性自認とは何か、ツイッター上でのまるで無意味なやりとり

下記は私の個人的な記録として@anarchist_nekoというツイッタラーとやり合った性自認に関するやりとり。

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マリゴールド:性自認主義(トランスジェンダリズム)はニセ科学でカルトだと思います。 自認すれば性別が変更できるという科学的な証拠など1つもありません。似非科学です。 人間は性別変更は不可能です。 男性が心が女性だと自認主張すれば女性になれるという思想は女性差別で女性への人権侵害です。

猫:自認すれば〜の時点で自認の意味わかってないんだと思うんだけど、こういう人ってこれまでどういう本読んできたのかなぁって思う。

カカシ:へえ~、じゃあ君の読んだ本では「自認」をどう定義してるの?本読めじゃなくて、自分の言葉で説明してごらん。

猫:ほ~い。

  1. ある時点tのある社会sについて、ある集団Gst(α)は、社会的意味を持つ集団である。ただし、社会的意味を持つとはその集団に属していると認識されることが、その時点のその社会おいて、一般になんらかの規範や権利、地位と結びつくと言うことである。
  2. 1は、次のことを示唆する:Gst(β)やGst(Λ)など複数のその他の集団が持続的に存在し、かつこれらは何らかの体系の中で創意性と差異があると受容されている。この時、その体系をlと名付ける。
  3. その時、主体SはGst(α)に属していると言う:SはGst(α)に属すとされるそのほかの人の全体が持つとされる規範、行動、役割、認識などの特徴に、その一部または大部分を拒絶していたとしても、近似性があるといういう自己像を持続的克繰り返し了承ないしは志向している。
  4. sがGst(α)に属しているととき、「sのlに関するアイデンティティはGst(α)である」と表現する。

カカシ:君の言葉で説明してごらんと言ったはず。悪いけどこれ何が書いてあるのかさっぱりわからない。

猫:これ私のことばよ。

カカシ:あ、っそう。そうやって訳のわからないことを書いて他人を煙に巻くのが君の仕事なんだね。君が大学の教授とかでないことを祈るよ。学生が可哀そうだもん。

猫:反論ないならこねこの勝ちだけど?

カカシ:反論もなにも君が何を言っているのか分からない。具体的に性を自認するとはどういう意味なのか、それを普通の日本語で出来れば例を出して説明してもらいたいもんだ。

猫:こっちの方がむずいと思うけど。 「ある社会において『性別』と総称されるもののうちのひとつGへ結び付けられている規範や行動、役割、認識などの特徴に、その一部または大部分を拒絶しながらも、近似性があるという自己像を持続的かつ繰り返し了承ないしは志向する状態であること」

カカシ:なあ~んだ、御託を並べている割には中身がないね。つまるところ自分がステレオタイプの性別基準のどちらに、より当てはまるかという自分の主観による判断にすぎないということだ。性自認はあくまでも主観であり客観での判断は不可能。だからこんなものを基準にされては社会は成り立たない。

猫:うーん、Cマイナス 自分の読みたいとこを読むんじゃなくて、まずはテクストをきちんと読む癖が必要だと思う。

カカシ:何がどう違うのか説明してごらん。君のやり方は訳の分からない御託を並べて他人を煙に巻こうとする左翼のやり方だと思うけどね。

猫:回答を添削して欲しいなら、どこをどう読んで、その解釈に至ったのか明記して!

カカシ:「ある社会において『性別』と総称されるもののうちのひとつGへ結び付けられている規範や行動、役割、認識などの特徴 」

つまりステレオタイプ。

猫:そうだね、そこはそう読めるね!続きは?

カカシ:「その一部または大部分を拒絶しながらも、近似性があるという自己像を持続的かつ繰り返し了承ないしは志向する状態であること 」

主観的に自分が近似性のある方に属すると判断すること。

猫:ここが違うね!

カカシ:どう違うのよ。

猫:なんで「主観」なんてワードどっから出て来た?「判断」なんて私は行ってる?

カカシ:君がその言葉使いをしたかどうかは問題ではない。これはあくまでも自認の定義だからね。文字通り自分で認めるということは他人が君をどちらの属性に属するかを決めることは出来ない。自分で判断してどちらの属性がより自分に合っているかという判断が必要だ。ということは必然的に君個人の主観による判断が必要となってくる。まとめると、自分が性の属性のどのステレオタイプに一番当てはまるかを自分で判断して決めること、が性自認ということになる。客観性はゼロだ。

猫:うーん、Fかも まず「定義」じゃなくて「説明」です。 後半は何も関係ない持論書いてるだけだね とりまわたしの説明が理解できてるか本題じゃないはずなんだけど、このままはなし脱線させてってもいいよ、どうする?

カカシ:私は最初に性自認の定義を君が理解する言葉で説明してほしいと言ったはず。私の解釈が間違っているというなら、そこを指摘してきちんと説明すべき。それが嫌なら別にいいよ。

性自認の大前提が主観だ。客観的に個人がどのような性を自認しているかを確かめるすべはない。ここが問題。世の中は客観的に判別できる性で分けることで機能している。それを本人の個人的な主観で変えられると社会は非常な迷惑を被る。今がその状態。

猫:「君が理解する言葉」では説明してるよ、それをカカシさんが理解しきれてないのをまず誤魔化さないでね。解説までは求められた記憶ないけど、解説して欲しいならしてあげるよ。

カカシ:私は君の言ったことは理解できないと認めているよ。私が理解できるように解説をお願いしたいね。

猫:おっけー、ここまでの議論と全く関係ないから、これカカシさんの主論にするね、これ攻撃してくから反駁してね。

  1. 性自認の大前提が主観だ。
  2. 客観的に個人がどのような性を自認しているかを確かめるすべはない。ここが問題。
  3. 世の中は客観的に判別できる性で分けることで機能している。
  4. それを本人の個人的な主観で変えられると社会は非常な迷惑を被る。今がその状態。

まず1について、わたしのモデルでは主観性を一切問うていません、わたしの提唱したモデルで主観性が大前提となってるなら、提示してください。 2について、認めます。ですが(i)何が「問題」となるのか、(ii)どうすれば「性」を確認できるのか、の2点お伺いします

3について、具体例を提示してください。 4について、根拠を提示してください お願いします

カカシ:2の客観性がないことを認めるなら1の主観性を前提にしなければ成り立たない。性自認が主観ではないのなら、客観的な認証が可能なはずだ。どちらも同時に成立することはあり得ない。

3男女別のトイレやスポーツは男女の身体の性別という客観的に判別可能な性別によって区別されている。 4それを無視すると、男子が女子刑務所で女子を強姦したり、リア・トーマスみたいな三流男子選手が女子スポーツでメダルをかっさらうという不条理が生じる。

猫:えー、この程度。。おもんな。 2を認めても1が成立するとは限らない反例:間主観性 3「身体の性別」ねぇ。具体的に何のこと言ってる? 4その「不条理」はアイデンティティを認めるがゆえに発生した問題なん。

カカシ:何逃げてるの?自分の理論の矛盾性を指摘されておちょくるしか脳がないわけ?どうやって客観的に認証できないことが主観ではないという理論を説明できるの?3と4に関しては説明の必要がない。君がそれを理解できないとしたら、君は私とは別世界に生きているとしか言いようがない。

猫:カカシさん飽きてきてるでしょwww雑すぎよ 今度は「客観的に認証できないことならば主観」に反例挙げたらいいの?んじゃあ反例:「今この瞬間の眠気」 3,4については、結局データも根拠も示せないわけ?

カカシ:しょうがないなあ。じゃあ「私は女性です」という人が本当に女性であるということを客観的に証明できない場合、いったいこの人が女性であると宣言できる根拠は、この人の主観以外のどこにあるの?

