性別変更特例法の手術要件が最高裁で審議される!

スコットランドで、自分が自認する方の性別を選べるようになるかもしれないという話でスコットランドの女性達が反対運動を繰り広げていると言う話はしたが、日本でもとんでもないことが審議されている。しかし事の重大性の割には、日本ではあまり話題になっていないような気がする。今最高裁では性別を法的に変更する際の特例法から手術要件を外すべきかどうかということが審議されているということを、どのくらいの日本人は知っているのだろうか? 以下毎日新聞の記事。

性同一性障害特例法の性別変更要件 最高裁大法廷が憲法判断へ

毎日新聞 2022/12/7 17:37(最終更新 12/7 20:14) 825文字

 生殖機能をなくす手術を性別変更の条件とする性同一性障害(GID)特例法の規定が個人の尊重を定めた憲法13条などに違反するかについて、最高裁第1小法廷(深山卓也裁判長)は7日、審理を大法廷(裁判長・戸倉三郎長官)に回付した。第2小法廷は2019年1月、この規定を「合憲」とする決定を出しているが、その後の社会情勢の変化を踏まえ、最高裁の裁判官全15人が参加する大法廷での審理が必要と判断した。

 04年施行の特例法は、GIDの人が家裁に性別変更を申し立て、審判で認められれば戸籍の性別変更を可能とした。同法は変更の要件として、生殖機能を欠く状態にある(手術要件)▽未成年の子どもがいない(子なし要件)▽複数の医師にGIDと診断されている▽18歳以上▽結婚していない――などを規定。家裁は全ての要件を満たさなければ性別変更を認めない運用をしている。

手術要件は後遺症のリスクや100万円程度の費用がかかること、子なし要件は子どもを持つ人の性別変更を不可能とすることから、両規定の見直しを求める声が当事者団体から上がっている。最高裁は今回、子なし要件は大法廷回付の対象としておらず、手術要件に限って憲法判断が示されることになる。

 回付されたのは、戸籍上の男性が手術なしでも女性への性別変更を認めるよう求めた審判で、1審・岡山家裁決定(20年5月)、2審・広島高裁岡山支部決定(20年9月)はいずれも性別変更を認めなかった。戸籍上の男性は、手術要件は憲法13条の他に「法の下の平等」を定めた14条にも反するとして最高裁に特別抗告した。

 19年の小法廷決定は「性別変更前の生殖機能で子どもが生まれれば、親子関係にかかわる問題が生じ、社会に混乱を生じかねない」として裁判官4人全員一致で手術要件を「合憲」とした。ただ、うち2人は手術なしでも性別変更を認める国が増えている状況を踏まえて「憲法13条に違反する疑いが生じている」との補足意見を示していた。【遠山和宏】

はっきり言って、特例法で一番大切な点はこの手術要件にある。なぜなら特例法が必要となった元々の理由は、手術をして容貌が性器に至るまで異性のようになった人たちが、容貌と戸籍の性別が一致しないことで問題が生じるからというものだった。就学や就職の際、容貌と戸籍の性別が違っていることで起きる弊害、公的な場での身分証明書提示で起きる問題などを解消することが目的だったはず。一部の医療関係者を除き、性移行した人たちが元の性を公表せずに埋没できるようにするための法律だったはずだ。

しかし、手術を受けないということは、元の性の体のままということになり、単なる異性装と何ら変わらないことになる。このような人たちの戸籍変更を簡単に許した場合、日本社会はどうなるのか?

戸籍が女性の男性体の人が女子空間に入ってくることや女子スポーツに参加するといったことも、もちろん一大事ではあるが、そのほかに結婚の問題がある。

日本では同性婚は許されていない。しかし戸籍が異性になった人ならば、生物学的には同性同士であっても戸籍上は異性として結婚が合法に出来るという状態が生じる。これは同性婚を裏口から合法にするあさましい手口である。

なぜこのようなことが最高裁で審議の対象となってしまったのか?

私は元々の問題は、法的に性別を変えられるとした特例法にあると考えている。私は最初から特例法の設立には反対だった。一旦性別は変えられるとしてしまったら、必ずやその要件が厳しすぎるとして緩和しろという動きが出てくるのは、欧米の例を見ていれば火を見るよりも明らかだったはず。

私は最終的にもこの要件が撤廃されないことを願うが、そろそろこの特例法自体の廃止を考えるべき時が来たと思う。先日もツイッターですでに手術も済まし戸籍も変えたという生得的男性が、温泉の女湯に居た女性達の胸について気持ちの悪い動画を挙げていた。あのスケベ根性まるだしの男が、法律的には女性であり、我々女性が受け入れなければならないと思うと本当に胸が悪くなる。法律がなんというおうとあれはただのスケベ親父だ。

これまでに特例法によって法的性別を変えた人に元に戻れというのは人権侵害だ。彼らは既存の法律に基づいて戸籍を変えたのだから。しかし、今後はそれを不可能にすべきである。今の状態を見ていればこの法律が悪用されていることははっきりしているし、今後もどんどん法律の緩和を訴える活動家が増えるに違いないからだ。


Comment

「社会正義はいつも正しい」米国のキャンセルカルチャーを説明した訳者の解説記事をキャンセルした出版社、編集担当に謝罪を強要

先日私はツイッターで一ノ瀬翔太氏という早川書房編集担当者のこんなツイートを読んだ。

『「社会正義」はいつも正しい』解説記事の公開を停止しました。私はテキストが持ちうる具体的な個人への加害性にあまりに無自覚でした。記事により傷つけてしまった方々に対して、深くお詫び申し上げます。記事の公開後、多くのご批判を社内外で直接・間接に頂き、問題を自覚するまでに一週間を要しました。結果、対応がここまで遅れてしまったことにつきましても、誠に申し訳ございません。取り返しのつくことではございませんが、今後の仕事に真摯に向き合い、熟慮を重ねてまいります。

これはまるで説明になっていない。一ノ瀬氏のいう「記事によって傷つけてしまった方々」とはどういう人たちなのか?具体的に早川書房にはどのような批判が送られ、具体的に解説文のどこの部分が不適切とみなされて削除という結論に至ったのか、もっとはっきり書くべきなのではないか?

