プロデューサーのハル・ローチのスタジオで1927年に公開されたPutting Pants on Philipでの共演が公式な始まりだ。ちなみに最初のトーキー映画が公開されたのが1927年。その後二人は1945年まで第一線のコメディチームとして映画に出続けていた。彼らがコンビで出演した映画は107本、そのうち主演は32本というから、彼らがどれだけ人気のあるコンビだったかが伺われる。

とはいうものの、いくら人気者でも時間が経てば人気も廃れる。当映画が始まる1953年頃には、もうすでに彼らの人気も下火になり、二人とも60歳代になっており、オリバーはその肥満体から心臓もかなり弱っている。この映画はそんな二人がカムバックを目指して新しい映画の資金繰りや人気集めのためにイギリスで舞台公演ツアーをした数か月を描いたもの。

この映画で一番すごいなと思ったのは、主役の スタンとオリバーを演じたスティーヴ・クーガンとジョン・C・ライリー 。二人の見かけがスタンとオリバーにそっくりなだけでなく、その声や身振り手振りがそっくりなのだ。私はローレル&ハーディの大ファンで彼らの作品はほとんど観ているのでこれは太鼓判を押す。

普通コメディアンを俳優が演じると、例えどれだけルティーンを忠実に再現しても、何か間の取り方がずれていたり、しっくりいかずに全く笑えないことが多いのだが、この二人が再現した病院の一室や、ダンスや、駅のプラットフォームでのルティーンは本当にローレル&ハーディを舞台で観ている錯覚に陥らせる。病院のシーンでは、我を忘れて笑ってしまった。特にクーガンのローレルはもう彼そのものといった感じ。私はローレルの素顔は知らないが、きっとローレルはこんなふうだったんだろうなと思わせる演技だ。

演技と言えば、彼らのイギリスツアーを企画した一癖ある興行主バーナード・デルフォントを演じるルーファス・ジョーンズも素晴らしい。一見親しみ深く二人のことを親身に思っているようで実は金儲けしか興味がなく、二人をいいように手玉に取る。それでいて憎めないチャーミングな男。

スタンとオリバーの妻たちを演じるニナ・アリアンダとシャーリー・ヘンダーソンも名演技を見せる。二人の妻たちは全く気が合わず、その仲の悪さは至るところに出てくるが、それもこれも二人とも夫を愛してるが故だ。

二人がイギリスに着き最初にたどり着いた宿は、かつてハリウッドの大スターとしてはあるまじき安宿。最初の劇場も地方のこじんまりしたところで、しかも客足はパラパラで空席ばかり。それでもデルフォントのアイディアで色々なイベントに(無償で)ゲスト出演することにより、だんだんとイギリスツアーでの評判も上がり、各劇場は満席になっていく。そしてついにロンドンでは三千人以上入る大劇場で二週間講演が決まるのだが、つまらないことから二人は喧嘩をし口も利かない状態に。このままツアーは決行できるのか、そして二人が望む映画の企画はどうなるのか、、

興味深いのはスタンのプロフェッショナリズムだ。彼は常にコメディアンであるキャラクターを守り続け、普段でも自分がスタン・ローレルだと気づかれるとすぐにギャグを演じる。オリバーは何時もそれに付き合わされ、いいかげんうんざりすることもある。二人のリーダー格はスタンで、ネタを常に考えているのもスタン。なので二人の間がぎくしゃくすることもある。

明らかに二人は親友というような仲ではなかった。しかしお互いにビジネスパートナーとして信頼もし尊敬もしあっていた。クーガンとライリーはその息の合った様子を非常にうまく表現している。

ローレル&ハーディを全く知らなかったと言う人にも二人のプロフェッショナリズムと友情に心温まることだろう。是非是非おすすめする。そしてこの映画をみてローレル&ハーディに少しでも興味を持ったら、彼らのショートフィルムなども是非ご覧になっていただきたい。きっと大笑いすること間違いなし。私のお薦めはミュージックボックス。サイレントでもトーキーでも面白い。

