カントリー歌手ジェイソン・アルディーンがそう簡単にキャンセルされないわけ

ここ数年、芸能人や著名人が何か反ポリコレ的な発言をすると、すぐに左翼リベラル連中が大騒ぎをしメディアも一緒になって叩き、本人に弁明する機会も与えず数時間後にはスポンサーが去ったり、事務所から解雇されたりとなり、翌日には当人がひれ伏して謝罪し許しを請うというシナリオが何度となく繰り返されてきた。しかし今回のジェイソン・アルディーンの場合はこれまでと違っている。

事の起こりはカントリー歌手ジェイソン・アルディーンが新曲Try That In A Small Townのミュージックビデオを数日前に発表したことにある。この曲はすでに5月に発売が開始されており売れ行きも好調だった。ところが一週間ほど前、このMVが発表された直後、そのビデオの内容が人種差別的であるとか、暴力を煽っているとか言い掛かりをつけられSNSで大炎上となった。お決まり通り根性のないカントリー専門の音楽チャンネル、カントリーミュージックテレビジョンが即アルディーンの新曲をプレイリストから外してしまった。

いつもならここで歌手は謝罪の声明文を出すところなのだが、アルディーンはそれをせず、自分は何も悪いことはしていないと毅然としている。しかも不思議なことにアルディーンはファンから見放されるどころか、かえって新曲の売上は上がりファンたちも完全にアルディーンの味方をしている。反対にアルディーンの曲をかけないといったテレビ局をボイコットしようという動きさえある。カントリー歌手の間からも新曲への批判は言い掛かりだとアルディーンを弁護する声もいくつか上がっている。

アルディーンは金曜日行われたコンサートでもこのこと触れ「長い一週間だった」とはじめた。「俺は誇りあるアメリカ人だ。俺はこの国を愛してる。俺はこの国に、このくだらねえことが始まるまえの元の姿にもどってほしいんだ。」と語った。「USA, USA」と声援を送るファンたちに「キャンセルカルチャーてのはあるんだ。それは人の人生をすべて破壊しようとするんだ。でも今週俺が見たのは、カントリーミュージックファンがそのくだらなさを見透かしたってことだ。そうだろ?俺はカントリーファンがこれまで見たことないほど応援してくれるのを見たんだ、それは凄いものだったよ」そして今後もこの歌を歌うかと色々な人に聞かれたが「答えは簡単だ。言葉は放たれた!お前らは声高に言ったんだ。」そして彼は新曲を唄い始めた。

私はビデオを見たが、すべてここ数年で起きた暴動や犯罪事件のニュース画像である。犯罪を犯している犯人たちも人種は様々で、特にどの人種に取り立てて焦点を当てているわけでもない。これを見て黒人差別だと言っている人のほうが、犯罪を犯すのはすべて黒人だという偏見を持っていると言えるだろう。

アルディーンはこういう行為は、大都市では許されても小さな町では通用しないぞということを言っているのだ。

左翼リベラルが気に入らないのは、ニューヨークやサンフランシスコなどの大都市がどんどん民主党の悪政によって破壊されている事実を指摘されたことなのだ。そして小さい町の愛国心あるアメリカ人は都会の政治家たちの思い通りにはならないことが腹立たしいのだ。

今回のファン達の反応でアルディーンがどれほど正しかったかが明らかになった。キャンセルカルチャーだあ?小さい町でやってみろ!


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アファーマティブアクション違憲判決で明らかになった黒人活動家と左翼リベラルのアジア人差別

先日米最高裁は大学入試審査に人種を考慮にいれるアファーマティブアクションは違憲であるという判決を下して以来、黒人活動家たちは完全なヒステリー状態。そしてその表現があからさまな東洋人差別になっている。彼等はあまりのヒステリーのためもう建前さえも忘れて完全な東洋人差別発言を行っている。なにより笑っちゃうのは、アファーマティブアクションを支持しない東洋人は白人至上主義だという批判である。エリート大学の学生40%以上が東洋人で占めてしまうことのどこが白人に利益になるというのだ?本当に左翼リベラルの言うことには理論性がない。では黒人活動家や左翼リベラルがどんなひどい東洋人差別発言をしているか、フォックスニュースがまとめているので紹介しよう。

元CNN司会者のソレダッド・オブライアンは、アジアンウエーブアライアンスのイアティン・チュー会長の判決を喜ぶツイートに対して、「先生、有色人種に損害を与えておめでとう。(特に公民権運動で道を開き、あなた方家族がアメリカに来れるようにしてあげた人たちに対してね)」とツイート。

アトランティック紙のスポーツジャーナリスト、ジェミーレ・ヒル(黒人女性)は「あなたの娘が、あなたが白人至上主義者の提灯持ちをしてアジア系アメリカ人のために勤勉に戦った人々を裏切ったことを読むのが待ちきれないわ」ツイートした。

この黒人の公民権運動が何か東洋人差別を失くすことに役に立ったとする恩着せがましい理屈はどこから出てくるのだ?東洋人は昔から別に白人と同じレストランに入れないなんて規制はなかったし、日系人が収容所に入れられた賠償金は日系人活動家の運動によって1980年代に実現した。よもぎねこさんも書いておられるが、東洋人への差別が無くなったのは市民運動なんぞという派手なことをやったからではなく、移民一世が身を粉にして働いて二世以降の子供たちの学費に注いだからだ。東洋人は勉強が忙しくて市民運動なんぞしている暇はなかったのだ。だから、東洋人が黒人活動家のお世話になったことなど一度もない。東洋人は彼等に一つの借りもない!

アメリカ人の税金で成り立ってる公共ラジオ局NPRの記事はもっとひどい。意見としてではなくニュースとして書かれたこの記事ではアジア人が保守派白人の手先となってアファーマティブアクションを倒したことは恥ずべき行為だと書いている。

この記事では東洋人が「少数民族の鏡」と言われているのは神話だとし、アジア人は白人至上主義を隠しており、アファーマティブアクションがアジア人を傷つけているという神話の根源はアジア人による反黒人の感情だとさえ言う。

道行く老人をおもむろに殴ったり、地下鉄のホームで入ってくる電車の前に女性を突き落としたりしているのは東洋人ではない!何が反黒人感情だ!東洋人への憎悪をあからさまにしているのは黒人活動家の方ではないか!

