黒人を装って地方黒人団体幹部になっていた金髪の白人女性

事実は小説よりも奇なりとはよくいったもので、地方黒人団体の幹部として活躍していた黒人女性が、実は全く黒人の血が混じっていない生粋のヨーロッパ系白人であることが、彼女の両親によって明かされるという事件が起きた。
NAACPという黒人市民団体のワシントン州スポケーン支部の支部長で、地元大学の教授でもあり、地元警察の市民代表までやっているレイチェル・ドレザルという女性が、実は白人だったことが先日両親の告発によってあきらかになった。両親によるとドレザルはチェコ、スエーデン、ドイツ、の血統で、多少アメリカインディアンの血が混ざっているが、アフリカ系の血は全く混ざっていないということだった。レイチェルの両親は黒人の子供を四人養子にしたが、その頃からレイチェルは黒人を装うようになったという。レイチェルはもう何年も黒人として生きてきたのだ。
ドレザルは黒人であることで色々差別を受けたとか言って、地元警察に人種差別の被害届などをいくつも出したりしていた。それが原因で彼女の背景が明らかになってしまったというわけ。
だがここで、金髪の白人女性が、髪の毛を染めてアフロにし肌の色を黒くしてまで、何を好んで黒人を装う必要があるのかという疑問が生まれる。アメリカという国の住人でない日本の読者諸氏の間には、アメリカ左翼メディアが垂れ流す『アメリカではいまだに黒人差別がひどい』というプロパガンダを信じている人もあるだろう。だが現実はその反対。以前にも何度かお話したように、アメリカでは過去の人種差別を是正するという目的でアファーマティブアクションなる法律がある。大学入学や就職や昇進に関しても、白人であるより黒人や女性やその他の少数民族であったほうが有利な場合が多くある。(例外は東南アジア系以外の東洋人、中国人、日本人、韓国人は少数民族としての特別扱いは受けない、というよりかえって差別される。)
特に大学教授のように競争率の激しい職種になると、白人であるよりなんらかの少数民族であったほうが仕事を得やすい。以前にエリザベス・ワレンという大学教授が自分はアメリカインディアン系の血筋だと嘘をついて教授の座を得たというスキャンダルもあった。
実は左翼リベラルで特に人権運動に携わる白人の中では、何かしらの少数民族を装う人は結構居るという話だ。だいたい何かの血筋が1/16なんて人なら、見た目では何人種なのかわからない。私のソーシャルメディアの友達の女性は、自分もかなり色白の黒人だが、彼女の旦那さんもやはり色白のラテン系。それで二人の間に生まれた子供二人は金髪で見た目は完全に白人。黒人とラテン系の混血には全く見えない。
はっきり言ってアメリカ人なんて多かれ少なかれこういう人が多い。だから人種なんて全く意味がないと私は思うね。それなのに人種によって特別扱いしたり差別したりということが起きるのは、本当に馬鹿馬鹿しい限り。だが、一番そういう人種差別を行なっているのが何と言っても左翼リベラル及び黒人やラテン系の人権団体なのだ。
さて、この話がブルース・ジェナーの性転換の話の直後だったこともあり、男が自分は間違った性の身体に生まれたと宣言さえすれば女だということになるのなら、自分は間違った人種に生まれたと宣言した人が別の人種として生きて何が悪いんだということになる。という議論があちこちで聞かれる。
人種は性別と違って本当にどうでもいいことだから、かえってこっちのほうが説得力あるように思うね。


View comment

トランス社会の台頭にたじたじの情けない現代フェミニズム

ここ数回の選挙運動で民主党は共和党が女性に戦いを挑んでいるというプロパガンダを流し続けている。大学などでは在りもしない強姦文化/レイプカルチャーが話題になり、無実の罪を着せられた男子学生が大被害を受けたり、女子学生の繊細な神経を逆撫でするような講義はあらかじめ引き金警告(トリガーワーニング)をするようにとか言われて、大学教授たちはびくびくでまともな授業が出来ない有様。だが、実際にフェミニズム及びは女性全体に戦いを挑んでいるのは共和党や保守派や男子大学生などではなく、超過激派左翼のトランスジェンダー活動家たちなのである

この間ニューヨークタイムスのオプエドに載ったエリノア・バーケット女史のコラムがそれを如実に現しているので、ちょっと読んでみたい。バーケット自身フェミニストのジャーナリストで、元女性研究学の教授。ドキュメンタリー映画製作でアカデミー賞を受賞したこともある。彼女のコラムの題名は「何が女性を作るのか?」という直訳になるが、要するに「女性とは何ぞや」という意味だ。
まず、最近性転換中であると発表した元男子陸上10種目の金メダリストブルース・ジェナーが、自分は女性の脳を持っていると発言したことに対し、女性と男性では脳が違うのか、とバーケットは問いかける。

一昔前、ハーバード大学のローレンス・H・ソマーズ教授が男女の頭脳は違うという学説を発表して大批判を受けたことがある。教授はすぐさま男女差別者だといわれ同僚からは総すかんを食い、卒業生徒会からの献金が取り下げられるというひどい罰を受けたりした。それがブルース・ジェナーが自分は女性の頭脳を持っているというと、いまや左翼リベラルたちはジェナーを聖人かなにかのように崇め奉っている。

カカシ自身は女性と男性では頭脳の働きが違うという説は納得がいく。女性と男性では同じ問題を解いているときでも脳の別の部分を使っているという研究を読んだことがある。また、男性は距離感覚に長けているので、縦列駐車とか女性よりもはるかにうまい。だが女性は言語面に長けているので、外国語を覚えるのは女性のほうが早い。これは別にどちらの性の頭脳が優れているとか劣っているとか言う意味ではない。生物学的に男性の頭脳と女性の頭脳を区別することはペットスキャンを撮ればわかるらしい。だが、ジェナーがそういう身体検査を受けたという話は聞いていない。

バーケット女史が腹を立てているのは、彼女自身がフェミニストとして身体の面では男女の違いは明らかであるが、頭脳の面では男女差はない、男女は平等だと何十年にも渡って主張しつづけ戦ってきたことをトランスたちが破壊しつつあることである。また、ジェナーが女装してバニティーフェアという女性雑誌に胸を押し上げたコルセットを着て女性のステレオタイプな姿で現れたことに関しても、女性の価値は外見だけではないと主張しつづけてきたバーケットの怒りをさらにかきたてる。

私の68年間の人生のほとんどの間私は女性たちの、我々の頭脳、我々の心、我々の身体、そして我々のムードすらもひとつの小さな箱におしこめ作り上げられたステレオタイプと戦ってきた。それが突然私が味方と思っていたひとたちが、自分たちを革新家だと誇るひとたちが自己の信念を熱烈に支持するという人たちが、女性と男性の頭脳における些細な違いによって人々の人生は最初から決められているという考えを受け入れてしまっている。

このようなナンセンスが何世紀にも渡って女性を弾圧してきたのだ。(略)ジェナーやソマーズによって我々は定義されない。それは男性が非常に長い間してきたことだ。

バーケットはトランス女が男性を捨てたいというならそれは勝手だが、自分らのの威厳を獲得するために女性たちの威厳を踏み潰すようなことはやめてもらいたいと語る。

カカシ自身、バーケットの意見には賛成だ。トランス女たちが自分たちのことを昔から女性と感じていたと語る時、彼らにとって実際に女性であることの意味などわかるはずがない。バーケットはビジネス会議の時に男性が自分の胸を見つめていたり、セックスの後でバースコントロールピルを飲んだかどうか忘れた恐怖や、混みあった電車の中で突然生理が来たときの困惑や、同僚男性の給料が自分よりはるかに多かったり、体力の差から強姦魔を恐れる気持ちなど、トランス女たちにそんな女性体験は一度もないという。女性として生きるということは、一生を通してこういう体験をしてきたということにある。トランスジェンダーの人々がやたらに誇張する女性らしさとは程遠いものである。

だいたいからして、ブルース・ジェナーは男性としての特権をフルに生かして生きてきた典型である。ジェナーは若い頃から運動神経が発達していて、大学でも陸上の奨学金で推薦入学。女性で運動競技の奨学金をもらって大学入学するのは非常に難しい。女子スポーツは男子スポーツより虐げられているのは現実。特にジェナーが大学に行った1970年代なら今よりずっとひどかったはず。オリンピック選手としてのトレーニング中も、ジェナーは女子運動選手のようにウエイトレスのアルバイトなどする必要はなかった。背も高く立派な体格のジェナーは夜道を歩いていても何も恐れることなどなかったはず。ジェナーは1976年当時世界一のアスレートだったのだ、男の中の男だったのだ、そんな人間に女性の何がわかるというのだ?

