カリフォルニア最高裁、同性結婚禁止法は違憲と判決

今年の3月8日のエントリーで、カリフォルニア最高裁で同性結婚を禁止する州法が合憲かどうか審議されているという話を紹介したが、本日この法律は違憲であるという判決が下った
この判決は2000年に通った州法22条を覆すものだが、この州法とは、すでに1978年に取り決められた結婚は一夫一婦制という言葉をさらに強調するべく「カリフォルニアにおいては一夫一婦の間でのみ結婚が正式に認められる」というもので、61%の圧倒的な州民の支持で通過していた。
民主党が独占するカリフォルニア州議会において、この法律を覆す議案が二回通っているが、知事のシュワちゃんは二回とも拒否権を使って拒絶してきた。その理由は「州民に意志を尊重する」というものだった。ところが、これを最高裁が違憲としたということは、法廷が州民の意志をふみにじったことになる。
この判決には二つの問題がある。ひとつは言わずと知れた同性結婚の合法化による弊害だが、もうひとつは法廷による独裁だ。
同性結婚の弊害については前に同性結婚は文明社会を破壊するで書いているが、一つの州で結婚が認められれば、別の州でも認めざる負えなくなるのでこれはカリフォルニア州の問題だけでは済まされない。
また法廷が気に入らない法律をきちんとした理由もなく違憲としてしまう弊害はこのことだけでは収まらない。アメリカは三権分立を基本としており、法廷に立法権はないはずだ。それが州民の意志を無視して法廷が強引に特定の法律をおしつける行為は非常に問題だ。
では、カリフォルニア州民はこのまま意に反した同性結婚をみとめざるおえないのかというとそうではない。州民には州憲法改正という最後の手段がある。
すでに保守派や宗教グループが協力して憲法改正案を11月の選挙時の項目に入れる運動が起きている。州務長官は6月の終わりまでに選挙項目に入れるだけの署名が集まったかどうか判断を下すことになっている。すでにこのような州憲法改正法は26の州で通過している。これによって憲法が改正されれば、今回の法廷判決は無効となる。
この判決は実は英語で言うところの「偽装した祝福」というものだという見方もある。つまり、11月の一般選挙を前にして保守派が政治に関心を持つ大事な問題が持ち上がったとなると、リベラルが多いカリフォルニアでは普段はあまり元気のない保守派層が何が何でも憲法改正案を通させようと投票に現れるからである。せっかく投票にいったのだから、地元の共和議員にも票を入れておこうということになり、保守派議員には有利な結果が生まれる可能性がある。
また、大統領の大事な役割に裁判官の任命があるが、もし次の大統領が民主党から出れば、連邦政府の裁判官は必ずはリベラルが任命される。特に最高裁ではすでに高齢の二人がおり、次大統領が新しい最高裁判官を二人任命しなければならないことは確実だ。裁判官がリベラルであれば、今回のカリフォルニアの同性結婚のように法廷からリベラルな方針が国民に強制される可能性大である。
全国の保守派がカリフォルニアを見て、次期大統領は絶対に民主党に渡してはならないと考えて、マケインはバリバリの保守派ではないと支持に消極的だった有権者もオバマよりはよっぽどましと気がついてくれるかもしれない。
リベラルの性質はおごりの行き過ぎ。今回はカリフォルニア法廷はリベラルに権限を渡せばどういうことになるかを顕著に表す例であった。そしてこれは保守派の取るべき道をはっきりさせたものと言えるだろう。


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「性転換」手術後に妊娠した女性を「男性」扱いするな!

ここ数日「男性が妊娠した、奇跡だ」という話題が持ち上がって大騒ぎになっていたので、いったい何のことなんだろうと不思議に思っていたら、何のことはない、性器整形手術とホルモン治療で外見が男に見えるようになったというだけの、生物学的には女性が妊娠したという話。奇跡でもなんでもないではないか。

【4月5日 AFP】トーマス・ビーティー(Thomas Beatie)さんは、女性として生まれた後、性転換手術を受けて法的に男性となったが、現在妊娠中。雑誌で妊娠が告白されるや性同一性障害者の権利をめぐり、米国で議論が白熱している。

 ビーティーさんは、胸部の整形手術を行い、男性ホルモン療法を受けながらも、女性生殖器を残すことを決心していたという。性転換後に結婚した妻が子宮を摘出したため、人工授精で自分が妊娠することにしたという経緯を公表して以来、数々の雑誌が「彼」を取材した。
 人気のテレビ司会者オプラ・ウィンフリー(Oprah Winfrey)のトーク番組にも出演した。うっすらとあご髭を生やしたビーティーさんは、子供をもうけたいと思うのは性を超えた人としての欲求であり、当然自分にも血のつながった子供をもうける権利があると訴えた。
 ビーティーさんの妊娠は、前月米国のゲイ雑誌「Advocate」に投稿した「愛の労苦(Labor of Love)」と題するエッセイのなかで告白された。

このLaborという言葉はだじゃれで、Laborには「労苦」という意味と「出産」という意味があるのでそれを掛けているのだ。ま、そんなことはどうでもいい。私は性器整形をしただけで生物学的に全くなんの変化も遂げていない女性を「男性」と呼ぶのには非常な抵抗がある。見かけがどうあれ、彼女はいまでも女性なのだ。しかも、子供を生むという女性として最高の役割をあきらめていない人が自分を男だなど呼ぶのは矛盾も甚だしい。
男女双方の性器及び染色体を持って生まれたいわゆる両性体質の人が、幼い頃に医者が便宜上選んだ性別にどうしても馴染めず反対の性別を選ぶという例はあってもおかしくないと思う。こういう体質の場合はホルモンの関係もあって見かけと中身が一致しないことはあるからである。
しかし、生物学的に何の異常もなく、はっきりとした性を持って生まれた人間が、大人になって「自分は常に異性であると感じていたので整形手術をして異性に見えるようになりたい」と言うのはどうもいただけない。
それでもまだ、自分は異性ではなく同性に愛情を感じるというのであれば、自分は間違った性で生まれてきたのだと感じたとしても、まあわからなくはない。
だが、私に分からないのは、普通の性を持つ異性愛者として生まれ、異性に対する欲望は全くかわっていないのに自分は異性であると主張する人である。手術後にも女性としての妊娠機能を保ちたいと思っているひともそうだが、手術後も元の性の特質をそのまま保っておきたいと考えるなら、なぜ「性転換」手術などする必要があるのだろうか。
よく、ジェンダーフリーを売り物にする人たちはジェンダーは持って生まれた性に捕われないものだと主張する。もしそれが本当なら、「性転換」という概念自体が成り立たない。つまり、持って生まれた性と自分のジェンダーのアイデンティティーが矛盾してもよいというのであれば、生物学的には女性でも自分は男性だと主張するのは個人の勝手だが、特に男性に見えるような手術をしたり戸籍を男性に変えたりして周りの人間に無理矢理自分は男だと認めさせる必要はないはずである。しかも女性として子供を生むという機能を保ちたいならばなおさらだ。
私は男性から女性への「性転換手術」を行った人物が女性のマウンテンバイクトーナメントに参加したカナダの例をテレビのドキュメンタリーでみたことがある。この人物の私生活は常に野外でするスポーツに始終しており、特に女性らしい生活をしているとはいいがたい。しかもデートする相手は特に男女どちらとは特定していないというのである。だとしたらどうしてこの人が「女性」に「性転換」などする必要があったのだろうか?(レースに勝つための性転換だったとしたらこんな人間を参加させるカナダのスポーツ業界にも問題がある。)
また女性として生まれながら乳ガンでお乳を失ったのをきっかけに男性ホルモン治療を受けながら、男性に魅力を感じるとして男性とつきあっている「元女性」の例も読んだことがある。どうしてこの人は単に男っぽい女性として好きな男性とつきあう普通の生活を望まないのであろうか?女性でもいくらでも男性顔負けの運動神経の人は存在するし、男性が多い学問でも才能を見せる女性はいくらでもいる。(ちゃんと縦列駐車できる女性もいるし、、)それなのになぜあえて男性の同性愛者という異常な生き方を選んだのであろうか?
男女双方の性の特性を両方持って生きたいのであれば、元々持って生まれたジェンダーをそのままにしておいても何の差し支えもないはず。それをわざわざ整形手術で見かけを変えたいというなら、これは美容整形の域を出ない。そんな安易がファッション感覚で「性転換」手術を受けるなど、あまりにも無責任すぎはしないか?
私はこれらの問題は現在の医学会に大きな責任があると考える。いくら最新の整形技術のおかげで、見かけだけはなんとなく異性に見えないこともないという手術が可能だとしても、可能だからやってもいいという理屈は道徳に反すると思う。自分が特定の性に生まれながら異性であると信じ込むひとたちに必要なのは性器整形ではなく精神治療のはずである。
これもテレビのドキュメンタリーでみたのだが、男性として生まれ異性愛者として妻子もある人が、女性になりたいという幻想を拭え切れないので精神科のお医者さんに診てもらったところ、このヤブ医者は彼に性転換をすすめたというひどい例があった。男性は医者に説得され妻子を捨てて性転換手術を受けてしまったのである。捨てられた妻は医者を夫を洗脳したとして訴えていたがその訴訟がどうなったのかその後のことは私は知らない。
性器整形は鼻を高くしたり目をぱっちりさせるような美容整形とは訳が違うのだ。妻子を持ち自らも異性愛者と認めている男性に性転換をすすめるなど医者としてあるまじき行為である。この男性は明らかに精神異常を煩っておるのであり、いかにして男性として生きることが正しい行為であるか理解させるのが医者としての義務である。それを怠って安易に「性転換手術」を治療として施すなど医者の風上にもおけない人物だ。訴えられて当然だろう。
私は原則として「性転換」という名前の性器整形手術には反対だ。整形して見かけを異性に変えることを考えるまえに、自分の個としての自我の確率に力をいれるべきだ。男として女として生きるということは、見かけだけで決まるのではないのだから。


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人権擁護法絶対反対! 市民の判断よりお上の判断を信じる推進者たち

