イスラム諸国の横暴を思わせる中国の傲慢な態度

今回の中国漁船船長の釈放については、ちょうど先週一週間ほど日本に帰省して居たので、実家の父とも話をすることが出来た。父は「これは非常にまずい外交だ」と言っていた。

那覇地検が、尖閣諸島周辺の日本領海での巡視船への衝突事件で逮捕、送検されていた中国人船長を処分保留で釈放する決定を公表したことに24日、与党・民主党からも失望や疑問の声が相次いだ。党代表選後、内閣支持率の上昇に勢いを得た菅首相だが、中国の圧力に屈服した格好の今回の決定は、今後の政権運営に大きな影響を与えそうだ。菅直人首相の求心力低下にもつながり、民主党代表選で首相に敗れたばかりの小沢一郎元幹事長の「復権」を早めることになるかもしれない。

日本は三権分立社会であるから、検察の判断で釈放が決められたのであれば、議会はとやかく口を出せないというのは本当だが、本当に検察側独自の判断だったのかといえばそれはかなり疑わしい。かえって管政権は中国の圧力に屈服して検察に圧力をかけ、三権分立を言い訳に責任逃れをしているように見える。
船長釈放の交換条件として現在逮捕されているフジタ社員たちの釈放を確保できたというならまだしも、理不尽な拘束をされた人たちへの面会さえも許されていない。これでは中国の完全勝利とみられても仕方ないだろう。
中国の日本への態度を観ていると、イスラム諸国による西洋諸国への態度と酷似するものがあると感じる。それは自分らの悪行は棚に上げて、他人から多少でも自分らに都合の悪い行為をされるとそれがあたかも人民や文化全体への攻撃であるかのように大騒ぎする点である。
フジタの件のみならず、中国では日本市民を含む外国人が大した根拠もないのに、ちょくちょくスパイの疑いで逮捕されている。これらの人々には弁護士が面会することもままならず、事情がわからないまま長年の拘束が続けられているのだ。
また、中国では未だに人身売買は公然と行われており、北朝鮮からの脱北者女性のほとんどが中国で売春奴隷として売買されていることは周知の事実。
そういう国が、やたらと日本の占領時代の話を持ち出して人権問題を批判したりすると、いい加減にしろよ、と言いたくなる。日本の過去に中国市民を虐待した歴史がないとは言わないが、日本はすでにそういう文化を悔い改め民主国家として生まれ変わったのと比べて、中国は昔からの野蛮な弾圧的政治体制を全く改めず、未だに自国民や外国人を弾圧しているではないか。
問題なのはそういう野蛮な国の横暴に日本がやたらに屈服してしまうという点だ。こういう国に善意など通用しない。こういう国との外交であるのは力関係だけだ。
イスラム教徒でもそうだが、奴らは自分らが崇高な存在だと信じている。他の人間は下位なのであり、自分らが特別扱いされるのは当然のことなのだと思い込んでいる。だからアメリカで聖廟が建てられるのは当たり前の権利だが、サウジアラビアでキリスト教会建設など断固許せない行為という理屈になる。
中国にしたって同じことだ。
自分らによる人権迫害や市民虐待は当たり前。中国民族こそが崇高な民族なのであり、他民族は自分らを敬い従うべきだと考えているから、日本が過去の「過ち」を謝るのは当たり前、賠償金を払うのは当たり前、船長釈放は当たり前、なのである。
そんな当たり前のことをして中国がその行為に感謝などする訳がない。
日本が何をしようと、中国政府から善意など絶対に期待できないのだ。もういい加減にそのことに日本政府は気付き、中国の態度にいちいち怯えるのは止めてほしい。
中国から日本が敬意を評されることがあるとしたら、それは日本は中国の脅しには怯まないという強攻な態度しかない
無論強攻な態度は実際の軍事力によって支えられなければならない。アメリカからの敵国に対する脅しが多少でも効くのは、アメリカの軍事力と、いざとなったら軍事行使もいとわないという意志が後ろ盾があるからだ。
そのアメリカでさえ、オバマのような弱体が大統領になった途端、イランや北朝鮮などの敵国から舐められるようになった。野蛮国に対していかに闘う意志が大切かという証拠である。
中国との貿易関係を深めることは大切だ。中国人が日本に多く来る事はかまわないと思う。多くの中国人に自由な日本の良さを理解してもらうことで、彼らが自国政府の独裁性に気づいてくれれば、これは決して悪い事ではない。
だが、中国からやたらな軍事行使をされないように、日本もそれなりの武装をして、いざと言う時にはそれを使う意志があるという態度を示さなければならない。私は何も日本に中国と戦争しろと言っているのではない。中国からの横暴に立ち向かうにはそれなりの準備が必要だと言っているのだ。


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ゲイ裁判官の陰謀!州民の意志完全無視して一夫一婦制は違憲と判定

今月四日(8/4/10)、連邦地裁は2008年11月にカリフォルニア州の住民が圧倒的多数で可決した、結婚は一夫一婦制のみという法律「提案8号」が違憲であると判定を下した。下記の記事が比較的詳しく書かれているので一部掲載する。

カリフォルニアの同性婚禁止は違憲 米連邦地裁が初判断
2010.8.5 10:51

【ワシントン=犬塚陽介】同性婚を禁止した米カリフォルニア州の決定は法の下の平等を保障する米国憲法に違反するとして、同性カップル2組が起こした訴訟で、サンフランシスコ連邦地裁は4日、同性婚の禁止は「道徳観や宗教観のみを根拠にしている」と、法的根拠がないとの判断を示し、決定を違憲とする判決を下した。
米国世論を二分する同性婚問題で、連邦裁判所が判断を示したのは初めて。反対派は連邦第9巡回控訴裁判所に控訴する方針で、訴訟が最終的に連邦最高裁までもつれる可能性も強まっている。
訴訟の争点となったのは、2008年11月にカリフォルニア州の住民投票で可決され、州最高裁も追認した同性婚を違法とする「提案8号」の合法性。ウォーカー裁判長は判決で、提案8号は同性愛者を特別視した上で「不公平な待遇を合法化している」と指摘し、同性愛者のみ結婚を許さないという合理的な根拠はないとした。

