開胸手術体験談その3,隔離病棟

テレメトリー

「まったく昨夜はどうなることかと思ったわよ。脅かさないでよね」とロシア人看護婦のアナが言った。いや別に脅かすつもりはなかったけど、それにしても、どうして私の動悸の乱れにすぐ気づいたの?するとアナは私の身体にテレメトリーという装置が付けられており、病院内であればどこに居ても私の心臓状況が把握できるようになっているのだと説明してくれた。そっか、それでみんなが血相を変えて部屋に駆け込んで来たわけだ。

隔離病棟の看護師たちは集中治療室の看護婦たちよりリラックスしていた。それもそのはず、ここまで来れたら後は回復の一途を辿るだけなので、時々後退はあっても命に別状を来すようなことには先ずならない。

病院

私がお世話になった病院は、自宅から数キロのところにあるキリスト教系病院である。このあたりの病院は大抵がキリスト教かユダヤ教系である。うちの近所にある病院地区はどこでもそうなのだが、一定の広い区域のなかに大きな建物の病棟がいくつも、あちこちに散らばっており、この地区には大掛かりな手術をしたり、入院患者を受け入れたり、種々の検査が行われる施設が集まっている。大きな大学病院や大学のキャンパスを思い浮かべてもらうと理解しやすいかもしれない。

この地区内には個人開業医のオフィスも一か所に集められて店子のようにして入っている。そういう医師は病院勤務も義務付けられており、毎日何時間か病院で過ごし、残りの時間で外来患者を診、緊急事態は順繰りに担当が回ってくる。

患者は最初に開業医に診てもらい、その医師の指図で色々な検査を受けたりするわけだが、それらの検査施設が同じ病院地区内にあるとしても、検査施設は経営が別であり手続きも別なのですべてを同じ日にうまくコントロールしてやってしまうというのは非常に難しいというのは前回お話したとおり。

たとえば健康診断をやるにしても、あらかじめ診断に必要な血液検査を別のラボ(研究室)でやってもらって、その検査結果が出るころに医者の所へ行くというのが今は普通になっている。

食事

食事もこれまでのように単なる出汁スープではなく、きちんとした料理が出てくるようになった。とはいうものの、私は胃が痛くて吐き気も酷く食べ物など喉を通らない。そこへクリップボードを持った中年の女性が現れた。「この先三回の食事のメニューをお伺いに参りました」へ?こんな気持ち悪い時にメニューから料理選べとかおかしんじゃないの?と思ったが、その女性はまるで高級ホテルのレストランのウエイトレスがルームサービスの注文でも受けるかのように慇懃な趣で注文をきいた。

胃の調子が収まって食事が普通に出来るようになると、この病院の食事は悪くないと思った。この病棟のひとたちは皆心臓を病んでいるので、塩気のあるものや揚げ物などは無論出てこないが、それでも色々工夫されていて良かったと思う。スパゲティ―とマリネらソースとか、マカロニ&チーズなんか結構よかったし、レンティルスープはとても美味しかった。自宅に帰ってからも、これを参考にして色々作らせてもらおうなどとメンタルノートを取っていた。

フィジカルセラピー

さて隔離病棟も二日目になると、付き添い付きとはいうものの、自分の脚で立って歩行器を使いながらトイレに行かせてもらえるようになる。初めておまるではない普通のトイレの便座に座った時には感動した。(笑)

そして始まるのがフィジカルセラピー。ベッドから降りて腰にベルトを付けられる。そのベルトをセラピストさんがもって後ろから歩く。なんか犬の散歩みたいだが、最初は自分の部屋から廊下を数メートルも歩けなかったのに、やっていくうちに長い廊下を結構行ったり来たりすることができるようになった。

この病院では、動ける人はどんどん動かすというモットーのようで、動けるはずなのにいつまでもベッドから出ない患者は医者から叱られた。私は最初の一晩二晩ほとんど一睡もできなかった。それというのも眠りに入ると咳が出たからで朝はぐったりしていた。そこへ朝7時くらいにセラピストさんの若い男性二人が登場。「は~い、カカシさん、頑張って歩きましょう!」と満面の笑みを浮かべて私を叩き起こした。よたよたよちよちしながら数メートルあるくと酷い眩暈、もうだめ、勘弁して。

やっと部屋に戻り、食事をとった後、うとうとしてきたので、眠れるかなと思ってベッドに入ったその時、「カカシさん、まだベッドに居るんですか?歩き回らなきゃ元気になりませんよ!」とG先生の激しい口調。もう、G先生にはベッドサイドマナーってものがない!

翌日私はふてくされてずっとベッドから出なかった。PTのお兄さんたちが来ても気分が悪いと言って寝床から出ずにいると看護婦さんが「気持ち悪いなら余計に立ち上がったり歩き回ったりしないとダメなのよ」というが、眩暈がひどすぎて起き上がるのさえ無理なのに、あるくなんてとんでもないと思った。そこへまたG先生。「カカシさん!さっさと元気になって出て行ってもらわないと、こっちは後が使えてるんですから」と厳しい口調。この野郎め、お腹いたいんだよ!胸が苦しんだよ!

