本人も気づいていた異常な貯め込み癖

先日入院した友達のLが、やっと重病人扱いではなく軽病人というか、緊急事態は済み、後はリハビリで体力を回復するという段階になりトランジッション施設というものに移された。日本の病院はどうなっているのか分からないが、アメリカの場合、ICU(集中治療室)→アイソレーション(隔離病棟)→トランジッション(軽症状)となり、その後は退院か介護施設となる。もし治る見込みが全くなく余命短しという人はホスピスというところへいく。

Lは持病があり、ここを退院しても一人暮らしは不可能なので、多分介護施設かアシステドケアという介護士付きアパート入りとなる予定だ。

さて、昨日ミスター苺と私はLのお見舞いに行って来た。先々週あった時に比べてだいぶ顔色がよくなっており、話し方も力強くなったように思う。まだ自分で起き上がることは出来ないが、少しづつ元気を取り戻しているようだ。

そんな彼と彼のマンションの状態についてちょっと話をした。「どうしてあんなに洋服があるの」と聞くと、彼は実際には10着ぐらいの服を着まわしており、他の服は着ていないという。ただ、古くなった服を捨てずに貯めこんでしまったため、自然と服が増えてしまったのだという。「僕は捨てるということが苦手でね。」

服の多さは私も他人を批判できない。とはいっても私の服は自分で買ったものはほとんどなく、ほぼすべて実母が日本から送ってくれたものだ。今はもう母も年老いて昔のように買い物には出なくなったが、昔は母の買い物癖は凄いものだった。それで母は実家に入りきらなくなった古着はすべて私に送ってきたのである。母と私が同じサイズだったこともあり、私は何十年も母のおさがりを着て来たのだ。しかし母は毎年物凄い量の服を送ってきたので、私は年末に要らない服をまとめて大き目のゴミ袋に詰めて三袋くらい近所の寺院に寄付してきた。そうやって毎年処分していなかったら、今頃うちも母のお古で一杯になっていたことだろう。

Lは自分のコレクター癖は子供の頃からあったと語る。最初は野球のカードとかミニチュアの車とかだったが、そのうちに本やレコードやCDと興味が移り、映画も好きなのでVHSやDVDの数もどんどん増えて行ってしまったという。「一生かかっても観きれないほどの数になっても、止められなかったんだ。駄目なのはわかってたんだけど、集めたいという衝動を止められなかったんだ」という。

Lは未だ自分があのマンションに帰れる可能性があるように思っているが、私が「あの状態では危険だ。戻るなら、全部処分してからじゃないと」と言うとLは突然声を荒げて「駄目だ!全部は処分できない!」と言った。私は少し驚いたが、ここに至ってもLの貯め込み癖は直ってないんだなと悟った。

私はもっと早い時期にLを説得して部屋を片付けさせるべきだったのではないかと色々考えていたのだが、それは多分不可能だっただろうと改めて思う。貯め込み癖とは一種の精神病だ。だから他人がどれだけ理屈を言って説得しようと、本人が心の底から納得しなければ無理に片づけることなど出来ないのである。

彼は一人暮らしをすべきではないと私も彼の後見人となった女性も前々から言っていた。だが助けが必要だと思っていない人を他人が助けることは出来ないのである。

ともかくLのことはもう心配は要らないので、私とミスター苺はまだまだ終わっていない本の処分を再開した。私は捨てるのは忍びないので近所のGoodWillに寄付しているが、この間本を段ボール箱二箱分もっていったところ、段ボールを逆さにして大きな籠にどさっと投げ捨てるように入れるのを見て絶望した。私はカテゴリーごとに区分けして大事に箱に詰めて来たのに、なにもかも一緒くたに籠に投げ入れるなんて、第一あんなことをしたら本が傷むじゃないか。とても本好きの人のやることとは思えない。もうあそこには本を寄付すまいと思った。

とはいえ、そうなったらどこへ寄付していいものか。近所の図書館を当たってみようと思っている。


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それは大昔のことじゃ!お爺ちゃんの記憶喪失

私の朝は6時から始まる。やることはいつも同じ。お手洗いに行って顔あらって常備薬を飲んで歯を磨く。それが終ったらおじいちゃんの着替え、薬を飲ませて、歯を磨かせる。一年前までは一日ごとにわけたケースに入れておけば自分で薬は飲めていた。今は「お爺ちゃん、手を出して」と言って手のひらにのせてあげないとダメだ。時々手がすごく震えていることがあり、手にのせた薬をばらまいてしまうことがあるので、そういう時は「おくちあ~んして」と言って開けさせた口に薬を詰め込む。「はい水飲んで」といってコップを渡さないとそのまま薬を食べようとする。それでも最近は水を飲む行為すら何度も言わないと出来なくなっている。