ウォーカー裁判官の判定には色々と問題点が多い。
先ず第一に、提案8号は同性婚を特別視しているわけではない。この法律は一夫多妻婚も認めていないし、近親婚や既婚者との結婚も認めていない。提案8号は同性婚を禁止する法律ではなく、結婚の定義を一夫一婦制に限るとしているもので、とりたてて同性婚のみに不公平な法律ではないのである。
また、ウォーカー裁判官は裁判中には明らかにしていなかったが、自身が同性愛者であり、同性婚促進運動家である。本来ならばこのような偏向に満ちた裁判官が判定すべきではないのにも関わらず、ウォーカー裁判官は自分の偏向を隠して判定にあたったのである。これだけでもこの判定は無効にしてもいいくらいだ。
提案8号では同性同士の結婚は認められないが、同性愛者が結婚することを認めないわけではない。つまり、同性愛嗜好の人が異性と結婚する分には全く問題ないのだ。つまり、ウォーカー裁判官がいうように「同性愛者のみ結婚を許さないという」法律ではない。
この裁判は連邦最高裁まで控訴されるだろうから、同性愛者のみなさんは、あまり急いで結婚などに及ばない方が懸命と思われる。
私が同性婚に反対する理由は以前から色々書いているが、最近の関連記事は下記。
本当は同性結婚じゃないんだよね、同性愛活動家の真の目的
だから、なんで同性結婚がそんなに大切なんだよ?
結婚の定義における性別対人種の違い
同性結婚でステータスを求めるゲイ達
差別意識は個人主義か全体主義かで違ってくる
同性結婚は文明社会を破壊する
ジェンダーフリーは自由社会を破壊する
同性結婚は文明社会を破壊する、その2


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アメリカ小児科医協会、女児の陰部切除という野蛮な因習を認める

アメリカに移住したイスラム教徒が、女児を祖国に送り返してアメリカでは禁止されている陰部切除という野蛮な処置を受けさせているということが問題になっているが、何とアメリカ小児科医協会は、この因習を止めさせるためにアメリカ国内で女児の割礼を許可すべきだという見解を発表した。
ちょっと待てよ。それは話が逆さまではないか? 
この因習について良くご存知のない方のために説明するが、女児の割礼は男児の医学的処置とは全く違う。女児の陰部のかなりの部分を切り取るという、医学とは無関係で野蛮な伝統に基づく非常な苦痛を伴う危険な処置である。
アフリカやアジアや中東のイスラム圏諸国で広く行われているが、大抵の場合、不衛生な場所で麻酔も使わず、医師でもない家族や近所の女たちが女児を何人かで羽交い締めにしてカミソリを使って非常に敏感な部分を切り取るというものすごく野蛮な行為である。中国で昔行われていた纏足などと並んで女性への虐待行為である。
不衛生な場所でこのような大掛かりな切除を行えば、傷口が化膿し尿道症並び種々の病状の原因となり、不妊症になったり、時には死に至ることもある。またよしんば完治したとしても、心の傷はそのまま残る。クリトリスを完全切除するのだから、大人になってからの性行為にも多いに支障をもたらす。
さて、問題なのは、イスラム圏諸国から移住してきた移民たちが、移住先の文明国にもこのような因習を持ち込んでくるということである。本来ならば、こうした行為への適切な処置は、受け入れ国が移民に対して、そのような行為はこの国では違法であり、幼児虐待として見なされ法によって罰せられるということを説明するところからはじまり、それでも実際にそのような行為を行った場合には断固たる処罰をすることである。文明国ではそのような野蛮な行為は断固認めないという姿勢をはっきりさせるのが本筋だ。
移民達はそうやって新しい国の習慣を学び、最初は抵抗しても二代目三代目となるうちに、出身国ではなく移住先の国の習慣を受け入れるようになるのだ。他のどの国からの移民も、そうやってアメリカ人になってきたのだ。
それを何故、女児虐待に限って、文明国のアメリカで許可しようなどというのだ?
アメリカ小児科医協会のいい分はこうだ。このような習慣は国内で禁止しても移民たちは女児を外国に送り返して危険な処置をうけてしまう。だから、アメリカ国内で医師による安全な切除を許可することによって、そのような危険を防ごうというものである。
アメリカンアカデミーオブペデイアトリックスの声明文によると、彼らのいう安全な措置というのは、クリトリス全面切除という危険なものではなく、陰部の皮をほんの少し切るだけというピアスほどの危険も伴わない措置だという。移民達の慣習や伝統に対して同情的な理解を示すと言う意味で、医学的には害にも益にもならない儀式上の処置を許可するという、いわゆる妥協案だというのだ。
確かに、医師による処置であれば医学的な問題は解決するかもしれない。だが、それでは女児及び女性虐待を許可するという文化的な問題が解決していない。
中国での纏足にしてもアフリカやイスラム圏の陰部切除にしても、その根底には女性の独立性を妨げるという女性虐待の意識がある。
中国で纏足が行われたのは、足の小さい女性は美しいとされたからだという表向きの理由とともに、そんな足では満足に動くこともできず、嫌な相手と結婚させられても逃げることが出来ないという、女性を閉じ込めておくという効果があった。
女児の陰部切除は、女性のヒステリーな気性を緩和するためという表向きの理由の裏に、性的に敏感な部分を切り取る事によって、女性が性行為によって快楽を得られないようにし、夫以外の男性と性交を結びたいという欲望を防ごうというのが本当の理由だ。
なぜ文明国が女性虐待の伝統や宗教を持つ野蛮な文化に迎合する必要があるのだ? そのような文化に対して敏感であるべきという考えそのものに私は非常な抵抗を覚える。
この事に関してはBare Naked Islamというブログに色々な人たちの意見が載っている。
そのなかでも説得力があると思われるのは、一部でも陰部切除を合法にしてしまえば、これまでアメリカの法律に守られて親族からの圧力に耐えて娘の陰部切除を行わないでいた母親たちが、それを行わない口実を失ってしまうという理屈だ。
だいたい全面的に悪い行為を妥協として一部だけ認めるという理屈がおかしいではないか。
アフリカやイスラム圏諸国では未だに奴隷制度が伝統的に残っているが、こうした文化に理解を示すために、妥協として移民には一部奴隷制度を認めるというのと変わりがない。
そういうことを異文化への理解を示すとかいう理由で多少でも妥協していけば、そのうち、娘の貞操を守るという理由で野蛮国のあちこちで行われている名誉殺人も、妥協として娘を殺すのは良くないが、鞭打ちなどの拷問程度なら許可するとかいうことになりかねない。
陰部切除は女性虐待の象徴である。そのような悪習は形の上だけでも文明国に存在してはいけないのだ。アメリカは男女同権の国である。女性虐待の象徴を一部たりとも認めるべきではない。
これに関してはEuality Nowなどのフェミスト団体も断固反対している。
そういう意味で今回の小児科医協会の声明は、医師としての気持ちは理解できるが、解決法への方向を見間違えていると言える。


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左翼フェミニスト?そんなの常識じゃん!