G先生が部屋を去った後、私はオーダリ―を呼んでベッドから近くにある椅子まで移させてもらった。そこで脚を上げたり下げたり運動をしていると看護師さんが入って来て「お?やっとやる気になったのね」と言った。やる気なんか出ませんよ、でもG先生にこれ以上皮肉言われたくないですから、、「でもベッドから出られたじゃない?」それは、、そうだけど、、

お見舞い及び付き添い

病室には色々な人が出入りする。朝必ず血糖値や血液内の酸素レベルなどバイタルサインを取りに来る看護婦や看護師補佐は当然のことながら、掃除のお姉さんたちや、セラピーさんや、血液だけ取りに来る人、レントゲン技師、などなど、ひっきりなしに誰かが部屋に入ってくる。 入院時に貴重品は持ってこないように、お財布もいりませんと言われたのは多分これが理由だろう。

日本の妹は90近い高齢の両親の片方でも入院すると、必ず毎日のように病院に行っていた。これは病院側から来てくれと言われたからなのか、妹が善意でしたものか解らないが、少なくともこちらの病院では家族が付きそうことは求められない。

昨今のコロナのことがあるため、見舞客は一日二人まで。しかもワクチン二回済もしくは二日以内の陰性証明書が必要とされる。主人が最初に見舞に来ようとしたときに、枠パスは持っていたが、陰性証明が必要だと言われて追い返されてしまった。しかしそれは受付の間違いでワクパスか陰性証明のどちらかを持っていれば問題ないと後で解り、無駄に陰性証明を取りに行く時間を浪費したと主人はカンカンであった。

退院

最初は終わりが見えないトンネルをゆっくり走っているように思えたが、徐々に日を追うごとに体力は回復し、なんとか一人でトイレにも行けるようになった。それでも歩行器がなければ、まだまだふらふらした状態であるが。傷口も安定しており、血圧や血糖値にも問題がないということなので退院することになった。入院してから8日目の夕方であった。

当初入院は3日から5日と言われていたが、開胸手術をして3日で退院なんてあり得ない、5日だって怪しいものだと私は最初から思っていた。結局私の場合は8日かかったわけだから、これは早くて5日、長くて10日くらいに言っておくべきじゃないかと感じた。

その話をセラピーのお兄さんにしたら、「いや、これ、本当に人に寄るんだよ。本当に三日で帰っちゃう人もいるからね」と言われた。嘘だろ~、そういう人は付きっ切りの看護婦でも雇って家で十分療養出来る環境にある人に違いない。私のように家に病人が居て、帰宅したら通常通りの家事をこなさなきゃならない人間は、なるべく長く入院させてもらった方が楽である。せめて歩行器のお世話にならなくて済むくらいまでの回復を待ってからにしてほしい。

義母が胃がんの手術で入院した時も、身体に管がついたままの状態で退院させられたそうだ。そして付き添いの看護婦が傷口のばんそうこうを取り替えたり、管からの血液や体液の除去したりという作業を一週間くらいしてくれたそうだ。日本だったらこの状態での退院は先ず不可能なのではと思うが、どうだろう?

以前からアメリカの病院はあまり長く患者を入院させないと聞いていたが、本当に冷たいもんだ。もっとも長居をしたらしたで入院費も馬鹿にならないので。

完全回復まで8週間の自宅療養

退院はしたものの、今すぐこれまで通りの生活に戻れるというわけではない。これから長い回復への道が始まる。ユーチューバーで同様の手術をし、術後4週間目くらいから無理をして仕事を初めて、肺炎を起こして死に損なった人がいる。休暇は十分とってあるので、まあ無理せず気長に治そう。なにせこの新しい弁は、少なくとも後25年はもつとのことなので。


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開胸手術体験談その2,集中治療室

手術前の手続きやらなにやらを済ませるために5時半に来いと言われたので、5時半に来院。特に付き添いは必要ないが、手術が終わった時点で連絡できる番号だけ教えてほしいと言われた。手術は3時間程度で終る予定。朝7時に手術は始まった。

目覚め

これまでにも何回か私は全身麻酔を体験しているが、この目覚めはそんな生易しいものと違って非常に暴力的なものだった。私は生まれてこのかたあんな恐ろしい思いをしたことがない。

「起きなさい!起きなさい!」というG先生の声。いきなり喉の中に恐ろしい物体が挿入されたような気がした。私が目が覚める前からその装置は喉にはいっていたのか、眼が覚めたので入れられたのかはわからない。これがコロナ禍初期で噂になった例のベントレーターである。私にはこのベントレーターが私の息を阻止しているような気がして思わず自由の効く手で口から外そうとした。「ダメダメ」と医師の声。私は赤子のようにヤダヤダと首を左右に振ってまたベントレーターを外そうとした。「抑えて」と医師が看護婦に支持する声。「目を開けて!」とG医師。だが私は断固として譲らない。そしてそのまま私は再び眠りについた。ベントレーターとの出会いはこの時だけで、次に目が覚めた時にはすでにそれは口から外されていた。ほ~っと文字通り息をついた。