女性の頭脳というのは色々な女性体験を元に序々に形成されたものだとバーケットは言う。「私は間違った身体で生まれてしまった」というのも非常に侮辱的だとバーケットは言う。あたかも女性は乳房と膣によって定義されるかのような言い方だ。

バーケットはラディフェムなので彼女自身も左翼リベラル。であるから少数派の権利をやたらに主張するという面ではトランスジェンダーたちに同情する面もあると語る。だが、トランス活動が主流化するにあたり、どうしても問題になるのは、トランス女たちが自分たちの権利を「女性の権利」として主張することにある。トランスジェンダーの運動は、一般社会からの差別をなくすというよりも女性たちに対して、女性という定義を改定せよと求めるものだ。

最近では女性や女性専門用語を使うことがトランスフォビアだと責めたてられる例がいくつもある。たとえば、2014年1月、人工中絶権利の運動家マーサ・プリムトンが「1000の膣の夜」という催しを主催したとき、「膣」という女性性器の言葉を使うことで膣を持たないトランス女を阻害することになると大批判を受けた。その批判にも負けず「膣」という言葉を遣い続けると主張したプリムトンはターフ(トランス疎外者)というトランスが作り上げた侮蔑的な形容詞を投げかけられた。膣がなければ妊娠できない、そんな女に人工中絶は必要ないだろうが、そういう常識が通用しないのがトランス社会。

この「膣」という言葉が問題になった例として、1990年代にフェミニストの間で大人気になった「ザ・バジャイナモノローグス」(膣の独白)という芝居がある。これは女性独特の性体験について数人の女性たちがそれぞれ語るお芝居。それが、2015年の1月、マウント・ホーリーダイク女子大学では、このお芝居が「女性であることに関して非常に狭い見解を持つもの」という理由で上演をキャンセルした。

トランス女たちは「膣」という言葉を使わず「正面の穴」とか「体内性器」とかいう単語を使えと主張しはじめた。女性性器を穴扱いするな!と私は言いたいね!こういういことを言うことこそ女性を尊敬していない証拠。

最近では「女性」という言葉すら差別用語だと批判する輩が出てきた。拙ブログでも以前に紹介したが、中絶専門の医療センターで「女性」という言葉使いをしないようにと働きかける運動がある。その理屈は中絶は女性だけの問題ではないからというもの。もしこれが中絶の決心は父親にも関係があるというなら解るが、そういう意味ではない。ここで言う女性以外の人というのは、生物学的に女性として生まれながら生殖器だけは残して男性として暮らしていながら妊娠したトランス男たちのことを指している。

以前にも言ったが、女性として究極の役割である妊娠出産をあきらめることが出来ずに、自分は男だと主張する人間の精神状態は明らかに異常である。しかしこれらの異常者からの圧力で女性専門医療センターが「女性」という言葉使いが出来なくなっている。

また、女子大学ではトランス男たちの扱いで複雑な状態が起きている。私から言わせれば自分は男だと言い張る人間が何故女子大にいるんだと思うが、彼女たちは自分は男だといいながら女子大の生徒会などで活躍しているというのだからよくわからない。自分は女だと言い張るトランス女たちを受け入れている女子大はあるのだろうか?女子大でもエリート中のエリートウエルスリー大学では生徒たちの間から「姉妹愛」や「彼女」という代名詞を使わないようにという要求が多く出てきているそうだ。

今や女性という概念を正しく定義つける権限はトランス人間だけに与えられた特権となったのか、トランス人間以外に本当の女性は存在しないのか、とバーケットは問いかける。

もしトランス社会の目的が男女という二つに一つのステレオタイプを壊すことにあるのであれば歓迎するが、もしそれが女性であることのアデンティーを弾圧しこれまでの女性運動の葛藤や苦労を消し去ろうというのであればそれは絶対に受け入れることは出来ないとバーケットは言う。

現実は、まさにバーケットが恐れるとおり。トランス運動家たちの目的は女性という定義の破壊だ。女性の権限弾圧だ。フェミニストたちが男女には全く差がないと主張した時からこの運命は決まっていた。男女は明らかに違うが、それを認めたうえで差別しないという方針を取っていればこういう道にはつながらかっただろう。

今、若かりし頃のブルース・ジェナーのような男子陸上選手が自分は女だと言って女性競技への参加を主張したらどうなる?今後女性競技は全てトランス女によって占拠されてしまう。女性競技は破壊される。

トランス女を女性として認め受け入れることは女性運動を完全に破壊するのみならず、女性の立場を極端に弱める方向へとつながる。女性人権の弾圧につながる。トランス女ほど男尊女卑のグループも存在しない。彼らは普通の男性よりよっぽど差別意識が強く偏狭で汚らしい運動家たちである。そういう意味で普段はラディフェムとは相対する意見を持っているカカシだが、ことこの件に関しては私はラディフェムを前面的に応援したい。


View comment

ブルース・ジェナーの性転換は単なる売名行為

元オリンピック陸上競技金メダリストのブルース・ジェナーが今流行りのトランスジェンダーだと告白してメディアは大騒ぎ。整形手術後(まだ未完成らしい)の写真をファッション雑誌で公開した姿が美しいと評判。
は!どこも整形していない普通の男性だって女装して厚化粧してプロの写真家に撮ってもらえば信じられないほどきれいになるし、それにくわえて多々のエアブラッシやフォトショップでいくらも欠点は補える。こんな写真だけ見ても本人が実際に女に見えるかどうかはかなり怪しい。
トランス女を本物の女性として扱うかどうかという点については賛否両論がある。無論私は性転換手術なんか受けようという人は精神病を患っているのであり、その精神病に迎合するような態度を社会はとるべきではないと考えている。実はそれについて色々書こうと思っていたところ。
しかしながら、ジェナーに対する応援にしろ批判にしろ、ジェナーの本当の目的は人々の話題の種になることにあった。
ミスター苺は、ジェナーが金メダルを獲った当時、ジェナーは国民的英雄として人気の的だった。スポーツ選手を宣伝に使う朝食シリアルの箱に顔写真が載ったり、今風に言えばイケメンが幸いしてコマーシャルやバラエティーショーやトークショーなどひっぱりだこだった。しかしそれはもう40年以上も前の話し。それ以後は俳優に転向するでもなく、スポーツキャスターになるでもなく、今の若い人で陸上選手としてのジェナーを知っている人は少ないと思う。
最近のジェナーはキム・カダーシアンというリアリティーショーの美女ヒロインの継父ということでテレビに出演してはいるものの、あくまでも脇役。これといった名声があるわけではない。
ところが、自分はトランス女だと発表した途端、左翼リベラルメディアや芸能人やひいてはオバマ王までジェナーは英雄だとか勇敢だとか訳のわからない賞賛を浴びせ、今やジェナーは一躍トップスターの座に押し上った。ジェナーの演説講演費はトランス発表前の4倍の額になったというし、ジェナー主役の性転換の過程を追ったリアリティテレビ番組の公開も真近いという。
単なる売名行為だけのためにここまでやるか、という疑問もあるかもしれないが、大昔中国では宦官(かんがん)といって、自ら去勢して宮廷勤めをする人間が多く居た。宦官になることよって出世し莫大な権力を得る可能性があったからだ。タイでは今でもトランスは職業みたいなもの。同性愛者でも性同一性障害でもない男性が金儲け目的でトランス手術を受けることが後を絶たない。
そう考えれば名声や金儲けのためにトランス女になることをジェナーが決意したとしても、今の時代変態的な行為ではあるといえ、全く理解できないこともない。
まったく不思議な世の中になったものである。