この深町さんて人のサイトにコメントしたかったのだが、なぜか『はてな』は私のメールアドレスを認めてくれないので登録できないでいる。

で、深町さんのエントリーを読んでいて面白いなと思ったのは、彼が私の意見よりも、私の文章のスタイルに苛立ちを覚えたということである。

特に私の「〜と反対に問いたくなるのは私だけだろうか?」という部分にかなり引っかかったらしい。しかし、深町さんが「個人的にイラッと」きた部分の話をする前に、私が苛立った部分からコメントしよう。

早々に「左翼のフェミニスト」とレッテルを貼り、「おれは議論なんかするつもりはなく、ただカラオケがしたいんだ」という意思表示が示される。ご本人も「議論の余地はない」と書いてらっしゃるのだが……。

私が討論の相手にすぐレッテルを貼りたがるという批判は、以前に掲示板で議論していた頃から良く言われたことだ。しかし、私のように長年左右討論をしているものから言わせたら、話している相手が左翼か右翼かということは簡単に解る。左翼フェミニストともさんざんやりあったことがあるから、彼らのやり方はすぐに気がつく。「防犯は個人責任ではなく政府の責任である。」はどう見ても左翼思想だし、特に「自己責任を問うのは犠牲者を責める行為である。黙れ」と言って討論相手を加害者扱いして黙らせるやり方は左翼フェミニストの常套手段。こういう相手には左翼フェニストのレッテルがぴったりはまるのだ。

だが私はこういった左翼連中と違って意見の違う人間を黙らせようなどとはしない。相手に左翼というレッテルを貼ったからといって、だからそれで議論は終わったなどと片付けたりもしない。深町さんの文章を読んでいるといかにも私がそう書いたように解釈出来るので原文を添付すると、、、

女性が強姦魔から自衛する行為を促すのは女性差別なのかという問題が議論されていた話はしたが、、、思った通り、(曾野綾子さんの原文は)左翼のフェミニストたちが大騒ぎするほどの内容ではない、過激な左翼フェミニストでなければ常識と取れる内容だった。(略)
曾野さんが、男尊女卑の最たるアラブの保守的な国の慣習を持ち出すのは不適当だと思うが、夜中に危険な場所で一人歩きをすべきではないというのは常識すぎて議論の余地はない。

さて、それでは深町さんが苛立った部分はというと、、

しかしそのわりには「常識」とか「私だけだろうか?(議論の余地はないと仰っているにもかかわらず)」という個人的にイラッとくる言葉があった。レッテル貼りと「常識」「私だけだろうか?」たったひとつのエントリにこうもイラつきワードを盛り込むってなかなかできないなあと感心すらしてしまった。また書き手自身が自分の意見をたいして信じていないのだとも。

「私だけだろうか?」や、それに政治家や新聞の論説委員が使いたがる「その考えはいかがなものか」というフレーズ。森達也氏がかつて著書でさんざん述べていたことではあるが、「私」という主語をやすやすと放棄して、姿の見えない不特定多数のなかに埋没しようとするいかがわしい言葉である。たいがい力強い主張の後に用いられることが多い。「郵政民営化には絶対反対……と思うのは私だけ?」といった感じ。自分の主張の重さに耐えきれない弱さが思わず露呈してしまうというか。

私はこれを読んでいて、日本語にはレトリカルクエッション(rhetorical question《文法》[U]修辞疑問, 反語;[C]修辞疑問文, 反語文)という文章スタイルは存在しないのだろうかと不思議に思ってしまった。

ここでいう私の「〜と思うのは私だけだろうか?」という文章は、文法的には疑問形になっているが、実は疑問文ではなく、「〜と思うのは私だけではない!」という断固たる断定文である。これは自分の意見に不安を持って相手に問いかけている文章ではない。

例えば、「政治家による汚職は許されるべきであろうか?」という文章は、文法的には疑問文であるが、明らかに「許されるべきではない」という意味であり、疑問文にすることで断定した書き方よりも印象深い効果を与えようとしている単なるスタイルである。別に読者をだまくらかそうというような「いかがわしい言葉」使いなどではない。

私が議論の余地がないと言ったのは曾野さんのエッセーの内容についてだ。だが、私が議論しているのは曾野さんの書いていることをヒステリックに批判している左翼フェミニストについてである。彼女達には「強姦犠牲者を二次被害から守る」という表向きとは違った、もっと個人の力を弱めて政府の力を強めようとする社会主義的な、それこそいかがわしい思想が伺われるということだ。それについては、もっと解りやすく説明しているので、深町さんにも是非このエントリー「左翼リベラルが自衛の自己責任を恐れる本当の理由」を読んでいただきたいものだ。

さて次に深町さんがひっかかったのが「常識」という言葉。

「常識」というのも謎の言葉である。「そんなのは常識!」などとあらゆる場で登場するけれど、あるときは自分の説明不足を不特定多数の誰かにすがろうとして、またあるときはやはり自分の主張の重さや尖りに我慢できないときに用いられる。「温暖化なんて嘘……と思うのは私だけ? えーと……それが今の常識!」というような。「おれ、なんだか過激な主張したけど心配だなあ。リスクを回避したいなあ。いっちょ手を打って置くか」という打算と臆病が入り混じったような思考と、つねに主語を「私」ではなく「私たち」「みんな」にしていないと不安で仕方がないという自分レスな人にとってはきわめて便利なフレーズだ。「あいつ死ねばいいのに。ホント、マジでみんな思ってる」と、なにかにつけて「みんな」をつけなければ安心できない人種だ。