社会でおきる差別行為は差別をする法律さえ取り除いてしまえば、後は自由市場が解決してくれる、また人権を迫害するような言動も個人から構成される社会の道徳的な判断によって制裁される、というのがカカシの主題だ。だが、自由市場に任せておいては完璧な解決は望めない、もしくは能率的で早急な解決は無理だと主張する人々が後を絶たない。
人権擁護法推進者や男女共同参画やジェンダーフリーを唱える人々がその部類だが、彼等に共通しているのは、自由市場や個々の市民の判断で解決できない問題が、なぜか法律を通すことによって解決出来ると考えている点だ。例の左翼変態フェミニストや当ブログに宛てられたあるコメンターの意見などはその典型的な例である。私の他人を侮辱するような行為や人道的に正しくない行為は法律で罰するのではなく、社会が制裁すべきだという意見に対してこのコメンターはこう述べた。

カカシさん、あなたは道徳に反する行為に対して社会的制裁を加えることを肯定しています。個々の判断で制裁を加えることは、私刑(リンチ)につながりかねません。

だが人権擁護法によって市民が罰せられる可能性についてはこのように述べている。

悪意で人を傷つける言動が言論の自由で守られると思って、平気で侮辱をするような恐ろしい人のいない、住みよい国なるでしょうね。

なぜ個人の判断は信用できないが政治家や裁判官の判断は信用できるのかという問いに対しては、

立法は議員により、その議員は我々の代表です。選挙で選べるし、意見を述べ、法を改廃することも可能です。民主主義の基本です。

民主主義の基本は「民」である。個々の民の判断力を全く信用しないで、お役人の判断だけを信用するなどという考えが民主主義などであるものか。こういうのを社会主義というのだ。
私に理解できないのは、こういう主張をする人々は、どうして政府が人々の行動に介入することのほうが、個々の市民が個人的な判断を下す行為よりも、より人道的で能率的な結果を生むと確信できるのかということなのだ。
このコメンターは悪意で他人の気持ちを傷つけた人間が国によって罰せられた例として、初対面の女性を「デブ」と侮辱して訴えられ禁固刑になった男性の話をあげている。他人をデブといって相手の気持ちを傷つける行為が違法なら、会う度にカカシをデブといって侮辱する我が母など終身刑の罰を受けることになってしまう。
本来見ず知らずの女性に「デブ」などといって侮辱するようなけしからん男は、周りの人々から白い目で見られ軽蔑され、他の女性たちからも全く相手にされないというような社会的制裁を受ければ十分なはず。この礼儀知らずは社会の道徳観が裁けばよいのであって、法律で罰する必要などない。
だが、人権擁護法が成立すれば、このような事件は日常茶飯事に起きることだろう。なぜなら推進者たちは人々の気持ちは政府が守ってあげる義務がある、、いや政府だけが守る権限があると考えているからだ。不道徳な行為や失礼な行為を細いことまで違法として政府が罰するような世の中は、他人を『平気で侮辱をするような恐ろしい人のいない、住みよい国』になるどころか、盗みや凶暴な犯罪が頻発する心の荒んだ粗雑な世の中と化すのである。
何度も言うように合法であるということと道徳的に正しい行為であるということとは別だ。他人を傷つけるような失礼なことを言わない、というのは親からしつけられた礼儀作法というものだろう。だがそれを法律で取り締まってしまうと個人はそのような行為は道徳的に失礼だと判断する能力を失ってしまう。「違法だからしない行為」はいずれ、「つかまりさえしなければやってもいい行為」という解釈になる。法律が誰にでも均等に適用されるというならまだしも、人々の言動に関してこのような多大なる権限を与えられた役人がその権限を悪用しはじめ、相手次第で適用が不公平になってくればなおさらである。
いくら選挙で選ばれたとはいえ、立法に関わる政治家とはどういう種類の人間たちなのだ? 政治家など自分の政治的権力を常に増幅させたいと望んでいる野心家の集まりではないか。そういう人々が差別をされている少数民族やか弱い女性の救済を道徳心だけで行うとは信じがたい。これらの政治家が表向きや建前はともかく、どれほどきれいごとを言ってみても、彼等が押し進める政策は彼等にとって個人的な利益となることに違いないのだ。となれば、この政治家の野心を利用していくらでもあくどい団体や企業が政治家に取り入って自分の都合のいいような政策をつくってもらうことが可能となる。
このことはお隣の中国を見ていれば歴然としているではないか。政府が人々から信仰をとりあげ、人々による個々の道徳的判断を取り上げた結果、中国人は釘で打ち付けてないものはなんでも盗むと悪評が高い。衛生管理だの安全管理をする役人は腐敗しきっているから、工業廃水は垂れながし、品質管理はずさん、あげくの果てに猛毒殺虫剤を含んだ冷凍餃子や汚染された増血剤や偽グリセリンのまざった歯磨きなどが外国に輸出され、何百人という外国人を殺すはめになる。
日本でも腐敗した政治家の贈賄事件だの、市役所の役人が国民の税金や年金を長年に渡って横領していた事件などいくらでもあるではないか。そのような人間に我々の崇高な人権擁護を全面的に任せて彼等がその権力を悪用しないと推進者たちは本気で考えているのだろうか?
いや、私は前述のコメンターにしろ左翼変態フェミニストにしろ、彼等がそれほどナイーブで愚かだとは思わない。それどころか彼等は政府にそのような絶対的な権限を与えることが、個々の市民の権利を極端に迫害し自由社会を破壊する結果を生むことを十分に承知しているのである。あえていわせてもらうならば、人権擁護法推進者の本当の目的は人権擁護でも弱者救済でもなく政府による市民の完全統制、つまり、共産主義やファシズムのような社会主義の確立なのである。少数民族はその道具として使われているに過ぎない。
我々市民は人権擁護などという上辺だけのきれいごとに騙されてはならない。断じて政府にそのような権限を与えてはならない。個人の行いは個人が責任を持つ社会、それこそが文明社会の基盤である。