猫:なにがしょうがないんだか。全然問が違うけど、客観的に(これもどういうこと?)証明できないとしても、その人の社会的行動を通じて示されるよ。

カカシ:逃げてないで説明しなさいよ。客観的に証明できないものの実態を主観以外にどのように認識できるのか、ちゃんと説明してほしいね。

猫:待ってこれ十分説明になってるから、理解できないなら理解できないって言ってくれ

カカシ:君の言っていることは矛盾しているから理解できないと何度も言ったはずだ。誰かの言説が事実であるかどうか客観的に証明出来ない場合、その言説の根拠が主観以外のどこにあるのかちゃんと説明しなよ。

猫:いや、一つでも矛盾提示されたかわたし?! で、あなたの指摘した矛盾どれよ、早く提示して

カカシ:君が他人の発言に性自認の意味が理解できていないと批判したから性自認の定義を解りやすく君の言葉で説明してほしいと言ったはず。色々御託は並べても君の言っていることは矛盾だらけだ。その矛盾を指摘したら結局逃げの姿勢。

客観的事実でないことでも主観じゃないという君の理屈が矛盾していると言っているんだよ。

猫:私とあなたの関係は?主観?客観?

カカシ:質問に質問で答えずにきちんと説明しなよ。もう一度聞くから逃げずに答えな。答えなければ自分のいったことを説明できないと解釈する。私が女性であると宣言した場合、客観的な証明なくして私の宣言が真実であるとする根拠は私の主観以外に何があるのか?

猫:さっきのしつもんにこたえようとしてごらん。それがこたえだよ。

カカシ:はぐらかさずに答えな。

猫:質問変わってるし、再三社会との相互関係答えとるし、そのうえて「体の性別」で問題が解消されるのか問うてるんだけど、どうしたらいいの?エメラルドシティに連れてったほうがいい?

カカシ:質問がかわったのではない。君の理論の矛盾を指摘したのだ。全く堂々巡りだな。個人が男か女かを判断する基準があるからこそ社会と個人の相互関係は成り立つんだよ。つまり客観的に個人の性別を判断できない、もしくはしてはいけないというなら、それは本人の主観のみを受け入れろということになる。性自認とはつまりそういうことなんだよ。

猫:たぶんね、あなた主観とか客観とか、意味よ くわかってないのに振り回してるから、会話にならなかったんだと思う。 あと、あなたの言ってること、めちゃ山谷えり子チックなんだけど、そっち方面でも大丈夫。。?

カカシ:何故問題の本質をとことん話し合おうとせずにおちょくって誤魔化そうとするのか、それは君の理論に本質がないからだよ。よくわかったよ。

猫:これTLのみんなに判断して欲しいんだけど、わたし普通にきちんとお話してたくね?矛先ずらして個人攻撃してきたの誰さ。


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イギリス、女子スポーツから男子参加を正式に禁止する動き始まる

本日のテレグラフでイギリス政府はトランス選手が女子スポーツに参加するのを取り締まろうという動きがあるという記事を見つけた。文化省長官はスポーツ界の重役たちと会って、女子スポーツの尊厳を守るべきであると要請する予定だという。

イギリス政府は女性を自認する男子による女子スポーツ参加を取りしまる準備をしているという。文化省のミッシェル・ドネラン長官は、近日中に主流全国スポーツの重役たちと会合を開き、この問題について話合う予定であることを明らかにした。

今月末に予定されているこの会合では女子のエリートスポーツは女子として生まれた人のみに限られるべきだと警告する予定だという。この女子の枠には男子として生まれ後に思春期ブロッカーを摂取しテスタストロンを摂取した人も含まれない。文化省の長官に近い側近によれば長官は公平な競争を保つためには基本的生物学に即した常識的な方針が好ましいと信じているという。

これは元オリンピック女子選手たちがこの馬鹿げたトランスジェンダー方針によってこの世代の女子たちがメダルを取る機械を失ってしまうと警告した後に起きたことだ。

1980年のオリンピックで銀メダルをとたイギリス代表のシャロン・デイビス元選手と、イギリスのマラソン界で第三位の座を持つマラ・ヤマウチ選手はイギリスのローイング競技で性自認女性の男子が参加できることに関して批判を述べた。

Sharron Davies sports 1980 Olympics transgender swimming
Sharron Davies has been a vocal critic of transgender women in female sports categories CREDIT: John Lawrence for The Telegraph

イギリスのスポーツ界は男子として生まれた女性自認の選手をどう扱うかについてずっと揉めている。

混んげ宇一イギリストライアスロンは女子自認男子を全面的に締め出す方針を新しく打ち出した。これはたとえ彼らが男子の思春期を経験していなくても例外とはされない。

イングランドバレーボール界も女子イベントに女子自認男子の参加を禁止する方針を明らかにした。ブリティッシュサイクリングは昨年の春にこれまでのトランスジェンダー方針を一時停止し現在見直し中である。

ドネラン局長は来る会合においてトランスジェンダー「女子」を巡る確たる方針を打ち出し、彼らが女子カテゴリーに参加しないよう約束を得ることを主張する予定だ。さらに局長はスポーツ界の代表に働きかけ女性スポーツの尊厳を守るために国際競技会にも働きかけるよう呼び掛けている。

現在イギリス全国及び国際スポーツ界は独自に性適合した選手が生得的性の選手に及ぼす影響について科学的調査を行っている。先月、国際オリンピック委員会は初めて参加資格を審査するにあたり科学的な証拠に基づいた審査を行うと発表した。一方ワールドアスレチック協会やFIFAもトランスジェンダーの参加しかくについて見直しをする意図を明らかにした。.

一方アメリカでも女子自認男子の女子競技参加を禁止する動きがあちこちの州で起きている。去年2022年5月の段階で18の州で男子選手の女子競技参加を一部もしくは全面的に禁止する法律が設立した。

テキサスが一番最近そのような法律を通したが、これは公立学校の女子競技の男子競技を禁止するものである。

ゆっくりとではあるが、確かにこのトランスジェンダー狂気の進路は折り返し点に差し掛かっている。はっきり言って何故こんな常識的なことを今更新しく規則として設立しなければならないのか。しかしそんなことを言っていてもしょうがない。

イギリスの保健省NHSの産婦人科でも助産婦たちが妊婦や母親といった名前をトランスジェンダー許容の名前に変えるべきだという動きに圧倒的多数で抵抗していると言う話を聞いた。それについてはまた回を改めて書くことにしよう。

長年にわたって多くの女性達が声を挙げて来たおかげで、スポーツ界もやっと正しい方角に動きつつある。

アップデート:

去年、女子自認の男子選手リア・トーマスが話題となった全国大学アスリート協会(NCAA)だが、先日、何人かの女子大選手たちがNCAAに対して男子選手の女子競技参加を禁止するように要求した。

マ―シ・スミス、元アリゾナ大学水泳チャンピオンは、NCAAの毎年恒例のコンベンション会場の前で女子の大学競技を女子のみにすべく迅速な行動をとるよう要求する手紙を読み上げた。

スミスの要求項目は、女子専用更衣室を設置すること、男子選手が女子競技に参加することを禁止すること、女子競技を女子のみにすることである。もしNCAAがこの要求に従わない場合はNCAAを相手取って訴訟を起こす用意があるとし、スミスはジャクソン・ボーン法律事務所からの手紙を読み上げた。

スミスはthe Independent Council on Women’s Sports (ICONS)の共同創設者でもある。

スミスと同席したのは、元ケンタッキー大学水泳チャンピオンのライリー・ゲインズ。2022年の200ヤード自由形競技でリア・トーマスと競い5位を獲得した。

「これは私だけの問題ではありません。私は最低限の要求をしているだけなのにトランスフォ―ビックだのヘイターだの差別者だのと真実でない名前で呼ばれることに耐えられない人たちのために発言しています。」

NCAAは去年男子競技者のテスタストロン要件を失くし、個々のスポーツの経営組織の判断に任せると決断した。


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なぜトランス活動家たちは性同一性障害の科学的調査を阻止しようとするのか

長年トランスジェンダー界隈は、トランスジェンダー(TG)のことを心と体の性別が一致しない人々のことを指すと言ってきた。TGの人の脳みその性は生殖器とは食い違いがあり、より異性的であると主張してきた。であるからもしTGの脳が正常な人とは違うということが科学的に証明されれば、性違和は単なる本人の妄想などではなく脳の失陥として認められることになる。もしそのような科学的調査結果を得ることが出来たならトランスジェンダー活動家(TRA)界隈はさぞうれしいであろう。長年彼らが主張してきたことが正しいということになるのだから。ところが現実はその反対。TRA界隈はこの調査は危険であり今すぐ中止されるべきだと主張している。