個人の防犯は自己責任という考えは、個人主義の保守派思想を持った人なら常識だと思うだけだ。それが過激な意見に聞こえる深町さんは多分左翼リベラル思想の持ち主だろう。

この曖昧&主語のすり替え言葉がいつごろから広まったのだろう。(略)

大人になるにつれ、なかなか何事も断定的な物言いなどできなくなってくる。曖昧なところに落ち着かざるを得なくなる例のほうが圧倒的に多い。(略)しかし他の言葉がいかにぼんやりとしていても、発言の主だけははっきりさせておきたいという自覚ぐらいはある。「そんなのは常識だ!」と言われても、どこの誰の常識なんだとむかっ腹を立てるようにしている。

では「温暖化は常識だ今更議論の余地はない」と言い張って、どんどん経費のかかる政治政策を施行している政府に対して、「いったいどこの誰の常識なんだ?」と深町さんは腹を立てたのだろうか?
もし、右翼や保守の常識だけが受け入れられないんじゃ片手落ちだ。しかし左翼リベラルの常識でも疑う余地ありとするならそれはそれでいいだろう。他人の言うことを鵜呑みにすべきではないという意見には異論はない。

ところで、私が非常に嫌な気持ちになったのはこの部分。

新聞の社説やブログで見かける「私だけであろうか」というフレーズ。「おれ信念あり」「おれ逞しい」と言いたげな人ほど自覚もなくよく使ってる。「共感しろオラ。お前も思うよな?」と、力強く主張しながら数を恃むというヤンキー的なもたれ方というか。

ここでいう深町さんの「ヤンキー」というのは誰をさすのかな? 厳密的には「ヤンキー」とはアメリカ南部の人々が北部の人々に対して使った侮蔑的な差別用語。アメリカ人一般をさすなら「ヤンクス」となる。アメリカには人種が多様であるように思想もまた多様である。それをひとくくりにして、「ヤンキー的」という表現は感心しないね。で、この「感心しない」という動詞の主語は「私」カカシである。念のため。


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マリブ女性、崖から飛び降りて強姦魔を振り切る!

ローカルニュースだが、見出しが目についたので読んでみた。

南カリフォルニアのマリブ市で、強姦されそうになったジョガーが崖から飛び降り、丘を100フィート滑り降りて攻撃から逃れるという事件がありました。
ロサンゼルス郡シェリフのデレク・サバティニ警部によると、この女性は落ちた時に得た切り傷の手当のためマリブ市の病院に運ばれたと言うことです。
被害者の女性によると、お昼近くにポイントドームステートビーチにてジョギングを終わらせ崖のふちに立っていると、突然後ろから抱き抑えられ、男の腕を振り切るまで数分もみあったといます。女性が崖を走り逃げ崖から飛び降りたのはこの時です。
犯人の男は女性が乗って来ていたトヨタランドクルーザーに乗って逃走しました。犯人の捜索は継続中で、まだ捕まっていません。

この間もサンディエゴでジョギングしていた若い大学生女性が強姦されたうえ、殺されるという事件が起きたばかり。この事件の犯人は捕まったが、なんとこの男、以前にも幼児連続強姦の罪を問われ捕まっており、ほんの数年の禁固刑を受けた後保釈されたばかりの身だったという。
昨日も、連続強姦で指名手配になっていて20年近くも逃げ通して捕まった男が、たった三年の刑期を終えて釈放されるという話を聴いた。この男を刑務所に送り込んだ検察官が怒って釈放される地元に警告の記者会見をするという異例な発表があった。
なんだってこういう奴らがのこのこ道を歩けるんだ? 連続強姦魔は一生強姦魔だ。改心などしないのだ!どうして終身刑や死刑にしないのだ!本当にアメリカの司法システムはどうかしてる。
それはともかく、強姦魔から逃れるために、とっさに崖を取び降りるなんて凄い勇気だ。打ち所が悪ければ死んでしまう。もっとも強姦魔に素直に従っても殺される可能性は非常に大きい訳だから、だったら一か八かで飛び降りるというのも手かもしれない。
欲をいうなら、犯人の男が崖から落ちて死んでくれれば良かったに。
とにかく、女性に大事がなくて本当に良かった。
ところでジョギングをしたり、道を歩いている際に、ipodなどで耳を塞がないこと!音が聞こえないと回りの状態に気がつかず、変な男に近寄られてもわからないことが多い。また、携帯などで話をしていると話に熱中して注意散漫になる。後ろから来る車に気がつかずにはねられるといった可能性も大きい。どうぞくれぐれもご注意あれ!