では最後に映画でも再現された二人のダンスを張っておこう。


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映画やドラマの気になった言葉使い色々

今回の帰省中や往復飛行機の中で日本のテレビ番組や映画を色々観たが、どうも気になることがいくつかあったので書き留めておきたい。

タメ口

先ず気になったのが言葉使いの変化。近年私は「タメ口」という言葉を学んだ。最初何のことかわからなかったのだが、文脈からどうやら先輩らに対して敬語や丁寧語を使わず友達同士のような言葉使いをすることをいうらしい。昔は誰かがタメ口を使っているなどと文句を言う人は居なかった。なぜなら誰もそんな言葉使いをテレビ番組でしていなかったから。ところが最近ではバラエティなどの出演者が自分のことを「俺」などといって全くはばからない。例え一緒に出演している人たちが友達だったとしても、視聴者は彼らにとってはお客さんのはずで、お客さんが観てる前でタメ口は失礼だという感覚はないらしい。

かと思うと、全く不適切なところでやたらに丁寧な尊敬語を使う人が居る。アナウンサーなどが若い芸能人の話をしている時ですら、「~さんがおっしゃいました」などと言うのはちょっと変。

NHKのニュースを聴いていたらこんな感じのニュースが流れた「犯人は周りから忠告を受けていたのに出かけ犯行に及びました。でも犯行は未然に防がれました。」ニュースというのは口語ではなく文章語を使うべきであり、従来ならば「、、、いたにも拘わらず」「しかしながら、、、」と言うべきところ。私からいわせるとNHKのニュースでこんな言葉使いをするのは信じがたい。しかしこの傾向はすでに去年から観察しているので、これは間違いではなく、すでに正式な話し方として受け入れられているようだ。

ドラマの吹替

外国ドラマの吹替にも気になる点が非常にあった。以前に吹替の台本を書いている人が「いまだに昔気質の人がいて、言葉使いが古すぎる。今は誰もそんな言葉使いをしないと主張しているのだが、」と言っているのを聞いたことがある。だが、今の吹替を聞いていると、どうやら昔気質の人々は皆引退したようだ。昔なら「キャシー、あなたは私の恋人を奪ったのよ。」というところを今では「キャシー、あなたは私の恋人を奪ったんだよ。」となる。日本人同士の若い人たちの会話ならそれでもいいのかもしれないが、どうも洋画でこういう話方をされるとかなり違和感がある。

それでもまあ、これは時代だから仕方ないとしても、韓国の時代劇を観ていて、これはないだろうというものに遭遇した。三国時代の韓国を舞台にしたドラマで、家来たちが王のことを「王様」と呼んでいたのだ。日本ならさしずめ「殿」と呼ぶところであるが、日本の殿様と区別するということでチョナを「王様」と訳したのであろう。しかしながら、「王様」というのは第三者が使う代名詞であり直接相手に使う呼称ではない。「○○様は××国の王様であられる」は良いが、家来が王様に呼びかける時は「陛下」か「殿下」となる。日本でも天皇のことを「天皇様」と呼ばず「帝」もしくは「陛下」と呼ぶように。また同じドラマの中で、お女中たちが王妃のことを「奥様」と呼んでいた。これは「奥方様」だ。妃はそこいらの奥さんたちとは格が違うのだから。

いったいどうすれば、こんな非常識な言葉使いが台本に通るのだろう? 例え最初の翻訳者が無知で間違えたのだとしても、校正する人が居たはずで、その段階で誰も気が付かなかったとは考えられない。素人の私がおかしいと思うくらいなのだから。だとしたら彼らは故意にこの言葉使いを選んだのだろうか?そうだとすれば余計にその理解できない。

時代劇の現代語

帰りの飛行機で「鎌倉物語」という映画を観た。登場人物の服装や乗ってる車から察するに1950年代もしくはそれ以前を舞台にしているように見えたのだが、主人公の若い女性の言葉使いがまるで現代風。昔ながらの時代劇でも最近は現代語を使うことが多くなってきているとはいうものの、あまりにも感性が現代過ぎると、時代物を観ているという雰囲気に入り込めない。

古い時代になると、当時の言葉使いでは現代人には理解できない場合もあるので完璧に歴史に忠実になれとは言わない。しかし現代人でも理解できる程度の古い言い回しは残しておくべきではないだろうか?少なくとも現代とは違う時代の人々の話なのだという印象を持たせるための手段として、今とは違う言葉を使うべきではないだろうか?

私が古臭いだけ?