一ノ瀬氏の謝罪文は、外部からの圧力を受けて謝れと言われたから謝っているというおざなりのものにみえ、到底本人が納得して書いたものとは思えない。

早川書店の公式サイトにも記事の公開停止の説明がされていた。こちらの方はもう少し具体性がある。強調はカカシ。

記事の公開停止につきまして (2022/12/05)記事の公開停止につきまして (hayakawa-online.co.jp)

11月15日に弊社noteに掲載した記事「差別をなくすために差別を温存している? 『「社会正義」はいつも正しい』の読みどころを訳者・山形浩生が解説!」につきまして、読者の皆様から様々なご意見を頂いております。出版社がなんらかの差別に加担するようなことがあってはならず、ご指摘を重く受け止めております。

掲載した巻末解説は本文とあわせて読まれることを前提に書かれ、ポストモダニズムの三つのフェーズ、カッコつきの〈社会正義〉といった本文のキー概念にはあえて触れていません。そうしたテキストのみを、本文と切り離した形でウェブ公開すること自体が不適切でした。

つきましては、当該記事の公開を本日停止しました。

弊社はあらゆる差別を許容せず、それを大前提としたうえで多様な出版活動を行なってまいります。ウェブ・SNS上での情報発信に関して編集部内でのチェック体制を新たに整えるとともに、熟慮を重ね、不適切な情報発信の再発防止に努める所存です。

株式会社早川書房編集部

しかしこれも説明にはなっていない。役者の解説はあくまでも解説なのであり、本文に書かれていることをすべて触れるわけにはいかない。これは本文を読みたくなるような予告編のようなものなのだからそれが抜けてるからいけないというのは変な話だ。ここで唯一つだけ削除の理由とみなされるのは「出版社がなんらかの差別に加担するようなことがあってはならず」のくだりだが、具体的に役者の山形浩生氏解説のどの部分がどのように差別に加担していると判断したのか、それをきちんと説明すべきではないか?そうでないと、あたかも山形氏自身が差別に加担しているかのように読めてしまい、山形氏に対して非常に失礼だと思う。

原文は削除されてしまっているが、誰かがアーカイブ記事を見つけてくれたのでそこから引用して読んでみよう。リンクが切れてしまう可能性が高いので、後部に全文添付しておく。

ざっと読んでみて私には何が問題なのかさっぱりわからない。いや、それは嘘だ。問題は満載だ。だがそれは事実と異なることが書かれているとか、差別的だからだという意味ではない。もしこの原書がこの解説通りの本であるとしたら、多くの左翼活動家にとって非常に不都合な事実が山盛りなのだ。どうりで左翼たちが発狂した訳である。

例えば、ここ、、

現在のアメリカでは、一部の「意識の高い」人々による変な主張がやたらにまかりとおるようになっている。(略)大学の講義で、人間に生物学的な男女の性別があると言っただけで、性差別だと言われる。人種差別の歴史についての講義でかつて使われた差別用語を紹介しただけで、人種差別に加担したと糾弾される。大学で非白人学生による単位や成績の水増し要求を断ると、白人による抑圧の歴史を考慮しない差別だと糾弾される。

批判を受けるだけなら別に問題はない。だがいったんそうした発言をしたり糾弾を受けたりすると、それがまったくの曲解だろうと何だろうと、その人物は大学や企業などでボイコットを受け、発言の機会を奪われ、人民裁判じみた吊し上げにより村八分にされたりクビにされたりしてしまう。

それどころか、ジェンダーアイデンティティ選択の自由の名のもとに、子供への安易なホルモン投与や性器切除といった、直接的に健康や厚生を阻害しかねない措置が、容認どころか奨励されるという異常な事態すら起きつつある。身近なところでは白人が日本の着物を着れば(あるいは黒人が日本アニメのコスプレをしたら)それが(ほとんどの日本人は気にしないか、むしろおもしろがっていても)関係ない第三者により文化盗用だと糾弾され、他文化の要素を採り入れたデザイナーや企業が謝罪に追い込まれる事態も頻発している。

拙ブログの聡明なる読者諸氏はこれらの供述が全くの事実であることをよくご存じであろう。しかし同時に何故左翼活動家達が差別的だと言って激怒しているのかもお分かりいただけると思う。自分らこそが差別者であり、差別があることを指摘している人がキャンセルされているなどということを認めたくないのは当然だからである。

特にジェンダーアイデンティティーの下りで子供の性転換治療が奨励されているというのは事実無根だと騒いでいる人がいるが、これに関してはすでに拙ブログでも何度か紹介したように、デイリーワイヤーのマット・ウォルシ氏のチームがバンダービル小児病院の医師が熱心に小児の性転換治療を奨励している動画が暴露されている。下記のスレッドでそのいくつかの動画を観ることが出来る。

Matt Walsh on Twitter: “BREAKING: My team and I have been investigating the transgender clinic at Vanderbilt here in Nashville. Vanderbilt drugs, chemically castrates, and performs double mastectomies on minors. But it gets worse. Here is what we found. Let’s start at the beginning.” / Twitter