男女の脳の機能に関する研究は昔から行われており、男性脳と女性脳とでは機能の仕方が違うということは長年言われてきた。男女の考え方が違うのは科学の力を借りなくても一般的な観察で明白だ。男性は物資的なものに興味を持ち、女性は生物に興味を持つ。だから男性のエンジニアが多いのに対し、女性の小児科医や教師が多いといった傾向がある。

しかし男女能の違いに関する研究は何かと政治的問題が生じる。数年前脳の研究をしていた女性科学者が、フェミニスト達からの執拗な妨害に逢い研究を諦めたというインタビューを聞いたことがある。フェミニストにとって男女の脳に違いがあるという研究は女性差別に繋がり危険だからだという理屈からだった。何故違いを認めることが差別になるのか、おかしな話ではあるが、ともかく彼女達は男女差を認めたがらなかった。今となれば、彼女達のそういう姿勢が今のトランスジェンダーリズム概念に繋がったわけだが。

男女の体が違うのは誰にでも明白だ。体が違うのであれば体の一部である脳も違うと考えるのは当然のこと。しかし生殖器と脳の発達は胎児の発育では違う段階でおきるため生殖器が出来てから脳の発育が異性のものになる、もしくは十分に男子・女子として発達しないという状況が生じるという調査があるそしてTGの脳は異性の脳と近いことが多いという。この調査結果には反論もかなりあるが、ここではそれには言及しない。

私は以前から、もしもMRIなどの検査で男女の脳がはっきりと判別できるのであれば、性同一性障害(GID)の診断に大いに役立つはずで、この検査で異性脳を持つと判定された人のみGIDと診断されるべきだと言って来た。自分に性違和があると思っている人にとって、この科学的証明は大歓迎のはずなのだが、なぜかTRA界隈はこの調査を歓迎しないどころかTGへの差別に繋がるとして、研究そのものを辞めさせようとしている。こちら2021年にフェデラリストに掲載された記事。

彼らに言わせると、性違和が脳の失陥だということになると、拒食症やbody dysmorphic disorder,(自分の体を忌み嫌う失陥)など他の脳疾患と同じように精神治療が主になり、それは昔同性愛者を「治す」目的で行われた悪名高いコンバージョンセラピーに繋がりかねないというのである。彼らに言わせるとGIDを訴える人々に一番必要なのは彼らが感じるほうの性別を肯定することであり、彼らの判断を疑うのは危険であるというのである。

TRA界隈は最近、GIDを病気モデルから政治モデルへと変えようとしている。つまりGIDは精神病ではないので、精神治療は必要ない。GIDは治癒すべきものではないと主張しているのだ。

しかしこれには非常に大きな矛盾がある。もしGIDが病気ではないなら、なぜ彼らは異性ホルモンを摂取したり整形手術を受けたりする必要があるのだろうか?単に異性的脳みそを持って生まれた人というカテゴリーで暮らすことの何が問題なのだろうか?

GID当事者によると、性同一性障害の場合は多大なる精神的苦痛を伴うという。TRAによれば2歳児や3歳児くらいから、自分が異性として生きられないと自殺願望が強くなり、放っておけば思春期を迎えるころには自殺する可能性が高いという。だから極力早いうちに思春期ブロッカーを投与し、10代のうちに異性ホルモンに移行、そして未成年のうちに整形手術をするべきだというのだ。このような深刻な症状のある精神状態が健康であると言えるだろうか?そしてもしGIDが病気ではないのなら、なぜこのような極端な医療措置が必要なのか?

同性愛者のコンバージョンセラピーが非人道的であったのは、彼らは同性指向であるというだけで精神を患っていたわけではなく治療を必要としていなかったことにある。躁鬱症や分裂症などと違って、同性愛者は脳にダメージがあったわけではなく、放っておいても病的症状が悪化して入院しなければならなくなると言うわけでもなかった。カウンセリングも薬も必要なく、ごく普通の社会人として暮らすことができた。

GIDが同性愛と同じで心の病気ではないというのであれば、同性愛者が単に異性には性愛を感じないというだけの人間として生きているように、GIDもまた身体の性と性認識が一致しないというだけの人間として生きていけばいいのではないだろうか。本人もそういう属性で生まれた自分を受け入れられるように努力したほうが無理矢理異性の体に近づけようと危険なホルモン投与や整形手術をして一生薬漬けになるような治療を始めるよりよっぽども健康的ではないか?

さて、ではなぜトランスジェンダー活動家(TRA)らは脳が異性であるかどうかを判別する研究に反対しているのであろうか。それは彼らの目的は最初から性同一性障害という脳に異常のある人たちを救うことではなかったからだ。

だいたい身体と脳の性別が違うというのが本当だとして、なぜ脳の性別のほうが生殖器もついている身体の性別より正しいということになるのか。なぜ直すのは常に身体のほうで脳みそのほうではないのか。実際にGIDの人の脳には異常があるという調査結果がでれば、必ずやそうした疑問が生まれてくる。常に性転換を推して来たTRAにとってそれは非常に都合が悪い。

TRAの真の目的は女性と男性の境界線を失くすことにある。女性脳と男性脳の研究を阻止しようとしたフェミニストたち同様、TRAは男女の差がない社会を作り上げることを真の目的としている。社会的に男も女も同じになれば良い社会になるかといえばとんでもない。昨今のトランスジェンダリズムをみていても解る通り、人々が好き勝手に性別を選べる社会は実は身体的に弱い立場にある女性達に多大なる被害を与えるのである。

そして無論一番の被害者は子供たちだ。2歳や3歳といった自分の名前もはっきり言えないような子供たちまで性違和があるとして子供の戯言や親の妄想を信じて性転換を急がせるTRA。子供をトランスジェンダーにするのは界隈では大儲けになる。やたらな検査などされて、性自認が異性だなどというのが嘘であることがばれるのはTRA界隈にとって非常に不都合なことなのだ。

つまるところ、TRA界隈はトランスジェンダーを自認する人の数を増やしたいだけなのであり、実際にGIDに悩む人々のことなどどうでもいいのである。トランスジェンダー活動家たちは彼ら自身トランスジェンダーなどというものが存在しないことを十分に承知しているのである。


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引用と転載、フェアユースと著作権侵害の境界線

以前に私はリアクション(反応)系ユーチューバーが嫌いだと言う話をした。(反応ビデオに違和感があったのは私だけではなかった! – Scarecrow in the Strawberry Field (biglizards.net))リアクション系とは要するに、他人が作ったビデオの画面を映しながら「あ~、ふ~ん、なるほど~」とか言いながら自分の反応を見せるチャンネルを指す。これは他人の動画を全編編集も加えずにそのまま出す人と、一部だけ見せてコメントを付ける人と色々居るが、基本的に自分では何も作らずに人のふんどしで相撲を取るやり方が私は好きではないのだ。

それに他人の作ったものを無断借用するのは著作権侵害にあたるのではないかという議論もある。そうすると大抵これらのユーチューバーたちは「いいや、これはフェアユースだ!」と言い訳する。このフェアユースという言葉はユーチューブ界ではよく聞く言葉だが、いったいフェアユースって何だろうと読者諸氏も疑問に思われるだろう。ではここでフェアユース(fair use)とは何か。こちらのサイトを参考にしてご説明しよう。お断りしておくが、これはあくまでもアメリカの法律。著作権に関しては国によって法律が大幅に違うので日本であてはまるかどうかはまた別の話。強調はカカシ。

フェアユースでは、他の著作者が許可を得ることなく、原著作者の著作物を限定的に利用することができます。1986年著作権法第107条(合衆国法典第17編第107条)は、「批評、コメント、報道、教育(教室で使用するための複数コピーを含む)、学術、研究などの目的での著作物の公正利用は、著作権の侵害ではない」と述べています。(略)