無論東洋人のなかにも左翼は居るので、そうした人々はアファーマティブアクションを支持する傾向にある。フェミニストなのにトランスジェンダリズムを支持するアホが居るのと同じだ。

最高裁はハーバードとノースカロライナ大学の方針は憲法補正案第14条に違反すると判決を出した。スチューデントフォ-フェアアドミッション(公平な入学のための学生)のケニー・シュー理事はAA廃止に貢献した人々への個人攻撃に関して左翼は人種に拘り過ぎていると語る。

「一般的に左翼は実力を評価しません」と彼はFox News Digitalに語った。「だから、成功したグループを見ると、それを説明しなければならない。左翼は、アジア系アメリカ人は平均よりも高い教育率や収入など、わが国で不釣り合いに成功しているから、白人至上主義に同調しているに違いない、という説明を作り出した。左翼のパラダイムは白人至上主義だから、もしあなたが成功しているなら、金持ちの白人特権階級のエリートに関係しているに違いない。」という理屈だ。

黒人や左翼リベラルが東洋人をうっとおしく思うのは、黒人が成功できないのは差別のせいだという理論が同じく差別の歴史のある東洋人が成功していることによって崩れてしまうからなのだ。黒人は差別されてるから特別扱いされるべきだといっても、じゃあ特別扱いされてない東洋人は何故成功できるのかということになってしまう。

この訴訟を先導した保守派活動家のデイビッド・ブラムへの個人攻撃もかなりひどい。いまはBLMとTRAの手先と成り下がった市民団体ACLUなどはブラムのことを「人権攻撃を長年企てている人間」と称している。

「我が国はもう黒人と白人だけの国ではありません。」とブラム。アメリカのかなりの人口がラテン系になっており、ラテン系の多くはアファーマティブアクションを支持していないと語る。

ABCニュースの世論調査によると、アメリカ人の52%が人種を理由にした入試審査を覆す判決に同意しており、判決に反対と答えた人は32%だった。


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ポリコレ抜きで黒人キャラが冴えた1990年代とポリコレ現代の違い

本日7月4日はアメリカの独立記念日である。独立記念日の映画といえば、1996年に公開されたインディペンデンスデイという大ヒット作品がある。この映画が公開された当時、アメリカの映画界は人種差別を克服したという記事を読んだ覚えがある。そしてそのなかで「それが証拠に今年公開された大ヒット作品インディペンデンスデイの主役はマイノリティーだ」というような記述があった。私はすでにその映画を観ていたのだが、正直それを読んだ時それが誰を意味するのか暫く理解できなかった。「インディペンデンスデイの主役と言えばウィル・スミスだ。ウィル・スミスは大スターだし、彼のどこがマイノリティーなのだ?ふむ???」としばらく考えた後「あ、そうか、彼は黒人か!」と気が付いたのだ。そのぐらい自然な配役で人種など全く感じさせない演出になっていたのである。

思うに1990年代はアメリカで人種間の亀裂が一番少なかった時代だ。この頃は黒人の間でも人種関係は良好だと世論調査で答えた人が70%近くもいた。映画でもこの頃活躍した黒人俳優はウィル・スミスだけではなく、エディー・マーフィー、ウェスリー・スナイプス、デンゼル・ワシントン、サミュエル・ジャクソンなど何人もいる。テレビでも、超人気番組だったビル・コズビー主演のコズビーショー(1984-1992)を筆頭に、リジョナルド・ベルジョンソン演ずる黒人警官主役のファミリーマタース(1989-1998)、新人だったウィル・スミス主演のフレッシュプリンスオブベルエア(1990-1996)などがある。これらの番組は両親の揃った黒人一家を巡るコメディー番組で、出演者のほとんどが黒人だった。しかし視聴者はそんなことを全く気にせず人種の枠を超えて黒人にも白人にも広域な人々に愛される人気番組だった。

1980年代までは黒人の役は悪役やわき役が多く、例え主役でも黒人でなければ演じられないキャラクターが多かったが、1990年代になると黒人が普通の人として描かれることが多くなった。そしてそれを観客も自然に受け入れていた。これらの配役にはポリコレの「ポ」の字も感じられなかった。

それが早送りして2023年、なんで赤毛の白人役に黒人女優が起用されるなどというおかしなことが起きるようになったのだ?

あれだけ黒人俳優が活躍した1990年代に全く問題がなかったのに、2020年代の黒人配役には問題がつきものなのは何なのか。アメリカ人は俳優が白人だろうと黒人だろうといい映画や番組なら普通に受け入れていた。それなのに、なぜ2020年代の黒人配役は、こうも問題になるのだろうか?1990年代と2020年代の何が違うのか?

それは90年代の黒人配役は話の筋書き上自然だったのに対し、2020年代の黒人配役は話の内容から無理な設定が多すぎることにある。

インディペンデンスデイの主役キャプテン・スティーブン・ヒラ―は軍人だ。アメリカ軍には黒人も多くいるので全く無理な設定ではない。上に挙げたテレビ番組の場合も父親の職業が医者、弁護士、警官で、とってつけたように異人種と結婚したりしておらず、ごくごく自然な設定だ。

ところが2020年代になると、イギリスの宮廷ドラマなのに黒人が普通に貴族として出て来たり、クレオパトラが黒人になったり、デンマークの話である人魚姫が黒人になったり、イギリスの神話として書かれた指輪物語に黒人エルフが登場したりと無理やり感が半端ないのだ。

挙句の果てにアメリカのポリコレ活動家たちは、日本のアニメやゲームの登場人物にまで、黒人が登場しないとか、既存のキャラを黒人に書き換えろなどと要求してくる始末だ。

結果論から言わせてもらえば、この黒人俳優無理押しのいわゆるブラックウォッシュは概ね成功していない。最近何度も書いているように、多くの視聴者が、もう黒人俳優はたくさんんだと思い始めている。