さて、毎朝の着替えの時にお爺ちゃんはかならず腕時計を付ける。といっても自分ではうまくつけられないので毎日私につけろという。時々私が忘れると、つけろつけろと煩くせかす。それが昨日の朝、いつも時計が置いてあるドレッサーの上に時計が見当たらなかった。昨晩つけたまま寝てしまったのだろうかとお爺ちゃんの腕を見ると時計はつけていない。

「お爺ちゃん、腕時計どうしたの?」

そう聞くと、何のことかわからないという風で「知らん」という。しらんじゃないでしょ。どこに置いたのよ。「時計なんて持ってない」持ってないって昨日つけてたじゃない。「つけたことない」いつもつけろつけろとせっつくくせに何言ってんのよ。「ああ、それは大昔のことじゃ」

ほらまた出たよ、お爺ちゃんの「大昔のことじゃ」が。お爺ちゃんは私が嘘を言っているとは思っていない。私がお爺ちゃんの覚えていないことを言うと、お爺ちゃんは自分が覚えていなければいけないことを忘れたのだと悟る。それで本当は思い出せないのだが、メンツを保つために「大昔のこと」にして忘れてもしょうがないという言い方をするのだ。記憶力は薄れても理解力は多少残っている証拠だ。

何故こういうことになるのかは不思議だが、お爺ちゃんは昔からすごく好きだったことや物を突然「嫌いだ」と言い出すことがある。昔大好きだったドラマシリーズ、何度も何度も観ていたのに突然観なくなり、なぜ観ないのかと聞くと嫌いだという。でも好きだったじゃないと言うと「それは大昔のことじゃ」と言うのだ。つい昨日まで観ていたのに。オリオクッキーもピスタシヲナッツもそうやって突然食べなくなった。あんなに自慢にして毎日手入れをしていたモノポリーのおじさんのようなあの白い口髭も、ある日突然剃ってしまった。若い頃の写真でも口髭ともみあげのないお爺ちゃんの顔が写ってるのは子供の頃だけで、10代で髭が生えるようになってからは口髭を剃ったことは一度もないというのに。

だんだん自分の身の回りを構わなくなるというのは良くある話だろうが、お爺ちゃんのようについ昨日までやっていたことを突然やらなくなり、しかもそれまでやっていたということすら忘れてしまうというのはどういうことなんだろう?

おじいちゃん、眼鏡はどうしたの?

「眼鏡?知らん」

テレビ観えなくても知らないからねえ。


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貯め込み癖のある友達の部屋に行って驚愕

先日一人暮らしの友人が倒れて入院したという話をしたが、彼の後継人から、友達の住んでいたマンションを片付けているので、もしよかったら友達の貯めこんだDVDなど好きなものを持って帰ってくれていいと言われたので本日主人と一緒に行って来た。しかし一歩マンションの中に足を踏み入れて、そのすさまじさに思わず息をのんで「おーまいが~!」と叫んでしまった。玄関を開けたところから人が一人がなんとかすり抜けられそうな通路を残して周り中プラスチックの収納箱や本や書類で埋まっていたからだ。

わが友Lは元々貯めこみ癖のある人間だった。これは母親譲りである。私はLのことを10代の頃から知っているが、彼がまだ実家に住んでいた頃一度か二度彼の実家にお邪魔した時、その家の中ががらくたでごったがえしていたのをよく覚えている。Lは自分の母親には貯め込み癖があり、くだらないものでも捨てられない気質なのだと説明してくれた。Lの母親が認知症で一人暮らしが出来なくなった時、Lは実家に帰って家の整理をしていたが、すべてを処分して家を売るまでに一年近くかかった。私は業者に頼んで全部処分してもらったらどうなのかと聞いたのだが、色々な書類が散漫しており、個人情報もあるので他人には頼めないと言っていた。

Lが今の中古マンションに引っ越したのは30年以上前だ。一人暮らしなのにニ寝室でトイレと風呂も二つ。台所と結構広いリビングというまあまあのマンションだ。しかしベッドルーム二つは通りに面して窓があるとは言うものの、リビングルームはマンションの内側の吹き抜けになったところに面しており、窓をあけても非常に暗かった。引っ越した当時あまりにも暗かったので、私はうちにあってもう使わないスタンドの電灯を彼にプレゼントしたくらいだ。

私が最初に住んでいたマンションはLのマンションと目と鼻の先だったので、当時は結構頻繁に彼のうちに遊びに行っていた。当時から鍵盤が壊れている古いピアノだの昔のダイヤル式のテレビやトランジスターラジオなどが置いてあり「あんたは骨董品店でも始めるつもりなの?」と聞いたくらいである。

彼のレコードやVHSテープのコレクションは異常だった。すぐにリビングや二つの寝室の壁に備えられた本箱はそうしたもので一杯になっていた。ざっと見ただけでその数は数千と思われた。無論私の友達だから本の数も半端ではない。そのうちにCDの時代になりDVDの時代へと変化するが、彼のコレクション癖は収まることを知らず、マンション全体が図書館のようになっていった。それでも彼は結構組織的にそうした自分の所持品をリストにしており、図書館並みに印をつけてあったので、どこに何があるかは自分ではわかっているようだった。