批評と解説。例えば、図解やコメントの目的で批評の中で作品を引用したり抜粋したりすることは、通常フェアユースとなります。書評家が新聞のコラムで、本の批評の一環として限られた箇所を引用することは、通常許されるでしょう。

ここで大事なのは、フェアユースと見なされるためには引用した元の著作物を使って、全く新しい著作物を作るのでなければならない。つまり元の著作物にコメントを加えたり、そこから別な理論を展開したりして、元の作品では得られない何かを作り出す必要がある。だから他人の著作物をただそのまま放映したり紹介したりして、あたかも自分で作ったように公開する行為はフェアユースではない。それは単なる盗作である。この間ハーバード大学のクローディーン・ゲイ元学長が自分の論文に他人の書いた論文の一部をあたかも自分が書いたかのようにして提出した行為など、その典型である。(その後彼女は辞任に追い込まれた)

ここで人々がよくやる他人のXポストをエンベッドしたり一部添付したりするのは引用なのか転載なのかということについてちょっと考えてみたい。下記は日本の憲法における引用の定義。虎ノ門法律特許事務所のサイトから引用。

(引用)
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

引用の要件としてもう少し詳しく説明すると、

引用の要件

  1. 引用する著作物が公表された著作物であること
  2. 引用して利用すること
  3. 公正な慣行に合致するもの
  4. 報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものであること

1番は公共の場のXで本人が公開しているのでいいとして、この2番の「引用して利用する」とはどういう意味なのかというと、「引用する側の著作物と引用される著作物が、混然一体となっているのではなく、両者が明瞭に区別されていること(①明瞭区別性)、引用する側の著作物が主、引用される著作物が従となる関係があること(②主従関係性)が認められれば、『引用して利用すること』の要件を充足する」となっている。

例えば他人がNoteやブログに書いた記事全文をそのまま添付して、最後の方で一言二言コメントするだけといった場合は明らかに他人の書いた記事が「主」となっており単なる引用とはいえない。しかし他人の数行の短いXポストを提示しそれに反論し、その何倍もの紙面を使って持論を展開させたものなら、明瞭区別性も主従関係性も満たしていると考えられる。

3番の「公正な慣行」とは抽象的な表現ではあるが、出所明示義務を果たしていないといった明らかな違反行為が無ければ大丈夫。リンクなどをつけ出所を明示していればこれは満たされる。

4番は「批評」という正当な範囲内としてあてはまる。

さてでは次に転載とはなにかについて調べてみた。虎ノ門特許法律事務所のサイトでは転載に関する記述があまりなかったので、こちらプライムタイムマガジンのサイトより引用する。

転載とは「自身の著作物の従たる範囲を超えて、他人の著作物を複製、掲載すること」を指す。この「従たる範囲を超え」るというは具体的にどういうことなのかというと、単純に言えば他人の著作物と自分の書いたことの割合でどちらが多いのかということだ。しかしその割合がどのくらいであれば引用であり、どのくらいを越せば転載になるのかという確たる線はない。それで量だけでなく内容も問題視される。

大切になってくるのはコンテンツの内容における「主従関係」です。自身の著作物が「主」で他人の著作物が「従」であれば「引用」となります。逆に、他者の著作物が主であって、その従にあたる要素として自分の著作物を用いているのであれば「転載」となりやすいでしょう。

要するに引用と転載の線は微妙。もし自分のやっていることが転載と見なされるかもしれないと思った場合は相手の承諾が必要であり、また出所の明示も必須である。出所については引用の場合も同じ。

他人のXポストをそのまま引用する場合は、引用の範囲に入るだろうと思われる場合でも一応承諾を得たほうが無難だろう。ただ、それが可能でない場合(例えばJKRみたいな著名人のXポストとか)はフェアユースとして使わせてもらうしかない。


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消費者の視点に立って売り上げ大挽回の老舗書店と消費者無視して大ピンチの下着会社

昨日、二つの対照的なニュースを読んだのでご紹介したい。ひとつは業績不振が続いたアメリカ老舗書店Barns & Noble(バーンズ&ノーブル)が新しいCEOを迎えて大挽回したという話。(What Can We Learn from Barnes & Noble’s Surprising Turnaround? (substack.com))。もうひとつはセクシー路線からポリコレ路線に変更して売り上げがた落ちのヴィクトリアシークレットの話だ。

原点に戻って盛り返したバーンズ&ノーブル

アメリカの小売書店はここ10年あまり低迷状態にある。アマゾンなどの通販で割安の書籍がいくらも手に入るようになったり、キンドルなどデジタル書籍も一般化されたこともあり、わざわざ本屋まで足を運ぶ人の数が激減したからだ。一時期一斉を風靡した大型書店Borders(ボーダース)が2011年に全店舗を閉店したのは、本好きの私の記憶にはまだ新しい。

大型書店としてただ一つ生き残ったB&Nも一時期かなり業績不振に悩んでいた。ところが最近B&Nはものすごい勢いで盛り返している。一時期閉店していた書店を再開店しただけでなく、アマゾンが失敗した地域も含めて30店もの新規支店を開店すると発表するなど大好調である。

アマゾンは未だに健在だし無敵の状態。では何故他の大型書店が失敗したのにB&Nは成功しているのだろうか。

B&Nもだいぶしばらく苦戦していた。それでアマゾンの真似をして独自の電子本リーダー (the Nook)を始めたがうまくいかなかった。2011年に大ライバルだったボーダーズが閉店した後も、その市場を支配することができなかった。2018年になると、B&Nはもう虫の息だった。その年1800万ドルもの赤字を出し1800人もの正規社員を解雇し、店員はほぼパート社員だけになった。しかもタイミング悪く、当時のCEOがセクハラ容疑で解雇されるという不祥事まで起きた。

書店の売り上げもオンライン販売もすべて落ち込み、シェアプライスは80%減(株をしらない私にはこの意味が良く分からない)しかも期待のデジタル部門the Nook eBook readerの売り上げは何と90%減! 電子書籍市場は成長するはずだったのではないのか?ところが現実は全くその逆。下記のグラフは2010年から2019年までのNOOK販売成績。

Source: Statista

アマゾンが書籍小売店ビジネスを破壊しつつある。すでにボーダースを倒してしまった。B&Nも同じ宿命にあるのかと思われた。

なんとか生き延びようとB&Nはおもちゃや誕生カードやカレンダーといった本とは直接関係ないサイドビジネスを始めた。書店内部にカフェを設立したり、一時期はレストラン業にまで手を出したが、どれもこれも大失敗に終わった。

そこに颯爽と現れたのが新しいCEOである。

この記事の著者は、どんな企業も上が腐っていたはどれだけ部下が必死になっても失敗すると語る。反対に上が正しい判断を下せば企業は成功すると。

B&Nの新しいCEOの名はジェイムス・ダウント(James Daunt)。ダウントは26歳の時にロンドンで小さな本屋を始めた。彼は借金をして本屋を始めたが、この本やは非常に美しかったという。下記の写真がそれ。本屋というより図書館と言った感じだ。確かに本好きなら何時間でも居られそうな場所。

彼は先ずほんの割引を辞めた。彼は本はもともとそれほど値段は高くないと主張。

Daunt’s first bookstore was a beautiful showplace for books

イギリスの大型書店ウォーターストーンの経営を受け継いでからも、彼のこの姿勢は変わらず、二冊買えば三冊目は無料などといったセールを廃止した。セールは本の価値を下げるからというのが理由。

しかし一番画期的だったのは、出版社からの売り出し金を拒否したこと。これは出版社から金を受け取るかわりに出版社が推す書籍を本屋の一番目立つところに置くことが条件となっている。たとえその本の売れ行きが悪かろうがどうしようが、客が本屋の入って一番先に目のつくところにそうした本は並べられることになる。本屋は出版社から質の悪い本を大量に押し付けられ、売れなければ割安セールにして消費者に押し付けるというわけだ。

ダウントはこれを拒否し、自分が一番面白いと思う本を正面玄関近くに陳列した。著者はいう、彼の強みは彼自身が本好きであることだと。

本の選択は支店の店員たちがする。それぞれの地域で顧客の趣味も違うため、支店のスタッフが選ぶのは当然と言えば当然。この狂気じみた作戦はウォーターストーンで大成功を収め、返品はほぼゼロ。書店に並んだ97%の販売が顧客によるものだった。これは本屋としては奇跡的な数。