同じ理由で女性キャラの無理押しも人気がない。ディズニーの最新作のインディアナ・ジョーンズ5では、主役のインディアナ・ジョーンズが老いぼれて全く頼りにならないのを生意気な孫娘がなんでもかんでも解決してしまうという話なんだそうで、興行成績は散々たるものだ。フェミニストたちはやたらと強い女を登場させろと煩いが、なぜかそれが、多くの人びとに愛されてきた既存のヒーローを犠牲にしてでなければ、達成されないというやり方に反感を買っている。

最後に2023年でも無理のない黒人キャラクターの登場する映画のお話で終わりにしよう。ハリウッドもやればできるという例だ。

マーベルコミックスのスパイダーマン、アクロスザスパイダーバースこれは2019年公開のInto the Spider Verseの続編。主役はマイルスという15歳の少年で、アフリカ系黒人の父親とプエルトリコ系の母親の間で生まれたハーフ。舞台はニューヨーク州のブルックリンなのでごく自然な設定だ。スパイダーマンといえば主役はピーター・パーカーという白人青年というのが原作だが、このキャラクターは同じ世界に住む別のキャラクター。無理やりピーターを黒人にせず、別のキャラクターを作り、そのキャラクターを主役にした筋書きにしピーターを脇に回すという面白い演出で非常に好感が持てる。

既存の作品に黒人キャラを登場させたいなら、こうやるべきというお手本のようなものだ。

では本日はこれまで。

Happy Independence day!


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大手映画会社が次々とダイバーシティー専門家を解雇

事あるごとにダイバーシティーだと言ってあらゆる分野で有色人種を雇用しなければならないとハチャメチャな規則を作っているハリウッドだが、ここ二週間で大手映画会社からダイバーシティー専門家が四人続けて解雇された。

ワーナーブラザース、ディズニー、ディスカバリー、ネットフリックス、が、「多様性、平等、包括性」Diversity, Equity and Inclusion (DEI)リーダーの職をここ10日間で次々に廃止してしまった。このDEIという地位は2020年のBLM暴動の際に作られたものだが、たったの三年でお払い箱になったらしい。

私はそんな地位が新しく出来ていたということを今まで知らなかったのだが、なるほどそれでか、と思いあたることがいくつもある。

先ずディズニーのリトルマーメードを始め、やたら元来白人が演じるべき役を無理やり黒人に挿げ替えて見たり、「強い女性」と言ってスーパーヒーローがフェミニストになり、頼りになるはずの男が完全にコケにされるといった内容の映画が多くなった。最新作のインディアナ・ジョーンズではハリソン・フォード演じる主役が耄碌爺さんのような頼りない扱いになっているとかで実に評判が悪い。ともかくディズニーはここ三年不作に次ぐ不作で大赤字だが、インディアナ・ジョーンズはこれまで最高の製作費を投じての作品であるにもかかわらず興行成績は悲劇的な大赤字が予測されている。

ネットフリックスもロトゥントマトで史上最低の評価を得たアフロ黒人主役のクレオパトラなど、ともかく酷い作品が続々と出て視聴率が落ちてると言う。アカデミーも新しくできたダイバシ―ティー規則は映画関係者の間からも苦情が出ている。

私は地上波テレビは全く見ないが、それでもユーチューブを観ているとコマーシャルを観ることはある。そして最近のCMと来たら、モデルや役者はほぼみんな黒人。男女カップルだと片方が白人でも必ず相手は黒人。東洋人が出る確率も増えたが、なんといっても圧倒的に多いのは黒人だ。今のアメリカのコマーシャルを観ていたら、アメリカの人口は80%以上が黒人であとの20%に白人や東洋人やラテン系が居ると言う印象を持ってしまう。

それでもこうした配役で映画が売れるというならそれでもいいだろう。だがDEIに考慮した作品はすべて不入りで評判もしごく悪い。DEIは映画界にとって疫病神以外の何物でもないのだ。

もともとハリウッドはBLMの精神を支持していたわけではなく、BLMを支持している姿勢を見せた方が自分らの得になると思っていたから迎合していたに過ぎない。しかしBLMはすでにアメリカ社会でも人気がないだけでなく、私のような人種差別心ゼロの人間ですら、もう黒人俳優を観たくないと思ってしまうほど観客たちはげんなりしている。

私は政治思想が作品に反映すること自体は悪いことだとは思わないが、誰もお説教を聞かされるためにわざわざお金を払って映画館に足を運びはしない。映画は先ず面白くなくてはならない。そのなかでメッセージを織り込めるならそうすればいい。だがメッセージだけの映画なんて誰も観たくないのだ。

ハリウッドもやっとそれに気づいたのだろうか?


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米最高裁ハーバード大学の人種を考慮する入試審査は違憲と判決、アファーマティブアクションは組織的な人種差別

本日(6/29/23)最高裁は大学入試の審査に人種を考慮するアファーマティブアクションは違憲であるという判決を下した。これは2014年に保守派活動家のエドワード・ブラムによって起こされた訴訟の判決だ。ブラムは2014年、Studens for Fair Admissions(公平な入試を支持する学生たちの意)という組織を創設。ハーバード大学とノースカロライナ大学(UNC)を相手取って、入試の際に人種を考慮にいれるのは違憲だとして訴えていた。これに関しては私も過去にエントリーを書いたことがある。(ハーバード大学入試審査に見る組織的な東洋人差別、訴訟で明らかになる – Scarecrow in the Strawberry Field (biglizards.net))ハーバード大学とノースカロライナ大学は、それぞれ全米最古の私立大学と公立大学である。

アファーマティブアクションは人口の割には学力の高い学生が極端に多い東洋人にとって非常に不公平なシステムである。それについて2018年に拙ブログでもこのように説明した。