しかし何せ男の一人暮らし。掃除もほとんどしていないし、あの暗い部屋で換気もきちんとしていないようで、私は彼の部屋に行く度に呼吸困難に襲われた。それでだんだんと足が遠のき、Lと会う時は彼が私のマンションに来るようになっていた。私がミスター苺と結婚して同じ市に一軒家を購入してからは、もっぱらLがうちに遊びにくることが普通になり、私もミスター苺も彼のマンションへはほとんど足を踏み入れることがなかった。

私たち夫婦はなるべくLを頻繁に食事に招待するようにしていた。一人暮らしで碌なものをたべていないだろうから、時々は家庭料理をごちそうしてあげたいと思ったからだ。料理を作りすぎてしまった時などは私はLのマンションまで料理を持って行ってあげたりしたが、彼は正面玄関まで降りて来て物を受け取りはしたものの、上がっていけとは絶対に言わなかった。

10年くらい前だっただろうか、私はミスター苺に「Lが私たちを自分の部屋に上げないのは、母親ゆずりの貯め込み癖のせいで部屋がごったがえしになってるからなんじゃないかしら。行ってみたらショックを受けるかもよ」と話した覚えがある。

そんなこんなで最後にLのマンションを我々が訪れたのは4~5年前だった気がする。どのような機会でそうなったのか記憶にはないが、少なくともリビングルームは、その数年前に訪れた時と大した変わりはなかった。玄関先に山積みになっていた新聞紙の束が無くなっており、少しは掃除をやっているんだろうなくらいに思っていた。台所に洗っていない食器が貯まっていたのですこし洗ってあげた記憶がある。トイレを借りようとしたら「そっちのは機能しないから」と別の部屋のトイレを使った覚えがある。

しかし本日訪れた彼の部屋は想像を絶するものだった。ともかく玄関先まで箱が山積み。壊れたピアノもそのままだった。後見人の女性は「これでも結構片付けた後なのよ」と私の呆れた顔を見て言った。「こっちのトイレは壊れてるから使わないでね。酷い状態だからドアを閉めてあるの」と言われて、まさか数年前に来た時からずっとそのままなのかと恐怖に襲われた。中は前にもまして暗かった。

「部屋の電灯が全部切れていて、出来る限り電球を変えたんだけど、いくつかは壊れてるみたいで電球変えてもだめなの」と後見人は言う。「空気が悪いからずっと窓を開けっぱなしにしてるんだけど」そう言われたが本当に埃とカビの臭いが部屋中に充満していて息苦しい。

Lの寝室に行くと小さなシングルのベッドの上に汚れた服が山積みになっていた。「そこらじゅうに服が散らばっていて足の踏み場もなかったのよ。ベッドにはシーツも敷いてなくてマットレスが裸のまま汚い毛布が一枚あったきり。あんまり汚いから捨てちゃったわ。」

マンションには各部屋に洗濯機はなく、地下にある共同洗濯場で洗濯をすることになっているが、Lの状態ではとても洗濯物を籠に入れて洗濯場まで運べたとは思えない。もしかしたらLは洗濯をせずに服が汚れると新しい服を通販で買っていたのではないだろうか?独り身で特におしゃれでもない人間がこんなにたくさん服を持っていると言うこと自体がおかしい。私に一言、言ってくれれば洗濯くらいしてあげたのに。いや、それくらい家政婦を雇えばよかったじゃないか、お金がないわけじゃないんだから。

一時間近くLのDVDコレクションを見て、気に入ったものをいくつか選んでいるうちに、私はかなりの呼吸困難に襲われた。だめだここの空気は悪すぎる。これ以上ここにいたら私の身が持たない。それで私は後見人への挨拶もそこそこにマンションを出た。

外に出て私は新鮮な空気を肺一杯に吸い込んだ。あんな部屋に住んでいては病気にならない方がおかしい。パーキンソンや糖尿病や甲状腺という多々の持病を持っていたLが何年もあんなところに住んでいて、今まで持ったと言うことの方が奇跡に近い。

私はLが病気だということは知っていたが、実際どれくらい悪い状態になっていたのか正確には把握していなかった。身体の病気だけではない。明らかにLは精神を病んでいる。健康な精神状態の人があんな場所に何年も住めたはずはない。多分もう10年以上前から彼は精神を病んでいたのだ。社会的に機能しているからといって健康であるとは限らない。うちの爺ちゃんのように認知度が衰えてしまう人は家族にもわかる。しかし知能は働き金銭的なことも把握しておりネットできちんと買い物もできるし電話では普通に会話も出来るとなると、周りの人間はその人がどれほど病んでいるかに気付けない。