さて山形氏の原著の功績のところにこんな供述がある。

本書の最大の功績の一つは、多岐にわたる「社会正義」の各種「理論」を、まがりなりにも整理し、多少は理解可能なものとしてまとめてくれたことにある。

こうした「社会正義」の理論と称するものの多くは、とんでもなく晦渋だ。文字を追うだけでも一苦労で、なんとか読み通しても変な造語や我流の定義が説明なしに乱舞し、その理論展開は我田引水と牽強付会の屁理屈まがいに思える代物で、ほぼ常人の理解を超えている。それをわざわざ読んで整理してくれただけでも、実にありがたい話だ。

さらに一般的には、一応はまともな肩書きを持つ学者たちによる「理論」が、そんなおかしなものだとはだれも思っていない。読んでわからないのは自分の力不足で、理論そのものは難解だけれど、まともなのだろう、世の中で見られる異常な活動の多くは、末端の勇み足なのだろう、というわけだ。

が、実はだれにも理解できないのをいいことに、そうした「理論」自体が、まさに常軌を逸した異常なものと化している場合があまりに多い。それを本書は如実に明らかにしてくれる。

これは常々私も感じていたことなのだが、左翼活動家の文章は不必要に難解で一般人には解らない言葉使いが多く、読んでる人間を煙に巻こうとしている意図が見える。しかも活動家学者先生たちはもっともらしい肩書を持っているので、自分の読解力に自信のない人たちは、お偉い先生たちが言っているのだから間違いないだろうと騙されてしまうのだ。どうやらこの本ではそうした似非学者たちが実際何を言っているのかを分かりやすく説明しているようだ。

それにしてもキャンセルカルチャーを批判している本の紹介記事をキャンセルしてしまうとか、早川書房は本当に何をやっているのか。出版社として恥かしい限りである。

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差別をなくすために差別を温存している? 『「社会正義」はいつも正しい』の読みどころを訳者・山形浩生が解説!|Hayakawa Books & Magazines(β) (archive.ph)

「白人は、白人というだけで人種差別的である」
「病気や障害を治療・予防しようとする試みは、当事者への憎悪に基づいている」
「映画の中で黒人女性キャラクターを力強いタフな人物として描くのは黒人差別(だが、弱く従属的な存在として描くと女性差別)」

――ほんとうに?

現代世界を席捲する「社会正義」の根拠を問う全米ベストセラー『「社会正義」はいつも正しい 人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』(ヘレン・プラックローズ、ジェームズ・リンゼイ:著、山形浩生、森本正史:訳、早川書房)。11月16日の刊行に先立ち、山形浩生氏によ

1 はじめに

本書はHelen Pluckrose and James Lindsay 『Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything About Race, Gender, and Identity—and Why This Harms Everybody』(2020年)の全訳だ。翻訳にあたっては出版社からのPDFとハードカバー版を参照している。

2 本書の背景

本書は、ここ10年ほどで欧米、特にアメリカで猛威をふるうようになったポリティカル・コレクトネス(略してポリコレ)、あるいは「社会正義」運動の理論と、その思想的源流についてまとめた本だ。

現在のアメリカでは、一部の「意識の高い」人々による変な主張がやたらにまかりとおるようになっている。少なくとも、それを目にする機会はずいぶん増えた。性別は自分で選べるといって、女子スポーツに生物学的な男性が出たりする。大学の講義で、人間に生物学的な男女の性別があると言っただけで、性差別だと言われる。人種差別の歴史についての講義でかつて使われた差別用語を紹介しただけで、人種差別に加担したと糾弾される。大学で非白人学生による単位や成績の水増し要求を断ると、白人による抑圧の歴史を考慮しない差別だと糾弾される。

批判を受けるだけなら別に問題はない。だがいったんそうした発言をしたり糾弾を受けたりすると、それがまったくの曲解だろうと何だろうと、その人物は大学や企業などでボイコットを受け、発言の機会を奪われ、人民裁判じみた吊し上げにより村八分にされたりクビにされたりしてしまう。

それどころか、ジェンダーアイデンティティ選択の自由の名のもとに、子供への安易なホルモン投与や性器切除といった、直接的に健康や厚生を阻害しかねない措置が、容認どころか奨励されるという異常な事態すら起きつつある。身近なところでは白人が日本の着物を着れば(あるいは黒人が日本アニメのコスプレをしたら)それが(ほとんどの日本人は気にしないか、むしろおもしろがっていても)関係ない第三者により文化盗用だと糾弾され、他文化の要素を採り入れたデザイナーや企業が謝罪に追い込まれる事態も頻発している。

さらにこうした事態に対して科学的知見に基づく反論をすると、各種科学や数学はすべて植民地帝国主義時代の白人男性が開発したものだから、それを持ち出すこと自体が差別への加担だ、と変な逆ギレをされ、この理屈がいまやカリフォルニア州の算数公式カリキュラムの基盤となりつつある。

そして2022年夏には科学分野で有数の権威を持つ『ネイチャー』誌までこうした運動に入り込まれ、今後はマイノリティのお気持ちに配慮しない、つまり「社会正義」に都合の悪い論文は却下するという公式方針(! !)を打ち出し、中世暗黒時代の再来かと嘆かれている始末だ。いったい何が起きているのか? 何がどうよじれると、こんな変な考えがはびこり、表舞台にまで浸透するようになるのか?