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同性結婚は文明社会を破壊する

先日、私は同性結婚には反対するというエントリーを書いたが、それについて読者の方からいくつかご意見をいただいたので、そのなかから重要な点を言及してみたい。
異人種弾圧のための結婚規制
一時期禁止されていた異人種同士の結婚も見直されたのだから、同性同士の結婚も見直されてもいいのではないですか?異人種結婚を認めるにあたっても、反対派からはそんなことをしたら他の形の結婚も認めざる終えなくなるという意見が聞かれましたが、そのようなことにはならなかったじゃないですか?
アメリカで異人種間の結婚が禁止されていた理由は、異人種への偏見というよりも、少数民族のアメリカにおける社会的な地位の維持が目的だった。多くの人が黒人は白人に劣ると考えていたことは事実だが、黒人と白人の夫婦が白人同士の夫婦とそれほど変わりがあると思われていたわけではない。
異人種同士の結婚を禁止するという制度はヨーロッパでもアメリカでも決して伝統的なものではない。それどころか、アメリカでは奴隷制度をまだ布いていた南部で白人男性による黒人女性との結婚が相次ぎ、混血児が一般の白人社会に入り込むことが日常茶飯事に起きていた。社会的地位が低い少数民族との結婚による混血の存在は、その少数民族の地位があいまいになってしまい、奴隷制度の崩壊にもつながる。異人種の低い地位を維持するためには混血児の存在は非常に問題だ。困った白人社会が悩んだ末の苦肉の策が白人と黒人の結婚禁止だったわけだ。そのほかにも地元インディアンとの結婚や中国人移民との結婚を禁止する法律などが多くの州で通されたが、これもすでにそういう結婚をする人が後を絶たなかったため、法律を通すことでそうした行為を阻止する必要があったのである。
南北戦争が終わり奴隷制度が廃止されると共に、異人種間結婚禁止法はすぐに見直された。1967年のラビング対バージニア(Loving v. Virginia)訴訟で違反するとされた憲法は南北戦争直後の1868年に通った憲法修正第14条なのである。
奴隷制度が廃止された19世紀の終わりごろから異人種間結婚禁止法を全国的に廃止しようという議案は議会で何度も提案されていた。しかしアメリカは連邦制度をとっているため、それぞれの州によって結婚の法律もまちまちであり異人種への姿勢も異なることから、全国的に均一な廃止は出来ないでいた。
南部での禁止法廃止が1960年代までかかったのは、南北戦争後も根強い人種差別意識が残っていたせいだが、1960年代の人権運動と共に、そうした人種差別法が次々と廃止されるにしたがって、異人種間結婚禁止も見直されたのである。つまり、異人種間結婚禁止令というのはもともと少数民族を弾圧するための政治的な法律であり、結婚制度への挑戦ではなかったのである。
男女の違いは明白
異人種間結婚の禁止が人種差別を強制しておきたい権力者によって作られたせいぜい2~3百年程度の歴史しかない新しい制度であったのに対し、一夫一婦制はアメリカ市民、いや文明社会では少なくとも2000年以上の太古の昔から圧倒的多数の市民によって受け入れられ支持されてきた制度である。
いにしえの昔から、どこの社会でも異人種への差別や偏見を批判する意見は聞くことができた。これはどこの世界でも人種が違うからといって人間としてそれほど差があるわけではないという考えがあったからだ。しかし世界ひろしといえども、男と女に差がないという意見を述べるひとなどいない。
生物学的に見て、男は黒人であろうと白人であろうと黄色人種であろうと男であることに変わりはない。多少肌の色や顔つきが違うという以外は人種が違うからという理由で女に子供を生ませて一緒に家庭を築くという意味ではなんの弊害もない。
だが、男と女では生物学的に全く違う。顔立ちや肌の色などという表面的な違いではなく、肉体の構造もその機能もまるで別物だ。はっきり言って男に子供を生むことはできないし、女はほかの女に子供を生ませることはできないのだ。つまり、子供を生んで育てるという種の存続を考えた場合、男女の結婚は異人種であろうと同人種であろうと全く違いはないが、同性同士の結婚では不可能なことである。
結婚は公の行為である。
同性結婚を認めたからといって異性結婚にどういう影響があるというのですか?結婚がどういう形であるか、どのような意味のものとするかはそれぞれの個人もしくは家族に任されるべきではないのか?常に個人の判断が政府の判断よりも重要視されるべきだと主張しているカカシさんが、いったいいつから規制が好きな大きな政府主義になったんですか?
ここでひとつ私ははっきりさせておきたいことがある。私は別に同性愛行為そのものが不道徳であるとは考えていないし、違法であるべきだなどとも考えていない。お互い納得した大人同士が相手を永久的に傷つけるような行為さえしていなければ、閉ざされた扉の向こうでなにをしようと私には一向にかまわない。であるから同性愛者同士が一緒に住むことも全く問題ないと考える。
同性愛者同士の同棲はかまわないのに、どうして結婚はいけないのか。それは同性愛行為も同棲も個人がプライベートにすることであり、社会制度の変更を必要としないからである。
それに比べて結婚とは公(おおやけ)の場で社会の承認と祝福を求める非常に公な行為である。必然的にその社会が結婚はこうあるべきだという規則に従わないものを結婚と呼ぶことは出来なくなる。それを無理やり社会に押し付ければ、社会は結婚そのものを拒絶するようになる。
結婚は特権である。
とはいえ、読者の皆さんは、「どうしてベティとマリーが結婚したら、苺畑夫婦の結婚が意味のないものになるんですか?」という疑問を抱かれるかもしれない。確かにベティとマリーの結婚はカカシとミスター苺の関係を変えるわけではない。個人的に我々の結婚に特定の悪影響を与えるというわけでもないだろう。では何が問題なのか?それは、結婚を誰にでも同じように与えられた権利ではなく、特別な条件を満たした人のみに社会が与える特権だと考えれば解りやすい。
昔私の職場の近くに高給なスポーツクラブがあった。ここは会員費が高いだけでなく、会員になれる資格が非常に厳しく、年収がいくら以上でなければならないとか、他の会員からの紹介がなければならないとか色々うるさかった。よってここの会員であるということが一種のステータスシンボルとなった。ところが会費の安いスポーツクラブがあちこちに出来、このクラブは経営不振に陥った。そこで困ったクラブは会員の資格をうるさく言わなくなった。そうなるとこのクラブの会員であることの意味が全く変わってしまった。別にクラブの施設やサービスが変わったわけではない。個人的にそれまでのメンバーにこれといった悪影響が出たというわけでもない。だが、このクラブの会員であるという特別なステータスシンボルとしての意味合いは完全に消えてしまったのである。そんなクラブに高い会費を出してまで入っている意味はないので、メンバーは続々と辞めてしまい、結局そのクラブはつぶれてしまった。
結婚とはこの特別なクラブの会員になるようなもので、特別な条件を満たしたものだけに与えられる特権なのである。自分は特別だと思って入会したのに、条件をきちんと満たしていない人たちまで無差別に入会させるというなら自分らが入会している意味がない。自然とこのクラブの存在価値そのものが消失してしまうわけだ。となれば、こんなクラブに新しい会員を募るのは難しくなるだろう。
同性結婚は結婚制度を破壊する
同性結婚を認めることは種の存続をも脅かすこととなる。これは決して同性結婚を容認したら、異性愛者が突然同性結婚に走るという意味ではない。以前にも書いたように結婚というものが特権でなくなれば、とりたてて結婚をしなければならない意味が失せるため結婚をする人が減り、必然的に子供を生み育てるひとが減るという意味である。
これは単なる卓上の空論ではない。すでに結婚とはいかないまでも、同性愛者のカップルを法的に認める法律の存在するヨーロッパ各地で、最近結婚する人の数がとみに減っているというのは事実なのだ。
ウィークリースタンダードに掲載されたスタンリー・カーツのエッセイによれば、同性愛カップルを法的に認めたスカンジナビア諸国では結婚せずに子供を生むひとが増えているという。もう10年以上も前に同性結婚を認めたスエーデンやノルウェーでは生まれてくる子供の60%の親が未婚だという。
同性結婚によって、結婚と子育てという習慣が壊されてしまったことと、どのような形の家庭も受け入れられるという考えができ、子供を生むのに結婚している必要はないという理屈になったのだろう。同性結婚という異質な結婚による家庭が許容されるなら、未婚の両親という家庭も別に悪くはないという当然の成り行きである。
同性結婚推進者であるジャーナリストのアンドリュー・サリバンとエール大学教授のウィリアム・エスクリッジJr.がダレン・スピーデール(Darren Spedale)という独立研究者が1990年代におこなったデンマークでの調査をもとに、同性結婚は結婚制度を弱めるどころか強める結果となったと発表した。それというのも、デンマークでは同性結婚が容認されて以来離婚するカップルが減り、結婚するカップルが増えたというのである。
しかしながら、この現象にはからくりがある。1990年代のデンマークでは結婚する人の数が大幅に減った。結婚している人の絶対数が減ったのだから離婚する絶対数が減るのは当たり前である。また、多くの人が結婚せずに同棲しているため、結婚せずに子供を生んだカップルがまだ子供が幼少のうちに離別しても、その率は公式な記録に残らないのである。
結婚するカップルの数が増えたというのも、傾向ではなく一時的なもので、1997年の結婚率がデンマーク史上最低であったため、その後多少盛り返したというだけのものだ。しかも結婚したのはすでに結婚せずに一人目の子供を生んだカップルが二人目の子供が生まれた時点で正式に結婚するといった例がほとんどであった。それにしたところで、最近はその傾向も薄らいでいる。
ノルウェーでは、1990年から2000年にかけて未婚のカップルによる出生がなんと39%から50%に増えた。スエーデンでは47%から55%に増えている。デンマークでは変化はないが、1990年にすでに46%だったというのだからこれもひどい。
スカンジナビアで未婚のまま子供を生む傾向が高まったのはこれらの国で過激派フェミニズムが台頭した1970年代の頃からだが、過半数を超える傾向として拍車をかけたのは同性結婚の容認である。子供を生む国民の半数以上が子供を生み育てるために結婚する必要がないと考えているとしたらこれは恐ろしいことだ。今かろうじて結婚制度が保たれているのは、わずかに残った宗教的な考えから最初の子供を未婚で生んだカップルが二人目のときは正式に結婚しようとしているからで、もしこの傾向すらもなくなったら、スカンジナビアにおいて結婚制度は崩壊の一途をたどるだろう。すでに極端な少子化が深刻な問題となっているヨーロッパでは結婚の減少によってますます少子化が進むであろう。
このままでは、少子化による人手不足で取り入れたイスラム系移民たちによる暴虐に苦しめられているデンマークで、全く産児制限などしないイスラム教徒らに国を乗っ取られるのは時間の問題である。
離婚率と未婚の母の率が高いアメリカとしてはスカンジナビアで起きている問題は他人事ではない。もしここでアメリカも同性結婚を認めれば、アメリカもまたスカンジナビア諸国の二の舞になることは間違いない。そうなって一番不幸になるのは両親なしで育つ子供たちである。
一夫一婦制の結婚は文明社会の基盤である。結婚した両親のもとで育つ子供が文明社会を担うのである。その基盤を破壊すれば、文明社会そのものが破壊される。
そのようなことを阻止するためにも、結婚は一人の男と一人の女との間だけという基本的な制度を断固守って行く必要があるのである。