Comment

去勢男たちに乗っ取られた現代フェミニズム

先日から、小山エミが韓国人慰安婦の問題で話題の人になったらしいという話をしているが、実はそれとは全く無関係な調査をしている最中に、またまた小山エミの名前にぶち当たり、何故私は彼から逃れられないのだろうと苦笑してしまった。実は前々からフェミニズムが男から女(MTF)に転換した去勢男たち(トランス女と呼ばせてもらう)に乗っ取られつつあるという話を聞いていたが、そのことについて色々検索していたら小山エミが2001年に書いたトランスフェミニズムマニフェストなるものを発見した。それを読んでいて、小山について長年そうではないかと思っていた疑惑がやはりそうだったのかという確信に変わった。結論からいえば、小山自身が男から女へと転換を図ったトランス女だったということだ。

カカシが小山のことを当初かなり誤解した理由は、私自身が非常にナイーブで、LGBTやトランスによるフェミニズム乗っ取りについて全く無知だったということにある。カカシが小山のことをレズビアンと呼んだり、レズビアンフェミニストの話をしたりしたときに、小山が『カカシさんに説明してもわからないと思う』と書いたり、ラディフェミに対して少なからぬ敵意を抱いているという印象を持ったのも、今思えばそういうことだったのだなと納得がいく。ま、小山の写真をみれば、あれが普通の女性でないことは一目瞭然なのだが、女性だという先入観を持ってみていたので、唖然としてしまった覚えがある。(ミスター苺は常に「あれは男だ」と言っていたが。)
2014年8月発行のニューヨーカーに載ったミッシェル・ゴールドバーグの記事が解りやすくラディフェム(極フェミニスト)対トランス女(について語っているのでそちらの記事を読みながら現在のフェミニズムについてちょっと考えてみたい。

最近、トランス女を女として認めているリベラルフェミニストたちと、トランス女はあくまで男であり、女子トイレとか女子更衣室や、女性のみを対象としたイベントにトランス女たちを入れるべきではないという姿勢をもったラディフェムたちとの間で大きな亀裂が生じている。だが情勢はラディフェムたちにかなり不利。ラディフェムはトランス女たち率いるリベラルフェムたちに圧倒されており、今やフェミニズムはトランス女と呼ばれる去勢男たちに乗っ取られてしまっているのだ。

最近になってトランス女たちの権力が顕著となってきたが、実は、トランス女たちによるフェミニズム乗っ取りはもう40年以上も前からその兆しをみせていた。
最初にフェミニストたちの間でトランス女の存在が問題となったのは、1973年にロサンゼルスで開かれた西海岸レズビアン大会で当時はまだ珍しかったトランス女でフォークシンガーのべス・エリオットの演奏を許可するかどうかでもめたことにあった。大会の主賓演説をしたロビン・モーガン(女性)はトランス女について、

私は男を「彼女」とは呼ばない。32年間男中心社会で苦しみ生き延びてきて「女性」という肩書きを獲得した。それを女装して数分間町を歩いてひやかされた(多分それも楽しんで)くらいの男が、よくも、よくも、私たちの苦痛がわかるなどというな。 いや、我等が母の名において、我らの名において、我々は断じて彼を妹などと認めてはならない!

と語った。ゴールドバークはこういう意見は最近では少数派になったがラディフェムと呼ばれる人々の間では強く信じられた信念だという。カカシとしてはラディフェムのほうに肩を持つね。トランス女たちは自分らは男の身体で生まれたが頭脳は女性だと主張するが、ラディフェムは男らしいとか女らしい考え方とか行動というのは、男中心の社会が決め付けたものであって「中和された服従」なのだと主張している。

ゴールドバークは、ラディフェムの考える性別はアイデンティティーというよりも社会の地位と受け取れるという。つまり、男として生まれた人間はたとえ後に女になることを選んでも、男としての有利な立場は一生保持されるというもの。女になるという選択権があるということ事態、男に女の立場など理解できるはずがないというわけだ。であるからトランス女を女性として認めよと要求するのも男としての権限を振りかざしているに他ならないというのだ。
トランス女たちや、その支持者たちはトランス女が受けるひどい差別や嫌がらせなどからトランス女の間での自殺率が高いことなどをあげてラディフェムの考えがいかに偏見に満ちたものであるかを主張する。だが最近トランス女たちの権力は目にあまるものがあり、ラディフェムたちのほうがずっと虐待されている。

去年の5月にオレゴン州のポートランドで行なわれたラディフェムの演説会も最初はクエーカー図書館の会議室で行なわれるはずだったのが、土壇場になってトランス活動家による抗議によりイベントがキャンセルされてしまい別の場所に移動せざるおえなかった。こういうことは何もこれがはじめてではない。2012年にロンドンで行なわれたラディフェム大会は、当初コンウェイホールで行なわれることになっていたが、大会はトランス女の参加を拒否していたことと、反トランスとして有名なシーラ・ジェフェリー女史が演説をするということで、トランスジェンダーの活動家らによる圧力に屈してコーンウェイホールは大会の開催を拒否。結局ラディフェム大会は別の秘密の場所で開催された。カナダのトロントで開かれた2013年のラディフェム大会もまたトランス活動家により土壇場で場所を変えざる終えないという状況に追い込まれた。

ラディフェムたちはトランスによる時として暴力的な妨害に対して「ジェンダー批判の鎮圧」だとして抗議したが時すでに遅し。トランス側はラディフェムは差別的なヘイト団体だというレッテルを張り、新しくラディフェムを侮辱する言葉としてTERF/ターフ(trans-exclusionary radical feminist. トランス阻害過激派フェミニスト)という単語を作り出し、ラディフェムたちの弾圧により力を入れている。

トランスによるラディフェムへの攻撃は尋常なものではない。ツイッターでのラディフェム攻撃は脅迫まがいのものが多く、ある若いブロガーはナイフをかざしたセルフィーを撮って「ターフをつれて来い!」というサインをかざしたりしている。こういう命を狙うような脅迫状が多くなったため、ラディフェムのウェッブサイトではそういうコメントを記録するまでになった。ラディフェムでディープグリーンレジスタンス(DGR)というエコ(環境)フェミニストグループを作ったリーラ(?)・キース(Lierre Keith、女性)はトランスたちはラディフェムが彼らを女性と認めないことにひどく腹を立てていると語る。

キースのグループ自体、かなり過激なエコテロリストグループらしいが、その暴力的な姿勢よりもトランスに対する姿勢の方が問題視されている。彼女たちの考えでは男としての特権を持って生まれた人間がどんな手術をしようと女になどなれない。それは白人が日焼けして黒人だと主張しても認められないのと同じだ。このディープ、、が始めて会合を開いた2011年、男から女への転換中の男性の女性専門寝室への入室を拒否した。「男性が支持者として会合に参加するのは結構ですが、女性が寝る部屋や女子トイレへの使用は許可できません」と言うのが理由。あったりまえだろうと思うが、これが問題なのか?