本書はこうした「社会正義」の様々な潮流を総覧して整理してみせる。そしてその源流が、かつてのポストモダン思想(日本では「ニューアカデミズム」とも呼ばれたフランス現代思想)の歪んだ発展にあるのだと指摘する。それが、過去数世紀にわたる飛躍的な人類進歩をもたらした、普遍性と客観性を重視するリベラルで啓蒙主義的な考え方を完全に否定する明確に危険なもので、これを放置するのは分断と敵対、自閉と退行につながりかねないと警鐘を鳴らす。

3 著者たちについて

ジェームズ・リンゼイは1979年生まれ、アメリカの数学者であり、また文化批評家でもある。ヘレン・プラックローズはイギリスの作家・評論家だ。いずれも、リベラリズムと言論の自由を強く支持し、本書に挙げられたような社会正義運動と、それに伴う言論弾圧やキャンセルカルチャーについては強く批判する立場を採る。

どちらも、いろいろ著作や活動はある。だが二人が有名になったのは何よりも、2017~2018年に起こった通称「不満スタディーズ事件」のおかげだ。

哲学研究者ピーター・ボゴシアンとともに、この二人はカルチュラル・スタディーズ、クィア研究、ジェンダー研究、人種研究等の「学術」雑誌(もちろん本書で批判されている各種分野のもの)にデタラメな論文を次々に投稿し、こうした学術誌の査読基準や学問的な鑑識眼、ひいてはその分野自体の学術レベルの低さを暴こうとした。「ペニスは実在せず社会構築物である」といった、明らかにバカげた論文が全部で20本作成・投稿され、途中で企みがバレたものの、その時点ですでに七本が各誌に受理・掲載されてしまった。もちろんこれは1995年にポストモダン系学術誌に物理学者アラン・ソーカルらがでたらめ論文を投稿したソーカル事件(後ほど少し説明する)を明確に意識していたものだったし、この事件も「ソーカル二乗」スキャンダルなどと呼ばれたりする。

この事件で各種現代思想/社会正義研究(少なくともその刊行物)のデタラメさ加減が見事に暴かれた、と考える人は多い。その一方で、ソーカル事件のときとまったく同じく、「手口が汚い」「学者の良心を信じる善意につけこんだ下品な手口」「はめられた雑誌は業界で最弱の面汚しにすぎず、何の証明にもならない」「主流派の焦りを示す悪意に満ちた詐術であり、これ自体がマイノリティ攻撃の差別言説だ」といった擁護論もたくさん登場した。首謀者の一人ボゴシアンは、この一件が不正研究に該当すると糾弾され(だまされた雑誌が「人間の被験者」であり、人間を研究対象とするときの倫理ガイドラインに違反した、とのこと)、勤務先のポートランド州立大学からの辞職に追い込まれている。

その残りの二人が、おそらくはこの事件を直接的に受けてまとめたのが本書となる。

4 本書の概要

本書の最大の功績の一つは、多岐にわたる「社会正義」の各種「理論」を、まがりなりにも整理し、多少は理解可能なものとしてまとめてくれたことにある。

こうした「社会正義」の理論と称するものの多くは、とんでもなく晦渋だ。文字を追うだけでも一苦労で、なんとか読み通しても変な造語や我流の定義が説明なしに乱舞し、その理論展開は我田引水と牽強付会の屁理屈まがいに思える代物で、ほぼ常人の理解を超えている。それをわざわざ読んで整理してくれただけでも、実にありがたい話だ。

さらに一般的には、一応はまともな肩書きを持つ学者たちによる「理論」が、そんなおかしなものだとはだれも思っていない。読んでわからないのは自分の力不足で、理論そのものは難解だけれど、まともなのだろう、世の中で見られる異常な活動の多くは、末端の勇み足なのだろう、というわけだ。

が、実はだれにも理解できないのをいいことに、そうした「理論」自体が、まさに常軌を逸した異常なものと化している場合があまりに多い。それを本書は如実に明らかにしてくれる。

では、本書の指摘する各種理論の変な部分はどこにあるのだろうか? そのあらすじを以下でざっとまとめておこう。

フェミニズム、批判的人種理論、クィア理論等々の個別理論については、ここで細かくまとめる余裕はないので本文を参照してほしい。だが、本書によればそうした理論のほとんどは同じ構造を持ち、その歴史的な源流も同じなのだ。こうした様々な「思想」の基本的な源流はかつてのポストモダン思想にあるという。

で、そのポモ思想って何?

ポモ思想は、本書の認識では左派知識人の挫折から生まれたやけっぱちの虚勢だ。1960年代の社会主義(学生運動)の破綻で、左翼系知識人の多くは深い絶望と挫折を感じ、資本主義社会にかわる現実的な方向性を打ち出せなくなった。その幻滅といじけた無力感のため、彼らは無意味な相対化と極論と言葉遊びに退行した。それがポストモダン思想の本質だった、という。

そのポモ思想によれば世界は幻想だ。客観的事実などは存在せず、すべてはその人や社会の採用する思考の枠組みや見方次第だ。だから資本主義社会の優位性も、ただの幻想なんだよ、と彼らは述べる。

そして、その思考の枠組み(パラダイムとか、エピステーメーとか「知」とかいうとカッコいい)は社会の権力関係により押しつけられる。それは社会の言説(ディスクール、というとカッコいい)としてあらわれるのだ。その中にいるパンピーは、知らぬ間にそうした枠組みに組み込まれてしまい、それがありのままの客観的な世界だと思い込んでいる。そして人々がその支配的な言説に基づき行動/発言すること自体が、まさにその枠組みを強化し、延命させるのだ。

つまりオメーらみんな、口を開いた瞬間に権力に加担している。えらいアタマのいい、言語に対するシャープな批判力を養い、社会を超越した視線を持つ自分たちだけが、その欺瞞に気づけるし、資本主義の幻想の中で右往左往するだけのオメーらのバカさ加減を認識できるんだよ、というのがポストモダニズムだ、と本書は述べる。