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ジェンダーフリーは自由社会を破壊する

今カリフォルニアの法廷では、同性同士の結婚を承認するかどうかという審議がされている。カリフォルニア州は比較的リベラルな州なので、読者のみなさんは、これがカリフォルニア州民の希望によって審議されているとお考えになるかもしれないが、実はその逆である。
加州民は2000年の選挙のときに、国中で同性結婚推進の動きが一部の過激派によって激しくなってきたのを懸念し、「カリフォルニアは一人の男と一人の女との結婚のみを承認する。」という州法が圧倒的多数の市民の同意によってすでに通っているのである。では法廷はなにをやっているのかというと、この法律が合憲であるかどうかを審議しているのだ。
なぜ一夫一婦制が合憲かどうかなどという審議が今さら必要なのか、同性結婚推進者の理屈は、異性同士の結婚が許されるのに同性同士の結婚が許されないのはどの個人も同等の権利を保証されるという憲法に違反するというのである。
彼等にいわせると、異性愛者は好きなもの同士で結婚できるのに、同性愛者にそれができないのは不公平だというわけだ。しかし、異性愛者同士でも好きなもの同士なんの規制もなく結婚できるかといえばそうではない。
結婚というものは、いにしえの昔から、公の結合であり決して個人の好き嫌いだけで決められてきた訳ではない。結婚に関する規制はどこの社会にもあるが自由社会においてもそれなりの規制があり、その規制は性別だけに限らない。年齢や血族関係、そして人数にも規制がある。これらの規制が憲法違反でないなら、性別の規制も憲法違反にはならないはずだ。
無論、アメリカでは異人種同士の結婚が禁止されていた時期があった。その法律は撤回されているので、これと同性結婚の規制とどういう違いがあるのかという質問は出てくる。だが、人種間の差は単に皮膚の色が違うというだけで、黒人の男も白人の男も男であることには変わりはないが、男と女とでは全く生物学的に違うではないか?
第一異人種間の結婚禁止令は法廷によって違憲とされて覆されたのではなく、アメリカ市民が異人種間の違いは全く問題がないとして、議会を通して既存の法律を廃止したのである。一夫一婦制度はアメリカ市民の大半が支持しており、異人種間結婚の規制とはまるで性質が違う。
日本では同性結婚などというものは起こりえないとみなさんがお考えなら、甘い、と申し上げる。アメリカでも同性結婚など大半の市民が認めていない。にも関わらずあちこちの州で同性結婚が法廷を通して州民に無理矢理強制されるという事例がすでに起きているのである。カリフォルニアが2000年に一夫一婦制を改めて法律に取り入れたのは、そうした州で「結婚」した人々がカリフォルニア州でも夫婦と認めよと要求してくるのを拒むのが目的だったのだ。
男女共同参画の基盤となっているジェンダーフリーという性別解消の思想が横行すれば、それが必然的に同性結婚へと結びつくことは目に見えている。性に違いがないなら同性同士の結婚になんの問題があるというのだ、という理屈になるからだ。
一夫一婦制は文明社会の基盤である
数年前、同僚の若い男性何人かと仕事の帰りに飲みにいった時のことである。テーブルにつくや否や、一人の若い男性が席を立った。しばらくしてこの男性は片手にカクテルを持って戻ってきた。カカシは「エリック、あなたガールフレンドいないでしょ?」と聞くと、彼は不思議そうに私の顔をみて「いないけど、どうして?」と聞いてきた。ガールフレンドがいれば、自分の飲み物だけひとりでさっさと買いにいくなど彼女が許すはずがないからである。彼女のいる男性なら、同席をしている女性に「飲み物買ってくるけど、君も何か飲む?」と聞くぐらいの気遣いはする。
異性の伴侶がいる人間は、男と女の違いを知っている。それぞれの強い面も弱い面も知っているから、それを考慮にいれて他人にも接することができる。だが、同性同士でしか付き合いのない人間はその違いを理解できずに間違いをおかすことが多々ある。
これが子育てとなってくると男の父親と女の母親は子供の人間形成には欠かせない要因となる。男の子が強い父親がか弱い母親を守るお手本を見ずにどうやって女性を大事にすることを学ぶのか?母親が父親の辛い時に慰めの役目を果たす図を見ずに女の子はどうやって思いやりを学ぶのか?
アメリカで母子家庭の多い黒人の間で犯罪率が他の人種よりも極端に多いのは決して偶然ではない。父親のいない家庭では男の子が粗雑になるのだ。母親がどれだけ立派でも父親の代わりはできない。
また一夫多妻制度を取り入れているイスラム諸国やアフリカ諸国を見てみた場合、女性の権利はどこでも極端に制限されている。女性の数が男性よりもずっと多いというのならともかく、一人の男性が多くの女性を妻にめとえば、女性にあぶれる男性が出てくる。そうなれば女性は奪い合いになるから、女性は男性の所有物的扱いとなり外へ出さずにかこっておくという扱いになる。サウジアラビアなどで女性が家族の男性同伴でなければ外出できないなどという規則があるのはまさにこれが理由だ。
一夫多妻制度のなかで育つこどもは、父親との交流は少ない。父親は常に母親や子供のそばにいるわけではなく、その時々の気分で母親の元をおとずれるわけだから、子供はほとんど女たちの間だけで育つことになる。
母子家庭や一夫多妻制度における子育ての弊害を考えた場合、ここで試されてもいない両親同性という家族構成を社会に紹介する危険を我々は十分に危惧すべきである。すでに一番理想の一夫一婦制という制度が存在する社会に、なぜ試されてもいない別の制度を人々が望んでもいないのに適用する必要があるのだ?適用するだけの価値があることが全く証明されてもいないのに、その弊害も明らかでないのに次の世代を担う子供たちを実験のモルモットとして危険にさらす必要がどこにあるのだ?
何でもありは何もないのと同じ
同性結婚を許可することがどうして一夫一婦制度の破壊につながるのかという疑問が出るのは当然だ。しかし社会が決めた結婚への規制をひとつ外せば、他の規制についての見直しも必要とされるのは当然だ。好きなもの同士が結婚できるというのなら、血縁者が結婚できないというのはおかしいという理論になる。なぜ兄妹や甥姪では駄目なのかということになる。近親相姦による劣性遺伝の問題も、最近は妊娠中に遺伝子を調べて健康な子供かどうか確かめた上で生めば解決できるのだから。また100人の人間が愛し合っていますといって「結婚」してお互いの扶養家族となって減税の対象となるなどということも大いにあり得る。
結婚がどういう形でも許されるということになれば、結婚による特別な関係は意味のないものとなる。これまで結婚といえば一人の女性が一人の男性とお互いに忠誠を誓い合って一緒に子供を生んで育てていこうという覚悟で結ばれるものであった。それが誰とでも何人とでもただ一緒にいることが結婚だとするなら、結婚そのもの意味は失われる。西洋社会の基盤となってきた両親がいて子供がいてという家族単位も破壊される。そんな意味のないものを特にする必要もないので、「結婚」などする人は極端に減るだろう。そうなれば子供を生み育てるのはいったい誰の責任となるのだ?
ただでさえ少子化のすすむ文明社会で結婚そのものがなくなったら、これは種の存続にも関わる危機ではないか?
家族を破壊するジェンダーフリー全体主義
どっかの左翼変態フェミニストが「個人主義を徹底させるのがジェンダーフリーでしょ」などと大嘘をついていたが、個々の性別を無視することで個人が尊重されるなどナンセンスである。
ファシストのムッソーリーニにしろ、ナチスドイツにしろ、共産主義の旧ソ連にしろ、これらの独裁政権は常に「個人の自由」だの「独立」だの「平等」だの奇麗ごとを言っては国民を騙してきた。ジェンダーフリー推進者も「自由」「平等」「個人主義」など耳障りのいい言葉を使いながら、実際には恐ろしい全体主義のジェンダーフリー思想を我々に押し付けようとしているのだ。その証拠にジェンダーフリーが適用される時にはかならず全体主義の形で適用されている。左翼変態フェミニストたちの二枚舌に騙されてはならない。
全体主義の独裁政権は常に伝統的な家族構成を破壊することで個人から自由を奪ってきた。親の権限を取り除くことで、政府が親代わりをしようというのである。全体主義政権において子供の洗脳は必要不可欠である。だから男女共同参画が学校教育の場で始まったというのは大いに納得がいく。
教育界においてジェンダーフリーがどのように適用されているのか、作家の長尾誠夫氏が書いているサイトから少し紹介しよう。
長尾氏は、このエッセーのなかで小中学校における学校教育がいかに伝統的な家族構成を敵視しているかを例をあげて述べておられるが、家族と専業主婦への敵視と題されるこれなどは本当にひどい。

中学ともなると、その内容も多岐にわたるようになる。(以下、『ジェンダーフリー教育』明石書店より)

ある中学の家庭科教師は、教科書に家族団欒の光景が載り、「家庭は共同生活を営む場で、家族が安心して毎日の生活を送り、明日への活動力をつくりだす場でもある」(開隆堂)とあることから、両親がそろっているのが当たり前で、そうでない家庭の子供に対する差別や偏見が生じると思い、様々な家庭があることを認識させるために、深江誠子という人の手記を読ませた。
深江氏は「五歳で生母と死別し、その後母が三人も変わり、恩義を受けた三番目の母が社会から冷遇されていたのを知り、被差別の立場にある人に関心を持つようになり、自らの子供を差別社会と闘わせるためにあえて私生児した」人である(手記より)。手記に言う。「私は自分の生んだ子を私生児にすることに何のためらいもなかった。私は家庭が波瀾に満ちていたからこそ、既存の結婚制度の欺瞞性を見抜く力を養われた」と。
深江氏がいかなる考えを持とうと自由だが、学校教育とは社会の仕組みや秩序を教えるのが基本であり、反社会的な考えを持ちこむのは禁物だろう。これでは既存の結婚制度や家族を否定しているようなものである。

このような教育を子供にすることが、両親は一夫一婦であるべき、子供は結婚した夫婦の間でだけ生むべきであり、私生児を生むことは自分達の道徳観に反する行為だと思っている親の権利はどうなるのだ?
また、例の左翼変態フェミニストのように性別を確定すること自体が性差別だという考えが横行するなら、学校の性教育で子供たちにセックスは好きな相手となら誰とでもしてもいい、結婚の相手は異性である必要はないと教えることになるだろう。宗教上の理由から同性愛は罪だと教えたい親の個人的な権利はここでも踏みにじられる。
ジェンダーフリーは個人主義を徹底させるだの個性をのばすなど、すべて嘘である。本当の目的は性別を無視することで伝統的な男女間の関係を破壊し、家族構成を破壊し、自由社会の基盤を破壊することにあるのだ。
最近はジェンダーフリーという言葉があらわす内容の恐ろしさが人々の間でも理解されるようになったため、その本来の定義を書き換えて実は全く別物であるかのように表現したり、別の言葉を使ったりしてごまかそうとする動きがある。
ジェンダーフリーが、いつの間にかジェンダーセンシティブとかジェンダーニュートラルとかいう名前に変わっても、読者の皆様、だまされてはいけない!彼等の目的は自由社会の破壊にあるのだということを一時たりと忘れてはならないのである!