この才能が認められ2019年8月、ダウントはB&Nの経営を任された。

しかしこのタイミングは最悪だった。なにしろコロナ禍真っ最中。どこの小売店も大打撃を受けていた。特に生活必需品ではない本屋は大変だった。しかもダウント曰くB&Nは「磔にしたいほど退屈」な本屋だったという。

しかしダウントはこの時期を利用して、本屋にある本をすべて棚から降ろし、実際本屋にとどめるかどうかをひとつひとつスタッフに吟味させた。ダウントはひとつひとつの支店のスタッフに選択権限を与えたのだ。しかし出版社は気に入らなかった。なにしろこれまで怠っていた消費者が何を求めているのかという調査を本気でしなければならなくなったからだ。

そしてダウントは読者の知能を満足させ心にしみる本を揃えることに力を注いだ。

そしてそのやり方は成功した。売上は伸び始め2021年の売り上げはコロナ禍前の状況にすぐ復帰、そしてそれを追い越してどんどん上がっていった。読者はB&Nへの信用を取り戻し、店員たちも本を売る仕事を楽しむようになった。

B&Nは2022年に16店の新支店を開店。2023年にはその倍を開店する予定だ。

著者の結論として、結局は商品を売る方が、その商品を実際に愛しているということが大切なのだ。自分が消費者ならどんなものを買いたいと思うか、それを知るには自分自身がその商品のファンでなくては分からない。

これはどんな商品でも言えることだが、自分が扱う商品をファンとして愛していないと、とんでもない判断違いをしてしまう。去年のアマゾンプライムのパワーオブリングスがそのいい例。製作者は明らかに原作のファンではない。2001年の映画LOTRのピーター・ジャクソンが原作の大ファンで、いつかこの作品を映画にしたいと考えていたのとは正反対に、アマプラのパワーオブリングスの製作者は多分原作の一部分も読んだことのないビジネスマン。単に名前の知れた原作を利用して金儲けするつもりだったことがファンの目から見たら明白。ポリコレ配役に拘って、原作の世界ではあり得ない設定を作り、ファンに何十年も愛されて来たキャラクターの性格を180度変えてしまうなど、ファンだったら絶対にしない判断をした。そしてテレビシリーズとして前代未聞の予算を掛けたにも関わらず、視聴率は悲惨な数となり、シーズン2がどうなるかすらおぼつかない状況だ。

ポリコレ路線が大失敗のヴィクトリアシークレット、たった8か月でCEO退任

セクシーな女性下着が売り物のヴィクトリアシークレットのCEOエイミー・ホークが就任8か月で辞任することが明らかになった。

同社の売り上げは去年度下三か月8.5%も減退 。過去1年で株価は40%の落下。

Victoria's Secret, once known for its glitzy fashion shows featuring supermodel "Angels," has struggled to keep pace with competitors.
Victoria’s Secret, once known for its glitzy fashion shows featuring supermodel “Angels,” has struggled to keep pace with competitors.

なぜこんなことになったのか、色々と取沙汰はされているが、この一番の原因は同社のインクルーシブという名前のポリコレ路線が原因ではないかと言われている。

数年前から一部フェミニストらの間から、同社の製品は痩せた女性のみを対象としており、太目サイズの製品が少なすぎるという批判が起きていた。それで2021年、同社はプラスサイズ商品を増やす方針を発表。エイミー・ホークスがCEOに就任してからはプラスサイズにアピールする宣伝に全力投球するようになり、去年の8月にプラスサイズのELOMIブランドを発足した。

これは去年だったか、近所のショッピングモールで通路の真ん中にある柱に大型の下着宣伝ポスターが掲げられていた。しかし、このモデルが体重150キロ以上は裕にあると思われる醜い黒人女性の下着姿だったのだ。別に黒人が醜いと言っているわけではない。だがもし黒人女性は醜いというイメージをつくりたいのであれば、あれ以上最適なものはないと思わせるような酷いものだった。顔立ちも凄いブス。そして体型が余りと言えば余りの太りよう。体中ぶよぶよの脂肪がしわを作り、両足が太すぎるため大股開きで座っているポーズだったのである。

一体誰があんな姿を見たいのだ!まるで一時期あったサーカスのフリークショーの出し物である。

Victoria's Secret has been slow to adapt to changing consumer tastes, including preference for "body-positive" products, critics charge.
Victoria’s Secret has been slow to adapt to changing consumer tastes, including preference for “body-positive” products, critics charge.

いったい一般消費者は本当にプラスサイズのセクシーランジェリーなど求めているのだろうか?

ヴィクトリアシークレットのこの売上をみていると明らかに需要はない。

まず醜いモデルを使うことに宣伝効果があるはずがない。モデルというのは非現実的に美しいということは誰もが知っている。モデル自身素顔や普通の時はあんな風には見えない。しかし、あの服を着たら、あの下着をつけたら、自分もあんなふうになれるかもという幻想があるからこそその商品は売れるのだ。醜いモデルを使ったら、商品のイメージまで醜く下がってしまう。そんなの基本中の基本のはずだ。ポリコレが何を言おうと人々の美意識を変えることは出来ない。

また、セクシー下着をを買う消費者層とはどんなものなのか。

私も若くて細い時はたまにはセクシー下着をつけてみたいと思ったことはある。ただヴィクトリアシークレットの下着は見た目は綺麗だが、およそ実用的とは言えない。それでも痩せてる人はまだしもだが、太っている人がああいうものを着ると、局部に食い込むなどして非常に着心地が悪い。だいたい下着など普段は見せびらかすものではないので、着心地の悪いものをセクシーだからといってあえて着ている人と言うのは、普段からセクシーな体を保つために色々な努力をしている人たちなのではないだろうか?明らかに私のように着心地の良いものを最優先に選ぶような中年太りの女性ではない。

考えても観てほしい。周りが目も当てられないほど自分を太らせてしまうような女性が、外から見えない下着にまでそんな気を使うだろうか?私は太っている人でおしゃれな服装をしている人を先ず見かけない。一日中パジャマみたいな服を着てる女性が下着だけセクシーなものを着るとは到底思えない。

ヴィクトリアシークレットにプラスサイズを求めているのは、自分達は同社の商品など着たこともなければ着る気もない活動家なのだ。そんな人たちの口うるさい要望を取り入れて、本当の消費者の声に耳を傾けないからこういうことになるのだ。

魚は頭から腐る

B&Nの成功例とヴィクトリアシークレットの失敗例でも分かる通り、経営者であるCEOの判断が間違うと社員がどれほど努力してみてもうまくはいかない。

これに学んでヴィクトリアシークレットは再びセクシー路線に方向転換したほうがよいのではないか?