まあ、現大日本人に違和感がないのであれば、私ごときが苦情を述べる必要もないのかもしれない。だがこうやって少しづつ伝統が失われていくのだと思うと、なにかちょっと寂しい気がする。


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翔んで埼玉、千葉県人として大いに笑った

今年(2019年)2月に公開された 魔夜峰央(まやみねお)原作の「翔んで埼玉」を日本からアメリカに帰る飛行機の中でみた。私がこの映画に興味があったのは私が好きな俳優の加藤諒が出ていたからだ。彼はやはり私が好きな「パテリコ」にも舞台と映画で主演していたことから知った俳優。偶然でもないが「パテリコ」も「翔んで埼玉 」も同じ魔夜峰央の原作。これは二つを見比べれば一目瞭然だが。

ちょうどカカシは先週日本に里帰りしており、その時に久々に一緒に食事をした女友達が埼玉県に在住であるという話から、この映画のことが話題に上った。隣県の千葉県人(だった)私に対し、現埼玉県人の彼女は「最近の埼玉はすごいのよ」とこの映画の話をしてくれたのだ。

物語は完全なるファンタジーの世界だが、現代日本が未だに徳川時代のような封建社会にあり、東京が中心となり埼玉や千葉は何かと蔑まれており、これらの県民が東京都に入るためには通行手形が必要。東京都民は選民として特権階級であり、埼玉や千葉県民は下層階級。そんな埼玉県民がライバル県民の千葉県と戦いながらも東京都に盾をつくといった内容。

「パテリコ」がそうであったように、「翔んで埼玉」も普通にBLの世界なので、それを主流俳優たちが平気でやってのけるというのが日本のすごいところだな。主役の男性二人壇ノ浦百美(二階堂ふみ) と麻実麗(GACKT) は明らかに恋愛関係にあるし、千葉解放戦線の 阿久津翔(伊勢谷友介)による麗への拷問シーンや麗の配下の男性たち同士の間でもなんか不思議なムードが漂う。

はっきり言って原作者の魔夜峰央と言う人は色々なところでインジョークを混ぜている。「パテリコ」でも萩尾望都の「11月のギムナジウム」で出て来たセリフ「誰が殺したクックロビン」 が突如としてパテリコの口を横切ったりしていたが、今回も作者の宝塚ファン度や腐女子特有ジョークが多々で観られた。(摩耶自身は男性らしけど)

それから作家の宝塚ファン度も大したもの。だいたい麻美麗からして往年の宝塚女優の芸名だ。映画の冒頭でアメリカ帰りの麻美麗を紹介する学校の先生の声がしてくるが、それがいかにも宝塚男役風のセリフ回し。するとその声の主は宝塚男役風化粧した男装の麗人。麗を取り巻く女性たちの話方は完全に宝塚女役風。

もっとも腐女子度や塚ファン度のみならず、関東地方の人にしかわからないインジョークも満載だ。千葉県の常磐線電車のアナウンスとか、そのあまりの完璧さに私はのけぞって笑いそうになった。その他千葉県や埼玉県の地名や特産物(ピーナッツ!)などの話題もバカバカしくておかしくて大笑いした。

真面目な話、初めて男役に挑戦したという二階堂ふみの演技は素晴らしかった。こういうギャグ映画では俳優は真面目に演技をしないと観客はしらける。どれだけハチャメチャな状況にあろうと、どれだけ奇想天外な役柄であろうと、登場人物そのものは真剣に取り組んでいる。だから決してカメラを意識した登場人物を馬鹿にした演技をしてはいけないのだ。その点二階堂は偏見に満ちた特権階級の御曹司でありながら、その偏見を乗り越えていく百美の役を誠実に描いており好感が持てた。

二階堂だけでなく、この傾向はすべての俳優に言えることで、これだけのギャグ映画に真剣に取り組んでくれたということに感謝の意を表したい。

ともかく大笑いした映画なのでお薦め!


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予定外の子供なんて存在しない、妊娠中絶反対を訴える力強い映画、アンプランド(Unplanned)

先日、アラバマ州で非常に厳しい人工中絶規制法が通った。それで私は書きかけでそのままになっていた映画の話をしようと思う。

その映画というのは、アメリカの妊娠中絶専門施設プランドペアレントフッドのテキサス州にある支部の最年少局長としてやり手だった女性が、徐々にそのやり方に疑問を持ち、遂に反中絶運動家になるまでの話を描いたアンプランド。