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銅像にバーカ! ヨーロッパでイスラム教女性虐待に抗議

アメリカのリベラルフェミニストたちは、クリントン時代にはイスラム圏の女性虐待の習慣にずいぶん批判的であったのに、いったんブッシュ政権になってイスラム教テロリストとの戦いが始まるやいなや、イスラム教への批判を完全にやめてしまった。それどころか、いまだに依然としてイスラム圏の女性虐待を批判するフェミニストたちを「過激派」などといって批判するにいたっている。
そんななか、ヨーロッパのフェミニストたちは自分達の原点を忘れていない。Gate of Viennaによると、去年の9月を皮切りに、ヨーロッパ各地のドイツ語を話す国々で、暴走するイスラム教徒による女性虐待に抗議した女性たちが各地の銅像にイスラム教の女性が着る、頭からかかとまで覆い隠す、バーカという着物を着せる静かな運動を行っているそうだ。
この運動を行っている団体の声明文によると、先日2008年3月6日、この団体はヨーロッパ各地で銅像にバーカを着せる運動をおこなった。これはヨーロッパのイスラム化及びそれによって禁句とされる問題について市民に討論を呼びかけるのが目的である。過去6か月に渡って団体はドイツ、フィンランド、ロシアなどヨーロッパ全土に広めてきた。今回、Berlin, Braunschweig, Dortmund, Düsseldorf, Helsinki, Moscow, Tampere, そして Turku,において、8体の銅像にバーカもしくはスカーフを着せた。ヨーロッパの価値観を強調するため、銅像には「男女平等」と書かれた腕章をつけさせ、片方の手に1948年に国連で適用された人権宣言の条約が書かれた看板をもたせ、もう片方の手にコーランの女性の扱いかたが書かれた看板をもたせた。
彼等はヨーロッパ各地で、バーカやスカーフを着て歩くイスラム教女性の姿が目立つようになってきたことを懸念して、これはヨーロッパ諸国の自由と平等へのあからさまな挑戦だと考えている。そして彼等はイスラムの教えにはヨーロッパの基盤である男女平等、個人の自由、人権といったものとは絶対に相容れないものがあるとし、このことについてヨーロッパ市民は十分に考えるべきだとしている。
以前に私はイギリスのカンタベリー主教がイギリスにも一部イスラム教の法則シャリアを取り入れるべきだと提案したことについて書いたが、この団体は、シャリアとコーランを文字どおりに適用するやり方はヨーロッパの自由主義に真っ向から逆らうものであり、共存は不可能であるとしている。
移民を多く受け入れた国ではどこでも同じ問題を抱えるが、常識的に考えて、移民を受け入れた国が移民に合わせるのではなく、移民してきた人々こそが自分を受け入れてくれた国の文化や法律を尊重するのが筋のはず。にも関わらず、欧米諸国に移住してきたイスラム教徒たちは、自分達の法律をそのまま持ち込み、それが移住先の国の法律に触れようとどうしようとおかまいなしに施行する。そしてホストカントリーの市民が苦情を述べれば、「差別だ」、人権侵害だ!」といって大騒ぎをする。
最近イギリスではスーパーのレジで、イスラム教の店員は酒類を扱わなくてもよいことになったところが出来たという。アメリカでもボストンのハーバード大学でおくゆかしいイスラム教女性のために体育館で女性のみの使用時間を設けはじめた。
イギリスやカナダで人権擁護法がイスラム批判をする人々への言論弾圧につながっていることは、ここでも何度も紹介しているが、欧州諸国でもイスラム批判はほぼタブーな主題となっているようだ。そこでこの団体の目的は、禁制とされているこれらの問題、特に女性虐待の習慣について、ヨーロッパ市民は討論をすべきであると呼びかけているのである。
しかし我々はイスラム教徒の宗教の自由を尊重すべきではないのか、という意見もある。無論、自由諸国においては宗教の自由は尊重されなければならない。だが、それもその宗教がその土地の法律に触れない限りにおいてという条件はつけるべきだ。そうでなければ、その宗教が人間の生け贄を神に捧げるのが習慣だったら、自由諸国で乙女が八つ裂きにされるのを容認してもいいのか、ということになってしまうからだ。
ヨーロッパ諸国では、実際に家族の名前を汚したとして、親の決めた許嫁ではなく自分の好きな人と結婚しようとした女性が父兄に殺されたり、妹の離婚の自由を弁護した兄が父親の雇ったやくざに半殺しの目に合うといった事件が頻繁に起きている。これも、シャリア法で規定されているからといってヨーロッパ諸国は容認してもいいというのか?
このやり方ではイスラム教徒という少数派の人権を守るという名目で、イスラム教社会に生きざるおえない移民個人の人権は無視されている。親がイスラム教徒なら子供は好むと好まざるとにかかわらずイスラム教徒であるとされる。シャリア法では改宗は認められないどころか極刑に値する罪である。このような社会で生きる個人には人権も自由もあり得ないのだ。このような社会で女性がバーカやスカーフを着用するのが彼女たちの自由意志であるなどと考えるのはナイーブすぎる。
この団体の主張は、自由国家に生きる人間は誰もがその自由国家の法律によって守られるべきであり、イスラム教徒も例外であってはならないということだ。本当の意味での人権尊重はイスラム社会の自分勝手な行動を容認することではなく、権力のある一部のイスラム教徒による人権迫害から市民を守ることにあるのである。

我々はこの運動を通じて、特定の宗教運動に禁句となった主題があり、それに即座に対処すべきであるということを提示するものである。禁句とされている主題だからといって我々は黙っているべきではない。この問題を指摘することは人種差別ではない。イスラム社会に生きる女性たちが、それがわが国であろうと外国であろうと、彼女たちの権利について我々が主張しないことこそ人種差別である。かつて西洋の女性たちの人権のために立ち上がった人々はどこへ行ったのだ?イスラム教女性だけは援助もせずに放っておいていいという理屈は成り立たない。

ここでこの団体は人権宣言とコーランを比べ、どこが違っているかを提示している。国連の人権宣言では『すべての人間は生まれながらにして自由であり平等な尊厳と権利を持つ。』

“All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.”
— Universal Declaration of Human Rights, United Nations, Art. 1

とあるのに対して、コーランでは、

“To those (women) on whose part you fear desertion, admonish them, and leave them alone in the sleeping-places and beat them.”
— Quran, Sura 4,34
逃走する可能性のある女ちは、警告せよ、そして寝床に放置せよ、そして殴れ。

以前にとある左翼フェミニストが、どうしてフェミニストがイスラム教を批判しなきゃいけないのだと聞いていた。ぜひとも彼女に読んでほしい声明文だ。


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変態たちが押し進めるジェンダーフリーという神話

男女共同参画という政策にはジェンダーフリーという概念がついて回る。あたかも性別を無視することによって男女平等が実現するかのような不可思議な思想だ。しかし現実には、ジェンダーフリーとは私が当初考えていたよりもずっと悪質な概念であることが最近になってわかってきた。
真実のジェンダーフリーとは男女平等だの女性救済のための思想などではなく、文明社会の基盤となる一夫一婦制という男女間の関係を破壊し、我々の自由社会を根底から覆えそうという恐ろしい概念なのである。この思想は我々が一番大事にしている道徳観や価値観や信仰を嫌い、個人の自由を迫害する全体主義の左翼思想だ。
ジェンダーフリー推進者の真の目的は、人権擁護法が特定の少数派が特権階級となるために提案されているのと同じように、自分達の変態的な性嗜好を一般社会に強制的に押しつけ、伝統的な社会を破壊した上で自分達が理想とする変態社会を作り上げ、ファシストよろしく自分たちがその社会をコントロールしようというものなのだ。
カカシはジェンダーフリー推進者の本質を暴くことによって、この概念がいかに邪悪なもので、我々の愛する自由社会を脅かす非常に危険な思想であるかを証明していきたいと思う。
そこで先ず、今回はジェンダーフリーを押し進める人々とは、いったいどんなひとたちなのか、という話から進めてみたい。


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左翼の二枚舌を見抜く方法

私がここ最近議論を交わしてきたあるフェミニストは、私がこれまでに遭遇してきた数知れない左翼連中となんらかわりはない。彼等一般に共通するのは、公平な議論をせず常に卑怯な手段で相手をはぐらかそうとするものである。そこで、私は今回彼等特有の卑怯な議論のやり方をある左翼フェミニストのやり方を例にとっておさらいしてみたい。断っておくが、これは決して特定の人間への個人攻撃ではない。
(A) 満たせない条件付きの提言(Argument by unsatisfiable conditionality)
以前にも左翼の連中は何故か自分を左翼と認めたがらない傾向があると指摘したが、左翼のなかでも多少頭が切れる連中は、一般人の間で受け入れやすい思想とそうでない思想の違いを十分に承知している。だから表向きは常識的なことを言うが、よくよく話を聞いてみるとそれとは全く反対のことを信じていることが多い。我々一般人は左翼のこうした本音と建前を見抜く目を鍛える必要がある。
彼等がどのように矛盾する二つの考えをつなぎあわせるのかというと、「満たせない条件付きの提言」という手段を使うのだ。これは最初に常識的な提言をした後で、「但し〜の場合に限る」というような条件をつける。ところが彼の特定する〜の場合は存在しないため、最初の提言が本当になることはない。結論として彼の最初の提言は覆されてしまうのである。分かりやすい例をあげると、、、
例1
提言(建前):私は自由市場を信じているので、政府介入は支持しない。
条件:但し自由市場が完璧な問題解決が出来る場合に限る。
満たされない条件:自由市場による完璧な問題解決など存在しない。
結論(本音):私は自由市場を信じていないので政府介入を支持する。
例2
提言(建前):(大学や職場で特定の少数民族や女性の人数の枠組みを決める)クォータ制度は支持しない。
条件:但し、ほかに差別是正のための良い方法がない場合にはクォータ制を支持する。
満たされない条件:クォータ制以外の是正方法など存在しない。
結論(本音):クォータ制度を支持する。
無論、この場合彼等が課した条件が実際に存在しているかどうかは彼等自身の判断によるものなので、条件が満たされることは絶対にないのは言うまでもない。
(B) 既存する言葉の定義の書き換える(Law of tendentious redifinition)
左翼連中はすでに存在している言葉の意味を自分勝手に都合のいいように書き換えるのが得意だ。これにはもともと衝撃的な意味のある言葉の定義を拡大し、元の意味で解釈した一般人に間違った印象を与えるやり方と、言葉の提言を縮小し元の意味で話をしている論敵の説がその言葉にはあてはまらないというやり方や、ごく普通に使われてきた言葉を突然差別用語だと勝手に指定したりするやり方がある。
例3
a) 衝撃的な言葉を別の意味で使い、それを知らない一般人に衝撃的な印象を持たせるやりかた:
男性嫌いの過激派フェミニストは男女間における全てのセックスはたとえ合意の上でもレイプだと定義を書き換える。そして書き換えられた意味を説明せずに、妻とセックスした男性のことをあの男は強姦魔だと言って、何も知らない一般人に間違った印象を与える。また、元々侮蔑語であるクィアという言葉の定義を単に異性愛者ではない人という定義に書き換えて、自分はクィアであると言っておきながら、論敵から「じゃあ今後クィアという意味で変態とお呼びしてもよろしいんですね。」というと「変態などといって侮辱するな!」というふうに言い、なにもしらない第三者に論敵からやみくもに変態扱いされたと犠牲者ぶるわけである。(アップデート、3月3日:ミス左翼の推薦するサイトでもクィアは変態と訳されている。)
例4
b) 言葉の定義を都合のいいように狭くするやり方:
私が先日話をしていたアファーマティブアクション(AA)だが、私はこの政策は法律によって市民に強制されていると語った。しかしミス左翼は、「アファーマティブアクションという法律は存在しない。存在しない法律が強制されるわけがない」といいはじめた。確かにAA法という名前の法律は存在しないが、AAは地方政府の設立した規則や法廷での判定などの課程を得て強制されている。普通『法律』というのは、政府が取り決め市民が従わなければならない施行力のある、社会の規則のことを言う。ところが、彼女は『法律』という言葉を『連邦政府が議会で通したもののみ』という非常に狭い意味で定義し、地方政府が取り決めた規則や法廷で出た判定などは『法律』ではないと言い張るのである。こうすることによって、彼女のいう「AAという法律は存在しない」という理屈が成り立つわけだ。一般的に広義な意味で使われている言葉の定義を極端に狭めることで、どれほど的を射た相手の議論も絶対にあてはまらないようにする。これで「あなたの言うことはこのこととは全く関係ない」と言い張るのがこの方法の狙いである。
例5
普通の言葉を差別語にするやり方:
これは非常に単純なやり方だが非常に効果のあるやり方だ。今まで普通にある特定の人々を説明する言葉として使われていた言葉を突然「差別用語だから使ってはいけない」と言い張る。間違った呼び方をすると人種差別者だといわれかねないので、人々は神経質になって常に正しい言葉を使おうとする。例えば、昔黒人はニグロと言われていた。これは単に「黒」という意味で、特に侮蔑的ないい方ではない。ニグロという言葉のついた団体まで存在しているくらいだから。しかしいつの頃からか、これは差別用語だと市民団体が言い出した。今後はアフリカンと呼ばなければならない、いや、アフリカンは差別だ、カラードと呼ぶべきだ、いや、カラードは差別用語だブラックと呼ぶべきだ、いやブラックは差別だ、ピープルオブカラーと呼ぶべきだ、いや、それは駄目だアフリカンアメリカと呼ぶべきだ、、、、というように。このように常に言葉の定義を変えることによって一般人を常にびくびくさせることが目的だ。
(C) 限りなく漠然とした複雑な文章
左翼連中は絶対に自分の考えていることをはっきりと他人が理解できるように表現しない。何故ならば、彼等の目的は自分の考えていることを正しく相手に伝えることではなく、相手を限りなく混乱させることにあるからだ。
左翼連中は非常に簡単な質問の答えでも長々と複雑な文章で答える。しかしよくよく読んでいるとのらりくらりと答えを避けただけで何の答えにもなっていない。それで「つまりあなたはこういうことがいいたいのですね?」というと「そんなことは言ってない!」と、あたかも分からないのはこちらの読解力が不足するせいだとでもいうような言い方をする。それで彼等はまた説明になっていない説明を繰り返し、こちらが「ではこういう意味なのですか?」というと「そんなことは言ってないってばああ〜」とどうしてこんな簡単なことが分からないのだという反応をする。
それでこちらもしびれをきらして「イエスかノーかで答えて下さい!」というと、「こんな複雑な問題をイエスとかノーで答えろというほうに無理がある。」とはぐらかすのである。下記は、とある左翼フェミニストとのコメント欄で交わされた一連の会話だが、これを読んでいただくとカカシのいう意味がお分かり頂けると思う。