ふーん、それで? 資本主義社会が幻想ならどうしろと? それに代わるものをこの理屈は提出できない。その意味でポモ思想は、左翼がかった高踏的なインテリどもの知的お遊びにすぎなかった。やがてその遊びのネタが次第に尽き、自己参照的な言葉遊びに堕すと、こうした知的お遊戯自体が無内容で非建設的なものとして逆に嘲笑の対象と化した。現代思想業界の雑誌が、本物の科学者たちの捏造した無内容なインチキ論文を嬉々として採用してバカにされた1995年のソーカル事件は、そうした社会的な認識の現れでもある。

が、それと前後してポモ思想に飛びついた人々がいた。それが活動家たちだ。活動家たちも、20世紀後半には壁にぶちあたっていた。女性の抑圧や植民地主義、人種差別といった社会の問題は、当初は資本主義社会の抱える本質的な問題と思われていた。社会主義は、資本主義がそういう搾取の上に成立しているのだ、自分たちはそれを解決する、と主張し続けてきた。それを信じて、多くの社会活動家は社会主義、マルクス主義的な立場からの活動を続けてきた。

が……社会主義の惨状と崩壊で、その立場も崩れてきた。一方で啓蒙思想とリベラリズムが広がるとともに、こうした問題も次第に資本主義の枠内で改善してきた。もちろん完璧ではない。地域差もある。だが20世紀半ばまでに、こうした問題のフォーマルな面はかなり解消された。それにつれて多くの社会活動家たちの活動範囲もどんどんせばまった。しかも残された差別の多くは、社会的な慣習、惰性、初期条件の差から来る創発的なもので、政治的な発言力などではなかなかどうにかできるものではないし……

そこにあらわれたのがポモ思想だ。そこでは、各種の抑圧や差別は、社会全体における権力関係として、人々の「知」の構造の中にはびこるものとなる。それを表現するのが言説であり、そしてその言説が繰り返されると「知」は強化され、そこに内在する差別や抑圧はますます強まる。それを何とかしない限り、形式的な法律だの規制だのをいくらいじったところで、各種社会問題は何も解決しないのである! 社会の正義を実現するためには、社会全体の言説と「知」のあり方を変えねばならない!

だがこれは、一瞬で言葉狩りと思想統制と人民裁判へと転じかねない発想だ。差別的な発言を探して糾弾し、それを述べた人物を吊し上げて、言説を発する立場(つまりは職場など)から追い落とすことで言説の権力構造を変える──まさに現在はびこりつつあるキャンセルカルチャーそのものだ。

そして……抑圧者、権力者たちは自分たちに都合のいい、差別を構造化した知/言説を構築し、そこに安住しすぎているが故に、そうした権力構造をそもそも認識できない。それを認識できるのは、排除され、抑圧されてきたが故にその欺瞞を実感している、被抑圧者、被差別者、弱者、他者、マイノリティたち……そしてもちろん、こうした思想や活動を学んで「社会正義」に目覚めた(Wokeな)意識の高い人たち(つまり自分たち)だけなのだ!

つまり自分たちだけが言葉狩りと思想統制の審問官になれる、というわけだ。だからこの人たちの癇にさわった(「トリガーした」)言説は、それだけで有罪確定だ。そこでは事実も論理も関係ない(それ自体が権力的な言説なのだから)。表面的な意味を越えて、そうした言説や表現の持つ構造的な含意にこそ差別があるのであり、それを検出できるのは被差別者や他者のお気持ちだけだ。それに反論するのはまさに、その反論者が差別構造に気づけない、つまりその人物が無自覚な(いやヘタをすると悪意に満ち)罪深い差別者である証拠だ。いやそれどころか、その反論自体が被抑圧者へのセカンドレイプでヘイトスピーチなのだ。

本書で挙げられた各種の「社会正義」理論の流派は、すべてこのパターンにあてはまる。そこでの「弱者」は何でもいい。女性、LGBT、黒人、マイノリティ、肥満者、身体障害者、病人、そしてそうした各種要因の無数の組み合わせ。歴史的経緯や主要論者の嗜好により多少の差はあれ、本書での説明ではどれもおおむね似たようなパターンをたどる。

そしてそのいずれでも、弱者アピールが何よりも正統性の根拠となる。差別されているというアイデンティティによってこそ、その人の「正義」と批判力は担保される。「社会正義」運動の多くが「アイデンティティ・ポリティクス」と呼ばれる所以だ。そしてこれは、往々にしてきわめて倒錯的な主張につながる。この発想からすれば差別をなくして対等な立場と平等性を実現しようとするのは、そうした弱者の特権性をつぶして既存権力構造に隷属させようとする差別的な口封じの陰謀になりかねない。病気を治療したり、マイノリティの教育水準を引き上げて社会的な不利をなくそうとしたりするのは、その人々の弱者としてのアイデンティティ否定だ!