キースのこの態度がトランス派にはかなり気に障ったと見え、去年の2月キースがオレゴン大学で環境保全法についての演説をするはずだったのが、トランス支持派の生徒会の猛反対を受け、命の危険すらあるということでキースは6人の警察官に護衛されて壇上に立ったという。

最近は、一旦は自分はトランスだと思い込んで転換への道を歩み始めた人々が、やっぱり自分はトランスではないと気がついて元の性に戻ろうとする人が少なからず増えている。カカシは女から男へ転換しようと決心して男性ホルモンを一年以上も打っていた人が、やっぱり止めることにしたと涙の宣言をしているユーチューブビデオを何本か発見した。彼女たちは自分のなかで「男っぽい女」でいることが本当の自分なんだとやっと納得できた人たちである。
しかし、性転換が難しいとしたら、逆戻りはもっと大変だ。それは身体にかかる負担もそうだが、トランスを拒絶したとしてこれまで仲間としてつきあっていた人たちから背信者として攻撃を受けるからである。そんななかの一人、ヒース・アトム・ラッセル(女性)は大学在学中にトランス治療を始め大学のトランス人権団体から祝福されていた。しかし四年生のときにシーラ・ジェフェリー著の「アンパッキングクイアーポリティクス(同性愛政治解体)」という本を読み、FTMは男性優位社会に迎合する行為だという主張に感動し性転換をやめたという。カカシが発見したビデオでの告白では、彼女にはレズビアンとしての良きロールモデルがおらず、女が好きだから自分は男であるべきだという間違った考えに感化されてしまったのだという。

彼女の体験はシーラ・ジェフェリーの新作「ジェンダーハーツ」にも登場するんだそうだ。カカシはジェンダーハーツは作品紹介の部分しか読んだことがないが、やっぱりちゃんと読むべきだな。

シーラ・ジェフェリーはオーストラリア出身で今はロンドンの大学教授で、フェミニズムに関する本を9書も書いている権威あるフェミニスト。普段なら新作発表はロンドンの大学書店で行なわれるのだが、今回大学側から厳重な警備が必要だと警告され、新作発表は招待客のみで行なわれることとなった。またジェフェリー女史は、ロンドンの大学にある自分の事務所のドアから名札を外したという。トランス女は女ではないと主張しただけで命まで狙われるとは何と言う恐ろしさだろう。

フェミニストがトランスジェンダーに批判的な本を書いた例はなんと1979年にまでさかのぼる。元尼さんのレズビアンフェミニストジャニス・レイモンドが書いた「ザ・トランスジェンダー帝国、シーメール(彼女・男性)の作成」彼女は尼から医者に転向した人で、医者の立場から性転換手術による身体的精神的な弊害について書いた。レイモンド女史は女性から男性への転換手術について、「すべての転換は女性の身体を強姦するものだ。「トランスセクシュアルによるレズビアンフェミニズムは女性の性と精神を冒涜するものである」としている。このような考えは40年前は主流メディアからも斬新な考えとして好評を受けた。それに比べてジェフェリー女史の「ジェンダーハーツ」はメディアからはほぼ完全無視の状態。時代は変わったものである。

レイモンド自身、彼女に対する風当たりが近年ひどくなってきたことを感じている。彼女は今、トランスに関する問題よりも人身売買についての研究に専念しているが、去年の8月ノルウェー政府からの招待で売春婦登録に関する法律について語るはずだったのが、行ってみると招待が引き下げられていた。それというのも彼女はトランスフォビアだという投稿が主流新聞に載ったからだという。

トランスというか、ジェンダーに関する考えが劇的に変わったのは何と言っても大学だ。特に文科系の大学では生徒はどんな性別の代名詞を使いたいか聞かれるのは普通だという。日本語ではあまり彼とか彼女という代名詞は使わないが、英語だと他人の話をするときはhe/sheの区別が必要。ところが最近は “ze,” “ou,” “hir,” “they,” なかには“it” なんてのもあるんだそうだ。カカシも最近フェイスブックでは20いくつの代名詞があると聞いてぶっとんだくらいだから。面倒くさいから中性の「あの人」みたいな言葉をつくったらいいんじゃないのかと思うね。

最近では大学の保険が性転換手術の費用負担をしたりするところも増えているんだとか。ハーバードやエールやドューク、カリフォルニアのUCシステムもそうなんだとか。医療といえば、先にあげたラッセルが大学で女性は妊娠によって弾圧されているという話をしたとき、他の生徒からまじで「でも女性でも男の場合はどうなの?」と聞かれたという。なんだそりゃ?

もっと複雑で笑っちゃうが冗談じゃない話がある。フェミニストといえば人口妊娠中絶の権利を主張するのが定番だが、ニューヨークの人工中絶基金( the New York Abortion Access Fund)という中絶費用が出せない若い妊婦たちへの費用提供のための基金では、去年の5月、妊婦を「女性」と呼ばないことに決めたという。女性というと女から男へのトランス男たちを排除することになるからだという。何でトランス男が妊娠するんだよと聞くのは野暮なのだろうか?NARALとか中絶専門施設のプランドペアレントフッドなどにも「女性」という言葉使いをしないようにという圧力がかかっているそうだ。

こういう言葉使いの変化について批判するのはシスジェンダー(cisgender)の特権にしがみつく行為だというのが若いフェミニストたちの言い分。シスジェンダーというのは要するにトランスではない人たち、つまり正常な人間のことをさす。左翼リベラルってのはやたらとくだらない言葉を作り出して、周りにその言葉使いの使用を強制する。単に正常人と呼べ、と言いたいね。

古いタイプのフェミニストたちはこういう新しい考えについていけない人が多い。サラ・セイント・マーティン・リン(41歳女性)は昨年ベイアリアガールスロックキャンプの委員会から辞任を要求された。それというのも彼女がミシガン女性音楽祭the Michigan Womyn’s Music Festivalに関連しているというのが理由。女性という意味のwomanをわざわざWomynとつづるほどの過激派フェミニストたちの音楽祭は、女性に生まれた女性のみの参加しか許可していない。

この音楽祭でトランス女が追い出されるという事件がもう20年以上も前にあったという話は小山エミのエッセイを読んで知ったのだが、その後手術後のトランス女はいいのではないかという話が持ち上がり、その際手術前のトランス女たちが抗議してはちゃめちゃなことになったらしい。まったく事実は小説よりも奇なりというが本当である。
さて俗にミシフェストと呼ばれるこの音楽祭は毎年8月に開かれている。創設者はリサ・ボーゲルで始まったのは1976年、彼女がまだミシガン大学の学生だったころに始め、いまでもボーゲルが主催している。音楽祭とはいうものの、音楽もさることながら、大事なのは毎年何千という女性が集まり、キャンプを設置し女性だけの女系コミュニティーを作ることに意義があるのだとボーゲルは言う。人によっては豪華なコスチュームで現れる女性もいれば、素っ裸で歩き回る女性もいる。もしも世の中が女性だけだったらどういうふうな社会になるだろうというファンタジーの世界を作り出すのが目的だという。

彼女にとって夜一人歩きをしても安全を感じられる場所は大事なのだという。ここは女性が無防備でも安心できる場所であり、こんなところは他にないと。「明日、誰でも大歓迎ということになったら、それはそれでクールな場所かもしれないけど、我々が我々であることの深い意味での自由な意識は変わると思います。」

トランス活動家たちからすれば、トランス女は女性にとって危険な存在だといわんばかりのボーゲルの考えは非常に侮辱的に取れる。

トランス女で生物学者のジュリア・セラノ(MTF)はトランス女が居ると普通の女性が不快になるというのは、ゲイやレズビアンが更衣室にいると不快だというのと同じ理屈だという。セラノについてはジェフェリーの新著のなかで「フェミニズムを自分の変態的性欲に合わせるべく変えようとしている」としてかなり手厳しく批判されている。セラノは今や現代フェミニズムの新星として大人気者、大学の講演などでひっぱりだこだ。抗議がキャンセルされたり警備が必要なラディフェムたちとは大違い。

2003年、セラノは約百人のトランスたちとキャンプトランスなるキャンプを設置しミシフェストに抗議した。この抗議キャンプは最初にトランスたちがミシフェストから追い出された1994年から時々開催されていた。それまではミシフェスト参加者との遭遇は比較的平和的だったというが、その年はトランスキャンプがあらされケーブルが盗まれたり水源が止められたりという嫌がらせがあったという。

それ以後、トランスたちの作戦は、ミシフェスト参加ボイコットを使った嫌がらせへと変更された。おととし、ミシフェストで長年レギュラー出演していたザ・インディゴガールズは突然、トランス参加を認めるまではミシフェストでの演奏はしないと宣言。去年のヘッドライナーのハンター・バレンティーノも同じ理由で参加を辞退。逆にミシフェストで演奏したパフォーマーたちは別の場所でボイコットを受けたりしている。ファンクシンガーのシェリー・にコールは彼女のバンドがミシフェストに出演するとわかったとたん、ブルックリンのショーから下ろされてしまったという。.