カカシ:あなたをレズビアンといったのは、あなたが自分のことをクィア(同性愛者)だといったことと、あなたは女性であると思ったからですが、違うんですか?

ミス左翼:クィア=同性愛者、ではありません。いまさらあなたにあれこれ説明してそれを理解してもらおうとは思いませんが、同じではないことだけはご理解ください。(もし理解したい、とのことでしたら、「デルタG」というサイトで「クィア・スタディーズ入門」というすばらしい連載があるので、一般教養と思って読んでみてはと思います。)
コメンター:クィア=同性愛者ではないという回答ですが、上記の質問は左翼さんが同性愛者であるかどうかということではないでしょうか?私も左翼さんの文章は読んでいてときどきはぐらかしているような印象を受けることがあります
ミス左翼:単純にイエスかノーで応えないからですか? しかし世の中イエスかノーで応えられる問題だけではないでしょう?

自分が同性愛者かどうか、イエスかノーかで答えられないってのもおかしな話だが、彼女がこれを読めといってリンクを貼付けたサイトにいってみると、なんと何章にも渡る一冊の本!なんで私が他人の性嗜好を知るために長々と本を一冊よまなきゃならないのよ、といいたい。はっきりいって私は彼女の下半身にそこまで興味ない。
しかし今後も左翼と効果的な議論を交わすためには、左翼のいう言葉使いも勉強しておく価値はあるかなと思い直した。かなり苦労した挙げ句に該当しそうな部分を斜め読みしてみたら下記のよう部分があった。

Queer(以後、「クィア」とカタカナ表記)はもともと「奇妙な」という意味です。これは古い意味合いなので、いまでは「奇妙な」という意味ではあまり使われないのですが、もとは奇妙だ、ヘンだ、おかしい、という意味で、そこから同性愛者、とりわけゲイ男性を指す蔑称として使われるようになっていました。

…..この言葉を「再盗用」するにあたって、「奇妙な」「まっとうでない」という原義が使いやすくしっくりきたというのは、間違いがないと思われる。つまり、具体的な特定のありかたを指すのではなく、ただ漠然と「変」「普通と違う」というように、社会状況のなかでの自分たちのありかたをあらわすのに、一番使いやすい言葉だったということ。…
クィアとは、どこか奇妙で、普通ではない、変だ、正当ではないという感覚、態度なのだ、ということは強調しておきたい。

性嗜好が「」で「奇妙な」「普通とは違う」「度」の人のことを一般的に「変態」と呼ぶのではないのか?だったらクィアは変態でいいではないか、などと読者がお考えならまだまだ甘い!そのような読解力ではミス左翼には勝てない!

カカシ:だったら『変態』でぴったしじゃない!

ミス左翼:しかし、あれだけ分かりやすいリソースを紹介してもこの程度の理解しかできない人がいるとは驚きました。あれ以上簡単な解説なんてほぼあり得ないでしょう。

分かりやすいもなにも、このサイトには「クィアとは何か」という章に、クィアの定義が一つも載ってない!ただただクィア学の思想はこうである、ああである、とどうでもいいことがだらだらと書き連ねてあるだけで、クィアとはこういう性癖を持つ人のことをいうのであるとはどこにも書かれてない。書かれているなら非常に良く隠されている。ミス左翼が本気でクィアの定義を私に分からせたいと思っているなら、自分がその部分を抜粋して添付すればいいことであり、それをこの本を読めと言って解らないのはお前が悪いという態度をとっているのは、非常に不誠実だが左翼典型のやり方だ。
結局この一連の会話から私はいまだにミス左翼が同性愛者なのか異性愛者なのかわからない。いや、それをいうならミス左翼が女性なのか男性なのかさえも分からない。無論、ミス左翼の本当の目的は我々読者がいつまでも混乱している姿をほくそ笑んでみていることにあるのだからわからなくて当たり前だ。
左翼の二枚舌を見抜くには、左翼の使うこのような数々の手管を十分に研究しておく必要がある。練習として下記にミス左翼とのやりとりをいくつか掲載しておこう。読者のみなさんがどれだけ上記のやり方を指摘できるか試しにやってみるのも悪くない。


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人権擁護法反対! アメリカの悪制度アファーマティブアクションに学ぶ

お断り:このエントリーは数時間前に掲載したものを訂正して書き直したものです。特定の人物への個人攻撃のような内容があったのでその部分を削除しました。数時間前の内容と多少違う面があることをご了承ください。
米国で少数民族や女性が大学への入学や就職の際に不当な差別を受けないようにと設けられた制度にアファーマティブアクション(AA)というものがある。これについて私は何度かその悪質な特質について、大学入試や就職の際に特定の少数民族が優遇される人数枠組みを決めたいわゆるクォータ制を例にあげて、ここやここで述べてきた。
私の説明するような形ではアファーマティブアクションは存在しないと主張する人もいる。厳密な意味でアファーマティブアクションという法律が存在しないと言うのは正しい。AAは連邦政府の方針であり、その適用は州単位でそれぞれの地域が自分らに見合ったと思われる規則を設立して行うことになっているからだ。しかしAAを適用するために設立された規制や規則は私がいう通りの結果を生んでいるのであり、そんな法律は存在しないから、カカシのいっていることは真実ではないという言い方はそうした現実を無視した非常に不誠実な意見である。
AAには良い面もあれば悪い面もあると主張する人は、アウトリーチ(勧誘)という制度に重点を置いて話をしている。アウトリーチとは、普通では大学入学などには不利な立場にいると思われる少数民族が一流の大学に入れるように種々の方法で援助をするというのが建前になっている。だが、時間もお金も手間もかかるアウトリーチなどという制度は簡単に適用できるものではない。結果的に簡単に適用出来るクォータ制度が優先し、アウトリーチなど現実の日の目を見ないのが普通だ。つまり建前はどうあれ、現実的にはAAの適用は少数派優遇のクォータ制となったり、アウトリーチという名目で少数派受験生の成績が水増しされたりする形で落ち着いてしまうのである。だから私に言わせればAAに良い面など存在しない。
悪法アファーマティブアクションが生んだ訴訟例:
AAの悪質な制度は1961年の創設当時から問題になっていた。1969年には当時のニクソン大統領が、AAの目的は差別廃止の「目的と予定表」(goals and timetable)であって、少数民族優遇システムであってはならないと説明しなければならないほどだった。しかし、その不公平な適用は1970年代から最近では2001年に至るまであちこちで訴訟の対象となっている。
最初にアファーマティブアクションによる不公正な大学入試制度に関する訴訟を紹介しよう。私は以前にアメリカの大学入試システムをこのように説明した。

大学入試を例にして説明すると、大学入学の際、少数民族だからといって入学を拒否されないように、新入生の人種の枠をつける方針が多くの大学で取り入れられた。 この枠組みはアメリカ社会の人口比率が参考にされており、詳細は学校によって違うがここでは便宜上黒人20%、ラテン系10%、東洋系10%、白人60%としておこう。 ここで問題なのは大学志願者の比率が社会の人口比率とは一致しない点である。 これは文化の違いによるのだが、黒人やラテン系の若者が大学へ進む比率は東洋人や白人のそれよりもずっと低い。 ということは同じ大学へ志願しているにもかかわらず人種によってその倍率が全く違うということになってしまうわけだ。

