日本では同性結婚などというものは起こりえないとみなさんがお考えなら、甘い、と申し上げる。(略)男女共同参画の基盤となっているジェンダーフリーという性別解消の思想が横行すれば、それが必然的に同性結婚へと結びつくことは目に見えている。性に違いがないなら同性同士の結婚になんの問題があるというのだ、という理屈になるからだ。ー 苺畑カカシ(2008年3月8日、「ジェンダーフリーは自由社会を破壊する」より)

上記はアメリカでまだ同性婚が合法となっていなかった頃に、同性婚を反対する意味で書いたものだ。私は当時、同性婚を受け入れたら、別の形の結婚も受け入れざる負えなくなり、いずれ文明社会の基盤となっている一夫一婦制の結婚制度が破壊されて文明社会の破壊をもたらすと考えていた。しかし私の理論は話が逆さまだった。「ジェンダーフリーという性別解消の思想」が同性婚をもたらすのではなく、同性婚が合法化されたことによってジェンダーフリーという性別解消思想が正当化されたのである。

人間は歴史を通じて結婚は子孫を残すための男女の結合であると考えて来た。文化によって結婚の形は必ずしも一夫一婦制ではなかったが、それでも子孫繁栄のために男女には子育てに置いて全く違う役割が課されていた。なぜなら男女の差は単なる肉体的なことだけではなく、その特性によって子育てにもたらす貢献が全く違っており、健康な子供の成育には男女双方の力が必要であると、どんな社会も理解していたからだ。

同性婚では親が二人いても、どちらの貢献も同じであり、異性親のもたらすもうひとつの要素が欠けてしまう。同性愛者によって育てられた子供の特徴が片親で育った子供のそれに似ているというのも非常に納得のいく現象である。両親というのは二人いればいいというものではないのだ。

しかし同性婚は法廷によって国民の意思を無視して認められてしまった。それによって男でも女でも親としての役割は同じであり男女には性差はないという意味となり、男/女の出来ることは女/男にも出来る、であるから男は女に女は男に性転換することが出来るのだという思想へと繋がってしまったのだ。

我々はえてしてLGBT活動家の目的は同性婚の合法化であると考えがちだが、実はそれは違う。同性婚は単なる布石であり、本当の目的は全く別なところにある。

最近地方自治体で次々に発案されているパートナーシップ制度を例に考えてみたい。こちらは多摩市の例だ。強調はカカシ。

パートナーシップ制度とは

パートナーシップ制度は、戸籍上同性であることなどを理由に入籍することができない2人が、市に対してパートナーシップ関係にあることを宣誓する制度です。市はその思いを受け止め、「パートナーシップ宣誓書受領証」と「パートナーシップ宣誓書受領証カード」を交付します。

この制度に法的拘束力はありませんが、広く制度の趣旨をご理解いただき、多様な性的指向・性自認に対する理解が進むことで、将来的に婚姻と同等のサービスを受けられるようになることが期待されます。

この「戸籍上同性であることなど」という言葉がどうもひっかかる。同性である以外のどんなカップルを想定しているのだ?

実はそれがLGBTQ+である。

LGBTQ+(エルジービーティーキュープラス)とは

LGBTQ+は、L(レズビアン)・G(ゲイ)・B(バイセクシュアル)・T(トランスジェンダー)・Q(クエスチョニングまたはクィア)の頭文字と、「+(プラス)」(それらに当てはまらない多様な性)を組み合わせたもので、多様な性のあり方を表す言葉として日本のみならず世界各国で広く使われています。

そしてLGBTQ+の解説はこちら。

レズビアン  同性を好きになる女性
 ゲイ 同性を好きになる男性
 バイセクシュアル 同性も異性も恋愛対象になる人
 トランスジェンダー 出生時に登録された性別に違和感のある人
クエスチョニング(クィア) 自分は何者なのかわからない、決めたくない人
 +(プラス) 定義しきれない多様な性

読者諸氏もおかしいと思われると思うが、パートナーシップとは合法に結婚出来ない人たちが、行政上合法なカップルとして扱われるための制度のはずだ。現在日本の法律では血縁関係の薄い大人の男女以外の結婚は認められていないので、この制度で利益を受けるのは戸籍上同性同士のカップルのみのはずだ。なぜその制度にTQ+の人たちが含まれるのだろうか?

普通に考えて自分が自分をどちらの性だと思っていようと、身体的な異性と結婚したいと思っているなら別にパートナーシップなど起用しなくても普通に結婚すればいいだけの話だ。戸籍を変えない以上、戸籍上の男性が戸籍上の女性と結婚することは全く問題ない。自分の性別が何か解らない人なども、相手が戸籍上同性でない限り特にこの制度から得られるものはない。

ゲイ評論家の松浦大悟氏によると、東京都がパートナーシップを発案する以前に行った同性愛者を対象とした世論調査において、同性愛者であることで困難な体験したと応えた人は全体の7割で、残りの三割も子供の頃にいじめられた程度の体験だった。自治体ですでに同じような制度のあるところに住む人でも8割が活用しておらず、まるで必要性を感じないと応えたという。

こうした制度を施行する自治体が意見を聞く当事者というのは左翼活動家ばかりであり、一般の当事者の声などまるで反映されていないと松浦氏は言う。では一体活動家たちの目的は何なのか?