ベイアリアガールスロックキャンプの幹部から辞任を余儀なくされたセントマーティンリンは、首になるまで自分がラディフェムだという意識はなかったという。だが、ミシフェスト攻撃運動やラディフェムへの攻撃が過激化していくのをみるにつけ、女性として生まれた女性のみの大会は存続されなければならないと強く思うようになったという。

トランス活動家のサンディー・ストーン(MTF)は、ラディフェムたちはトランス女たちの邪魔をしないで欲しい、ラディフェムを避けるのはトランス女の責任ではないという。

カカシが思うに、ラディフェムはトランス女たちの邪魔をしているのではなく、トランス女たちがラディフェムの区域に侵入しようとしてくるのを防ごうとしているだけだ。ラディフェム主催のミシフェストをボイコットするのはいいとしても、何故ミシフェストに無理やり参加を要求しなければならないのだ?

トランス女という去勢男たちにフェミニズムが乗っ取られてしまったというのも皮肉な話ではあるが、トランス女たちの横暴はフェミニズム乗っ取りだけでは済まされない。今や過激派トランス活動家によるトランス女を女子トイレや更衣室に入れろという運動は全国各地で起きており、カリフォルニア議会は市民の許可も得ず勝手にトランス女の女子専門施設入室を許可する、バスルームビル(いわゆるトイレ法)を通してしまった。これについてはミスター苺やカカシもその抗議署名運動に加わり、次の選挙でトイレ法廃止案を投票項目に加えるべく運動に参加している。(前回は署名数不足といういいがかりをつけられて項目に載らなかった。)カリフォルニアのトイレ法はいまのところ施行差し止め中。にもかかわらず多くの学校で不法な施行がすでに始まっている。

左翼リベラルのやることは常に保守的な組織を破壊することにある。だが、トランス女を女性専門施設に入れろというのは、一時期男性のみだった商工会やビジネスクラブに女性の入会を許可しろというのとはまるで違う。またゲイやレズビアンを軍隊に入れろというのとも違う。なぜかと言えば、ゲイやレズビアンが傍にいて不快になる人が居たとしても、それ自体軍隊の仕事に支障はきたさない。また、更衣室などで同じ性の同性愛者が居たとしても、それ自体危険な状況ではない。

だが、女子トイレや更衣室に男性が居ることは、単に女性が不快になるだけでなく、女性の安全を脅かすことになる。それはトランス女が危険だというより、トランス女を装う変態男たちの使用をも許可することとなるからである。

以前にも書いたがカリフォルニアのトイレ法は、自分が女性だと思っているだけで女装もしていないどう見ても男にしか見えない男が女子トイレや更衣室に入室するのを許可するという信じられない法律なのだ。ある個人が頭のなかでどんな妄想を描いているかなど他人に解るはずがない。これは幼児わいせつ癖のある変態男でも、自分は女だと主張しさえすれば女子トイレに入れるとなれば、女性の安全など絶対に保てない。

今なら、女子トイレに入ろうとする男がいたら警備員が注意をすることも可能だが、トイレ法が通れば普通の男がずかずか女子トイレや更衣室に入っても誰も文句は言えないのである。この間のプラネットフィットネスで起きた事件など、文句をいった女性会員が会員権を剥奪されるなど、まるで常識が通らない世の中になりつつある。
ラディフェムたちがトランス女たちに圧倒されていることは、これまでのラディフェムのやり方からして「いい気味だ」とかいってやりたい気もしなくはないが、トランス横暴の被害者はラディフェムだけに収まらない。そこが重大な問題なのである。


View comments (2)

カカシの勝手な翻訳が引用されて話題になったって話し

本当にどうでもいい話なので、本日は口語体で話させてもらおう。実は私が小山エミについて書いた2008年のエントリーがやたらにヒット数が多くなってるので、何でだろうと思ったら、私が勝手に使った「レズ坊」という単語が変なところで引用されて話題になったらしい。
先ずことの起こりは秦郁彦という日本の官僚で歴史家という人が、正論という雑誌だかなんだかに小山エミについて

『フェミニスト、レズ坊、おカマ、売春婦、両性体質、など多彩な社会活動を扱う活動家」と自称するが』

と書いたことに対して

秦郁彦せんせーが、『正論』でわたしに名指しで言及している。しかし戸塚せんせーと組んでツアーするとか嘘だし、レズ坊とか両性体質とか聞いたことがない言葉がいくつもw そんなの自称したことないよ!

と反応しそれに関する多々の意見がツイッターで交わされた模様。ツイッターをまとめたのがこのページ
で、いったいこのハチャメチャな発言はどこから来たんだろうということになって誰かが、その出所はここじゃないの、といってリンクを張ったのがなんと拙ブログの小山エミに関するエントリーだったというわけ。
実は私の書いた原文はこれ。

エミ・コヤマは自分のことを尻軽女であると書いている。そしてフェミニスト、東洋人、生き残り、レズ坊、おカマ、売春婦、両性体質、ジェンダークィアー(?)そしてクリップポリティクス(?)といった多様の社会問題を取り上げている活動家なんだと説明している。

しかし、これは私の勝手な概訳であり鍵括弧にも入れてないので、小山の直接の発言ではないことは文脈からはっきりしているはず。事実、この文章の前にきちんと英語の原文も添えておいた。下記がそれ。

Emi Koyama is a multi-issue social justice slut synthesizing feminist, Asian, survivor, dyke, queer, sex worker, intersex, genderqueer, and crip politics, as these factors, while not a complete descriptor of who she is, all impacted her life. Emi is currently the director of Intersex Initiative. Emi lives in Portland, Oregon and is putting the emi back in feminism since 1975.

私が「レズ坊」とか「おカマ」とか「両性体質」とかいう言葉使いをしたのは、dyke, queer, intersexという英語はそのままでは意味が伝わらないだろうと思ったからで、わかりやすい日本語に私なりに書き換えたに過ぎない。
エミちゃんは気に入らないみたいだが、はっきり言って「レズ坊」ってレズビアンで男性っぽい人のことを示し、多少侮蔑的な要素も持つdyke(ダイク)の訳としてはぴったりだと思うんだけどね。私は昔、男っぽい格好をしていることが多く、宝塚の女役みたいな可愛い女の子と一緒にいたら、男性から「レズ坊」と呼ばれたことがあるのだ。決して存在しない言葉ではないよ。
それから「おカマ」という言葉も、日本語で男性の同性愛者で特に女性っぽい人のことを示すことばで、主に男性で女性っぽい同性愛者を侮蔑的に示す言葉であるqueer(クイアー)の訳としては適訳だと思う。
はっきり言ってカカシの訳は全然問題ないと今でも思う。
ここで問題があるとしたら、秦郁彦氏が私の概訳をそのまま引用してしまったということ。多分私のページからではなくて、誰かが引用に引用を重ねたどっかからのページからの引用なんだろうと思う。小山が自分のことをどういうふうに書いているかということは、実際に小山のウェッブページに行けば読めることなので、それをしないで誰かの引用をそのまま小山が書いたことであるかのように書いてしまったというのはプロの執筆家として怠慢だね。
これじゃ突っ込まれても文句はいえないだろう。
でももし私の訳した「レズ坊」が流行り言葉になったら、何か賞でももらえるのだろうか?