(入学を)学力のみで審査した場合、東洋系学生の数が現在の18.7%から43.4%にまで増えてしまうという。レガシーと言われる推薦学生やスポーツ奨学生の枠を取っても、東洋系学生の割合は31.4%を占めてしまうことになる。この事実は2013年ハーバード内部のHarvard’s Office of Institutional Research (OIR)による調査結果によって同大学はすでに把握していたにも関わらず無視してきたのだ。

またデューク大学ピーター・アーチディアコーノ教授の調査によると、合格率25%の東洋系受験生が、その他のことが全く同一であった場合、白人なら35%にラテン系なら75%、そして黒人なら95%の確率で合格する計算になるという。同教授のリポートにはハーバードが「人格審査」において東洋系受験生の成績を低く審査することにより、いかにして学生の望ましい人種分布が起きるように操作していたかを如実に提示している。

ではAPの記事から今回の判決内容について読んでみよう。

ワシントン(AP通信) – 最高裁は木曜日、大学入試におけるアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)を否定し、人種を要因にすることはできないと宣言した。(略)

ジョン・ロバーツ最高裁長官は、大学があまりにも長い間、「個人のアイデンティティーの試金石は、挑戦やスキル、学んだことではなく、肌の色であるという誤った結論を下してきた。私たちの憲法の歴史は、そのような選択を容認していない」。(略)

ノースカロライナ州のケースは6対3、ハーバード大学のケースは6対2であった。エレナ・ケーガン判事がもう一人の反対者だった。

クレアランス・トーマス判事は自分がアファーマティブアクションの恩恵を受けたとしながら、ロバーツ判事と同意見を示している。もっともトーマス判事の頃のAAは単に入試の際に黒人を差別してはいけないという判決であり、黒人を特別扱いすべきという現在のAAとは全く別物であることを明記しておく。

アファーマティブアクションの当初の目的は、伝統的に差別されてきた黒人が大学入試で差別されないようにアウトリーチなどを行って黒人の大学進学を促進しようということで始まった。信じがたいことに、クレアランス・トーマス判事が若い頃は、黒人は黒人だというだけで有名大学に入学できないという事実があったのだ!

しかしもうそんな時代はとっくに過ぎてしまい、今や大学に行きたければ学力ある黒人はいくらでも入学が可能となった。にもかかわらずアファーマティブアクションはいつの間にかアウトリーチから一定数の人種枠を設けるクォータ制度へと変わってしまったのだ。

どの人種でも同じように学力があるというのであれば問題はない。志願者の人種配布がその土地の人種配布と同じであるというであれば成績順に取っていったとしても、学生の人種配分は世間のそれと変わらないだろう。しかし問題なのは人種によって学力にばらつきがあるということである。

学生の成績は家庭環境で大きく変わる。子供の勉学に熱心な家庭は必然的に子供の成績もよくなるが、子供のことなど全く無関心の過程では子供の成績は伸びない。黒人の場合、父親のいない母子家庭が70%という酷い数であり、母親自身も無学であるから子供の成績にも興味がない家庭が多い。その点東洋系の過程は伝統的に両親が揃っていて子供の勉学に非常に熱心である。だから大学入試にもその差が歴然と出てしまうのだ。

アファーマティブアクションの不公平さは1990年代から言われていることで、訴訟も何度か起きているが、その度ごとに人種のみが考慮に入れられるわけではない場合は違憲ではないとされてきた。しかし東洋人や白人の場合は人種のみで落とされるというのが普通の状態だった。以前にも書いたが、東洋人学生は入試の際になるべく自分が東洋人であることを隠すようにと、受験ガイドに書かれているくらいだ。

これによって左翼リベラルは発狂状態であるが、人種差別を失くすためという名目の人種差別というおかしな政策が違憲とされたのは喜ばしいことである。

関連エントリー:アメリカに存在する組織的差別とは何か?ヒント、黒人差別ではない! – Scarecrow in the Strawberry Field (biglizards.net)


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アメリカに存在する組織的差別とは何か?ヒント、黒人差別ではない!

私は何度か組織的差別とは何かという話をしてきたが、これは個人による差別ではなく、組織として一定の属性を持つ人々を差別することを指す。その定義でいえば、アメリカ社会で一番差別されている人種と言えば何と言っても東洋人である。

本日目にとまった記事、Asian-American student with 1590 SAT score rejected by 6 elite colleges, blames affirmative action (msn.com)「SATで1590点取ったアジア系アメリカ人、エリート大学6校の受験に落ちる、アファーマティブアクションが原因か」

SATというのは大学に行くための全国学力テストのこと。日本でいう共通テストだ。昔は1400点満点だったはずだが今は1600点満点になったらしい。この受験生はフロリダ在住のジョン・ウォング君18歳。彼の成績平均は4.65。Aが4点だから4.65ということは全科目オールAの上に更になにか別のことをやって加点されたということになる。もう高校生でこのレベルだったら、日本でいう偏差値72とかのレベルで、東大も楽勝ってところだろう。にもかかわらずジョン君は MIT, CalTech, Princeton, Harvard, Carnegie-Mellon そして U.C. Berkeleyすべてで落ちてしまった。そんなバカな。一体どんな点数取らなきゃ入れないんだ?

