最近ディズニーのリトルマーメイドの新しい予告編が発表されたこともあり、再びアリエルを演じる女優の人種が取りざたされているが、この映画の問題点は主役が黒人になった程度のことではないと思う。しかし今日はその話ではなく、人々が慣れ親しんでいる役を異人種が演じるのはどうなのかという話をしたい。

結論からいえばそれは別にいいと思う。ただし、その映画やお芝居の中でそういう人種の人が出て来てもおかしくない設定になっていればという条件付きではある。

私は昔からお芝居や映画が好きである。特に中学生くらいから生で舞台を見るのが大好きで、一人で歌舞伎座へ行って一幕見をしたり宝塚や劇団四季のミュージカルをみたり、明治座や芸術座なども良く通った。今でも生のお芝居を見るのが大好きなので、地元の地方劇団のシーズンチケットをずっと買い続け、かれこれ30年になる。

この劇団は色々な芝居を手掛けるが、なんといっても一番人気はシェークスピアだ。先日もMuch Ado About Nothing(邦題:空騒ぎ)という私の大好きな題目で非常によかった。

A woman in a bridal veil and man in soldier's uniform face each other in front of a stained-glass window.

↑地方劇団の「空騒ぎ」のシーン。

この劇団に限らず、私はシェークスピアが好きなので色々な劇団やプロダクションでシェークスピアを観ている。同じ題目のものも色々な舞台で観た。「空騒ぎ」もケニス・ブラノフの映画を含めると四度目だ。私は色々な劇場でシェークスピアを観ているが、イギリスのシェークスピア劇場で観たテンペストも含めて、話の設定が中世のイギリスであることは非常に稀であり、台詞はそのままだが舞台は色々な時代や場所に移されていることが多い。

例えば今回の「空騒ぎ」も舞台は1940年代の中南米だったし、以前に見た12夜は1960年代風のカリブ海周辺のどこかだった。21世紀を舞台にしたロミオとジュリエットもあるし、1930年代を舞台にしたリチャード三世なんてのもあった。黒澤明のマクベス(蜘蛛の巣城)やリア王(乱)も有名だ。

このように舞台や設定を変えてしまえば、登場人物の人種や民族が白人のイギリス人である必要はまったくないし、黒人が出て来ようがラテン系が出て来ようが日本人だろうが全く問題はない。

ヒーローものを女性にやらせるにしてもそうだ。例えばワンダーウーマンのように元々女性のキャラで作られたものなら問題はないが、元々男性キャラなのを無理やり女性に変えるのは勘弁してほしい。

私の大好きなSF長寿番組ドクターWHOが女性に生まれ変わった時も思ったのだが、女性にやらせるなら女性特有のキャラクターにしてほしかった。それが男優用に書かれた台本を単に女優にやらせているという怠慢さがにじみ出て、見てる方は完全に白けた

同じドクターWHOでも、以前にドクターの宿敵マスターが女性に生まれ変わりミッシーとなった時、彼女は正確も素振りも確かにマスターの生まれ変わりであったが、19世紀の貴婦人の服を着こなす高貴な女性で、お色気もあったし茶目っ気もある素晴らしいキャラクターだった。私はドクターWHOの女性版にもそういうキャラを期待していたのだが、完全に裏切られた。このシリーズは視聴率最低だったらしい。さもあらん。

結論を言うと、人々が慣れ親しんできたキャラクターの人種や性別を変えようというなら、その変更が人々の納得のいくような筋の通ったものにしてほしいということ。

リトルマーメードなら舞台をカリブ海付近に移して登場人物はすべて黒人にするとか、ピーターパンも舞台を別の国に移すとかして、ピーターパンが東洋人でもティンクが黒人でも違和感のない設定にしてほしかった。しかしディズニーはともかく多様な人種を使うということにだけ気を使って、物語の脚色にも筋にも全く力を入れない怠慢さ。

これらの映画が不人気なのは配役に非白人を起用したことにあるのではなく、オリジナルの設定や脚色をした映画を作るという努力を怠ったその怠慢さが原因なのだ。


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