プランドペアレントフッド(PP)とは家族計画という意味。この組織は表向きは避妊や妊婦への医療提供をするNPO無益法人ということになっているが、実は単なる中絶専門施設。アンプランドという題名は計画していなかったとか予定外のという意味で、PPの家族計画という名前にかけている。

映画は冒頭から中絶手術の生々しいシーンで観客を引き込む。主人公のアビーはPP支部の局長だが看護婦ではない。8年も務めていた自分の施設でも、それまで中絶手術に立ち会ったことは一度もなかった。彼女はその日たまたま手が足りなかった手術室に駆り出され、妊婦のお腹にエコーの器具をあてがう役を請け負った。そばにあるビデオモニターには、はっきりと胎児の姿が写っている。医師が吸引機を妊婦の胎内に差し込むと小さな胎児はあきらかに防衛本能をはたらかして逃げようとしている。そして吸引機が作動すると、胎児が動いていた部分が、あっという間に空洞になった。

私はこのシーンを息をのんでみていた。悲鳴を挙げそうになったので両手で口をふさいだ。嗚咽を抑えようと必死になった。あまりにもショックでその場から逃げ出したい思いがした。ふと気が付くと映画が始まるまでざわついていた劇場はシーンとしており、女性たちが私と同じように悲鳴を抑えている緊張感が伝わって来た。

この、冒頭から観客の感情をつかむやり方は非常に効果的だ。映画はその場面から十数年前に話がさかのぼり、主人公アビーが大学生だった頃からはじまる。アビー・ジョンソンとプランドペアレントフッドの出会いは彼女が大学生の頃、学校のサークル勧誘イベントで誘われたのがきっかけ。避妊に力を入れなるべく中絶を減らし、いざという時は安全な中絶手術を提供するという宣伝文句に動かされ、アビーはボランティアとしてPPで勤めはじめる。その後彼女は無責任なボーイフレンドとの間に出来た子供を中絶。親の反対を押し切ってその男性と結婚したが夫の浮気ですぐ離婚。離婚寸前に二度の中絶を経験する。自身の中絶体験は決して良いものではなかったのにも拘わらず、アビーは若い女性を救うためだという信念に燃えてPPで正式に勤め始める。

診療所では有能なアビーはどんどん出世し最年少の局長にまでなったが、彼女の良心に常に影を差していたのはPP診療所の前で診療所へやってくる若い女性たちに話しかけている中絶反対のキリスト教徒たち。また、敬虔なキリスト教徒であるアビーの両親もそして彼女の再婚相手で娘の父でもある夫もアビーの仕事には反対だった。

アビー・ジョンソンは悪人ではない。彼女は本当にPPが女性を救っていると信じていた。女性が妊娠中絶は非道徳的ではないと自分に言い聞かせるのは簡単だ。

先ず未婚で妊娠してしまったら、両親に未婚なのにセックスしていたことがばれてしまう、学校も辞めなきゃならなくなる、世間の偏見の目のなか貧困に耐えながら子供を育てなきゃならなくなる、養子の貰い手なんてそうそう居るわけないし、そんな家庭に生まれた子供だって幸せにならないだろう。たった一度の若気の至りで一生女の子だけが罰を受けるなんて不公平だ。それに、初期での中絶なんてまだ小さな細胞で胎児は痛みなど感じない。盲腸を取るより簡単な治療なんだから、、、などなどなど

しかしPPのカウンセラーは若い女性たちに中絶をすることによる肉体や精神的な影響について話すことはない。養子を迎えたがっている不妊症の夫婦がいくらでも居る事実も伝えない。ましてや一個の人間の命を自分の勝手な都合で殺してしまうということが如何に罪深いことなのかということを若い女性たちは教えられない。

中絶を法律で禁じても違法で危険な中絶をする少女たちは後を絶たないだろう。いくら禁欲を解いてみても本能には勝てない。だったら不覚にも妊娠してしまった若い女性たちが違法で危険な中絶をして命を落とすようなことにならないためにも、安価で安全な中絶施設を提供することの何が悪いのか。そう思いたい人の気持ちはよくわかる。

でも忘れないでほしい。中絶は母体のみの手術ではない。尊い命がかかわっているのだ。自分の身体をどうしようと余計なお世話だというが、胎児の身体は母親の身体ではない。母親だからというだけの理由で殺してもいいということにはならない。他に選択肢があるならなおさらではないか?確かに15~6歳で妊娠してしまったらどうすればいい?親にセックスしてることが知れてしまう。さっさと除去してしまいたい。その気持ちはよくわかる。でも彼女が抹殺してしまいたいその命をのどから手がでるほど欲しがっている夫婦もいるのだ。