しかしジョン君は、もしかしてこういうことになるのではないかという警告はされていた。高校の進学指導の先生から東洋系アメリカ人は受験に不利だと言われていたのだ。調査によれば、ジョン君の成績だとこれらのエリート校に入れる確率は20%。しかしもし彼が黒人だったら95%の合格率だと言う。幸いにしてジョン君はジョージアテック大学に入ることができたので、一応満足しているという。

しかしアジア系の学生がエリート大学に入るのは非常に難しいというのはすでに何十年も前から言われていることだ。それというのもアジア系受験生は成績優秀な子が多いため、成績の良い順に入学させると学生の40~50%がアジア系で埋まってしまう。後は40%ぐらいが白人で残りの10%が黒人やラテン系といった構成になってしまう。大学側は学生の人種分布が人口分布を反映した者でなければならないと考え、それぞれの人種枠を作ってしまった。しかし人種によって文化が違うため人種枠で得をする人種と損をする人種が出来てしまった。そして損をするのは圧倒的に成績優秀な東洋系というわけだ。

現在にアメリカで東洋系の人口は僅か7.1%で、黒人の14.2%の1/2である。ラテン系となるとその差はもっと開く。しかし伝統的に東洋系の進学率は黒人やラテン系に比べて圧倒的に多い。いくらアファーマティブアクションで黒人やラテン系の志願者を募ってもその枠すら埋まらないというのが現状なのだ。だからこの人種枠がいかに東洋系や白人に対して不公平なシステムであるかがわかるというもの。

それで公平な大学入学システムを目指して、Students for Fair Admissionsという組織が出来た。この組織の目的は一つ、人種による入学審査をやめさせることだ。そしていままさに人種別入学審査の違憲性を巡って最高裁で審議が行われている。

この問題に関しては過去にもいくつか訴訟が起きている。そして2003年Grutter v. Bollinger裁判で入学審査に人種を考慮することは違憲ではないという裁断が下っている。

しかし20年後の今日、東洋系アメリカ人が大学に入るのはどんどん難しくなっている。プリンストンレビューという大学受験生に受験に関するアドバイスをしている会社によると、多くの大学は学生に東洋人が「多すぎる」ことに懸念を抱いているのだという。同社の発行した受験の手引きの本において、東洋系アメリカ人は明らかに不利であるため、受験の際に気を付けることとして、受験申し込み書に写真を張らないこと、人種に関する質問に答えないこと、受験に必要な作文のなかで東洋系文化とアメリカ文化などという二つの文化の話をしないといった注意事項を記載している。

以前にサンフランシスコ在住の邦人の方が言っていたが、就職の際にも、名前も苗字も東洋系だと不利になるため、ファーストネームは英語名に変えている人が多いそうだ。確かに東洋系の人は名前が英語の人が非常に多い。

昔は同じようなことがユダヤ系の学生でもあり、ユダヤ人移民は子供の名前をイギリス風の名前や新約聖書の中から選ぶことが多かったそうだ。


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時代劇や史実番組で行われる人種挿げ替えがもたらす危険

先日ご紹介したネットフリックスのクレオパトラシリーズの放映が遂に始まったが、RottenTomatoesという批評家と視聴者の反響を示す指標では、批評家11%、視聴者2%というRT史上最低の結果が出た。これはつまり、観た人ほぼ全員がこの番組に悪評価を下したということになる。この番組は放映前からクレオパトラをアフリカ系黒人が演じているということでかなりの批判があり、特に現エジプト人からなぜエジプト系やギリシャ系の女優を使わなかったのだと不満の声が上がっていた。

Netflix’s ‘Queen Cleopatra’ docuseries slammed by both critics and audience for being historically incoherent

Netflixのアデラ・ジェイムス演じるクレオパトラ

ローマやエジプトの古代歴史に詳しいユーチューバー(多分ギリシャ系)の話を聞くと、北アフリカ系黒人は主役のアデラ・ジェイムスだけでなく、エジプト人とされる人々の役は全てアフロ黒人が演じているという。当時のエジプトの支配階級はマセドニア人(現在のギリシャ)であり、アフロ黒人ではない。なぜエジプト王家の話なのにエジプト系俳優が一人も起用されていないのか、とそのユーチューバーは怒っていた。

Elizabeth Taylor as Cleopatra in the 1963 epic drama film directed by Joseph L. Mankiewicz.

Elizabeth Taylor as Cleopatra in the 1963 epic drama film directed by Joseph L. Mankiewicz.

しかしエリザベス・テーラーがクレオパトラを演じた時は人種が違うなどという批判はなかったではないかという問いに対して、エジプト人芸人Bassem Youssefはハリウッドは昔からそういうことには無頓着であり、当時のエジプト人もそれがいいと思っていたわけではないと語っていた。しかし、そういう彼の顔立ちは、中東系とはいえイタリア人やギリシャ人と言っても通用するヨーロッパ系に見えるし、肌はどちらかと言うと白人に近く目は青い。今のエジプト人でもこうなのだ。古代エジプトのマセドニア人であったクレオパトラがエリザベス・テーラーとアデラ・ジェイムスのどちらに似ていたかと言えば、明らかにテーラーの方に似ていたはずだ。

Bassem Youssef

Photo courtesy of Mustapha Azab Bassem Youssef

拙ブログでも何度かお話しているように、昨今のハリウッドやイギリスのドラマにおける人種挿げ替えの勢いは凄まじい。リトルマーメイドやティンカーベルのような架空のファンタジーキャラクターなら人種などどうでもいいという理屈も通るかもしれないが(通らないと私は思うが)、時代劇など史実を元に実在した歴史上の人物で肖像画などからその容貌が広く知れ渡っているような人たちですら黒人が演じるという本当におかしな状況になっている。

つい先日も、ウィリアム・F・バックリーJr.(1925ー2008)という1955年にナショナル・レビューを設立した保守派作家の役を黒人が演じているお芝居のコマーシャルを観た。彼は1950年代から2008年に亡くなる寸前までテレビなも多く出演しており、その教養あふれる上流階級人らしい彼独特の話方に関しては、まだまだ記憶に新しい人々が多く居る。彼の友人だった保守派の人びとも未だに作家や評論家として活躍しているわけで、全くイメージの違う人を配役することの意味がわからない。私の今は亡き我が友人はバックリーと面識もあり、彼の物真似が非常にうまかった。

しかし問題なのはイメージが違うなどという表面的なことだけではない。ほぼ単一民族だけの社会ではよそ者を忌み嫌うのはごく普通である。だいたいつい数十年前までどんな社会でもよそ者差別は普通だった。海岸沿いで貿易港などがあり諸外国の人びとが入り混じる都市ならともかく、小さいコミュニティーでは誰もが何世代も前からの知り合いだ。だからよそ者を警戒するのは当然の’話だ。