下記の訴訟例を吟味してみよう。
1979年、カリフォルニア州立大学対バッキー(the University of California v. Bakke): 大学の不公平な入学制度に挑戦した一番有名な訴訟は、1979年にカリフォルニア州立のデイビス医学大学においておきた。当時UCデイビスでは、100人中の16人は少数民族のためにとっておくという人員枠を決めており、入学の基準も少数民族と白人学生とでは全く違う二重基準になっていた。アラン・バッキーという白人学生は自分よりも成績の劣る少数民族の学生が合格したのに自分が入学を拒否されたのは人種差別であり、憲法違反であるとして大学側を訴えた。
合衆国最高裁判所は、人種が大学入試基準の一部として考慮されることは正当だが、融通のきかない人員枠決めは正当ではないと判決をくだした。
1996年、カリフォルニア州、提案209条: 1990年代の後半からカリフォルニアを中心に、アファーマティブアクションによる不公平な大学入学システムを廃止しようという運動が起きた。カリフォルニアの黒人ビジネスマン、ワード・コネリーは1996年に特定の人種や性別を優遇する入学システムを全面的に廃止する法律、提案209条を提案。カリフォルニア州市民の圧倒的多数の同意を得て議案は通過した。しかし、小山エミが「賛成する人などどこにもいない」といっている少数民族優遇システムを支持する運動家らが、この法律は憲法違反だとして州を相手に訴訟を起こし、一旦は地方裁判所(U.S. District Court)で議案の施行一旦停止判決がでたが、後の高等裁判所の審査によって(9th Circuit Court)判決は覆され法律として成立した。しかしその後も少数民族女性優遇システムを支持する人々の間からこの法律への訴訟は後を絶たない。
ところで、この法律が通って以来、バークレーのような一流大学への入学生は減ったが、カリフォルニアの州立大学全体では少数民族の卒業率が増加した。つまりAAによって自分の能力にあわない高度な大学へ行って落ちこぼれていた少数民族の学生たちが、自分の能力にあった大学へ入ったため、卒業率が増えたということだ。いくら一流大学へ入っても、ついていけずに落ちこぼれるくらいなら、二流大学でもちゃんと卒業したほうがいいに決まっている。AAの少数民族優遇制度がいかに少数民族を傷つけてきたかという証拠だ。
1996年、ホップワード対テキサス大学法律学校(Hopwood v. University of Texas Law School):シェリル・ホップウッド並びに三人の白人受験生がテキサス大学のアファーマティブアクションに挑戦して起こした訴訟。ホップウッドたちは自分たちが入学を拒否されたのは学力が劣るにも関わらず一部の少数民族が優先されたからだと主張。 その結果、法廷は(the 5th U.S. Court of Appeals)は大学のアファーマティブアクションによる入学制度を差しとめるように命令し、同時に1978年のバッキー訴訟で、人種が入学審査の際に考慮に入れられるのは正当であるとした判決は不当であったと裁断した。これが原因でテキサス州は1997年から入学審査に人種中立の制度を取り入れることになった。
2003年、グラッツ、ハマチャー/グラッター対ミシガン州立大学 Gratz and Hamacher / Grutter v.The Regents of the University of Michigan
2003年に最高裁判所が下した判決は、ミシガン州立大学のAA制度に対する二つの訴訟がもとになっている。ミシガン州立大学と法律学校の双方で、人種を基準にした大学受け入れ制度は憲法違反であるという訴えが起きたが、地方裁判所は人種が入学基準の一部の要素となることは正当であると判決をくだした。ただし大学のほうで少数民族の受験生に水増し点があてがわれる制度は改正されるべきであるとした。後に最高裁は人種を考慮することは憲法違反であるとすでに判決が出ていることから、この判決は覆された。
不公正な就職制度
AAが適用されるのは大学入学審査の時だけではない。就職や職場での昇格や解雇の時などでも考慮される。私はそのことについてこのように説明した。

AAは才能のあるなしに関わらず、ある企業はある一定数の少数民族や女性を雇わなければならない、それだけでなく、昇進の時でも人種や性別を考慮にいれなければならない。仕事のできない少数民族や女性でもやたらに解雇できないといった非常に厳しい規制がある。こうなってくると企業は少数民族や女性を雇う利点を見いだすことができない。かえって少数民族や女性には迷惑な政府介入なのである。

これに関して企業におけるアファーマティヴアクションはあくまで企業が自主的に行なうもので、それを強制するような法律は存在しないという人がいる。これも厳密には正しい。しかしここでどうして企業が自主的にAAを起用したりするのか考えてみる必要がある。AAの実施は企業にとって合理的でも経済的でもない。ではなぜそんなことを強制もされていないのにやるのか?
アメリカではAAとは別にEqual Employment Opportunity Law (EEO)という職場での差別を禁じる法律がある。職場で差別を受けたと思う従業員はEEOCという連邦施設に苦情を訴えられるようになっている。企業が差別訴訟を避けるための予防対策としては、AAを自発的に適用することが最善の方法なのだ。つまり、「わが社はAAを取り入れており人種差別はしておりません」と言うように。
しかし州立の大学でさえアウトリーチなどという面倒くさいことが出来ない以上、企業でのAAでそんなことが出来るはずがない。であるから必然的に簡単なクォータ制度が取り入れられてしまうわけだ。1000人の従業員のうち黒人が一人しかいないという企業はたとえ偶然そうだったとしても、黒人の市民団体から人種差別をしていると訴えられかねないし、やたらに黒人を解雇すれば、黒人差別だといってまたまた訴えられる恐れが十分にあるからだ。
これがどのような結果を生むか、これも訴訟例をあげて吟味してみよう。
1986年、ワイガント対ジャクソン教育委員会(Wygant v. Jackson Board of Education): 少数民族の教員を守るために、年功では勝る少数派でない教員が先に解雇されたことで教育委員会が訴えられた訴訟。最高裁判所は教育委員会の少数民族を保護する目的でも少数民族でない教員から解雇するというのは、雇用の際に少数民族を優遇するというのとは違って、個人に与える損害は大きく正当化できないとして勝訴となった。
AA方針は法律ではなく企業が自発的に適用するものだというが、AAを導入していない公営施設は存在しない。つまり、公務員は必然的にAAの元に生きることになる。それでなくても解雇が難かしい公営施設は民間企業よりも神経質にAA方針を貫こうとする。AAは法律ではないから強制されているわけではないという議論がどれほど空しいかが良く分かるはずだ。
さて、AAそのものに行使力はなくても、裁判所によってクォータ制度が強制されるという例がある。
1987年、合衆国対パラダイス(United States v. Paradise):
アラバマ州の公共安全局(the State of Alabama Department of Public Safety )では組織的に黒人差別をする傾向があるとして、何度も訴えられた。その結果裁判所は、局の従業員の25%が黒人になるまで、白人が一人雇われるごとに一人の黒人が雇われるか昇格されなければならないとした。このクォータ制は上訴されたが、この場合は極端な人種差別を是正するためにやむ終えない処置であったとして維持されるべきと判決が下された。
雇用や昇格にクォータ制度を用いなければならないという法律が存在しなくても、このように裁判所が企業に制度を強制することが出来れば、法律と同じ機能を果たすわけだ。
AAにはほかにも悪い点があるのだが、長くなるのでそれはまた別の機会に続けよう。とにかく、人種や男女差別を廃止する目的で作られた制度が、結果的に一部の少数民族や女性優遇のシステムになってしまったという例として、アメリカのアファーマティブアクションからは、今人権擁護法を考えている日本社会にとって良い反面教師となるはずである。


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なんで左翼は自分を左翼と認めないのか?

これは読者の皆様もすでにお気付きのことだろうと思うが、保守派や右翼の人たちは自分達の政治思想を隠したりしない。それどころか「私は極右翼です!」などと誇り高く宣言するくらいで、こうした人たちを間違って「あなたは左翼でしょう」などといった日には何時間にも渡ってどういう理由で自分が右翼であり左翼ではないのか延々とお説教を受けること間違いなしである。
ところが、どういう訳か左翼の人たちは自分達がリベラル/左翼/共産主義であることを認めようとしない。それどころかそれを必死に隠して自分達のことを革新派、自由主義者、進歩主義者などと訳の分からない名前で呼んだりして一般市民を煙に巻くのが得意である。
こういう人たちに「あなたは左翼ですか」と聞くと、「私は左翼ではない!」と断言するのではなく、「左翼とか右翼というレッテルで他人を判断しようとすることに問題がある」とかなんとか言われて話をはぐらかされてしまうのがオチだ。
もちろん本当に右でも左でもなく中庸な人は存在する。しかし普通政治的に強い意見を持っているひとは、自分がどちらの傾向に傾いているかを知っている。自分が多種の問題に直面する度に右と左のどちらの方針を支持してきたかを考えれば必然的に自分の傾向があきらかになるのである。だから本当に左翼でも右翼でもない中庸なひとならば、「私は中庸です。」といった後で具体例を出して「私は人工中絶の合法性には賛成ですけど、麻薬の合法化には反対です。」とか、「強い軍隊は支持しますが個人の銃砲所持には反対です」といったように自分の立場をはっきり説明することが出来るはずなのである。
私の知り合いでファシストに近い右翼から立ち直って今は心を入れ替えて保守派孤立主義になった人がいるが、彼にいわせると表向きは個人主義や自由主義を唱えるファシストや共産主義の人間にはこれまでにいくらも会ってきたという。ソ連の憲法には個人の言論の自由などがいくらでも保証されていたというが、実際に国民がスターリンの悪口などいおうものなら強制労働キャンプ送りになった。北朝鮮や中国にしたところで、朝鮮民主主義人民共和国だの中華人民共和国だのと民主主義も共和制も全くないくせに名前だけは立派なものがついているのがいい例である。
実は先日から、例の左翼(多分共産主義)のレズビアンフェミニストの小山エミちゃんが(写真をみてから親しみが生まれてしまったカカシなのよね)自分の経済面における姿勢を示すことで、自分は左翼でもなければましてや共産主義者ではないといいたげなエントリーを書いている。もっとも例によって彼女は「私は左翼でも共産主義者でもありません!」とは断言していないので、判断は読者に任せるといったかなりいい加減な態度をとっている。