差別をなくす、というのは本来、社会的な不利をなくす、ということだったはずだ。それが弱者アイデンティティの否定だというなら、これは差別をなくすために差別を温存すべきだ、というに等しい変な議論になりかねない。が、いまの「社会正義」理論の一部はまさにそういうものになり果てている。これは誰のための、何のための「正義」なのか、と本書は批判する。

マーティン・ルーサー・キングは、肌の色ではなくその中身で人が判断される時代を待望した。これは啓蒙主義とリベラリズムの思想で、あらゆる人を平等に扱おうとする。だが「弱者」に特権的な視点と判断力があり、その人たちのお気持ちだけを重視すべきで、そこに含まれない人々は目覚めていないんだからその主張は無視してよい、というこの「社会正義」の理論は、分断と対立を煽り、別の形で差別を温存させるだけだ。

そうした危険な動きの拡大には警戒すべきだ、と本書は述べる。アイデンティティを超える普遍的な価値観と万人の共通性を強調した、啓蒙主義とリベラリズムの立場を復活させるべきなのだ。だって、それが実際に社会の平等と公正を拡大してきたのはまちがいのない事実なのだから。そしてそのためには、本書で異様な「社会正義」理論を理解したうえで、それに対して筋の通った反論をしよう。

これまでは、「差別はいけません」といった漠然としたお題目のために、みんなこうした理論に正面きって反対するのを恐れてきた面がある。それがこうした「理論」をはびこらせてしまった。だが「社会正義」理論を否定するというのは、別に差別を容認するということではない。どこは認め、どこは受け入れないのかをはっきりさせて、決然とした対応を!

5 本書の受容とその後

当然ながら、本書はスティーブン・ピンカーをはじめ、啓蒙主義とリベラリズムを擁護し、その21世紀的な復権を主張する論者からはきわめて好意的に迎えられた。もちろん、著者二人の先人ともいうべき、ソーカル事件のアラン・ソーカルも絶賛している。「社会正義」サイドは、無理もないが本書を口をきわめてののしっていて、著者たちも執拗な攻撃を受けている。著者の一人リンゼイは、LGBT活動などをからかったツイートをやり玉にあげられて、2022年の8月5日にツイッターの垢バンをくらってしまった。

またこうした思想的な潮流よりは、社会経済的な背景が重要との指摘もある。学術界全般の悪しきこむずかしさ崇拝傾向に加え、アメリカの大学のほとんどが私学で、学費と寄付金のために生徒やその親の過激な主張に断固とした態度がとれないこと、つぶしのきかない人文系大卒者の激増と就職難に伴う「意識の高い」NGO急増のほうが主因だという説も出た。現代思想は彼らの方便でしかないというわけだ。これは一理あるが、その方便に気圧されないためにも、それが出てきた背景と中身を知っておくのは無駄ではない。

いずれにしても読者の評判はかなりよく、いくつかメジャー紙のベストセラーにランクインするほどの売上を見せている。『フィナンシャル・タイムズ』紙などの年間ベストブックにも選ばれた。こうした理論の冷静でわかりやすい概説書が欲しいというニーズは(おそらく支持者側とアンチ側の双方に)それなりにあったらしい。

そうした解説ニーズに応えるためか、2022年には本書をさらに噛み砕いた「読みやすいリミックス版」(Social (In)justice: Why Many Popular Answers to Important Questions of Race, Gender, and Identity Are Wrong—and How to Know What’s Right)も出版され、こちらもかなり好評だ。

そしておそらく、その後のアメリカの政治状況も、本書の好評とある程度は関係している。「社会正義」理論の弊害への懸念が2010年代末から高まっていたのはすでに述べた通り。それが本書登場の背景でもある。特に2020年に全米で吹き荒れた、黒人差別に抗議するBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動とそれに伴う騒乱は、社会に大きな傷痕を残し、それを「社会正義」的な思想の広まりがその暴走を煽ったという指摘もあった。つまりは、左派による「社会正義」理論の濫用が問題だということだ。

だがそこで奇妙な倒錯が生じた。2020年のヴァージニア州知事選で、共和党候補が批判的人種理論ことCRTの教育制限を公約に挙げた。「社会正義」の理論と、その教育現場への安易な導入こそが、人種分断を煽る大きな要因なのだという。だが実際に当選してから彼らがはじめたのは、きわめて穏健な人種差別教育や多様性教育の抑圧だった。そしてそれが、続々と他の州にも拡大し、同時にジェンダー教育などもCRTのレッテルの下に含めて潰そうとしつつある。つまり今度は右派による「社会正義」理論の(レッテルとしての)濫用が課題になってきたというわけだ。

こうしていまや「社会正義」理論は、一部の人しか知らない特異な社会運動理論から、政争ツール最前線にまで踊り出てしまった。好き嫌い(および肯定否定)を問わず、こうした議論の妥当性を判断する一助としても、思想や理論について、概略でも理解する必要性は高まっている。その意味で、本書のような見通しのよい解説書への需要は、今後当分続くのではないだろうか。

6 日本にとっての意義

日本では幸いなことに、本書の発端になったような異常な事件が頻発したりはしていないようだ。各種の思想や哲学系の雑誌で、「社会正義」的な思想の特集が組まれても、その思想自体が各種の運動を煽ったという事例は、寡聞にして知らない。「社会正義」的主張を掲げる抗議運動や、それを口実にした吊し上げやキャンセル活動は確かにある。

だが系統だったものは少なく、また多くの場合には本音の私的な遺恨や派閥抗争がだらしなく透けて見える。一方で受容側の企業や、かなり遅れてはいるが公的機関や大学なども、SNS炎上などの対処方法がだんだんわかってきた様子はうかがえる(基本、無視がいいようだ)。

だからおそらく読者の多くは、「社会正義」が生み出した変な運動の矢面に立たされることもないだろう(と祈っていますよ)。政治トピックに上がるとも思えないから、本書に述べられた個別理論の細部を理解する必要に迫られることもないだろう。本書への関心も、恐い物見たさの野次馬めいたものが大きいのではないか。

だが怪しげな理論の先鋭化と暴走が現実的な問題を引き起こす可能性は常にある。本書を通じてその現れ方を理解しておくのは、決して無駄にはならない。そしてそれ以上に、本当の社会正義や社会集団共存の実現は当然ながら必要なことだ。多くの人がそれを認識しているからこそ、異様な「社会正義」理論(またはその反動)がつけいる隙も生まれてしまう。