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訴訟を盾に言論の自由を迫害する人たち

この間(2024年1月末)、ドクターKとして知られるブランドン・カバノーというイギリスのユーチューバーが数人の中国人に絡まれて自分らが映っている生配信のビデオを取り下げろと圧力をかけられているという話をしたが、その後この中国人らは彼を肖像権侵害だかなんだかの罪で訴えることになったらしい。それで彼は自分のチャンネルで良い弁護士を知ってる人がいたら紹介してほしいと話ていた。

この何かと訴訟をちらつかせて相手を黙らせようとする手法は本当に気色が悪いし悪質だ。実は私も規模は違うが同じことをされたのでカバノー氏の怒りや恐怖は理解できる。

今年の初めに私がXでやりとりをした人から訴訟を起こすと脅迫されて、私が書いたブログ記事を削除させられるという事件が起きた話は以前に少しした。私が彼女の名前を使ってエントリーを書いたので、自分の名前を使うなと彼女からコメント欄に強い要請があった。彼女は24時間以内に記事を削除しない場合には名誉棄損、営業妨害、無断転載などで法的措置を取るといってきたのだ。

拙ブログのような零細ブログに自分の名前が載ったからって彼女の名誉にかかわるなんてあり得ないのに、なんとしてでも私を黙らせないと気が済まないらしい。本当にセコイ人だ。無論、彼女の言い分は完全なる言い掛かりだ。本当に裁判になったとしても彼女が勝つ可能性はゼロである。しかし問題なのは裁判で勝つか負けるかということではなく、裁判沙汰になるということである。

訴えられれば、たとえその訴えがどれだけ理不尽なものであろうとも、こちらも弁護士を雇って弁護しなければならない。証拠を集めて云々とやるためにはお金も時間も労力もかかる。悔しいが今の私にはそんなことをやれる余裕はない。無論彼女の狙いはそこにある。

大抵の人はつまらないことで訴訟など起こされたくないから諦める。彼女はそうと解っていたから、自分の言う通りにしないなら訴えると脅して来たのだ。悔しいが彼女の思惑通りだ。だからこの件は彼女の勝利だ。しかし相手の足元を見て相手を黙らせようとするような人を私は軽蔑する。

さて、そんなこと書いているうちにまたXで名誉棄損で訴えてやると息巻いている人のポストを読んだ。この会話には私は加わっていない。なぜか私のタイムラインに上がってきたので読んだだけだ。

事の発端は一時帰国中と思われる若い女性が、留学先のフランスに帰りたくないとフランスにおけるあらゆる問題点をぐちぐちと色々書いていたことに、全く無関係な人が「まんまパリ症候群で失礼ながら吹いてしまった」と言うポストをし、下記の定義を貼っていた。

パリ症候群(パリしょうこうぐん、: syndrome de Paris, : Paris syndrome)とは、「流行の発信地」などといったイメージに憧れてパリで暮らし始めた外国人が、現地の習慣や文化などにうまく適応できずに精神的なバランスを崩し、鬱病に近い症状を訴える状態を指す精神医学用語である。具体的な症状としては「日常生活のストレスが高じ、妄想や幻覚、自律神経の失調や抑うつ症状をまねくという。

この人は元のフランス留学生のポストをリツイートもしておらず名前も書いていない。ただこんなことを言ってる人がいたとしてこの定義を張り付けたのだ。そのポストが結構伸びてしまい、元のポストを書いた留学生の目に届いてしまった。すると彼女はこのポストを書いた男性とそのポストに同意する意見を書いた人達をかたっぱしから名誉棄損で訴えると宣言した。ただ、24時間以内に謝罪すれば訴訟はおこさないと書いている。

なんだか私がされた脅迫と似たような内容である。

私はこの会話には直接かかわっていないし、こんなめんどくさい人とは関わりたくないから黙っているが、それにしてもこういうやり方は本当に気色悪い。なんでこんな些細なことで訴えるだのなんだのということになるんだろうか?

こういうソーシャルメディアでは例え匿名で書いていても、相手が訴訟を起こせば、たとえその内容がどれだけ理不尽なものでも開示請求は出来るわけで、そうやって他人の個人情報を得ることもできるのでは?これって訴えた者勝ちと言う気がする。

さて、この名誉棄損について以前に調べたことがある。私が名誉棄損で訴えられるかもしれないと思った時に調べたのだが、そのままになっていた資料がある。ちょうどいい機会だからご紹介しよう。

名誉棄損(Defamation)の定義Everything You Need to Bring a Defamation Lawsuit – Minc Law

名誉毀損とは、第三者に対して虚偽の発言を行い、個人または企業の評判に損害を与えることである。名誉毀損は、様々な形態で、様々な文脈で発生する可能性があり、その結果、ほとんどの州で認められている名誉毀損にはいくつかの種類がある。

先ず一番普通にある名誉棄損にはlibel と slanderとがある。どちらも誹謗とか中傷とか言う意味なのだが、法律用語でlibelというと書かれたもの、slanderは話されたものという違いがある。ネットでおきる名誉棄損はインターネット名誉棄損とかオンライン名誉棄損とか呼ばれる。

さて、カリフォルニア州での名誉棄損には次の二つの種類がある。

Defamation Per Se

法律用語なので日本語では訳せないが、Per Seというのはラテン語で「表面上」のような意味になる。アメリカの殆どの州では第三者に対して次のような行為をした場合にこれがあてはまる。

  • 原告が刑罰の対象となる犯罪や道徳的に問題のある犯罪を犯したと訴えること
  • 原告が忌み嫌われる病気にかかっていると主張すること
  • 原告が性犯罪に関与していると主張する
  • 原告がその職務において不適切または非倫理的な行為を行ったと述べること。

「名誉毀損事件では被害が「推定」されるとはいえ、原告に被害があったことを証明する責任がないわけではない。損害賠償を受けるためには、原告はやはり損害の証拠を提出しなければならない。」

Defamation Per Quod

「一部の発言は、その表面上、本質的に名誉を毀損するものではないが、その代わりに、既知の、または問題となる文脈や文章の外側に現れる外在的な事実のために名誉を毀損するものとなる。このようなタイプの記述は、per quod名誉毀損とみなされる。」

例えば、誰かが或る人がバーでお酒を飲んでいたと言ったとする。それ自体は特に問題のある発言とはいえない。しかしこのある人がアルコール依存症で過去10年間禁酒をしているということが周知の事実であった場合、彼がバーでお酒を飲んでいたと虚偽の発言をされることで、彼の評判が落とされることになる。つまり一見なんでもない発言に見えても背景や文脈によってはその人の評判を落とすとされる行為をさすわけだ。

殆どの州でこのような名誉棄損で訴える場合には原告側は次の二つの要件を満たす必要がある。

  1. 発言が虚偽であり、損害を与えるものであったこと。
  2. 被った特別損害(金銭的損失、精神的苦痛、風評被害など)の金額または重大性。

というわけなので、この女性がこの男性や彼に同意した人たちを訴える理由があるとしたら、Defamatio n pe seの「原告が忌み嫌われる病気にかかっていると主張すること」くらいだろう。当人はすでに弁護士を雇って訴える根拠があるかどうか相談中だとのことで、弁護士は根拠はあると言っているらしい。まあ、赤の他人を精神病患者扱いしたのだからそれが訴える根拠になるというのはそうなのかもしれない。しかし、この留学生女性のXは匿名であり、誰と確定するのは難しいだろうし、それによってこの女性がそれほど損害を受けたとは思えない。

なんにしても、すぐフランスに帰って勉学に励まなければならないと言う時に、こんなくだらない理由でわざわざお金をかけて訴訟をやろうとする人の気が知れない。


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4歳から娘として育てた息子が実はトランスジェンダーではなかったと気が付いたレズカップル

昨日非常に興味深い記事を読んだ。最近になって、トランスジェンダーだと思って生きて来たが、実は自分はトランスではないと気づいた脱トランス本人の話をよく聞くようになったが、今回は4歳の時からトランスジェンダー娘として育てていた自分の息子が実は全く女子自認などではなかったと気づいたレズビアンカップルの話ご紹介しよう。

私は真の信者だった

で始まるこの手記。著者の女性は10代の頃から社会正義やインターセクショナリティーや革新派団体の最前線にいた。人々の代名詞を尊重したし、いわゆる左翼のクールな若者という自覚があった。

そんななかで彼女はレズビアンとしてカムアウトしクィア―と自認していた。そして女性と結婚しそれぞれ精子提供を受けて彼女が長男を二年後にパートナーが次男を出産。子供を産んだことにより自分の社会観が変わった。

そしてその時ヘレン・ジョイスの副題のように、事実とイデオロジーが出会った。

著者は母親としての本能的な感情と左翼の母親としての義務に違和感を持ちながらも、子供たちの「本物の自分」を尊重すべく息子たちを極力中性的に育てた。洋服やおもちゃや言葉使いにも気を使った。代名詞こそ彼・彼の、を使いはしたものの、彼らを男の子と呼ばず、彼らが男の子であることさえ言わなかった。「男」「女」という言葉を使わずに「人」と言っていた。

長男がまだ三歳児だった頃、彼が普通より精神的に敏感であることに気付いた。著者たちは彼が男の子であるとは言わず、彼自らが自分は男か女かを言い出すのを待った。親たちは息子の指揮に従うつもりだった。