もっと頻繁に彼のマンションに行き、彼がなんといっても中に入れてもらうべきだったのかもしれない。でも本人が嫌だというのに無理に中に入るわけにもいかない。ともかく今回彼が倒れたことは不幸中の幸いだったと言える。少なくとも今後我々は知らないうちに友を失うという危険からは逃れることができるのだから。


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カカシ救急隊員を呼ぶの巻

私はもう今年いっぱいで仕事を引退するつもりですが、今でももう半分引退の雰囲気にはいっていて、仕事へ行くのは週に2~3回だ。行かない日も一応在宅勤務ということになってるが、家で出来ることはそんなにないので、一応電子メールは監視しているし、さぼって外出などということはしていない。それでも半分はだらだらとラジオを聴いたりして過ごいる。

本日は出勤の日だったので9時出勤を目指して余裕をもって朝7時半に家を出た。昔は7時に出勤するため6時には出ていたのだが、今はそんなに早くいってもオフィスには誰も居ない。コロナ禍で在宅勤務が増えたせいで皆出勤時間もまちまちで朝早い人はほとんどいなくなってしまった。

しかし今日は道がやたらに混んでいて9時までにオフィスに着けるかなあと心配になってきた。道が混んでいたせいで右足をブレーキとアクセルの踏みかえを何度もやっていたせいか、突然足がつってしまった。あともう少しで職場なので我慢して運転しようと思ったのだが、あまりの痛さにもう無理。で近くの大型酒店の駐車場に入り車を止めて痛みが治まるのを待つことにし。

実は去年心臓の手術をするまで、こういうことはしょっちゅう起きていた。多分血の循環が良くなかったからだと思う。手術後は一年以上も足がつることはなく油断していたのがいけなかった。脱水症状を起こすと足がつりやすくなるので以前は必ず水を車に用意しておいたのだが、あいにく今日はコーヒーしかなかった。そういえば前の日から水を飲まずにコーヒーばかり飲んでいたなと思いついた。コーヒーでは余計に脱水症状が増してしまう。車をとめたすぐ傍にガソリンスタンドがあり、そこにちいさなコンビニがあったので、そこへ行って水を買おうと思ったのだが、いかんせん足がけいれん状態で歩けない。それに足を下ろすと激痛が走る。しばらくして痛みが治まったら水を買いに行こうと思っていたが、10分以上待ってもまるで痛みが治まる気配がない。このまま車のなかでもがいていてもしょうがないと思い、救急番号に電話した。アメリカでは911番である。

オペレーターは最初に住所を聞いた。しかし外なので住所は分からない。「なにか目印になるものは?」酒屋さんの駐車場です。「どこの町ですか?」そっか、携帯だからオペレーターにはだいたいの場所しか分からないんだな。「え~と、え~と」と痛みをこらえながら懸命に思い出そうとする。「地元オペレーターに替わります」と言われ多分セルタワーの近くの町のオペレーターに代わったのだろう。二人のオペレーターが私の居場所を相談しているときに、やっと私は今自分がどの高速からどのおりくちで降りたかを思い出した。高速○○線西向きで××出口で降りてすぐのところにある▽▽酒店の駐車場です。とやっときちんと居場所を伝えることができると、オペレーターは「車の中にいるんですか?」はい「じゃあ非常ライトをつけてください。それから車のロックを外してください」と言った。

ああ、これはこの間よもぎねこさんのところでもしゃべっていた通り、ドアにロックしたまま私が気絶したら、救急隊員はドアをこじ開けないといけないからだなと悟った。また駐車場で沢山車があったら、私の車を探すのに時間がかかる。非常ライトが点滅していればすぐに見つかる。もっとも朝早かったせいで駐車場はがら空きで、私以外の車は止まっていなかった。

オペレーターは救急隊員が付くまで電話を切ってはいけないといい、呼吸を整える指図をしてくれた。何しろ私は痛みに耐えかねずはーはーと激しい呼吸をしており気絶寸前だったからである。そうこうしているうちに5分もしないうちに消防車が二台も来た。隊員たちが「ああ、脚がつっただけだ、大したことない」としゃべっているのが聞こえた。両側のドアを隊員たちが開けて、私が一人と話している間に他の隊員がわたしの鞄の中から財布を取り出し免許証を見ていた。

「どうしました?」足がつって痛くて、お水を飲めばなおると思います。そう言うと隊員はペットボトルを持ってきてくれた。私はこの程度のことで救急隊を呼ぶなんて本当に申し訳ないと思った。きちんと車のなかに水を用意しておけばこんなことにはならなかったのに。案の定ペットボトルを二本のみほすと痛みは消えて行った。「病院へいきますか?」いえ、大丈夫です。「大丈夫なら、もう行きますよ。火事の知らせがはいったので」そういうと隊員たちはさささっと断熱着を着用してヘルメットをかぶって走り去ってしまった。