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モスレムのゲイバッシングを黙認するアメリカゲイ社会

私は以前に、アメリカのフェミニスト達がモスレム(イスラム教徒)らによる女性弾圧について沈黙を守っていることを批判したことがある。アメリカのフェミニスト団体は女性の立場向上よりも左翼リベラルとしての立場を重く考える。というより、フェミニズムなど左翼主義促進のための一つの手段にしか過ぎない。だから、女性問題と左翼主義が対立した場合には、必ず左翼主義が優先される。(イスラム圏社会はおよそ左翼主義とは言えないと思われるかもしれないが、右翼保守のブッシュ政権が対抗していたので、敵の敵は味方という安易な考えがここで働くわけだ。)
どうやらこの傾向は同性愛者たちの間にもあるらしい。
ゲイペイトリアット(同性愛の愛国者)の著者ブルース・キャロルがビッグジャーナリズムで書いている記事によると、先月26日、(2/26/10)サンフランシスコで起きた同性愛男性がビービーガンで撃たれるという事件について、SFのメディアは驚くほど犯人像の表明に消極的だという。
ヘイワードから来た従兄弟同士三人は、サンフランシスコでビービーライフルを使って通りがかりの男性の顔に向けて撃ち、その状況をビデオ撮影した疑いで、パトロール中の警察官に取り押さえられた。車のなかにあったビデオカメラには攻撃の様子が撮影されていた。
犯人三人は、シャフィア・ハシミ(Shafiq Hashemi, 21)、サイード・バサム(Sayed Bassam, 21)、そしてモハメッド・ハビビザダ(Mohammad Habibzada, 24)。三人とも犯行を認めており、サンフランシスコにはゲイバッシングの目的で来たと白状しているという。
さて、これがテキサスやユタから来た白人が犯人だったら、今頃「右翼過激派のヘイトクライム!」とかいって大騒ぎになっていたこと必定。ティーパーティなども引き合いに出されて、「ティーバッガーの暴走」とかいって主流メディアはでかでかと書き立て、すぐさまドキュメンタリー映画にでもなっていたことだろう。
それが犯人が明らかにモスレムだと解ると、主流メディアどころか、ゲイで知られるサンフランシスコのテレビローカルニュースにしろ地方新聞やゲイ専門誌ですら、この事件の犯人像についておそろしいほどの沈黙を守っているというのである。
アメリカでも一番人気のゲイマガジン、アドボケート(the Advocate)でも、犯人像やその動機について全く触れていないという。
イスラムが動機のゲイバッシングについては、タウンロードやジョーマイゴッドといった左寄りゲイブロガーたちも完全沈黙を決め込んでいるが、すくなくとも彼らは犯行そのものが起きたという事実は認めている。それが極左翼のパムスハウスブレンドやアンドリュー・サリバンのデイリーディッシュになってくると、事件があったことすら無視。一時期、モスレムによるゲイバッシングもあると認識していたサリバンなどは、この話を取り上げそうなものだが、ニュースが耳に届いていないと見えて、何も書いていない。「好都合だな」とブルース。

アメリカのゲイコミュニティーに通じていない人たちは、基本から理解する必要がある。政策やアドボカシーの決断をするゲイリベラル活動家やリーダー達は、長いことモスレム過激派によるゲイやレズビアンへの脅威を無視してきた。ヒューニューマンライツキャンペーン(the Human Rights Campaign)ギルファンデーション( the Gill Foundation)ナショナルゲイアンドレズビアンタスクフォース(the National Gay and Lesbian Task)といったリベラルの「ゲイ人権」団体は、それよりもアメリカのキリスト教徒によるゲイやレズビアンへの攻撃について毎日のように心配している。

イスラム圏諸国では同性愛嗜好であるというだけで絞首刑になるなど日常茶飯事だ。にも関わらず、アメリカの同性愛活動家たちは法廷による同性愛結婚の強制や、税金を無駄使いした教育場での子供の同性愛勧誘に忙しく、イスラム圏政権による組織的なゲイ殺害に興味がない。外国で起きていることならまだしも、その脅威がアメリカ海岸にも乗り上げ始めていることにすら興味がない。
ほんの先月、クリーピングシャリアというブログがバンダービルト大学のモスレム司教によるこんなコメントを報告している。
イスラム教では同性愛への罰は死刑だというのは本当かという質問に対し、イスラム教学の教授であるアワディ・A・ビンハズィム司教は「はい、罰は死刑です。」と答えている。そして自分はイスラムの教えに従うとさえ断言している。
こうしたイスラム教学はサウジアラビアではなく、ナッシュビルやテネシーの大学でも教えられているのだ。
だが、アメリカのゲイ活動家が優先するのは、同性結婚に反対するアメリカのキリスト教徒への反撃のみ。

また、アメリカのゲイ活動家の基本的思想として、反資本主義、反民主主義、反戦、そして反イスラエル、といった感情が何十年にもわたって深く根付いている。2003年から2007年に行われた反イラク戦争の集まりに参加した人なら、親共産主義や反資本主義や反ブッシュのサインやスローガンに混じって虹色の旗(非公式のゲイ/レズビアンのシンボル)を見るのは避けられなかったはずだ。

この「コミュニーティー」においてアメリカでゲイであるためには、先ず最初に「主流」であることを拒絶し、個人主義や自由や資本主義や憲法や投票権や愛国心を放棄しなければならない。それがすべてチェックできたかい?そしたらクラブ参加大歓迎。
イスラム脅威に立ち向かうなどアメリカゲイ体制の遺伝子とは完全に異邦なものだ。彼らにとって敵は共和党であり、ストレートな男達であり、アメリカ軍隊なのだ。
サンフランシスコや世界中で起きるモスレムによるゲイバッシングに関して、アメリカのゲイコミュニティーの姿勢は、それこそまさに、「聞くな、言うな」なのである。( “don’t ask, don’t tell” )

これだからカカシが以前から指摘しているように、アメリカのゲイ達は同性結婚には躍起になるくせに、同性愛の正式軍隊勤務には興味がないというわけだ。彼らはゲイの味方なのではなく、単にゲイ達を左翼主義促進の道具につかっているに過ぎないのだ。これはフェミニストと全く同じこと。
左翼は常に少数派を利用するのだ。


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米軍上層部、同性愛者の公式な軍隊勤務を奨励

この間オバマ王は同性愛者の軍隊勤務について、「聞かない、言わない」法を撤回すると発表したが、火曜日、上院議会でマイク・ムレン海軍大将、統合参謀本部議長も、既存の法律は「同胞市民を守るために嘘をつくこと」を強制するものだとして、その撤回を嘆願した。また、防衛庁のロバート・ゲーツ長官もムレン大将同様、1993年に設立されたこの法律施行の緩和を促した。
オバマ王は一年以上も前から、この法律を撤回すると宣言だけして全く何の行動も起こしていなかったのだが、軍上層部でもこの法律の撤回を本気で考える動きがあるというのであれば、望みは持てるかもしれな。
だいたい、同性愛者であることを隠してさえいれば勤務できるというのは、この間からカカシが色々書いているように、ゆすりの原因にもなるし、第一これらの人々の人権を迫害するものだろう。ここはひとつ、保守派の皆さんも、変な偏見は投げ捨ててこの悪法撤回に賛成してもらいたいものだ。
何度も指摘したように、同姓結婚と違ってこのことによってアメリカの道徳観や伝統が失われるというものではない。同性愛者が何十年にも渡って米軍で勤務してきたことは暗黙の了解であり、いまさら同性愛者だからといって優れた軍人にはなれないなどという言う人はいないだろう。
これは黒人兵と白人兵を混合させたときと同じで、兵士にとって問題なのは頼りになる同胞であり、その人間が自分のプライベートな時間で誰とデートしていようと軍隊の士気には無関係だ。
はっきり言って軍隊というところは民主主義ではないので、上から命令が下されれば下は多少不満があっても従う。であるからリーダーシップがしっかりしてさえいれば、こういう変革は案外すんなりいくものなのだ。
ミスター苺が海軍に居た頃、同胞の将校らに同性愛者と並んで勤務することに抵抗があるかどうか聞きまわったことがあるそうだ。これは正式な統計を取ったわけではないが、将校の間では別に気にならないとした人がほとんどだったのに対し、下士官のほうでは嫌だという人が結構多かったという。
これが反対だと問題だが、将校の間で抵抗が少ないのであれば、この法律は撤回してもさほど問題はおきないものと思われる。
ま、今後一年くらい調査した末に決断が下されるという話なので、今すぐというわけにはいかないのだろうが、なるべく早い結論を望みたい。もっともオバマ王が相手では、いったい何時になるのかあてにはならないのだが。