私はアメリカの学校でどのような性教育がされているのか知らないが、避妊の話だけでなく、命の尊さについてもしっかり教えて欲しいと思う。

残念ながらPPのような組織がなくなるとは思えない。また、全国的に中絶を違法にすることが可能とも思えない。ただ、PPを無益法人ではなく営利企業として連邦政府からの補助金は今すぐやめるべきだと思う。大事なのは法律で禁じることではなく、若い人たちに中絶以外に選択肢があることを我慢強く説いていくしかないだろう。PPの柵の向こう側から祈っているキリスト教徒たちのように。いつか、アビーの心に届いたように、我々の声が届くように祈ろう。


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アメリカを理解してないドラマ、日系二世を描いた「山河燃ゆ」

1984年NHKで放映された大河ドラマ「山河燃ゆ」を何日かにわけてほぼ全編観た。原作は山崎豊子の「二つの祖国」が原作とのこと。率直な感想を述べさせてもらえば、51回もの長編を全部見る価値はない。特に結末は観た時間を返して欲しいと思うほどひどかった。

このシリーズは第二次世界大戦を通して天羽賢治(あもうけんじ 松本幸四郎9代目)という日系二世の男性が日本とアメリカのはざまに立って苦労する話だ。 物語は、大きく分けて三つ。戦前の賢治の日本での生活。戦中アメリカ国内と戦場で、そして戦後の東京裁判の様子。天羽賢治は当時良く居た帰米二世と言われる若者。アメリカ生まれでアメリカ育ちだが、両親が高等教育を日本で受けさせようと長男を日本へ送り返すことがよくあったのだ。

日本人原作の日本制作シリーズだから仕方ないと言えば仕方ないのだが、私が持った違和感は製作者がアメリカ社会やアメリカ人を理解していないことが根本にあるのだと思う。全体的に日本社会や日本人を描いている場面はいいのだが、アメリカ人やアメリカ社会の描き方がおかしい。

物語は賢治が日本で大学を卒業しアメリカへ帰ろうという戦争前2~3年ころから始まる。ウィキによると賢治の日本での生活はドラマのために書き加えられたものらしいのだが、この部分が長すぎる。ここだけで17~8回が注がれていて、いったい何時になったらアメリカの話になるんだろうと思ったくらいだ。

話も筋と関係ない余計なものが多すぎる。戦前の日本で賢治が恋に落ちる大原麗子演じる三島典子とのすれ違い恋愛は昔のメロドラマを観ているようで苛立つし、アメリカで賢治の親友チャーリー(沢田研二)が婚約者のなぎこ(島田陽子)と恋人のエイミー(多岐川裕美)を二股かけているくだりもやりすぎだし不自然だ。友達の三島圭介を演じる篠田三郎の演技は落ち着いている。

戦争が始まって西海岸の日系人たちはアメリカの国籍があるなしに拘わらず強制的にスーツケースふたつのみをもってカリフォルニア北部やアリゾナの収容所に送られた。天羽家も近所の人たちと一緒にマンザナール収容所へ。実は私はもっと収容所での生活についての描写を期待していたのだが、ここでの生活はほんの数回のエピソードで終わってしまった。日系人収容所に関するドキュメンタリーやドラマはアメリカでも多く作られ、私は色々観て知っていたが、日本の人たちはそんなこと全くしらなかっただろうから、もっと詳しく描いてもよかったように思う。

ウィキペディアを読んでいてわかったのだが、原作では賢治及び日系人がアメリカでかなりの偏見や差別にあうことがもっと詳しく描かれているようなのだが、ドラマではあまりそれが描かれていない。話のみそはこういうところにあるはずだ。日系二世アメリカ人の話なのに、アメリカにおける日系人たちの生活が深く描かれていない。そこに私は違和感を持ったのだ。

先ず一番にダメなの白人俳優たち。ケント・ギルバートさんとか何人かはまあまあの演技をしているが、ほとんどが日本在住のアメリカ人で演技が多少できる程度の素人ばかり。大御所歌舞伎役者の幸四郎相手に高校生の学芸会みたいな芝居をされると完全に白ける。