さすが訓練してる人たちの動きは機敏だなあ。救急隊員ってどうしてみんなこう格好いい人ばかりなんだろう。

痛みは治まったが、まだかなり頭がボーっとしていたので、車のなかでしばらく休んでいた。せっかく家を早めに出て9時までに出勤しようと思っていたのに、結局会社についたのは10時。

こんなことがあると、やっぱりもう長時間かけての通勤は無理だなとつくづく思う。今日は大事には至らなかったが、もしも高速道路で発作でも起きたらと考えるとやっぱり怖い。ああ、早く12月が来ないかな。


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久しぶりの友達との電話で色々語った思い出話し

友人のLが入院したと言う話を北カリフォルニアに住む共通の友達Dに連絡をしたことがきっかけで昨晩遅く久しぶりの長電話をした。Lの事情を一通り説明してから、そういえば最後に私たちが会ったのは4~5年前だったねという話になり、色々と昔話に花がさいた。友人のLとDとミスター苺を含めた仲間たちと私が出会ったのはなんと1979年のことである。

私とミスター苺が出会ったのがお互いに10代だったので、ハイスクールスィートハートだと誤解する人が多いが実は全くそういうわけではない。

私がアメリカに初めて来たのは1979年(昭和53年)のことである。私が19歳の春であった。当時私はウエストウッドというUCLA(カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校)のある町でホームステイをしていた。歩いていける距離に大学があったので、そこの付属の英語学校に通っていたのだ。私は大学の学生ではなかったが、学食では「Student? (学生?)」と聞かれて「イエ~ス!」と偽って学割を使った食事をしたりしていた。キャンパス内は学生でなくても入れたので、あたかも留学生であるかのように歩き回っているうちにとある男子学生と知り合いになり、彼が所属してた大学のサークルに誘われた。

学生でもないのにサークル活動に参加したのがきっかけでミスター苺やLやDや他の仲間と出会った。よく日本人留学生は日本人や他の外国人留学生とばかり付き合って地元のアメリカ人とは友達になれないという話を聞くが、私の場合はその反対で、アメリカで知り合った人たちは英語学校で知り合いになった2~3人の日本人以外はすべてアメリカ人だった。それというのも、初級クラスに集まる外国人ばかりの英語学校には早々に見切りを付けてサンタモニカビーチで甲羅干しばかりしていたからなのかもしれない。

ミスター苺とLとDはサークルの中でも凄く仲が良かった。私はこのサークル仲間のパーティにも参加したし、一緒に当時話題だったスターウォーズを含め色々な映画鑑賞やSFコンベンションにも行った。Lと私は同い年でDとミスター苺はまだ18歳だった。Lは卒業後ロサンゼルスの法律学校へ進み、ミスター苺とDは北部の大学院へ進み後に海軍に入隊してしまった。そして私は日本に帰国。

というわけで我々の交際は数年間途絶えたのだが後に私は再び渡米し、その間にも電話や手紙(手紙!)などで交流は続いていた。大学のサークル仲間たちはそれぞれ大学卒業後も交際は続いており、Dが軍隊の出動から帰国した際にはダウンタウンのユニオン駅にみんなで迎えに行った覚えがある。サークル仲間の誰かの結婚式にはミスター苺が白の海軍制服で出席した。制服姿のミスター苺を見た時は馬子にも衣裳とは良く言ったものだなと感心したものである。

我々が出会って10年が経った頃、Lは法律事務所勤め、海軍を除隊したDはカリフォルニア北部の大学で数学の教師、除隊後ロサンジェルスに戻ったミスター苺は会社員となっていた。私は長年勤めていた日系企業からリストラに遭い今後どうしようかと迷っていた時期だった。近所住まいになったLとミスター苺と私はしょっちゅう食事に行ったり映画を観たりハイキングをしたりしていた。Lとミスター苺は週末にラケットボールをしていた。

そのうち私とミスター苺は男女交際をするようになり、なんと出会ってから20年後の1999年の春に私たちは結婚した。

Lは付き合っていた女性が脳卒中で倒れ介護施設くらしになった彼女の最後の数年を献身的にすごしたが、その後はずっと独身生活を続けている。DはDで除隊後にゲイだとカムアウト(清潔で痩身で独身と三拍子そろった彼がゲイなのはみんな知っていた)しその後もずっと独身だ。

ミスター苺と私が結婚してからは、毎年冬になるとサンフランシスコで休暇を過ごし、必ず一日はSF郊外に住むDを訪ねてイングリッシュパブでサイダーを飲むなどして過ごしていた。コロナ禍になる直前の冬、ずっとDに会っていなかったLを誘って三人でSF旅行をし久しぶりの再会を果たした。今にしてみれば本当にあの時三人で一緒にSF旅行をしておいて良かったと思う。あの後Lの病状は悪化し、とても旅行など出来る状況ではなくなったからだ。

そんなこんなで昔話は尽きなかったが、二時間の長電話の後名残を惜しみながら電話を切った。


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溶けたアイスクリームが引き出し中に!