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何故フェミニズムは理解されないのか

多分日本でもそうだろうが、初期の目的はどうあれ、いまやフェミニズムというと、ちょっと「勘弁してよ」と敬遠したがる人が多いのではないだろうか。アメリカではフェミニズムなどという社会的な運動は今や時代遅れ。フェミニズムなど一部の左翼運動家以外は誰も興味を持っていない。
もうほぼ男女同権を獲得したアメリカ社会では、特に今更フェミニズムなどという動きは必要ないが、まだまだ女性差別がある日本で、女性の地位向上という本当の意味でのフェミニズム運動が一部の過激派によって台無しにされてしまったことは残念でならない。
それにしても、なぜフェミニズムは一般市民に理解されないのであろうか? マサキチトセというフェミニストの書いたエッセーによると、これは意図的なものだそうだ。
このエッセーは、WANという世界的なフェミニスト団体の日本支部と東大ジェンダーコロキアムと共催して行った「男(の子)に生きる道はあるか?」というライブイベントに関する感想文である。

アップデート:

WANが国際的な組織ではないという指摘が私の知らないところでされてるようなのだが、アメリカに全く同じWomen’s Action Networkという名前のフェミニスト団体があり、そのミッションステートメントが日本のWANに非常に似ている。
国際的な組織で160カ国に支部をもち35000人のメンバーを持つと誇るWomen’s Action Network (WAN)というフェミニストグループも存在する。
同じ名前で、同じような目的の国際組織が存在していることは確かである。全く無関係な組織であるというなら、同じ名前はただの偶然かもしれないし、もしかして日本の組織は国際組織のファンなのかもしれない。ま、部外者の私にはそこまでは解らない。

「一般の人にわかりやすい言葉で話して下さい」と言われる経験は、私たちフェミニストには日常茶飯事だ。そう言われるたびに私はその言葉に憤りを感じ、口をつぐむ。時には相手に噛み付くこともあるけれど、そこまでして相手に分かってほしいと思っているかというとそうでもない。何が頭に来るのかと言ったら、それはフェミニズムに「わかりやすさ」を求め、「わかりやすくないなら私はそれに賛同しないぞ」と、言外にほのめかす態度なのだと思う。そしてまた、自分がわからないということを「一般の人」という安易なカテゴリーを使って、あたかもかれらを代弁しているかのような振る舞いで当然のように開き直っている様子も、苦手だ。「一般の人」とはいったい、誰のことを言っているのだろう。

偶然というほどでもないが、隠フェミニスト記でこのイベントに関する紹介があり、ビデオのほうもちらっと見ていたが、途中でつまらなくなって観るのを止めてしまった。内容があまりにも内輪のじゃれ合いという感じがしたし、第一、彼女たちの使う語彙の中に、私の知らない言葉がぽんぽん飛び出して来て、私にはこのおなごせんせ達が何をいってるのかさっぱり解らなかったからだ。
それで私は「どうしてこう左翼エリートは一般人に理解できない言葉使いをするのかなあ。」と思っている矢先にこの批判を読んだので笑ってしまったのだ。
普通一般の人が「一般の人にも解るように話してください」というのは、「専門家ではない私みたいな者でも解るように話してください。」という意味であり、別に自分が不特定多数の一般人を代表するという意味で言ってるわけではないだろう。
これはフェミニストに限った事ではないのだが、左翼エリートは「一般人」が使わない言葉を使って聞く方をたぶらかす傾向がある。やたらに意味のないカタカナ英語を並び立て、聞いてる方が理解できなかったり誤解したりすると、あたかも自分らは頭がいいんですよ〜、わかんないあんたが馬鹿なのよ〜、という態度を取る。ミスター苺に言わせると、相手に理解出来るように話せないのは自分が解ってない証拠なんだそうだ。私から言わせたら相手をわざと煙に巻くのが目的なんだと思うが。
その点マサキはかなり正直だなという気がした。(強調はカカシ)