日系人を演じる若い日本人役者たちの演技もひどい。英語が下手なのはしょうがないとしても、日本語のセリフもまともに言えない子たちが何人か居る。賢治の弟の勇(堤大二郎)と妹の春子(柏原芳恵)は多分当時のアイドル歌手かなんかなんだろう。まるで活舌が回っていないし、特に柏原の英語のセリフは聞くに堪えない。また、二人ともアメリカ人のはずなのに身振り素振りが全然アメリカ人のそれではない。若干沢田研二のみがなんとかアメリカ人風のボディランゲージを使っているが、それでもかなり不自然。ただ、なぜか島田陽子と弟忠の西田敏行の英語は非常にきれいで自然だった。賢治の父(三船敏郎)は一世で英語が苦手ということになっているのに、ちょっと話した時の三船の英語はうまかった。

日本人視聴者のためのドラマだから、日本人に人気のある俳優を使いたいのは解るのだが、日系二世ともなると、やはり日系人俳優を使うべきだったのではないだろうか?ただ、収容所に兵士志願者を募りに来た日系陸軍兵を演じた二世兵の俳優やその場で彼に質問をしていた数人の俳優たちの英語は完璧だったので、多分彼らは本物の日系アメリカ人俳優だったのだろう。アメリカ人俳優は白人にしろ二世にしろ全員あのレベルの人たちで固めてほしかった。

それから細かいことを言うようだが、衣装の時代考証もかなりおかしい。日本での日本人俳優たちの衣装は結構いいのだが、白人男優たちのスーツが当時のものではない。あたかも白人俳優たちの衣装は用意されず自前の服で来るように言われたかのようで1930~1950年代の服装とはいいがたいものだった。高予算シリーズなんだからこんなところでけちるのはおかしくないか?

撮影はところどころアメリカでロケをしている。リトル東京も出てくる。しかし、どうもアメリカという雰囲気がしない。

ところでこのシリーズには裏話がある。1984年当時私はすでにアメリカに住んでいたが、当時ロサンゼルスの日本語放送ではNHKの大河ドラマを一週遅れで放映していた。私は沢田研二の大ファンなので、彼が賢治の親友チャーリーを演じるというので予告編を見て非常に楽しみにしていた記憶がある。

ところが実際にはドラマはLAでは放映されなかった。その理由はちょうどそのころ日系三世たちが中心となって第二次世界大戦中に収容所に送られた日系一世及び二世への賠償金を求めて国を相手に訴訟を起こしていた最中であり、日系人はアメリカ人だ、日本帝国に忠誠心など持っていなかったという原告の主張が二つの祖国をもって悩む主人公の話と噛み合わなかったせいだろう。私は知らなかったのだが、番組は放送されてから日系人たちの苦情が殺到して打ち切りになったのだそうだ。

当時はそんなにヒステリーにならなくてもいいのではないかと思ったが、実際にシリーズを観てみて抗議をした日系人たちの気持ちがわかるような気がした。番組に出てくる日系二世登場人物たちがあまりにも日本人過ぎるのだ。

ルーズベルト大統領が人種差別から日系人を迫害したのは事実ではあるが、その対応に普通のアメリカ人が、敵国の人間なんだから当たり前だろうと思ってしまったのは、日系人は日本人だという偏見があったからなのだ。日系人は日本人の血を継いでいるが彼らはアメリカ人なのだ。一世も国籍こそなかったが、それはアメリカの法律で移民一世の帰化が認められていなかったからであり、彼らは10代の頃に移住しずっとアメリカ人として30年以上アメリカで暮らしていた。そんな彼らが天皇陛下や帝国日本に忠儀心など持っていただろうか。

私も以前に、もし日本とアメリカが戦争したら、どちらに忠誠を誓うかと聞かれたことがある。私は躊躇なくそれはアメリカだと答えた。何故ならば、自由の国アメリカと戦争をするような国に日本がなってしまったとしたら、そんな日本政府はなくなってしまうべきだと思うからである。

多くの日系二世たちは自分が見たことも行ったこともない日本に未練などなかっただろうし、忠誠心など持っていたとは思えない。確かにアメリカ政府のやり方には腹を立てていただろう。だがそれとこれは話が別。

そういう部分をこのドラマがきちんと描写していたら、日系人たちから攻撃されるようなこともなかったと思う。しょせん日本人がアメリカ人を描くなどということには無理があったのかもしれない。


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