ナイフを出そうと引き出しを開けたらアイスクリームのカートンと溶けたアイスが引き出し一杯に広まっていた。なにこれ~!お爺ちゃん!冷蔵庫開けちゃだめっていったでしょ!

「冷凍庫を開けるなとは言われてない」

屁理屈言うな!

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お爺ちゃんは料理などしないので火の危険はないのだが、冷蔵庫のドアを開けたまま閉めるのを忘れたことがあるので、冷蔵庫は開けちゃだめと言ってあったのだが、アイスクリームの誘惑には勝てなかった模様。


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星条旗掲揚

午後8時。

「カカシ、見ろ!」

え?なあに?

「見ろ!」

と窓の外を指さすお爺ちゃん。国旗が外に出ている。

「ちゃんと掲げたぞ!」

確かに。でも今夜の8時だよ。日没には国旗は下げるんだよ。さっき二人で降ろしたじゃん。

「駄目なのか?」

ううん。いいのよ。ちゃんと掲げられたんだもんね。よくやったよ。でも夜だから私が降ろしておくね。また明日の朝お願いね。でも偉いよ。一人で掲げられたんだから。

「そうじゃろ。わっはっは!」

これでいいのよ。


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用意しておきたい1人暮らしの連絡先リスト

昨日遅く私の知らない人から自宅の電話にメッセージが残されているのに気づいた。それは私とミスター苺とは40年来の友達のLが入院したというメッセージだった。私は電話の主を知らなかったので多分Lが入院した先の看護婦さんか病院の事務の人なんだろうと思い、すぐかけ直したのだが出なかったので連絡して欲しいと伝言の残しておいた。

看護婦にしてはどこそこの病院だとも言わない不思議なメッセ―ジだったので、なんだこの役に立たないメッセージはと思い、近所の救急病院に電話してLが居るかどうか聞いてみた。Lの自宅とうちは目と鼻の先なので救急病院へ行くとしたら大きな病院は二つしかなかった。一つ目の病院には居なかったが、二つ目の病院では入院していると言われ部屋番号も教えてくれたので、今朝仕事を休んでミスター苺とお見舞いに行った。

病院の受付で病室番号を言うと、向いの棟だと言われたのでその階に上がって気が付いた。私も去年入院したので解るのだが、これは一人部屋の隔離病棟で、ここにいるということは相当の重病だと考えることが出来る。

部屋に入ってみると髪の毛の真っ白なLが弱弱しい感じで寝ていた。「ハイ、L、具合はどう?」そう声をかけると「良くないね」と消えそうな囁く声が返ってきた。Lと私は同い年だが、彼はもう誕生日が来ているから64歳。だいぶ前から甲状腺、パーキンソン病、糖尿病と色々持病があり、今回は糖尿病で部屋で意識を失ったのだそうだ。

「もっと早く連絡しなくて悪かったよ。最初の2週間は意識が無くてね」

え?いったい何時から入院してるの?

「ちょうど一か月前からだ」

ええ~!全然知らなかった!Lは一人暮らしで色々持病を持っていることでもあり、近所に家族は居ないので私とミスター苺が唯一家族のような存在だった。お互い何かあった時のための緊急連絡先にしておこうと以前から言っておいたはずなのに、なんで一か月も音信不通になるんだと不思議だったのだが、これには訳があった。

私はなるべくLとの連絡が途絶えないように2週間に一度くらいの割で電話を入れていた。だがここ一か月ほど私自身の体調がすぐれないこともあり電話を怠っていた。それで三日ぐらい前にLに電話をしたのだが通じなかったので昨日も電話をしたところだった。Lは外出などしないので、電話をすれば昼寝でもしていない限りすぐに出るのだが、二回も電話しているのに出ないとなると何かあったのかもしれないと少し心配だった。やはりその心配は当たっていた。

Lの話によると、一か月前に部屋で意識を失って倒れた。どのくらい意識を失っていたのか分からないが時々意識が戻ったと言う。だがパーキンソンのせいで身体を起こすことが出来ず、電話までたどり着くことも出来ずそのまま横たわったまま数日が過ぎてしまった。発見されたのは、郵便配達の人が彼の手紙が貯まっていることに気付き、配達時には何時も挨拶をしていて彼が旅行に出るような人ではないことを知っていた配達人は不審に思い彼のマンションの部屋の上の住人に連絡して様子を聞いたのだと言う。Lは上の住人とは結構親しかったので、彼女は絶対なにかあったに違いないと救急車を呼んでくれた。救急隊員は鍵がないためドアを壊して中に入ったところ、倒れているLを見つけたのだ。