それを防ぐためには、その社会正義を自分自身がどう考えるのか、何を目指すのかについて、個人や組織が自分なりの基盤と筋を確立しておく必要がある(本書で懸念されている、「社会正義」の巣窟となりかねない企業や組織の多様性担当者といった役職は、本来はそうした基準の構築が仕事だろう。もちろんCRT禁止の旗印で常識的なジェンダーや多様性の教育まで潰されそうになったときにも、ある程度の知識があれば「これはCRTとちがう」と変な介入をはねかえして筋の通った対応をしやすくなる)。

そして本書や類書の最大の貢献はそこにあるはずだ。本書により「社会正義」理論のおかしな展開を見る中で、読者は自ずと自分にとって何が正しいかを考えるよう迫られるからだ。

それを一人でも多くの読者がやってくれれば、訳者(そしてまちがいなく著者たちも)冥利につきようというものだ。

7 謝辞など

翻訳は、前半を森本、後半を山形が行い、最終的に山形がすべてを見直している。

訳者たちはいずれも、こうした分野の専門家ではない。各種専門用語などは、なるべく慣用や定訳に従ったつもりだが、思わぬまちがいや各種理論・理屈の誤解などはあるかもしれない。また引用部分については、邦訳があるものはなるべく邦訳を参照したが(邦訳の該当ページは注を参照)、文脈その他に応じて修正した部分もそこそこある。誤訳、用語のまちがいなど、お気づきの点があれば、訳者までご一報いただければ、反映させていただく。そうした正誤表や関連リソースについては、以下のサポートページで随時更新する。https://cruel.org/books/books.html#translations

本書の編集は早川書房の一ノ瀬翔太氏が担当された。当方の様々な見落としをご指摘いただいたばかりか、太字や大文字表記などで特殊な概念を示した原著を、日本語での違和感のない表記法を編み出してわかりやすくしていただき、心より感謝する。そしてもちろん、本書を手に取ってくださる読者のみなさんにも。

 2022年9月 デン・ハーグにて
 訳者代表 山形浩生(hiyori13@alum.mit.edu

◆著者紹介

ヘレン・プラックローズ Helen Pluckrose
政治・文化に関する著述家。ウェブマガジン「Areo」元編集長。ポストモダニズム、リベラリズム、フェミニズムなどをテーマにした評論を数多く手がける。2017年から2018年にかけて、ジェームズ・リンゼイ、哲学者のピーター・ボゴシアンとともに社会学系学術誌に虚偽の論文を投稿し、その一部が受理・掲載された。社会正義にまつわる研究の杜撰さ、イデオロギー性を浮き彫りにしたこの出来事は「不満スタディーズ事件」「第二のソーカル事件」と呼ばれ、ニューヨーク・タイムズ紙の一面で報じられるなど全米に論争を巻き起こしている。

ジェームズ・リンゼイ James Lindsay
数学者、文化評論家。ウェブサイト「New Discourses」創設者。テネシー大学で数学の博士号を取得。ウォールストリート・ジャーナル紙、ロサンゼルス・タイムズ紙、サイエンティフィック・アメリカン誌などに寄稿。著書に Everybody is Wrong about God、Life in Light of Death、How to Have Impossible Conversations(共著)など。

◆訳者略歴

山形 浩生(やまがた・ひろお)
翻訳家、評論家。1964年生まれ。東京大学大学院工学系研究科都市工学科およびマサチューセッツ工科大学大学院修士課程修了。大手シンクタンクに勤務するかたわら、幅広い分野で執筆、翻訳を行う。著書に『経済のトリセツ』『たかがバロウズ本。』など。訳書にクルーグマン『さっさと不況を終わらせろ』『ゾンビとの論争』(ともに早川書房刊)、フランクファート『ウンコな議論』、ピケティ『21世紀の資本』(共訳)ほか多数。

森本 正史(もりもと・まさふみ)
翻訳家。1967年生まれ。共訳書にウェスト『スケール』(早川書房刊)、ノルベリ『OPEN』、トゥーズ『ナチス 破壊の経済』、アトキンソン『21世紀の不平等』、シーブライト『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?』、ケンリック『野蛮な進化心理学』など。


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ゲイバー乱射事件のニュースがすぐニュースサイクルから消えてしまう理由

先日コロラドのゲイナイトクラブ、”クラブQ”で乱射事件が起き、5人が殺害され17人が重傷を負った事件で、当初の報道は全く想定内のものだった。

まだ犯人像がはっきりしない時期から、ニュースメディアは、これは右翼保守のトランプ支持者MAGAの犯行で、FoxNewsのタッカー・カールソンやデイリーワイヤーのマット・ウォルシなどの右翼保守派がLGBTへの暴力を扇動したことが原因だと大騒ぎをした。

名指しで批判されたマット・ウォルシは報道したメディアに対して記事の取り下げと公式な謝罪を要求していた。

しかし犯人のアンダーソン・リー・アルドリッチは自称ノンバイナリでMrではなくMxと呼ばれたい、代名詞は複数形のthey/themだと弁護士を通じて発表した。すると今まで大騒ぎをしていたメディアが即刻ダメージコントロールに回った。

とあるニュースでインタビューを受けた自認女性の男性は、どうみても男に見える自分の容貌を棚に上げて、「犯人の逮捕時の写真を見たが、明らかに男だ、トランスなどではない」などとおかしな発言をして失笑を買っている。おい、おい、本人が女だと言えば女として扱わないのはミスジェンダーリングだと散々言ってたのはお前らだろう。いまさら見かけで女じゃないとか判断する権利がお前にあるのか?