フェミニズムに限らず活動家業界というのは、…基本的に「左翼」の方が多いわけだけど、…わたしは…どうしてもその文化に馴染めない部分があった。それを一言で言うなら、「正しい動機」を元に「正しい目的」のために異論を排除したり必要なプロセスを省き、ある不公正を是正するための行動が別の不公正を生み出している可能性に無頓着な活動家たちの傲慢さだ。….
わたしがそうした違和感を感じたのは、…たまたまわたしが、白人社会におけるアジア人というマイノリティ(少数派)であり、クィア(同性愛者)であり、活動家業界のどこにも「自分と同じ人たち」ばかりが集まる居場所を見つけられなかったことに関係していると思う…..
わたしのことを「左翼フェミニスト」と決めつけて批判した人は、左翼やフェミニストは口先で正義を語りながら実際にはこんなに腹黒い奴らだみたいなことを言っていたのだけれど、わたしが思うに問題はその逆だ。腹黒いだけの連中なら、利害によってはどちらにでも転ぶわけだから、まだ行動を予想・コントロールしやすい。問題なのは、活動家業界では「正しい動機」「正しい目的」が現実的なコスト計算やトレードオフの分析を押し退けて、ある行為の正当性の根拠とされてしまいがちなことだ
なにしろ経済学によれば、…社会問題を解決するために政府が何らかの政策を実施することは、基本的に経済の生産性を犠牲にすることになる。そこにどんな「正しい動機」「正しい目的」があろうと関係ない。…それを承知のうえで、それでも看過できない不公正をただすために政府が介入するのであれば、それがどういうトレードオフをもたらすのか冷静に分析・論議したうえで、民主的な決定に委ねるべきだと思う
….わたしは(Thomas Sowell『A Conflict of Visions: Ideological Origins of Political Struggles』を)読みながら「進歩主義のことを悪く言いやがって」と反発するのではなく、かれの言う「束縛的価値観」(保守主義)の方に強く共感した。そしてかれだけでなく、世界のさまざまな不正義や不公正の是正を心から願いつつも、左右双方の活動家業界が主張する短絡的な解決策から距離を取り、より現実的なトレードオフを政策として提示する経済学者たちに共感する。
わたしのことを左翼だとか共産主義者だとか決めつける人がいて、…どういう部分がどのように左翼なのかきちんと説明してもらえた覚えがない。…「左翼」はともかく、「共産主義者」というのはいくらなんでも違いすぎるだろう。

上記の彼女の文章を読んでいると、彼女は自分達の崇高な動機と目的のためにその方針が市場に及ぼす悪影響など全く無視している活動家を批判しているように見えるし、また自由市場や自由競争を尊重しているかのように感じる。しかしながら、彼女は一度もこの自分の信念が現実社会においてどのようにあてはまるのかという説明をしていない。
エミちゃんは、自分を左翼だの共産主義だの決めつける人間がその理由をちゃんと説明していないと言い張るので、この際だから説明しよう。
以前に私は人種差別にしろ男女差別にしろ政府が差別する(女性は何々の仕事についてはいけないとか、黒人はどこそこの公立学校に入学できないといったような)法律さえ取り除きさえすれば、あとは市場が解決してくれると書いた。これは女性や黒人の賃金が白人男性よりも安ければ人種や性別にこだわりのない雇用主が人件費節約のために優秀な黒人や女性を雇うようになるからで、他の企業が人件費が高すぎて経費がかさんで最初の企業と競争できないとなれば、こちらの企業も黒人や女性を雇うようになる。多くの企業が同じことをはじめれば黒人や女性の需要は高まり自然と給料も上がり、そのうち才能のある黒人や女性は白人男性と同等の給料をもらえるようになるというわけだ。
ところがこの自由市場による差別緩和を阻止する悪法がある。これが先に説明したアファーマティブアクションで(AA)ある。AAは才能のあるなしに関わらず、ある企業はある一定数の少数民族や女性を雇わなければならない、それだけでなく、昇進の時でも人種や性別を考慮にいれなければならない。仕事のできない少数民族や女性でもやたらに解雇できないといった非常に厳しい規制がある。こうなってくると企業は少数民族や女性を雇う利点を見いだすことができない。かえって少数民族や女性には迷惑な政府介入なのである。
もしエミちゃんが本当の意味で自由市場を尊重しているのであれば、このような悪法には真っ先に反対するはずだが、私のアファーマティブアクションを支持するかしないかという質問に彼女は「アファーマティブアクションにもいいところもあれば悪いところもある」とか「必ずしも女性優遇なシステムとは言えない」とか言って私の質問から逃げてしまった。
私は最近のフェミニストたちの本当の目的は女性救済ではなく左翼主義の促進であると書いたが、これをエミちゃんは『左翼やフェミニストは口先で正義を語りながら実際にはこんなに腹黒い奴らだみたいなことを言っていたのだけれど、わたしが思うに問題はその逆だ。腹黒いだけの連中なら、利害によってはどちらにでも転ぶわけだから』と言って、利益の追求=腹黒いと解釈している。本当の資本主義者なら利益を追求するのは当たり前。それが腹黒いとはどういう意味だ?しかもこうした活動家たちの動機や目的は現実的トレードオフを考慮にしていないが「正しい」と書いていることも注目されたし。(もっとも鍵括弧をしているから自分では正しいとは信じていないというのであればまた話は別だが。)ここでいうフェミニストたちの「正しい動機や目的」こそが左翼主義の促進なのだ。左翼が左翼主義の促進を望むのは左翼にとっては「正しい」動機であり目的であるから全く矛盾はない。彼女たちが市場でおきる矛盾になど興味がないのは当然である。
そしてそういう左翼主義のフェミニストグループのNOWのことを「自分は嫌いだ」といいながらも、カカシが左翼思想促進の役に立つ時はイスラム教の女性迫害をさんざん批判していたのにイスラム教が保守派から攻撃されるようになった途端に批判をやめてしまったことを例にあげてその偽善を指摘した時、エミちゃんはNOWがイスラム教を批判する理由はないといってこの女性団体を弁護した。つまり、NOWによる左翼主義促進という「正しい動機と目的」のために保守派の不公正を是正するためにイスラム教の悪行を無視するという不公正を生んだ女性グループのごう慢さを批判するどころか弁護までしているのである。
しかもエミちゃんはアフガニスタン戦争後も前と同じく一貫したイスラム批判を貫き通しているフィリス・チェスラーをイスラモフォビアのラディカルフェミニストと言って批判してみたり、エクイティーフェミニズムを唱えるクリスティナ・ホフ・ソーマーズの概念をデタラメな解釈だとして「排除」している。(ソマーズ女史にたいしてはジェンダーフェミニズムを批判したというだけでリベラルな女史に「極右翼といっていいほどの保守派論者」などとレッテルを張って過小評価している。)そして別の件でも旧日本軍(右翼)による慰安婦問題の責任を追求しているのに、当時の共産主義といっていいほど左翼よりだったルーズベルト大統領が総指揮官だったアメリカ軍やその配下にあった韓国軍への責任追及には興味がない。
『「共産主義者」というのはいくらなんでも違いすぎるだろう。』ということにしても、彼女はマルクス主義フェミニズムとはマルクス主義を徹底的に批判したものだと述べて、マルクス主義フェミニズムが共産主義を元にしたものだという事実を読者から隠そうとした。自分がマルクス主義でも共産主義でもないなら、マルクス主義フェミニズムを弁護する理由などないはずだ。
もう一度強調するが、私は別に小山のエミちゃんに恨みもつらみもないし、彼女個人を攻撃するつもりは全くないのだ。ただ彼女は非常に典型的な左翼(多分共産主義者)レズビアンフェミニストであるため、その例をつかって左翼がどのように一般市民を騙しながら右翼と戦うかというその戦法を披露してみただけだ。エミちゃんと議論をしていた空さんが、エミちゃんはこういう議論になれていないのではないかとコメントをしていたが、私は彼女は確信犯なのだと断言できる。
ではどうして左翼は自分を左翼と認めないのだろうか?自分の思想に誇りはないのか?他人に自分の本心を知られると何か都合の悪いことでもあるのか?実を言うと、アメリカのフェミニズムが一般にジェンダーとエクイティーの二つに別れると書いたカカシの最初の文章が、「偽装だ」といったエミちゃんの言葉のなかにこの答えはあるのだ。
つまり、フェミニズムがジェンダーフェミニストによって乗っ取られて以来、エクイティーフェミニストと解される普通のフェミニストたちは自分達をフェミニストと呼ぶのをやめてしまった。この中にカカシが含まれていることはいうまでもない。「あんな左翼と一緒にされたくないわ」というのが大多数のフェミニストの考えだったからだ。ジェンダーフェミニストたちはそのことを十分承知しているから、自分達がジェンダーフェミニストだなどとは絶対に認めないのである。
大きな意味で左翼にしろ共産主義者にしろ動機は同じだ。これらの思想を一般市民が認めないことを彼等は知っている。彼等が左翼だとか共産主義者だということが暴露されれば普通の人はまじめに意見を聞いてくれないことを彼等は十分承知しているのだ。だからその事実はなんとか隠さなければならない。しかし彼等が自分達のことを「自分は左翼ではありません!」と断言しないのは、そのように断言して自分達の仲間から「裏切り者」と思われると困るからである。例えばエミちゃんにしても、左翼である以上アファーマティブアクションを支持しません!とは断言できない。かといって支持します、といってしまえば自分の正体がばれてしまう。だからそういう質問は間違っているとか、そんな単純な答えのでるものでもないとか、いい面もあれば悪い面もあるとかいって保守派や右翼の直接的な質問には絶対に答えないのである。
私がエミちゃんは議論に慣れていないどころか確信犯だといったのはこれが理由だ。
というわけなので、自分の政治的見解をはっきり表明しない人間はリベラル/左翼/共産主義者のどれかだと考えて先ず間違いはない。彼等は自分の思想に誇りのもてないあわれな輩なのだ。


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