Lの意識が戻った時、Lが連絡先を空で覚えていたのは彼の元の職場の番号のみ。元同僚でLとは個人的に仲の良かった女性が病院に駆けつけ、Lの自宅に入って連絡先の控えてあるノートを見つけ、ようやくうちの電話番号が見つかったというわけである。Lは必死に私の携帯番号を思い出そうとしたが駄目だったそうだ。それでうちに電話をくれたのは病院の人ではなく、この元同僚の女性だったのである。

Lは自分が何かあった時の用意を全くしていなかったと反省していた。持病があり、以前にも倒れたことがあったのだから、連絡先をまとめて書いたリストでも誰でもわかるところに貼っておくなりすればよかった、何かあった時ボタンひとつで救急車を呼べるアラートを買っておけばよかったのに、と色々いっていた。以前に私も、そろそろ介護士さんに週に何回かでも来てもらったらどうかという話もしていたのだが、「まあ、ちかいうちにな」と言いながら先延ばしにしていたのだった。

Lはずっと独身で何十年も一人暮らし。特に贅沢をするでもなく、海外旅行に出るでもなく、まじめに一つの会社で2020年に病気で退職するまでひたすら働いていた。それで貯金は使いきれないほどあるのだ。以前に病院へ行く時にバスに乗っていこうとしてバス停までの道で転んでしまったという話を聞いた時、「なんでタクシー呼ばないのよ、馬鹿ね!そんなところでケチってどうすんのよ!」としかり飛ばしたことがある。「今度お医者に行く時はせめて私に電話しなさいね!」と念を押しておいたのだが、まあ今となってはしょうがない。

彼が自宅のマンションに戻ることはもうないだろう。もう病気の緊急事態は終わったのでいつまでも入院しているわけにはいかない。それで次は介護施設に移動することになった。考えてみれば今回のことは不幸中の幸いというか、これで彼はもう一人暮らしをすることはなくなり、何かあったらすぐに治療を受けられるようになるのだ。結果的にはこれで良かったのだろう。

それでつくづく考えさせられたのは、何かあった時の連絡先リストをきちんと作っておく必要があるということだ。60代などまだ若いから大丈夫などと言っていても、病気をすることもあるし怪我をすることもある。まだそんな心配はいらないなどと言っている場合ではない。やはり私もきちんとした遺書を作っておこうと思った。

Lと同じで私も必要なことをついつい先延ばしにしてしまう悪い癖がある。今回のことを教訓に色々用意しておかなければならないなと思った。


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皿洗い機を一年ぶりに使う

3年前の夏にうちは台所と風呂場の改装をしたのだが、今思うと使った業者の腕がかなり悪かった。多額の費用を払った割には、まだ大して時間が経っていないにも関わらず、すでにあちこちでガタがきているのである。まるで中国人の仕事のようである。

トイレが詰まることすでに数回。取り付けられた便器が最低の物だったこと、下水工事の不良さが指摘され、新しい下水業者が穴を掘ってバイプを敷き替える(パイプが道路側ではなく内側に向かっていたとか、上から下へ流れるようになっていなかったとか信じられないことが発見された)など数回の大工事になり多額の出費。

そして一年ほど前に、取り付けてまだ2年も経っていない皿洗い機が停止。何を推しても起動しないのでこれは皿洗い機事態が壊れたのかもと思った。10年保証とステッカーは貼ってあるが、業者が設置したものなのでどこへ連絡したものかもわからない。

そうこうしているうちに台所の電灯が点滅しだして暗くなり、四つの電灯がすべて消えてしまった。これは普通の電球を取り替える旧式の電灯ではないため、素人が簡単に交換できるようなものではない。最初にこれが取り付けられた時に電灯が切れたらどうすればいいのかと業者に聞くと、これは何年も持つものなので交換の必要はない。もし何かあったら連絡してくれと言われた。それで二年も経っていないのにすでに電灯が切れるのはおかしいのではないかとテキストを送ると、すぐに行くと返事があったが、すぐに来なかった。何回かテキストを送ったり電話を試みたが返答はなく数週間が過ぎてしまった。

仕方なく私はうちにあった私の背丈ほどある電気スタンドを台所に持ち込み、それを台所の電灯として暫く使っていた。これは単に電灯が切れただけだと思ったので、ネットでアンジーズリストという業者あっせんサイトから頼んで電気屋さんに来てもらった。しかしやってきたのはプロの電気技師ではなくテクニシャン。彼は原因は電灯ではなく配線で、それを直すのには法外な値段がかかるとふっかけてきた。私はそれが信じられなかったので、今すぐ必要ではないから考えさせてくれと言って断った。

極めつけは二か月前くらいに流しのディスポーザーが停止してしまったこと。というより流し側の壁についているすべての電源が切れてしまったことだ。これでコーヒーマシンも電気釜も使えなくなってしまった。第一ディスポーザーが使えないと流しにたまった生ごみが流れないため非常に非衛生だ。