自らノンバイナリを自称する男が何故ゲイナイトクラブを襲ったのか、その動機はどうやら個人的なものだったらしい。しかしニュースメディアは犯人が右翼保守でなければ全く興味がないため、この事件に関する詳細は一切報道されていない。

アトランタのゲイナイトクラブのヘレティック乱射を予告した男逮捕される

そして本日、アンディー・ノーがアトランタ州にあるヘレティックというゲイナイトクラブに乱射予告をした男が逮捕されたという事件をツイッターで報道していた。そしてその犯人はゲイ男性で極左翼メディアのハッフィントンポストにも寄稿していたコラムニストであることが解っている。Atlanta Man Arrested for Threats Against Two LGBTQ+ Nightclubs | Them

犯人の名前はChase Staubs 。感謝際の終わりごろに自分のSNSでいくつかのゲイナイトクラブに対して乱射をほのめかすメッセージをあげ、その後も何軒かのゲイバーに姿を見せたと言う。なかでも名指しで脅かされたザ・ヘレティックは警察に通報した。

添付したThemの記事には書かれていないが、アンディー・ノーによれば、Staubsはゲイ活動家でハフポにも寄稿したことがあり、仕事は大学の進路指導員。

主流メディアはこの事件も極右翼の反LGBTらによる陰謀だと騒いでいるが、犯人がナイトクラブ常連のゲイ男性であることから、その理屈は通らないだろう。

史上最悪フロリダのナイトクラブ、ポルス乱射事件

ゲイナイトクラブが襲われた事件で最悪の犠牲者を出したのが2016年に起きたポルス乱射事件。ここではなんと49人が殺され53人が重傷を負うという大惨事が起きた。犯人はOmar Mateen(29歳)。彼は名前からしてイスラム教徒であるが、イスラム教が同性愛を禁じていることは誰もが知っている事実である。

犯人は動機についてイラクで起きたアメリカ軍による空襲への報復だと言っていたが、家族の話では、実は彼自身がゲイであり、そのことについて本人も悩んでいたのではないかということだった。現に犯人は事件のあったクラブに何度か来ていたという話である。

これがイスラム教過激派のテロであってもゲイ男性の個人的な理由であったとしても、すべてをトランプ政権や右翼保守のせいにしたい左翼メディアにとっては非常に都合が悪い。それでこれだけの被害者を出した事件であるにも関わらず、この話はほんの数日でニュースサイクルから消えてしまった。

乱射事件のさまざまな人物像を報道しないメディア

アメリカの左翼メディアのやり方はいつも同じ。なにか大事件が起きて、その犯人像が全く分からない間に「極右翼のしわざだ!」「トランスプ支持者が犯人だ!」「右翼が暴力を煽ったからだ!」と根拠もないのにお騒ぎする。そのうちに犯人像が解って来てニュースがしれっとサイクルから消えてしまったら、犯人は右翼などではなかったことは明白。なぜなら犯人が白人至上主義者だったなんてことになれば、何年でもその犯行を繰り返し繰り返し蒸し返すのがメディアのやり方だからである。

犠牲者が一人(しかもデモ側)しか出ていない1月6日事件を何年も極右翼による謀反だなどと言って騒いでるのを見ていればそれは良く分かるはずだ。

有名なゲイバッシング事件、マシュー・シェパード惨殺事件

ゲイ男性を標的にしたヘイトクライムで有名なのは1998年に起きたマシュー・シェパード惨殺事件だ。シェパードはゲイプライドイベントに参加した後、一人でバーに行き、そこで知り合った二人の同じ歳の男たちに誘われて一緒に外へ出た。マシューがゲイであることは犯人たちには明白だった。しかしマシューの思惑とは違い、二人はマシューから金品を奪い取る計画であり、トラックに着くとすぐピストルでマシューを殴り、財布を奪った。しかしマシューの財布には20ドルしか入っていなかった。

二人はマシューを1マイル離れた自然公園につれていき、マシューを後ろ手にしばって何度もピストルで顔や頭を殴った。そして真冬の夜フェンスにマシューを縛り付けたまま、その場を去ったのである。

翌朝、息も絶え絶えのマシューを発見したのは傍を通りかかったティーンエージャー。駆け付けた婦人警官らによって病院に運ばれたが、マシューは病院で息絶えた。

この事件が起きたのはもう20年以上前の話だが、未だにマシューが縛り付けられていたフェンスには花束がささげられている。

LGBTへの暴行はそんなに多いのか

拙ブログでも何度か紹介して来たとおり、同性愛者やトランスジェンダーへの暴力は反LGBTによるものよりも、仲間内のいざこざであることの方が多い。特に性自認女性の男性たちは普段から犯罪の被害に遭いやすい生活をしているため、被害者になる可能性は高いが、それは売春時の客とのいざこざであったり、麻薬売買であったり、ギャングだったり、痴話げんかであったりすることがほとんどだ。

実際にLGBTだからという理由で被害に遭うと言う事件はほぼ起きていない。ただイスラム教徒によるゲイバッシングは結構起きているのだが、そういう都合の悪い事件はメディアは報道しないので実態は不明だ。

私がLGBTへの差別による暴力など、そんなに起きていないだろうと思う理由は、もしそんなことが起きていたらメディアが放っておかないからである。実際犯人が反LGBTでない時ですら、極右翼の仕業だと言って大騒ぎするメディアが実際に白人至上主義ホモフォブによる犯罪だったら、毎日その話題で持ち切りになることは間違いない。32年も前の*マシュー・シェパードの事件が未だに語り継がれているように。


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