集中治療室(ICU)

目覚めたのはすでに手術室ではなく集中治療室だった。私の身体からはあらゆる装置と繋がる大小色々な管があちこちから突き出ていた。鼻には酸素吸入器がつけられ、右腕にはIVと繋がる管。どこか痛い?と看護婦さんに聞かれた気がする。このあと24時間は私の記憶はところどころしかない。ただ長時間続けて寝ているということはなかったようで、もうずいぶん長く寝たのではと思って目を開けると、まだ数分しか経っていなかったりして、外の時間の流れと自分の時間とかまるで合っていないという感じがした。

ICUの看護婦さん達はほぼ全員フィリピン人女性だった。彼女たちは非常にてきぱきと動いており、私が何か言おうとするとすぐに解ってくれた。「痛みを我慢しちゃだめよ。我慢すると治りが遅くなるから」とその一人が言った。痛みは回復の兆候を表す。だからどこがどう痛いのかが解らないと、看護婦も医師も適切な判断ができなくなるのである。

この時期にどんな痛みを感じていたのか私はまるで覚えていない。感じていた時は確かに痛いと思ったし看護婦にもうそう伝えたが今はまるで思い出せない。ただ私が嫌だったのは痛みよりも鎮痛剤による副作用だ。私は昔からnarcoticsと呼ばれる強い鎮痛剤は苦手で、これを摂取するとすぐさま血圧が下がって奈落の底に落ちていくような気分になるのだ。ものすごい激痛と戦っている間はこのような劇薬も必要となるが、あのどこまでも限りのない深い穴の中を落ちていく気分はどうしても好きになれない。ああいう鎮痛剤に中毒になって痛みが消えた後でも使い続ける人がいるというのが私にはとても信じられない。

ところで看護婦たちはほとんどフィリピン女性で非常にプロフェッショナルな感じがしたが、orderly(オーダーリー)と呼ばれる看護師補佐達はその質も人種も様々だった。看護師補佐の役割は患者のベッドシーツを取り替えたり、患者の下の世話などをすることだ。手術前には二日目くらいからは隔離病棟に移され、トイレも看護師にささえられながら歩いていけるようになると言われていた。しかし私は最初の二日間まるで動けなかった。それで腸の動きがあった時はすぐにボタンを押して看護師補佐に来てもらう必要があった。

患者にとって下の世話を他人にしてもらうほど屈辱的なことはない。特に女性患者に男性のオーダーリーがついた場合には、この男性の挙動ひとつで患者は不安にもなり安心もする。入れ替わり立ち代わ来たオーダーリーの殆どの人は男性も含めて、とても優しく、私は安心して任せることが出来た。しかし一度だけ来たアフリカ人(アフリカ系アメリカ人ではなくアフリカ出身の移民)の男性にだけは、嫌な気持ちがした。このアフリカ人には私が人間扱いされていないのではないかという気がしたのだ。尻を拭く動作ひとつとっても、気を使ってしてくれているのと、無造作に機械的に人形でも扱うように済ませてしまうのとでは患者の気持ちは大きく変わる。

本来ならば手術した日の翌日には隔離病棟の方へ移されるのが普通だが、私の場合は血圧と脈が安定せず非常に危険な状況が続いたため二日経っても出してもらえなかった。

私は最初からこの手術で三日から五日で退院できるなんて信じていなかったが、この状況でその疑惑は確信に変わった。こんな状況では4日でも5日にでもICUに釘付けにされるに違いない。そうおもうほど絶望的に酷い状態だった。

しかしその数時間後、手の甲にするどい痛みを感じて目を覚ませた。すると私の周りで数人の看護婦たちが古い管を外して新しい管を取り付けるなど忙しそうに働いていた。「ICUから出て隔離病棟に移るのよ」とそのうちの一人が言った。え?本当に?嘘?!

私が横たわっていたベッドを看護婦たちが小走りに押し始めた。良く映画などで病院のシーンで患者視線で天井の模様がすばやく動いているのを見ることがあるが、まさにそんな感じだった。

別の部屋に移されると、別の看護婦が待ち構えていた。この中年看護婦はその名前や訛りからロシア人だと思われた。

ハプニング

新しい部屋で寝ていると、激しい胸騒ぎに襲われて目が覚めた。するとさっきのロシア人看護婦と他数名、見たことのない看護婦たちが慌てた顔をして部屋の中に駆け込んできた。「どうしたの!」と叱るような口調でロシア人看護婦が言う。どうしたも何も私は自分の激しい動機に起こされただけだ、’私に何が起きたのかなんて解るわけないでしょう。などと無駄なことを考えている間も看護チームはてきぱきと忙しく働いた。

肝心の私は胸がどきどきして、その晩一睡もできなかった。


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