  私が常日頃からこういうことを言われるのは、私にとってフェミニズムとクィア理論が密接に結びついているからかもしれない。(略)その両方をきちんと分けられない私にとって、「一般の女性」や「一般の人」という言葉はほとんど意味を持たない。なぜならそういう言葉が発せられるとき、ほとんどの場合、異性愛の、貧困ではない、障害のない、人種・民族的にマジョリティの、先進国の人を指しているからだ。(略)マジョリティを「一般」というレトリックで欺瞞的に表現するその態度こそ、私が批判したいと常日頃思っているようなイデオロギーだ。
 フェミニズムは、あるいは、私が信じ、惹かれているタイプのフェミニズムは、「一般」に迎合したりしない。これまでも私の尊敬するフェミニストたちは、一般を挑発するような言葉を作り出したり、反感を買いやすい主張やパフォーマンスをしたり、そして案の定強い反発を受けて来た。(略)
 もちろん世の中を変えようというときに、特に社会政策を変えようというときには、多くの人の賛同を得る必要がある。しかしフェミニズムが容易に「一般」に受け入れられるとき、それは必ずしもフェミニズムの思想の発展や広がり、普及を意味するとは限らない。「一般」受けする思想には、常に危険が伴う。それはジュディス・バトラーがお茶の水女子大学に講演にやって来たときに、彼女の文章は難解でエリート主義に陥っているのではないかという質問に対する返答として、抵抗なしに受け入れられる言説はつまり現状既に社会に織り込み済みの言説であって、それでは理解可能性の領域の拡大を狙うことはできないと言っていたこととも共鳴する。(略)
そもそも「一般的」とされるような現存の言語を用いて語ることは、正にその言語が同性愛嫌悪的でトランス嫌悪的で女性蔑視的であるときに、ほとんど不可能なのである。その点において私は既にある程度語る言葉を制限されているのであり、更にそれを「一般向け」に翻訳せよというのは、二重の暴力を行使することを意味する。
 過去十数年のあいだクィア運動の中で培われて来た言語、更に言えば過去1世紀(あるいはそれ以上)のあいだフェミニストたちやゲイ・レズビアン運動の担い手が紡ぎだして来た言語、黒人解放運動や障害者運動がなんとかして、あらゆる言葉をつなぎ合わせ、作り出し、また本来の意味から引き剥がし自らの言葉に変えて来た言語。それらは、私たちが日常を生き延びるために、私たち自身の人生をよりよく理解し、よりよいものにするために、日々の実践の中から生み出された言語である。私は、あらゆる理論はそのように作り出されたと思うし、またそうではない理論には魅力を感じない。わかりにくいフェミニズムこそ、私の理解可能性の領域を広げてくれるし、社会の変化への希望を感じさせられる。

私はいつもどうしてフェミニズムの話になると、ゲイやレズビアンといった同性愛嗜好がくっついてくるのか不思議でしょうがないのだが、このマサキチトセなる人も、実を言うと女性ではない。彼の自己紹介を読んでも、何がいいたいのか解りにくい。

マサキチトセといいます。自分のことは a homosexual asian male butch from California, New Zealand and Japan (カリフォルニア・ニュージーランド・日本からきた同性愛・アジア系・男性のブッチ) と表現しています。現在は群馬県の館林市に住んでいて、近所の塾講師・ジェンダー/セクシュアリティ系の研究所のスタッフ兼翻訳者・文化系ウェブサイトの管理をやっています。

ブッチというのは男っぽい女性のことを意味するので、レズビアンの男役にも相当するが、実際に男性に生まれた人がブッチというのはおかしいし、彼のように女装趣味の男性では、まるで意味が正反対である。ま、あえて一般人に通じない言葉で自分を表現したいというのだから、彼のサイトはその目的を果たしていると言える。一般人のカカシにはまるで彼の言ってる事が理解出来ないもの。
ま、それは別にいいのだ。
彼/彼女らが一般人の理解を求めていないというならそれはそれでかまわない。でもだとしたら、我々一般人の生活習慣や文化を変えるようなことは止めてもらいたい。自分らの内輪だけで細々とクィアー(風変わりな)生き方を楽しめばいいのだ。
ところが、それがジェンダーフリーとかいって子供達の教育に悪影響を及ぼそうとしたり、同性結婚を押し付けようとしたり、既存の言葉の定義を勝手に書き換えて、元の意味で使う人々を差別者扱いしたりする、といった傲慢な態度になるからバックラッシュなんていうふうに一般人からの反感を買うのである。
少数派は多数派に迎合する必要はない。そういう生き方をしたけりゃ自由な国に住んで要る以上どうぞご勝手にと思う。だが、一般人に理解できない言葉使いを主張したいなら、フェミニズムが日本社会で理解を得られなかったとしても文句は言えない。彼らが主張する特権を得られないからと言って癇癪を起こさないでほしい。