松浦氏がいうに、戸籍上男女のカップルでも、どちらかが性自認は異性だとして、同性カップルとしてパートナー制度を利用すれば、「男」が出産したり「女」が子供をはらませるといったことが起きかねない。そうしたら自治体は彼らの性別自認を認めることになりはしないか。

同性パートナーシップ制度はそれだけでは終わらない。アメリカの例を見ればわかる通り、この制度は同性婚への第一段階に過ぎないのだ。すでに日本では同性婚合法化への訴訟が起きているが、パートナーシップ制度が全国に広がれば、すでに事実上同性カップルは社会に認められているという既成事実をつくることになる。

そして本当は異性カップルなのに、同性カップルとして登録しているからという理由で、戸籍の性別も変えられるべきだと言い出す人も出てくるだろう。そうやって既存の特例法も全く意味のないものと化してしまうのだ。

松浦氏によれば、同性婚もパートナシップ制度も同性愛者の間ではまるで人気がない。実際に求めているひとたちは同性愛者たちではなく、LGBTQ+活動家たちだけなのだ。

Qはクエッションマークを意味しない

ところで多摩市によるQの説明だが、Qは「クエスチョニング」という解釈は正しくない。このQは「クィア」のことであり「自分は何者なのかわからない、決めたくない人」などという無難な人々をさすのではない。

ではクィアとは何ぞやという話になる。

実は私は2008年にこの質問を投げかけている。何故かと言うと、当時フェミニズムについて議論していた小山エミが自分のことをクィアだと言っていたからだ。変態たちが押し進めるジェンダーフリーという神話 – Scarecrow in the Strawberry Field (biglizards.net)

英語でいうQueerとは形容詞で使われる場合は「一風変わった、おかしな」という意味になるが、それが名詞として使われると「一風変わった人」というよりも「変態」という意味になる。昔の人は同性愛者は変態だと思っていたので、それがだんだんと同性愛者への侮蔑語へと変わった。そして同性愛者を迫害していたイギリスなどでは、ちょっと女々しいと思われる男性を「クィア」といって罵倒し暴力を振るったりすることが結構おきていた。だから中高年以上の同性愛者たちは活動家が自分らを指してクィアと言う呼び名を使うのを嫌がる傾向があるのだ。

そういう背景があるので、小山エミが実は自称女の男だということを知らなかった私は、女性であるエミがクィアだというならレズビアンを指すのだろうと非常にナイーブな解釈をしていた。しかし小山エミはクィア=同性愛者という意味ではないと断言したため私は非常に混乱したのである。

ではいったいクィアとはどんな人たちなのか?

2008年に小山エミから「読め!」と勧められたクィアースタディー入門から読んでみよう。強調はカカシ

クィアをとてもうまく説明したものに、“Anything that is not straight(ストレートでない者はすべてクィア)”という表現がある。ストレートは、「真っすぐ、まっとうな」の意。とすると、クィアは「まっとうではない」ので、そういう意味では「変態」という日本語がいちばん近い。

つまり、クィアとは、自分はまっとうなものとは違う、という差異を示す言葉であって、どう違うかを示す言葉ではない。違いの内容に言及すると、なにがまっとうかを認めてしまうことになるから。中身の違いを言わずにただ「違う」とだけ主張するのがクィアだから、究極的には態度の問題であるといえる。クィアとは、「自分たちはまっとうじゃないよ」という態度のこと。…

したがって、クィアとは特定のグループを指す言葉ではない。ましてや、同性愛者やバイセクシュアル、トランスジェンダーやトランスセクシュアルを指す用語でもない。原理上は、「自分はまっとうじゃない」と言えばだれでもクィア。なにがまっとうかまっとうじゃないかは決めない。そんな線引きはせずに、みんな変態でいいじゃないか、という感じ。だから、クィアとはある意味、非限定的な言葉。いろんなものを含む包括的な用語概念。ーーーミヤマアキラ著クィア・スタディ入門(2)より

昔からこの手の人たちは「自分は○○ではない」とは言うが、じゃあ自分は何なのかという質問には絶対に答えずに、こうやってはぐらかすのが得意だ。しかし何が「まっとう」な状態かを定義したら、それがまっとうだと認めることになるから出来ないなんて、いったいどういう屁理屈なんだ?

ただここで解ることはクィアと自認する人たちはLGBTですら「まっとうな人たち」だと思っているほどの変態なのだということだ。今自分らのことをクィアと呼んでいる人たちを観察してみれば良く分かる。

TikTokなどで髪の毛を紫やピンクに染めて顔にピアスをいくつもつけて体中入れ墨してる男か女か解らない人たちが、幼児に極端な性嗜好を植え付ける洗脳を行っていることを観てほしい。つまり、クィアとは文字通り変態を指すのだ。彼らは幼児性愛含む非常に危険な性嗜好をもった人々であり、自分のことをクィアだなどと呼ぶ人には容易に近づいてはいけない。ましてや子供を近づけたりしてはいけないのだ。

日本のLGBT活動家たちが訳の分からない横文字を並べて、もっともらしい議論を展開するときは、我々一般人は非常に警戒して対応する必要がある。彼らは我々が理解できないことを良いことに自分らの非常に悪徳な企みを水面下で進めていこうとしているからだ。意味の分からない頭文字やカタカナ英語は我々を煙に巻く手段なのである。

ジェンダーフリーだのトランスジェンダーだのクィアだのLTBTQ+だのを連発する人に出会ったら、彼らは文明社会を破壊しようとしている奴らなのだということを我々常識人は肝に銘じて挑まなければならない。


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