View comments (2)

反フェミニストに論弁の場を与えるな!反対論はややこしくなるだけ

この間からクリスティーナ・ホフサマーズ女史のツイートを追っているのだが、左翼リベラルというのはよくよく反対意見を聞き入れる寛容性のかけらもないとみえる。ホフサマーズ女史が演説をしたワシントンDCのエリート大学ジョージタウン大学では、演説の終わったこの後においてさらにアンチ、ホフサマーズ姿勢を崩さない。
まずはジョージタウン大学の大学新聞の社説から。

性犯罪の統計は誇張だとし由緒ある調査を「統計歪曲」などと主張する人間に発言の場を与えるということは、会話妨害の引き金を引くことにしかならず、大学が約束した生存者への資源を増加させる発展を妨げるに他ならない。

解決法や生存者への資源から目をそらせるこのような手口にはどんな場もない、特にジョージタウンにそんな場所はない。(略)生存者の生の体験の姿勢を否定することは、(ジョージタウンの)価値観と真っ向から対立するものだ。
どのようにして問題を解決するかではなく、「誇張されている」かどうかを議論するのは、ジョージタウンの生存者への侮辱であり、無行動の原因となる。

「議論の時間は終わった、行動、行動、行動!」という訳だな。だが、行動の元となる証拠が間違っていたらどうするのだ?間違った証拠を元に行動に移ったら、社説のいうところの大事な資源の無駄遣いであるだけでなく、もしかしたら逆効果となる可能性もある。実際の問題をきちんと把握せずに有効な解決策は望めない。
ところで、この社説のコメント欄のなかで指摘があったが、当日のホフサマーズ女史の演説は大学構内の強姦の文化についてではなく、女性と男性の均衡性に関する神話についてだったとか。ジャーナリストなら演説の内容くらいきちんと把握してから批判を書いて欲しいものだね。
さて、同じジョージタウン大学の生徒サービス委員会は、女史の講演を主催した共和党生徒会に対し、女史の講演に抗議に来た生徒たちの映像は、本人たちの同意の下に撮影されたものではないので、これらの生徒たちの写っている部分は記録映像から取り除くようにと命令した。もし共和党生徒会がこの指導に従わないときは、委員会そのものが行動に出るという脅しまで含まれていた。
大学で行なわれるイベントではビデオ撮影は記録として残されるのは普通だ。女史の演説のあった会場でもビデオカメラがあちこちに設置されていた。同会場に入場した以上、それが普通に参加する目的であったにせよ抗議であったにせよ、観客として撮影されることは誰にでも明らかであり、会場に入場した時点で撮影されることに同意したことになる。
無論大学側はそのようなことは十分承知である。彼らの目的はホフサマーズ女史の演説ビデオ没収にあるのだ。
こうまでして反対意見を黙らせたいというのは、よっぽど自分らの主張に自信がないのということだな。ま、ラディカルフェミニストたちの常套手段なので今更驚かないけどね。で、最近反トランスのラディフェミたちが、フェミニスト会合から締め出されて、言論の場を失いつつあるという話を聞いて、自業自得だろうと思ったのも、彼女たちが常にこういうことをしてきたんだから因果は回るだなと思ったからだ。反トランスに関してはラディフェミの言い分には同感だが、彼女たちが親トランスフェミたちに虐げられても同情の感はまるで沸かないね。


Comment

『引き金警告』『安全地帯』という言葉で女性を馬鹿にするフェミニスト

この間、私が尊敬する元フェミニストのクリスティーナ・ホフ・サマーズ女史がオハイオ州のオバーリン大学で演説を行なった。確かオバーリン大学といえば、醜い裸体をテレビで毎週披露しているレナ・ダナムの出身校。彼女自身が「在学中に大学共和党員にレイプされた」という嘘で騒いだ、あの大学である。
ホフ・サマーズ女史は現代フェミニストの宿敵なので大学での講演など開けないのが普通だが、オバーリン大学の共和党生徒会の招きによって講演が可能となった。女史は、「大学キャンパスにおけるレイプ文化など存在しない」とか「賃金の男女格差は嘘だ」などと遠慮なしにビデオブログやツイッターなどで主張しているので、ばりばり女子大学生フェミニストたちが彼女の講演に敵対心を持って会場前に出された講演紹介の看板に落書きや張り紙を張ってみたり、観客席から野次を飛ばしたりしたのを見ても、まあ、左翼リベラル大学生なら普通の行動なので驚きはしない。
しかし、ホフ・サマーズ女史が楽屋で打ち合わせをしていたとき、会場に二人のどうみてもレズカップルと思われる醜い女子生徒が観客の前に立ち、「引き金警告(トリガーワーニング)」と「安全地帯(セーフルーム)」のご案内をした。これはどういう案内かというと、ホフ・サマーズの演説には強姦に関する話題が含まれているため、それを聞いた女性たちが恐怖感を覚えて気分が悪くなる可能性があるので、女史の演説で気分が悪くなった人は近くに「安全地帯」となる休憩室があるのでそちらをご利用ください。というものだった。
実は、この「引き金警告」とか「安全地帯」というのは最近フェミニストたちの間で使われるようになった新しい言論弾圧のやりかたで、特に大学内での講義や演説で生徒の気持ちを傷つける可能性のある内容が含まれている場合は、それをあらかじめ生徒たちに警告しなければならないという概念。そしてそうした授業などで傷つけられた女子生徒たちが安心して気持ちを落ち着けるために休憩できる場所を「安全地帯」として設置すべしというもの。で、この安全地帯として設けられた部屋にはぬいぐるみとか毛布とか女の子が安心できるようなものが置いてあるんだそうだ。

馬鹿にしないでよ!女をなんだと思ってるの?ビクトリア時代のイギリスじゃあるまいし、女性をやたらにか弱い性として差別しないでくれる?

元来のフェミニストであればそのように怒るところなのだが、フェミニスト自身が考え出したというところが皮肉である。まったく最近の若いフェミニストたちは根性がないな、情けない。せっかく先代のフェミニスト諸姉が築き上げてきた男女同権やたくましい女性像をこんな形で崩してしまうとは。
だが実は、この引き金警告というのが曲者なのである。大学内ではすでにこのシステムを起用するところが増えているが、大学教授が自分の講義のなかで誰かの気持ちを傷つけるかもしれない内容がある場合、あらかじめ生徒に警告しなければならない。で、もし警告した内容に生徒が異議を唱えた場合、教授はそのまま授業を続けられるのだろうか?特定の授業でより多くの生徒を傷つけるような内容の科目はそのまま大学で残るのだろうか? 
たとえばである、地理の授業で「日本海」と書かれた地図をみて韓国人留学生が「傷ついた!」といって騒ぎ立てたら、どうなるのだろう?
どんな授業でもどんな内容でも気分を害さない人間がひとりも出ないということはありえない。私なんか分けわかんない授業についていけなくて傷ついた記憶がいくらもあるからね(笑)。
人々の言論の自由を奪うやり方は、大抵が誰かの「人権を擁護するため」という口実で始まる。私は左翼リベラルが常に使う弱さを武器にしたやり方が大嫌いである。「強姦文化」にしてみても、「共和党の女性に射掛けた戦い」とかにしてみても、自分らを犠牲者扱いし「か弱い女性をいじめるあなた方はなんて非道な人間なの」という立場から相手を弾圧するための道具である。「引き金警告」だの「安全地帯」だの、一見笑ってしまうような馬鹿馬鹿しい観念だが、本当の目的は左翼リベラル以外の言論弾圧にある。そのことを忘れてはならない。
オバーリン大学のフェミニスト活動家たちは、ホフ・サマーズ女史を学校に招待した共和党支持生徒の名前を「強姦文化を促進する者たち」と書かれたポスターに大々的に表示して大学の廊下内のあちこちに貼り付けた。彼女たちにとって「大学内で強姦が蔓延している」という自分らの説に少しでも異論を唱えることは「強姦文化を促進する」ということになるのだ。そして反対意見を述べる人々は断固糾弾し脅迫し弾圧し沈黙させる。
左翼リベラルの常套手段である。