それと昔の社会はどこの社会でも階級制度というものがあった。自分らが付き合う相手は同じ階級のものだけであり、ましてや結婚などということになれば位が高ければ高いほど相手の家柄を選ばなければならない。位の違うひとたちとの付き合いは同じ階級の人びととのそれとはまるで違う。身分の違うもの同士の対等なつきあいなどというものは存在しなかったのである。

そういう社会を背景にした物語で、全く違う人種や階級の人間が、あたかも対等であるかのように自然な付き合いをする描写があった場合、歴史を良く知らない観客は昔の欧米社会についてどんな印象をもつだろうか?何も知らない観客は中世のイギリスやフランスの宮廷には普通にアフリカ系黒人の貴族が出入りし、貴族も商人も農民もみな同じようにふるまい、諸外国からの移民で街は溢れかえっていたと思ってしまうのではないか?だがそうだとしたら、当時全く文化の違う諸外国からの移民がヨーロッパの宮廷でヨーロッパ人と同じようにふるまうだけの教養を持っていたということになってしまい、当時の中東アラブの奴隷商人やアフリカ大陸からの黒人奴隷らの存在はかき消されてしまう。

つまり史実上の人物や当時の社会を無視した人種挿げ替えは当時の社会構成や文化全体を否定することになり、欧州及びアフリカや中東の歴史まで書き換えてしまうことになるのだ。

今の世の中でも人種差別が消えたわけではない。いや、それどころか人権屋が常に現社会の人種差別について声高に訴えている。しかし、ドラマの世界を信じるならば、中世や近代歴史の欧米で多人種が仲良く全く問題なく共存していたのに、昨今の人種差別は何時頃から始まったのであろうか、何故昔は人種差別がなかったのに突然現代になって人種差別が始まったのだ、そしてその原因は何なのだ?というおかしな疑問が生まれてしまう。よしんば昔から人種差別はあったと考えたとしても、ドラマの世界を見る限り、いまとそんなに違わない程度のものだったと判断せざる負えなくなり、欧米の人種問題は昔から全く変わっていないという印象を持ってしまう。実際はまるで違うにもかかわらずである。

それともうひとつ、昨今の人種挿げ替えはほぼ元の役が何人であろうと黒人が配役される。そして白人役を黒人が演じるのは構わないのに黒人役を白人が演じたら大問題になる。この間も書いた通り、現代のハワイ諸島民の役を実際のハワイ島民が配役されたにもかかわらず、役者の肌の色が白すぎると言って大騒ぎする黒人活動家たち。ハワイ諸島民はアフロ黒人ではなくヨーロッパの植民地時代が長く続いたせいで肌の色もまちまちであることなど完全無視。それでいて、非白人の有色人種(エジプト人)をあり得ない人種のアフロ黒人が演じることは全く問題がないと言い張り、当のエジプト人からの非難を「黒人差別だ」だとしてエジプト人ファン全般を侮辱するという傲慢さ。このままでいくと、そのうち「ショーグン」や「ラストサムライ」のリメイクが行われたら日本人役は全員黒人がやるのではないかとさえ思われるほどだ。

黒人俳優を多く起用したいというなら、黒人独自の歴史を語ればよい。近代の黒人英雄の遺伝はいくらもある。奴隷から政治家になったフレドリック・ダグラスやジム・クロー時代に育ちながら最高裁判事にまでなったクレアランス・トーマス判事の話など探せばいくらでもあるはず。なぜ他民族の歴史を乗っ取らなければならないのだ?何故他人の創造物を破壊しなければならないのだ?

今回のクレオパトラシリーズの大不評が良い例であるなら、今後このような人種挿げ替えはどんどん拒絶されていくだろう。そうなって反感を買うのは単に与えられた仕事をしていた黒人俳優たちのほうである。

追記:これを書いてからクレオパトラのプロデューサー、ジェダ・ピンケット・スミス(ウィル・スミスの悪妻)は、クレオパトラの失敗は白人至上主義のせいだと言っているという記事を見つけた。Jada Pinkett Smith claims her Cleopatra documentary FAILED due to WHITE SUPREMACISM (msn.com)。苦情の多くは非白人のエジプト人からなのに、なんでもかんでも白人至上主義の性にするな!歴史的にも間違いだらけの駄作を作った責任をちゃんと取るべきである。

ネット仲間のBlahさんがおもしろい動画を紹介してくれてるので張っておく。(5) 🇺🇸 🇯🇵Blah on Twitter: “ポリコレ改変が大好きなNetflix、今度はシャーロット王妃を黒人にして炎上。 シャーロット王妃黒人説は一部で根強く、原作者も賛同も、歴史家はこの説を強く否定。奴隷制廃止前に黒人系王族は無理があると批判の声。 ↓リプ欄で恒例のポリコレ映画ミーム集 https://t.co/PAqdaduhUg” / Twitter


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犯罪者が聖人扱いされ、英雄が犯罪者扱いされるニューヨーク

先日、ニューヨークの地下鉄で気のふれたホームレスが車両内にいる客たちに脅迫的な言葉を吐き、今にも暴力行為に及びそうなほど危険な行動をしていたのを、そばに居た海兵隊員の男性が他の男性二人と一緒に男を取り押さえた。警察が来るまでの15分間、海兵隊員は狂った男を羽交い絞めにしていたが、首を強く締めすぎ男は死亡してしまった。その海兵隊員は殺人の疑いで逮捕された。

海兵隊員男性の名前はダニエル・ペニー24歳。死んだのはジョーダン・ニーリー30歳。ペニーが白人でニーリーが黒人であったことから、またまたBLMの連中がデモを行い、ニューヨークの地下鉄で線路に降りて通勤客の邪魔をした。

しかしこのニーリーと言う男はこの10年間で42回も逮捕されており、最近では2021年の初老の女性の顔を殴って逮捕されている。すでに過去にニーリーに殴られて怪我をしたという人たち二人が名乗りを上げている。また事件当時そばにいた目撃者たちによれば、ニーリーは乗客たちにゴミを投げるなどしており、脅迫的な言葉を喚いていたという。またニーリーは最後に逮捕された時に精神異常と診断されており治療に通っていたが、それも数週間で辞めてしまった。