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本当は同性結婚じゃないんだよね、同性愛活動家の真の目的

今週は同性愛者の公な軍隊勤務と同性結婚について左翼の矛盾をミスター苺が書いたMartial Arts and Marital Dartsを元に考えている。
本日はその最終回。
本当は、ゲイ活動家にとって、軍隊勤務の同性愛者をクロゼットに押し込んでおいたほうが都合がいい。それは自分に弱みのある人間のほうが左翼の社会主義を頼る可能性が高いからだ。自分に自信のない弱い立場にある人間ほど政府とか市民団体とかを頼りにする人はいない。
それに、もともと左翼連中は軍隊が嫌いだ。実際に軍隊に勤めたいゲイなんか奴らは大嫌いなのだ。何故かと言えば軍人になりたい同性愛者なんて多数派に迎合した裏切り者にすぎないと解釈されるからで、左翼フェミニストたちが軍隊に勤める女性達の戦闘員としての地位向上などに何の興味も示さないのと全く同じ理屈だ。
主流ゲイ団体にとって、ゲイがオープンに軍隊勤務出来るようにするなんて事は時間の無駄なのだ。それは主流フェミニスト団体が女性を戦闘員として昇格させることと同じくらい意味がないことなのだ。結論からいえば左翼は常に、個人の力を強めることよりも団体としての権力を増強させることにしか興味がない。
左翼市民団体は特定の問題に関する特定の解決方法を求めない。彼らが望むのは社会が彼らの望む不思議な形に変革することにある。彼らは既存の社会を根本的に破壊しスターチャイルドもどきの新人類を作ることを望む。言ってみればマルクス主義者が呼ぶところの「新ソビエトマン」の作成である。
彼らはまた大変革主義者でもある。彼らにとって宇宙規模の変革のみが彼らの目的を達成できると信じている。だから、部分的な問題解決は前進とは見なさない、それどころか後退と考える。部分的成功は組織への圧力を弱め、組織を破壊せず生存の可能性を強める。それこそ変革者たちの求めることと正反対なのだ。
だから、ヒステリックになって同性結婚を支持し、混み合う交差点で座り込みして『抗議』したり、商店のショーウインドーを割ったりして、計らずもクリスタルナクト(Kristallnacht)の真似をして、第8法案(Proposition 8:一夫一婦制のみが合憲とする法律) に投票した市民を同性愛恐怖症の差別者だと唾飛ばしながら叫ぶ奴らが、なんでゲイの軍隊勤務には沈黙なのか、どうして同性結婚は特別なのかといえば、同性結婚は大変革という目的に役立つが、軍隊勤務は役立たないからだ。
同性結婚は個々の力を強めない。なぜなら個々の家族にとって同棲を結婚と呼ぶかどうかなど大した意味はない。利益はすべてゲイ団体に行く。ゲイ団体の権力が強まるだけだ。
これはアメリカ社会は絶望的に差別主義だという、左翼得意の攻撃にぴったりあてはまる。この問題では右と左、共和党と民主党のあいだで完全な境界線がみられる。保守派は伝統的な結婚を支持し、リベラルは同棲結婚を支持する。だから同棲結婚を合法化すれば、特に法廷によって強制させるということは、右翼の犠牲のもとに左翼に多大なる利益を与えることになる。同性結婚を強制させることによって、西洋道徳の真髄である伝統的結婚は根本的な変革を遂げる。そしてこれが実現すれば、ユダヤ・キリスト宗教及びすべてのアメリカ伝統が底からひっくり返るということは、右も左も認めることである。左翼はまさにそれを求めているのであり、保守派はそれを防ごうとしているのだ。
もし人々が伝統的な宗教の自由が、同性愛を認めない自分らの協会や寺院で自由な宗教活動を守ってくれると思うなら甘い。ゲイ活動家がいくら、ゲイ結婚のライフスタイルを一般市民には強制しないなどと保証してみても、そのうち我々は、同性愛をみとめない我々の協会や寺院で、同性カップルの結婚式に参加させられ、一緒に写真をとられ、祝福を強制される。そしてこれらの「夫婦」が一般の夫婦と同じように養子をとることも認めさせられる。我々がそれを好むと好まざるとに関わらず、それは起きる。協会や寺院がそれに反発すれば左翼得意の訴訟が待っている。
だからゲイ活動家らとの妥協などあり得ない。保守派連中でゲイ活動家と妥協できると思ってるお人好しは、すぐにこれが常に左翼が勝つように出来てるトリックだということに気がつくはずだ。
左翼連中がどれだけ否定しようとも、一旦市民には結婚を規制する権利がないという前提をつくってしまえば、結婚は二人という単位でなければならないという規制をとっぱらうのは容易である。そうやって奴らは、二人以上の複数の結婚への道への地盤を敷こうとしているのだ。
「愛し合っているから」という理由で二人の男性が結婚できるというなら、愛し合っている三人の男性が結婚できないという理屈がどうして成り立つのだ?いや、それをいうなら二人の女性と二人の男性は何故いけないのだ?
コーランが奨励する、ひとりの男と四人の女では何故いけないのだ? これによってまたまたイスラム教のシャリア法の一部が我々の社会に注入されることになる。
「結婚」がなんでもありなら、結果的にはなんにもないのと同じだということに人々はそのうちに気がつくだろう。そうなれば、すでにヨーロッパ諸国で起きているように, 結婚しようという人々の数は極端に減り、少子化がどんどん進む。
もちろん、イスラム移民は産児制限などしないから、こうやってすでに人口でヨーロッパ諸国を乗っ取ろうとしているイスラム教がアメリカをも乗っ取る事が可能となる。
同性結婚は伝統的な結婚に向けられた毒矢である。同性結婚の目的はゲイの結婚を認めることではない。同性結婚の結末はアメリカをシャリア法に友好的な国に変貌させ、一夫多妻性を奨励する国となることである。
破壊への道は明確だ。にもかかわらず俺たちはその道をすでに歩き始めている。同性結婚を認めるということは、西洋文化の価値観を捨てるということだ。同性結婚を許すとういうことは、俺たちが文明人として集団自殺をすることなのだ。
西洋の文明が滅びて栄えるのは野蛮人だけだ。


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だから、なんで同性結婚がそんなに大切なんだよ?

今週は同性愛者の公な軍隊勤務と同性結婚について左翼の矛盾をミスター苺が書いたMartial Arts and Marital Dartsを元に考えている。
本日はその第五話。
さて、同性結婚はプライバシーの問題なのではないか、という議論を考えてみよう。
この議論はドウ考えてもおかしい。社会に同性結婚を認めよという要請がなんでプライバシーってことになるんだ?
まったく。
これに比べてソドミー法は、典型的なプライバシー侵害だった。同意した大人同士が閉ざされた扉の向こうでなにをしようと誰に迷惑がかかるというのだ?
だからなんで同性結婚なんだよ?
さて、いい加減に俺が最初に答えがあるといった「何故」という質問に答えよう。
どうして同性愛活動家たちは、簡単に国民を説得できるゲイの軍隊勤務合法化よりも、国民の多数派が反対している同性結婚に力を入れるのか?
敵の支配こそ権力の増強となる
俺が思うに、ゲイ活動家はオープンに軍隊に勤務したいなんて思っちゃいない。何故ならゲイが本当の意味でアメリカ社会に溶け込むことなんて望んじゃいないからだ。同性愛共同体のthe Gay and Lesbian Alliance Against Discrimination (GLAAD)とか、エイズ活動の the AIDS Coalition to Unleash Power (ACT-UP)だの、the Lamda Legal Defense やEducation Fund、そしてEquality Californiaなんていう市民団体の権力は、個人で闘う力を得た主流なゲイなんかから来るのではないく、臆病で依存症で孤立した弱い人々の唯一つの希望として頼られることによって力を得るのだ。
「革新的」と言われるthe ACLU, People for the American Way, Democracy Alliance, そしてムーブオン(MoveOn.org)なんていう市民団体はリベラルを力づけるなんてことは絶対にしたくないのだ。何故なら力ある個人はこんな市民団体なんか必要としないからだ。左翼の市民団体のスローガンは常に「君たちは弱者であり無力だ。だから我々に頼るしかないのだ。我々に金を払え、君らのために闘って上げよう」組合が弱く無力な労働者の代表を気取るのと全く同なのだ。
ゲイ活動家も全く同じだ。彼らは常にことを個人の力と全体とのゼロサムゲームだと考える。活動家が個人と全体のどちらの味方かは明らかだろう。
主流な同性愛者に左翼は興味がない。フェミニスト各団体や環境団体と同じように、ゲイ活動家も左翼が最優先、ゲイであることなど二の次なのである。


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