しかし子育てをするうえで、指導者は親であるべきだという気持ちは強かった。ジェンダーについても子供を指揮に置くのは違和感があったが、ここでもジェンダーイデオロギーが勝ってしまった。

息子が4歳になった頃、息子は自分は男の子なのか女の子なのかを問うようになった。母親は息子は男の子だと言う代わりに自分で選ぶべきだと諭した。無論子供に対してなので「ペニスを持って生まれた赤ちゃんでも女の子になれるのよ」といったあいまい言い方をした。息子は何度も自分の性別について問いただしたが、母親の答えはいつも同じだった。母親はこの時は正しいことをしていると思っていたが、後になって考えてみると、自分は息子をトランスジェンダーへと導いていたと著者は語る。

何か月にもわたる息子の質問に、母親たちが「女の子になってもいい」と言った途端、息子は大喜びで「僕は女の子だ!僕は女の子だ!」と飛び跳ねたという。多分それは何か月にもわたってはっきりしなかった性別が遂にはっきりしたことの喜びだったのだろう。(翻訳はDeepL)

振り返ってみると、とても書ききれないほどです。私たちがしたことの悲しみとショックは、とても深く、とても広く、とても鋭く、突き刺さってくるようです。どうして母親は自分の子どもにこんなことができるのだろう? 自分の子どもたちに?私は自分のしていることが純粋で、正しく、良いことだと心から信じていましたが、後になって、それが我が子に何をもたらすことになるのか、恐怖を感じながら悟ったのです。この恐怖は、今でも私の心の芯を揺さぶる。

息子がトランスジェンダーだと発表すると、期待通り彼女の周りの人々はそれを祝福した。すでに子供を社交的に転換していた友達は社交的転換は子供が自己を探検するために良いことだと保証した。

トランスの子どもを持つ親たちのサポートグループを主催していたセラピストは、子供のトランスジェンダーとしての自己確立には数年かかる。よってその間この概念を信じない家族や親せきを排除して子供を守る必要があると言った。

考えの違う家族や親族とは縁を切らせて信者を孤立させるのはカルトの常套手段である。当時母親はセラピストを信じたが、今思えば、これは子供を異性として確立していく手段だった。

セラピストは子供に祖父母や親せきや友達に手紙を書かせ、彼と関係を保ちたければ異性の名前や代名詞を尊重するようにと条件を出した。

しかし母親たちの気持ちが変わったのは、長男の社交的性移行が始まって一年後、当時まだ3歳だった次男までもが自分は女の子だと言い出した時だった。

長男と違って次男には女の子らしい繊細さなどまるでなかった。彼は典型的な男の子だったのだ。そして母親たちは気づいた、次男が女の子になりたいのは、二人の母親や長男と一緒になって同じでいたいという願望から来るものだと。

だがもし次男の女の子自認が単に家族と同じでいたいという理由からだったとしたら、長男の性自認の動機も同じだったのでは?息子は単に二人の母親と同じでいたかっただけなのではないだろうか。と母親たちは疑い始めた。

二人はセラピストに相談に行ったが、セラピストは親が慣れるには時間がかかる、息子の性自認を疑うのはトランスフォビアだと諭した。

母親たちは納得がいかなかったが、正しいことをしたいと言う思いでその晩、夕飯時に次男にも女の子になってよいと告げた。夕飯後著者は次男の性自認を肯定するためにゲームの途中で次男に向かって「ハイ、私の女の子」と呼ぶと、次男は「ダメ、ママ!そんな風に呼ばないで!」と言った。

「ダメ、ママ!そんなふうに呼ばないで!」 彼の反応はとても明確で、私は立ち止まりました。私の心に突き刺さりました。その後、私は引き返さなかった。

その後二年間にわたり母親たちはこの問題について深く追求した。そして長男は実際はトランスジェンダーなどではなく単に極端に敏感な多分自閉症の傾向がある子供だったという結論に及んだ。

しかしこの間著者は苦悩した。出来ることなら時間を戻してすべてをやり直したいと思う反面、もしも自分が間違っていて、長男が本当にトランスジェンダーだったら、自分がやろうとしていることは長男を深く傷つけることになるのではないだろうかと。

二人は次男の社交的転向はさせず、長男の8歳の誕生日直前に、長男も男児として育てることに決めた。その晩著者は男の子が女の子になれると言ったのは間違っていたと長男に告げた。最初長男はひどく怒っていたが、次の日になると肩の荷が下りたように安心した様子だった。彼は解放されたのだ、大人によって担がされていた重荷から。

その後の調整は難しかったとはいうものの、現在長男は男の子として健やかに育っている。そして次男も非常に幸せだ。次男は誰かと同じでありたかっただけなのだという母親たちの直観は確信へと変わった。

著者は女の子のような繊細で引っ込み思案の男の子の将来を憂うという。そういう子が自分は女の子ではないのかと悩むことを恐れる。

私は、文化や制度、仲間、インターネットが、彼に何を伝えるのかが心配です。親子関係の破壊に躍起になっているような国家権力が怖い。どんな未来が待っていようとも、私は息子たちを守るために戦うことを決して止めない。

私はもう真の信者ではない。

私(カカシ)は昔からトランスジェンダリズムはカルトだと言って来たが、著者もやはりこれはカルトのようだと言う。このカルトはイデオロギーのために自分や子供たちを犠牲にしようとしたのだと。

私はこのカルトから脱出した、そしてもう二度と戻ることはない

私はこの手記を読んでいて改めて確信したのは、子供には父親と母親の両方が必要だということだ。著者は長男が女の子になりたがった理由は母親たちとより親密な関係を保つために母親たちと同じでありたいと思ったことにあったと言っている。だがもしこの息子に父親がいたらどうだっただろうか?男の子が愛を感じお手本として尊敬できる男性が傍に居たら、彼は自分が男の子であることに不安を感じただろうか?そして彼が自分は男の子か女の子かと悩んでいる時に、「お前はお父さんと同じだ。男の子だ」と断言してくれる父親がいたら、彼の悩みはそれで終わったのでは?

実は私は前々からトランスジェンダー(特にMtF)の子どもを持つ家庭には父親の存在が欠乏していることに気付いていた。母親だけの家庭だったり、著者のようにレズビアンカップルだったり、実際に家庭内に父親が居たとしても子育てに父親が無関心といった家庭も含め、繊細で傷つきやすい男児は母親に不健康に執着しやすい。そして母子家庭ーの場合、母親が男性との関係がうまくいかずに母子家庭になった場合が多く、男性に対する不信感を抱いている母親の感情を男児が敏感に察知する場合も多い。レズビアンに至っては、男性をハナから拒絶した女性達であるから、男性のままだと自分も母親たちに拒絶されるのでは、という不安があってもおかしくない。

そして怖いのは著者のように母親が最初から社会正義の「真の信者」である場合、子供がちょっとでも異性的な傾向を見せると、すぐにトランスジェンダーだと思い込み、その道をまっしぐらに進んでしまうことだ。セラピストも学校も政治家も法廷ですらも、すべてトランスジェンダー概念を支持し微塵の疑問も許さない。これでは子供には勝ち目がない。

この著者の女性のような体験をした人は少なからずいることだろう。しかしそれを公言することが非常に難しいことであるのは、脱トランスの人々に対するトランス活動家の過激で暴力的な攻撃を見ていればよく分かる。特にこうした社会にドップリつかっていた人々にとって、カルトからの脱出は、これまで信用していた友達や仲間たちとの離脱を意味するのだ。

トランス活動家たちは、特にトランスジェンダーで金儲けをしている医療関係者たちが、子供の性転換治療をせかすのも、多くの子どもたちが思春期を過ぎると心の迷いから解けるという事実をTRAは十分承知しているからだ。だから気が変わらないうちに親を説得してさっさと性転換をさせてしまおうとするのだ。

なんという恐ろしいカルトだろう。


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歌手が歌を通じて宗教布教をしてはいけないのか、藤井風の件で考える