ニーリーはニューヨーク市では悪名高いホームレスで、すでに危険人物としてマークされていた。42回も逮捕され、逮捕状も出ていたのに、この男を野放しにしていたニューヨークの検察は、この男がまた犯罪を犯すのを阻止した英雄海兵隊員を逮捕するのは素早かった。

BLM活動家以外のアメリカ人は、ペニーは英雄として称えられこそすれ犯罪者扱いされて逮捕などされるべきではなかったと考えている人が多い。事実ペニーの弁護士が始めた募金運動ではすでに100万ドルのお金が寄付が集まったという。大抵が匿名希望でそれぞれは少額の寄付だという。

最近ニューヨークの治安はめっきり悪くなっており、特に地下鉄内での暴力行為は日常茶飯事である。それでもニューヨークの人びとは電車にのらないというわけにはいかない。それで毎日ニーリーのような暴力男の被害に逢うのをびくびくしながら通勤しなければならないのだ。ニューヨークのアルビン・ブラグ検事は最近ドナルド・トランプ前大統領を起訴したジョージ・ソロスの息のかかった超リベラル検事。この検事は逮捕された犯罪者を起訴せずにすぐに街に放ってしまうので治安は悪化の一途をたどっている。

特に黒人犯人による白人や東洋人を狙った意味のない暴力行為が目立っており、市民はいい加減に堪忍袋の緒が切れそうな状態である。そんな中で勇気を出して男を取り押さえようとした男性がこのような目に逢うのであれば、今後例え目の前で女性が強姦されようが老人が殴られようが止めに入る人はいなくなるだろう。犯罪者は野放しで善人が犠牲になる市。それがニューヨークなのだ。


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黒人至上主義者のプロパガンダ、クレオパトラは黒人という嘘

ノ、ノ、ノ、クレオパトラは黒人じゃない。だれが何と言おうと絶世の美女とうたわれたクレオパトラ7世は断じて黒人ではなかった。何を突然いい出すのかって?実は最近公開されたネットフリックスの「ドキュメンタリー」と称するフィクションでクレオパトラをイギリスの黒人女優が演じており、番組の中でもクレオパトラがアフリカ系黒人だったという話をまことしやかにしているからだ。これが単なるドラマとかであれば、まあ、架空の話でるからそれはそれでもいい。それでも私は歴史上の人物はなるべくそれに見合った俳優を起用すべきだと思うが、まあ、それはいいとしよう。問題なのはこれがドキュメンタリーであるとうたわれている点。これでは多くの日が彼女に対して間違ったイメージを持ってしまう。

彼女の人種は割合はっきり知られている。彼女はエジプトの女王であり、当時のエジプトには文字があったので、彼女のことは代々の家系図ではっきりと記されているからである。それによれば、クレオパトラはエジプトの女王ではあったが、今エジプトに住むアラブ人の系統ではなく、マセドニア人(今でいうギリシャ人)で、いくらかペルシャ人(今のイラン人)の血が混じっていたことがわかっている。

また保存されているエジプト王たちのミイラからわかったDNA調査でも、昔のエジプト人は地中海のヨーロッパ人に近いことが確認されており、アフリカ系の血は混じっていないことがはっきりしている。

クレオパトラは女王であったから彼女の肖像は壁画や銅像やコインなども多く残っており、もし彼女がアフリカ系黒人であったならそのように描かれたものがあってもいいはずだ。だが、そのような肖像はひとつも残っていない。どれをみても、彼女は彫りの深い鼻の高い美女として描かれている。女王だから実際より美しく描かれていたとしても、彼女が黒人だったなら誰か一人くらいはそう描いていたはずだ。

確かにエジプトの壁画はヨーロッパの彫刻のように写実的ではない。しかしそれでも違う人種はそのように描写されている。例えば下記の壁画だが、肌が黒いのはさることながら、髪の毛の質や顔立ちなど明らかにアフリカ系黒人と解る描写がされている。アフリカ系黒人を描いた壁画。

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リンク先をクリックすれば大きい絵がみられる。クレオパトラはこのような描写にはなっていない。下記は複製だが、大抵こんな風に描かれている。どうみても上の黒人たちとは全く違う描写である。

  • Cleopatra

またクレオパトラは2年間ローマに住んでいたことがあり、その頃もっと写実的な彫像を作る傾向にあったローマで彼女の彫像が作られており、どれも白人女性の顔で描かれている。

ローマ人であるジュリアスシーザーやマーク・アントニーなど当時のマセドニアやローマの人びとが彼女を絶世の美女と考えたわけだから、彼女は当時の美女の標準に達している必要がある。こういっては何だが、当時の人たちがアフリカ系黒人女性を美女だと思ったとは考えにくい。

下記の動画では、彫像や肖像画を元にクレオパトラはどんな顔だったのかを再現したものだ。クレオパトラは赤毛で描かれていることが多いので、もしかすると赤毛だったのかもしれないとビデオの制作者は言っている。

何にしても彼女が白人だったことは間違いはない。にもかかわらず何故一部の黒人の間でクレオパトラは黒人だった説がまことしやかに語られるのだろうか?