Comment

トランスが傷つけるフェミニズムのあり方、ジェンダーハーツ

前々から紹介しようと思っていた本がある。これは自他共に認める過激派フェミニストのシーラ・ジェフェリー著「ジェンダーハーツ」。あえて訳せば『性別は傷つける』かな?この内容は、トランスジェンダーの政治権力をフェミニストの立場から批判するもの。
私はどんな過激な思想を持っているひとでも、信念を持っている人には一応の敬意を持つ。なので左よりリベラルよりも、徹底的な左翼の人とか、フェミニストでも過激派で完全な女性優位主義者のほうが口だけ寛容とか多様性とか言って自分らの信念をご都合主義で歪曲する人たちよりずっと尊敬できる。
で、私は前々から本当のフェミニストならトランスという概念を受け入れられないはずだと思っていた。これは女性から男性へ、男性から女性へと、転換しようとしているどちらの人々に関しても同じだ。もっともその理由は異なるが。
女から男へ(FTM)は、女性を拒絶している。はっきり言ってフェミニストからしてみればこれほどの裏切りはない。要するに女であることを誇りに思い女性の立場を推進するどころか、女を拒絶して男になろうなんていうのは男子優位社会を自ら促進するようなものだ。
男から女へ(MTF)はフェミニストの敵だ。彼らは女じゃない。彼らに女みたいな面をされたくない。そう思うのは当然。歴史上弾圧されてきた女性の葛藤を元々男のMTFに理解できるわけないだろう。男としての有利な立場をずっと保ってきた人間が整形してホルモン剤摂取したくらいで女面するな、ってなもんである。
というのは私の見解だが、ジェフェリー女史の立場はちょっと違う。彼女にしてみれば、やたらに「ジェンダー」と言って性別を区別すること自体に問題がある。女性はハイヒールを履いてスカートを着て無償の家事を喜んで行ない、男性は着心地の良い服を着て仕事に専念できるべき、といったようなステレオタイプを強調することを拒絶してきた彼女達にとって、トランスジェンダーはそのステレオタイプを推進する最たるものである。トランスの横暴は「性別」という観念がフェミニズムに損害を与えるまたひとつの例である。
MTFが率先するトランス活動は、元々男なので筋力も本当の女性たちより強いし、性格も積極的で攻撃的な人が多い。男性同性愛者のゲイたちの支援を受け、MTFの政治的権力がフェミニストのそれより強まっているのも、権力を求めそれに対して活動する行動力は男性のほうが女性よりも勝るからである。そういう偽女を女性の運動に導入すれば、彼らが活動を乗っ取るのは時間の問題だ。いや、もうすでにトランスの権力は極フェミニストたちを無力な少数派へと追い込みつつある。
ジェフェリー女史はそのトランス(特にMTF)により、トランス否定派の極フェミニストたちが、どれほど言論を弾圧されているかを訴えている。トランス活動に批判的な会合や活動はトランス活動家によって妨害され、会場からイベントをキャンセルされることが多くなってきたことや、彼女自身がフェミニスト会合で演説することすら許されない状態が起きているという。(現代フェミニズムを批判して立ち入り禁止になった元フェミニストのクリスティーナ・ホフ・サマーズを思い出す。)
女として生まれるということに選択の余地はない。生物学的に女であることで受けた差別や迫害は個人の選択によるものではない。このような女としての体験を単に「女でありたい」人間が理解できるはずはない。ジェンダーという概念は選べても性は選べないのだ。トランス女に本当の女性の体験は理解できない。
ジェフリー女史は、女とはどうあるべきかという形付けは男性優位社会が女性に押し付けてきたものだと主張する。そしてMTFトランスの意味づける女性像は、まさに男による女性像の押し付けであるとする。
元々フェミニズムは権力者である男性が女性を下級階級の従僕として都合よくつくりあげた女性像からの逸脱を目指すものであった。女性は強姦、強制的な妊娠や出産によって男性から虐げられてきた。フェミニズムはどの男性による女性弾圧への革命から始まったのだ。にもかかわらずMTFトランスを女性として受け入れるということは、男性による女性像を受け入れることに他ならない。
ジェフェリー女史は最近はフェミニスト会合などで、MTFが主賓として招かれ「女性の体験談」などを語ることが増えてきていることをひどく嘆いている。女史はまた、MTFの多くが伝統的に男性が持っていたラフな職業(パイロット、軍隊の特別部隊出身など)を持ち、妻子持ちの人も多くいることを指摘。こういう男たちに女としての何がわかるというのか?
女史は同著のなかで、あえてMTFやFTMといった言葉使いはせず、トランスジェンダー男、女という呼び方をしている。どんな手術を受けようとホルモン剤を摂取しようと生物学的な性を変えることは出来ないからである。
同著ではトランスとして性同一適合手術(SRS)まで受けておきながら、後になってその決断を後悔し、現在は元の生物学的性に戻っている人たちの勇気ある活動にも触れている。この「勇気」というのは本当で、今やSRSが性不適合障害の唯一つの治療として受け入れられている現在、それを批判することはトランスの政治権力に相反することになり、そのバックラッシュは生半かなものではないのだ。
トランス政治が我々一般人の生活にも危害を与えつつある現在、ジェフェリー女史の著書は非常にタイムリーだと思う。一読の価値ありとみた。


Comment

アメリカの大学、無実の罪を着せられた男子生徒からの訴訟激増

アメリカの大学において性犯罪の冤罪を着せられ大学から停学や退学などの処分を受けた男子学生が人権侵害されたとして大学を訴える事件が急増している。特に2010年以前は指で数えるほどしかなかった訴訟が、2010年ごろから急激に増え、2014年から2015年になるとなんと40件ちかく発生している。いったい大学では何がおきているのか。
ウォールストリートジャーナルによると、連邦政府教育委員会は1972年に通った男女平等法律タイトル9に乗っ取って、大学構内における性犯罪をもっと厳しく取り締まるようにと全国の大学に勧告状を送った。
特に大きな変化として、 “preponderance of evidence” 「だいたい正しいと思われる証拠」があれば処置してよいというもの。これは具体的にどういうことかというと、問われた罪がだいたい50%くらい信頼性のある証拠があれば、有罪として処分に移ってもよいという意味。これはこれまでの75%以上の信憑性が必要とされていた“clear and convincing evidence”「明らかで納得のいく証拠」と大きな違いがある。
この基準でいくと、被害者を名乗る方が加害者とされた方よりも圧倒的に有利であり、普通の法廷なら検察側が被告が疑いの余地なく有罪であることを証明しなければならないのに対し、この基準だと被告が自分の無罪を証明しなければならなくなる。多くの大学は被告の男子生徒に弁護士をつけることも許さず、、きちんとした法的アドバイスもせず一方的に男子生徒を罰している。
ルイス・マクリードさん24歳もその一人。マクリードさんは卒業を二週間に控える去年の春、強姦の罪でデユーク大学を退学になった。彼は同大学の女子学生とバーで出会い、自分の部屋でセックスをした。マクリードさんは同意の上だと主張しているが、女性は翌日、自分は酔っ払っていて性交渉には同意していないと警察に訴えた。地元警察は取り調べの結果マクリードさんを起訴しなかった。警察は強姦があったことすら認めていないのに、学校側は女性側の言い分を全面的に認めてすぐさまマクリードさんを退学処分にした。マクリードさんはこの大学側の処分は不当であるとして大学を相手に訴訟を起した。
マクリードさんのようなケースは2014年から2015年にかけて全国各地で40件ちかくも起きており、その多くが学校側との示談で終わっている。つまり、学校側の処分が不当であったと認めざる終えない件が大半だということだ。マクリードさんの件も、法廷はマクリードさんが無罪である可能性が非常に高いため、大学側に「退学処分」という記録を正すようにと命令した。マクリードさんはすでに就職が内定しており、卒業証書がもらえればそれでいいと語っている。
ここでも何度も書いてきたが、オバマ政権及びフェミスト団体は何故かアメリカの大学内での性犯罪が深刻な問題になっているという説を強め、5人に1人の女子学生が大学在学中にレイプされていると主張。この数は全くのでっちあげなのだが、オバマ政権の教育委員会はそれを理由に大学内での性犯罪取り締まりを厳しくするようにと勧告しているのだ。それによって被告として冤罪を着せられる男子生徒が激増。公平な法的裁判を受けなかったとして学校を訴える男子学生も激増しているというわけだ。
ハーバード大学の法律教授は教育委員会の新基準は気違い沙汰だと非難している。
同大学は、最近連邦政府からタイトル9に即して大学の方針を変更するようにと勧告されそれに同意した、それに対して同大学の人権及び家族法の専門エリザベス・バーソレット教授(Elizabeth Bartholet)は、連邦政府が勧告する新規則は「気違い沙汰」であり歴史がこの法律が如何に誤ったものであるかを証明するだろうと語る。
同教授は法律ブログに下記のようなメールを送った。:

連邦政府がハーバード大学がタイトル9に違反したとする決断は政府によるタイトル9の誤った解釈にほかならない。教育委員会の人権委員会による決断は最終的に法律として認められるものではない。法廷こそが法の解釈に責任があるのだ。そして法廷はいずれ政府による解釈を拒絶すると信じる。現在の法廷の裁断は最高裁判所も含め、セクシャルハラスメントに関し、わいせつ行為による被害を受けた側の人権を守るとともに、誤って罪を着せられた側の人権及び個人の恋愛関係に関しても、もっと均衡の取れた姿勢をとっている。

同教授はハーバード大学は連邦政府の勧告に挑戦すべきであって安易に折れるべきではなかったと強く批判している。
はっきり言って私が男子大学生だったら女性とのデートは怖くて出来ない。お互い同意の上でセックスしたと思ったのに、後になって女性がその行為を後悔したり、痴話げんかのすえ、腹いせにレイプをでっちあげる女子生徒によって、自分の将来は台無しにされる可能性が大きいからである。
もともと引っ込み思案でおとなしい男子生徒だったら、大学在学中は女子大生とは付き合わないと決める男性も多くでるかもしれない。女子大生にとって男女交際に消極的な男子学生が増えることは良いことなのだろうか?
ミスター苺はよく、フェミニストとは醜くてモテナイ女の集まりだ、とひどいことを言っているが、自分たちはどうせ男女交際など出来ないので、他の女の子たちが男の子たちと付き合いにくい環境をつくることこそ、彼女たちの本当の目的なのかもしれない。


View comment

バージニア女子大生狂言輪姦事件で明るみに出たメディアの大学は強姦魔の巣窟という奇妙な思い込み

去年にバージニア州立大学の構内のパーティで、暴力的な輪姦の被害にあったという女子大生の事実無根の話を掲載したローリングストーン誌が、今回改めて何故このような嘘がまことしやかに同誌に掲載されてしまったのかという自己調査を行い、その調査結果を発表した。
ことの内容を詳しく知りたい方は拙ブログの女は強姦されたという嘘は付かないって本当?どんどん異様な事実が明らかになるバージニア女子大生の狂言輪姦事件をご参照願いたい。
この調査結果を断片的に読んでみたが、要するに、記事を書いた女性記者がアメリカの「大学構内において強姦が蔓延している」という偏見をジャッキー(仮名)という女子大生の証言が完全に裏づけする形となったため、それ以上の取材をせずに彼女の言い分をそのまま鵜呑みにしてしまったというのが原因である。以前にも書いたとおり、アメリカの大学構内で起きる強姦事件数は構外で起きる事件よりもずっと少ない。にもかかわらず何故かメディアやフェミニストたちは、男子大学生による女子大生への性犯罪が非常な問題になっているという迷信をなんとしてでも広めたいようだ。
こういう事態になってもまだ元記事を書いたサブリナ・アーデリー記者は、男子大生による女子大生への犯罪は深刻な問題だという自説を変えようとしない。彼女の謝罪文を読んでみるとそれは明らかである。

ローリングストーンの読者の皆様はじめ、編集者及び同僚の皆さん、バージニア大学の関係者の方々、そして私の記事によって実際に性犯罪の被害者でありながら名乗りでるのをおそれるようになってしまった人々に対して深くお詫びを申し上げます。

この謝罪では彼女が一番迷惑をかけた人々への謝罪が抜けている。ジャッキー及びアーデリーの記事で無実の罪を着せられたフラタニティーの男子生徒たちである。彼らは意味もなく学校を停学になり、フラタニティーを閉鎖され、他の生徒や世間から白い目でみられて、今後の就職活動やその他の社会的活動に多いに支障をきたした。にも関わらず、アーデリーは彼らに対する侘び心は微塵も持ち合わせていないのだ。それは、彼女のなかに、彼らが今回の事件では無罪でも、他に同じようなことをやっているに違いないという偏見があるからである。
最近各地の大学で、男女交際に関する厳しい規則が次々に設立されている。しかしそのどれもこれもが、男女間の性交渉において何か問題が生じた場合、全ての責任が男子生徒にあるという立場から書かれている。
たとえばとある男女が合コンでお互い飲みすぎてそういう関係になってしまったとしよう。もしも彼女が酔っていたので適切な判断が出来ず性交渉に同意してしまい後になって後悔した場合、彼女はそれを「レイプ!」と言って彼を責め立てることが出来る。女子生徒には「酔っていたから」といって許される行為が男子生徒には絶対に許されない。
この前にも紹介したレナ・ダナムの件でも、彼女は男子生徒を自分の部屋に招きいれ、お互い裸になってベッドにまで入ったのに、途中で気が変わったのか、後になってその体験があまりよくなかったと後悔したのか、何年も経ってから「私は大学時代にレイプされた」と当時の同級生を名指しで責めた。
これじゃあ男子学生は怖くてやたらに女子大生と付き合えない。さて、これに関して私の好きなパワーラインで時々書いてるペンネーム、アモガールが面白いことを書いている。

私は一生涯で一度も、セックスを期待、いや強く希望せずに、すっぽんぽんになって男性とベッドインしたことはない。少なくとも私はそう。
教えてほしいんだけどさ、私は古い人間だから若い女の子たちに聞くんだけど、男性の前で裸になってあなた方は何の反応も求めてないわけ?(「見せもんじゃないよ、単に隣の寮部屋の平均的な裸の女性が寝ようとしているだけだ、スポーツ番組でも見て無視しろ」ってなもん?)
幼稚園生の時代からきゅうりにコンドーム着せてた世代でしょう、それが男性の性欲についてこれっぽっちも知識がないってのはどういうことよ。
もちろん長年に渡る結婚生活のなかでは、「あなた、お休み」といって寝てしまうことはある。でも服を着ていない男が服を着ていない女とあったかい心地よいベッドで一緒にいて何にも起きないってな本はかけないでしょうが。(ここで幼稚な「やった、やらない」賭けジョークを挿入)男性はささやかなヒントは見失うかもしれない。でも普通の健康な男なら、自分のベッドに自主的に裸の女がはいってきたら今夜はラッキーなことが起きると取るのは当然。
それが嫌なら、いったいあなたそこでなにをしてるわけ?

アモガールは同記事のなかで、自分から裸になって男性のベッドに入って男性が何もせずに寝返りして寝てしまったら、それこそ頭にくると書いているが、全く同感だ。女が自分から迫って拒絶されるほど恥かしい事はないからね。強姦の被害者に「そんなところで何をしていたんだ」と聞くのは被害者を責める二次レイプだとか言うフェミニストがいるが、ここまで来るとこの質問は適切だろう。
何度も繰り返しているが、後になってセックスを後悔した、もしくは振られた腹いせに復讐しようとかして、虚偽な強姦罪をでっちあげる行為は邪悪だ。それは無実の罪を着せられた男性に対しても、本当に凶悪な強姦の被害にあった女性たちに対しても非常な冒涜である。


Comment