これはもう改装業者に連絡などしている余裕はない。それで私は近所の電気屋さんに来てもらった。プロの電気技師は台所全体の配線がおかしいと指摘。使っているスイッチも変だし、どうもプロの技師ではなく単なるテクニシャンがマニュアルでも見ながら適当につなげたような感じだと言うのである。ついでに電灯も見てもらうと、なんのことはない、私が思った通り電灯が切れていただけだった。最低質の電灯であるためすぐに切れてしまっただけだったのだ。やっぱりね。配線工事など頼まなくて正解だったよ。

結局流し側の配線を全部やり直し、電灯も高質のものに換えてもらい、またまた大金をはたいてすべて直してもらった。すると皿洗い機が作動し始めた。問題は電源であり皿洗い機ではなかったのだ!

よかったと思い、即流しにたまっていたお皿を詰め込み皿洗い機のスイッチを入れたところ、数分後、排水が流しに大量に放射され、台所が水浸しになってしまった。何なんだもう!

電気屋さんに多額の修理代を払ったばかりなので、配管工を呼ぶ気にもなれず、結局皿洗い機はそのままにして二か月が経った。しかし、いつまでも修理を先延ばしにしていても埒が明かないし、第一毎日皿洗いをするのも大変。ということで思い切って配管工に来てもらった。こちらは単にパイプが詰まっているだけだということで、(多分ディスポーザーをつかえなかった間詰まったゴミが貯まっていたのだろう)掃除をしてもらい、最低額の修理代で済んだ。

そして昨晩、一年ぶりに皿洗い機を使った!

お皿って本当にその都度きちんと洗わないとどんどん流しにたまってしまう。しかし根が怠慢な私にはその都度洗うなど出来ない。それで毎晩遅くに一日で使った皿を洗うか、翌朝コーヒーを淹れながら前日貯まった皿を洗い、皿洗い機はお皿の水切りに使うということを一年もやっていた。それでも朝食が終ると再びお皿が、、Never ending cycle!

いやあ、皿洗い機って本当に便利だなあ、とつくづく思ったのであった。


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クレイジーキャッツの魅力再発見

YouTubeで植木等さんのコンサート模様の動画を見つけたので観ていたら、お爺ちゃんが部屋に入ってきた「何を聴いておる?」あ、昔のコメディーバンドだよ。「最初からかけろ」ギャグは日本語だからわからないかも。でもドタバタだから解るかな。

最初からかけ直すとお爺ちゃんは音楽が気に入ったと見えて大はしゃぎ。しかもバンドが途中でクラッシックなのにジャズ風になったり童謡になったりしてずっこけるところで大笑いしてる。しかも日本語のジョークの部分でもちゃんと笑っている。お爺ちゃんにも通じるクレイジーキャッツのギャグは凄い。

お爺ちゃんがもっと見たいというので検索してクレイジーキャッツ結成10周年記念コンサートの一時間近い動画を観た。クレイジーキャッツの全盛期は1960年代で私がまだ幼少の頃である。私は子供だったのでクレイジーキャッツは面白いコメディーバンドだと思って好きだったが、彼等がどれほど音楽的に技術の高いジャズバンドだったか知らなかった。

バンドリーダーのハナ肇(ドラム)を筆頭に植木等(ギター)谷敬(トロンボーン)石塚弘(ベース)安田伸(テナーサックス)石橋エータロー(ピアノ)桜井センリ(ピアノ)とそれぞれミュージシャンとしても一流のメンバーが揃っている。特に石橋のピアノはクラッシックのオーケストラで通用するレベル。

このコンサートではクレイジーキャッツだけでなく、バックにビッグバンドも揃っていた。私はもともと日本のジャズ音楽は世界的に一流であると思っていたが、それがすでに1960年代の時点でそうだったということを知らなかった。あのレベルなら1940年代のアメリカでも通用したはずである。

クレイジーキャッツなので真面目にジャズを演奏したかと思うと、途中でギャグが入ったり、しかも後のドリフと違って品のいいギャグ。今でも子供を連れて見に行ける本当の意味でファミリーフレンドリーなギャグだ。だから時代遅れにならない。時代だけじゃなく文化も超える。最後の方ではお爺ちゃんは一緒になって「ほんだらほだらあかホイホイ」と口ずさんで踊り出したほどだ。

お爺ちゃんがもっと見たいというので、色々検索してたらシャボン玉ホリデーの動画を見つけた。出演者の面々が豪華で、しかもすべて生放送!

動画についていたコメントを読むと、今のバラエティー番組とはくらべものにならないほど内容が濃く質が高いとのことだった。ああいう大人のミュージシャンが人気のあった頃にもっとそのありがたさを理解できていたらなあと思う。しかしユーチューブのおかげで少しは昔の文化を垣間見れるというのはありがたいことである。


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