私はポップミュージックにはとんと疎いので、藤井風氏なる歌手が存在していることを昨日まで知らなかった。彼の信仰を巡って色々話題になっているみたいなので、どんな人なのだろうと歌を聞いてみた。最近の数曲を聞く限り、かなり才能のあるシンガーソングライターだなという印象を受けた。彼は日本だけでなくアジアを中心にかなり幅広く人気のある人らしく、英語もネイティブ並みだし、今後も世界市場でどんどん活躍できる人だろう。K-Popみたいに人工的な感じではなく、本物さを感じた。

しかし最近、彼の宗教を巡って、彼が音楽を通じてサイババというインドの新興宗教を布教しているのではないかという疑惑が生まれて来た。こちらツイッターで元共産党員のKomugiさんから紹介されたIIYY project によるNote記事から読んでみた。

先ずIIYYプロジェクトとは何か。ホームページではこうある。

「藤井風さんの音楽活動を通じたサティヤサイババの思想伝道における運営の問題の改善」を求めるため、皆さんの声を集めて運営に対し問い合わせという形で送ることにしました。

つきましては、Googleフォームにて、この件に関する藤井風運営へのメッセージを募集します。
・「藤井風さんの音楽活動とサイババの教えとの結びつきに関して、運営に対し何らかの変化、改善を求める」という目的に合意されたものであれば、どんな内容でも構いません。ひとことでも、長文でも大丈夫です。伝えたいことに合わせて、自由にお書きください。(後略)

IIYYは藤井氏の音楽活動運営にどんな問題があると考えているのだろうか。彼らは抗議の要点をこう説明する。強調は原文のまま。

私たちが今回抗議しているのは、
藤井風さんのサティヤ・サイ・ババの思想を絡めた音楽活動が、それが「サイババ思想の入り口」だと全く周知されてこなかったために、
リスナーが風さんの音楽の入り口に立った時に、充分な情報を基に自分の意思に即した判断をすることが非常に困難になっていた点
についてです。

サイババというのはインド発の新興宗教で教祖のサティア・サイ・ババはすでに亡くなっている。この宗教はインドではカルトとは思われていないようで、インドのモディ首相からサイババ御降誕97周年祭お祝いメッセージが届いたというくらいだから、それなりの格式ある宗教ということはできる。

ただ教祖のサイババが多くの男児を性的虐待していたという話もあり、かなり暗い闇の部分のある宗教のようである。無論それをいうならイスラム教のモハメッドにも9歳の娘を嫁にしたという史実があるし、カトリック教会における神父による男児虐待もある。

さて、実を言うと私はサイババという宗教がいかに問題のあるカルト集団かということには全然興味がない。私が興味があるのは、もし藤井氏がサイババの熱心な教徒で彼が彼の歌を通じてこの教えを布教していきたいと思っていたとして、その何が悪いのだろうかということだ。

IIYYは藤井氏が自分の布教の意図を故意に隠してファンを洗脳しようとしているかのように語っているが、IIYY自身が認めているように、藤井氏の最初の二つのアルバムのタイトルはサイババの教えから直接取られたものだという。

藤井風さんは2020年デビューの日本のアーティストで、「HELP EVER HURT  NEVER」「LOVE ALL SERVE ALL」という二つのアルバムを出しています。
彼のレーベルも、ここから名前をとった”HEHN RECORDS”となっています。
またこれらの思想を指す、HEHN精神、LASA精神という言葉は、「藤井風のコアメッセージ」として定着しており、ファンの間ではこの精神を実践することを呼びかけあう声も見られます。
これらの言葉はツアータイトルや彼のグッズにも頻繁に使われ、藤井風さんを象徴するものになっています。
藤井風さんのオフィシャルウェブサイトでは、プロフィールに以下のように記載されています (略)

しかし、この二つの言葉は、実はいずれも、インドのサティヤ・サイ・ババが掲げるスローガン、彼が繰り返し説いていた教えそのものでした。
そして、彼の歌やパフォーマンス、言葉によるメッセージは、サイババの教えに強く基づくものでした。

ということは、藤井氏は自分の意図をかなり明確に示していたということになるのではないか?少なくともひた隠しにしたとは到底言えない行動である。彼のメッセージがサイババの教えに強く基づくものだと彼自身が発表しなくても、インドでは広く信仰されている宗教であるならば、いずれこの教えはサイババのものであることは人々の知るところとなっていただろう。現にIIYYがそれに気づいたように。

IIYYは藤井氏が最初から自分の宗教についてはっきりファンに説明し、自分の行為は布教活動であると明言すべきだったと言いたいらしいのだが、藤井氏にそんな責任があるだろうか?それに彼には自分が宣教師であるという自覚はあるだろうか?

アメリカは以前に比べるとかなり世俗的になったとはいえ、まだまだ地元の教会に属している人は多くいるし、道を歩けば教会にあたるというくらい信心深い国だ。宗教というのは日ごろの生活に密接に関連してくるものであり、普通の会話でも「神のご加護を!」「神が私の証人だ!」なんてことは平気で言うし、食事前のお祈りをする家庭も多いとはいわないが少なくもない。

カントリーウエスタンの歌詞にはしょっちゅう神だ、お祈りだ、というフレーズが登場するが、これらの歌は必ずしもクリスチャンミュージックとはとられないし、70年代にティーンアイドルとして一世を風靡したオズモンドブラザースも敬虔なモルモン教徒で、常に兄弟愛や家族愛について歌ったり語ったりしているがこれはモルモン教の布教だなんて誰も思わない。

歌手自身が敬虔な信者であれば、音楽がそれに影響をうけるのは当然の話で、その歌詞のあらゆるところでその宗教心が現れたとしても、それは必ずしも布教しているということにはならないと思う。いや、よしんばそれが布教でも、それが何故いけないのか。布教活動も宗教の自由の一貫だろう。

音楽が特定の宗教や政治思想を広めるために使われるなんてことは太古の昔からあることだ。西洋で芸術とされる音楽の多くが讃美歌である。

新しいところでは1940年代のアメリカのフォークソングでは労働者の歌としてピート・スィーガーなど共産党員の歌手が人気を博した。ベトナム戦争が始まるとボブ・ディランなどのフォーク歌手たちは、あからさまに反戦歌を唄うようになった。日本でも加藤登紀子など、東大在籍中に学生運動に参加しご主人はその関係で逮捕されたりもしていた。70年代に妹に誘われて長谷川きよしのコンサートに行ったら、当時売り出し中の左翼政治家で元歌手の中山千夏がゲスト出演し、歌う前に二人で長々と左翼政治について演説をぶった。2003年にイラク戦争前夜、カントリーのデキシーチックスがコンサート中に反戦演説をして話題になったのも記憶に新しい(私の記憶ではだが、笑)。

つまり、音楽を通じて宗教や政治活動がされるのは珍しいことでもなんでもない。

それをいうならハリウッド映画など、昔から共産主義者の巣窟で、冷戦時代に共産主義のプロパガンダ映画がいくらも作られていた。(ブラックリストで実際の共産党員は締め出されたが)今でもWOKEカルトが実験を握ってダイバーシティーだあ~インクルーシブだ~という目も当てられないプロパガンダフィルムを作り続けている。

私は藤井風の活動や運営姿勢が特に変化する必要性を感じない。それにマーケティングの上でも自分の音楽活動がサイババ布教活動だなどと宣言することは、彼の音楽を宗教とは無関係に幅広いファンに届けようというビジネスの面でも全く良いやり方ではない。何故彼がサイババ信者以外の人から敬遠されるような運営をすることを強制されなければならないのだ?そんなことを強制するのは彼の歌手としてのキャリアに関わることであり、彼のビジネスへの営業妨害ではないか?

IIYYや他の人達が、彼の活動が布教に当たり若いファンたちを洗脳していて危険だと思うのであれば、人々が藤井氏の宗教感を知らずに布教されていることに気付かないまま信者になったりしないようにと忠告するのは悪いことではないし、どんどんやればいいと思う。

人々は藤井氏の宗教感を知ったうえで彼の音楽を楽しめばいいし、彼のメッセージに共感するなら、サイババに加入するもよし、ここは人々の自由意志に任せてはどうなのか。


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