私はこれは最近始まった黒人至上主義が原因だと思っている。

近年イギリスやアメリカでは黒人による歴史的貢献を古代評価する傾向がある。私は大学時代にアフリカの歴史を少し学んだことがあるが、お世辞にも文明開化の社会ではなかった。アフリカにはエジプトや中国のような古い文化はなく、巨大な部族はあったとはいうものの、立派な建築物も残していない..若干アフリカ大陸北部にはアラブの影響で古い建物は残っているが、それにしたってアフリカ人が建てたわけではない。

つまりアフリカには世界の文明に貢献したようなものは特にこれと言ってないのだ。

それが気に入らないのがアメリカやイギリスに居る黒人至上主義者たち。何とか自分らにも高貴な歴史があったと思いたいばかりに歴史を書き換えてしまうのである。例えばヨーロッパ人がアフリカに来てアフリカに合った帝国を滅ぼしたとか。

そして今回のようおにクレオパトラは黒人だったとか言い出したわけだ。そんなことをしても、エジプトを支配していたのがマセドニア人だったことに変わりはないのに。

最近何かというと元々白人のキャラクターをやたらと黒人が演じることが多くなったのも、この黒人至上主義のせいだ。イギリス宮廷の王女を実際とは正反対に色の真っ黒な女優が演じたり、ディズニーのリトルマーメイドやティンカーベルやピノキオの青の妖精など、白人としてのイメージが定着しているキャラクターをこれでもかというほどイメージの違う女優にやらせている。はっきり言ってこれには悪意しか感じない。

イメージが違いすぎると苦情を言っていた人たちをレイシストと言って罵倒していた人たちが、先日発表されたハワイ原住民を主役にしたリロとトゥイッチの配役が発表されると、俳優たちは皆太平洋諸島出身であるにもかかわらず、アニメキャラより色が白すぎるとものすごい批判を浴びせた。何故白人は全くイメージの違う黒人が演じてもいいのに、非白人だったら肌の色がちょっと白目程度でそんなに怒るのだ?ダブルスタンダードもいい加減にしてほしい。

リロとトゥイッチの配役とアニメキャラ。

Image

以前に日本人でハリウッド俳優として活躍している男性が、マイノリティーはマイノリティーが演じるべきだと言っていたので、じゃあ黒人が白人を演じるのはどう思いますかと質問したが完全無視されたのを思い出す。

クレオパトラが黒人だった可能性はゼロだが、現代に生きるハワイ諸島の人びとに白人の血が混じっているのはよくあること。だからこれらのキャラクターがアニメで描写されているより多少色白であることなど大した問題ではないはずなんだが。何故か人種スワップは一方通行らしい。


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役者の人種はどうでもいい、でも筋を通して欲しい

最近ディズニーのリトルマーメイドの新しい予告編が発表されたこともあり、再びアリエルを演じる女優の人種が取りざたされているが、この映画の問題点は主役が黒人になった程度のことではないと思う。しかし今日はその話ではなく、人々が慣れ親しんでいる役を異人種が演じるのはどうなのかという話をしたい。

結論からいえばそれは別にいいと思う。ただし、その映画やお芝居の中でそういう人種の人が出て来てもおかしくない設定になっていればという条件付きではある。

私は昔からお芝居や映画が好きである。特に中学生くらいから生で舞台を見るのが大好きで、一人で歌舞伎座へ行って一幕見をしたり宝塚や劇団四季のミュージカルをみたり、明治座や芸術座なども良く通った。今でも生のお芝居を見るのが大好きなので、地元の地方劇団のシーズンチケットをずっと買い続け、かれこれ30年になる。

この劇団は色々な芝居を手掛けるが、なんといっても一番人気はシェークスピアだ。先日もMuch Ado About Nothing(邦題:空騒ぎ)という私の大好きな題目で非常によかった。

A woman in a bridal veil and man in soldier's uniform face each other in front of a stained-glass window.

↑地方劇団の「空騒ぎ」のシーン。

この劇団に限らず、私はシェークスピアが好きなので色々な劇団やプロダクションでシェークスピアを観ている。同じ題目のものも色々な舞台で観た。「空騒ぎ」もケニス・ブラノフの映画を含めると四度目だ。私は色々な劇場でシェークスピアを観ているが、イギリスのシェークスピア劇場で観たテンペストも含めて、話の設定が中世のイギリスであることは非常に稀であり、台詞はそのままだが舞台は色々な時代や場所に移されていることが多い。

例えば今回の「空騒ぎ」も舞台は1940年代の中南米だったし、以前に見た12夜は1960年代風のカリブ海周辺のどこかだった。21世紀を舞台にしたロミオとジュリエットもあるし、1930年代を舞台にしたリチャード三世なんてのもあった。黒澤明のマクベス(蜘蛛の巣城)やリア王(乱)も有名だ。

このように舞台や設定を変えてしまえば、登場人物の人種や民族が白人のイギリス人である必要はまったくないし、黒人が出て来ようがラテン系が出て来ようが日本人だろうが全く問題はない。

ヒーローものを女性にやらせるにしてもそうだ。例えばワンダーウーマンのように元々女性のキャラで作られたものなら問題はないが、元々男性キャラなのを無理やり女性に変えるのは勘弁してほしい。

私の大好きなSF長寿番組ドクターWHOが女性に生まれ変わった時も思ったのだが、女性にやらせるなら女性特有のキャラクターにしてほしかった。それが男優用に書かれた台本を単に女優にやらせているという怠慢さがにじみ出て、見てる方は完全に白けた

同じドクターWHOでも、以前にドクターの宿敵マスターが女性に生まれ変わりミッシーとなった時、彼女は正確も素振りも確かにマスターの生まれ変わりであったが、19世紀の貴婦人の服を着こなす高貴な女性で、お色気もあったし茶目っ気もある素晴らしいキャラクターだった。私はドクターWHOの女性版にもそういうキャラを期待していたのだが、完全に裏切られた。このシリーズは視聴率最低だったらしい。さもあらん。

結論を言うと、人々が慣れ親しんできたキャラクターの人種や性別を変えようというなら、その変更が人々の納得のいくような筋の通ったものにしてほしいということ。

リトルマーメードなら舞台をカリブ海付近に移して登場人物はすべて黒人にするとか、ピーターパンも舞台を別の国に移すとかして、ピーターパンが東洋人でもティンクが黒人でも違和感のない設定にしてほしかった。しかしディズニーはともかく多様な人種を使うということにだけ気を使って、物語の脚色にも筋にも全く力を入れない怠慢さ。

これらの映画が不人気なのは配役に非白人を起用したことにあるのではなく、オリジナルの設定や脚色をした映画を作るという努力を怠ったその怠慢さが原因なのだ。


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