今行われている全米大学水泳選手権、昨日自称女の男子であるリア・トーマスが500ヤード自由形で優勝した。

【ニューヨーク共同】米競泳女子で出生時の性別と自認する性が異なるトランスジェンダーのリア・トーマス(ペンシルベニア大)が17日、アトランタで行われた全米大学体育協会(NCAA)選手権の500ヤード(約457メートル)自由形を制した。スポーツ専門局ESPNによると、トランスジェンダー選手の同選手権優勝は初めて。称賛や公平性を懸念する声など賛否両論が起きている。

 トーマスは過去に男子チームで活動した経歴を持つ。ホルモン治療を経て昨年、女子チームに移った。

トーマスが優勝することは期待されていたので今更驚くべきことではない。男なんだから当然だ。

ツイッターではこの件に関して多くの人が意見を述べているが、私と先日からやり取りしている紗耶@1LWNcCuDgvBbGKbという, 自称男から女へのトランスジェンダーが、男女を身体で分けるのは雇用の際に女子の賃金が低いとか、黒人は怖いから避けるというのと同じで差別だと言い張るので、なぜ男女を身体で分けることは差別ではなく、男女差別や人種差別とは違うのかを考えてみた。

紗耶は先ず差別の定義を「差別とは『個人または集団が、その集団に属することのみを理由として、不利益になるようは扱いを受けること』と私は認識している。」と語っている。この定義自体には特に問題はないと思ったのだが、ひとつ言葉が足りていないことに気が付いた。それは「不当な」と言う言葉だ。

なぜこの言葉が必要なのかといえば、もしこの個人や集団がイスラム国のようなテログループだったら、そのメンバーや集団が彼等に不利益になるような扱いを受けたとしても、それは差別とはいえないからだ。だから私の考える差別とは、、

個人または集団が、その集団に属することのみを理由として、不利益になるよう『不当な』扱いを受けること

だと考える。具体例を出すと、トイレやお風呂を男女で区別することは身体に合わせた合理的な区別であり差別ではない。なぜならプライバシーや安全の立場から、男女の区分けは男女ともに望むことであり納得のいく区別だ。もしこれが男性施設の方が数が多いとか、設備が女子施設よりも整っているとなれば、これは差別である。しかし、数の上でも設備の上でも平等であるなら、この区別は差別ではない。

では人種で区別することは何故不当なのか?紗耶は男性全員が痴漢をするわけではないのに、男性全員を痴漢扱いして女子施設から排除できるなら、黒人の犯罪率は高いから黒人全員を犯罪者扱いして白人施設から排除してもよいという理屈になるのではないかという。

先ず、男女の区分けは女性の安全を守るためだけのものではない。男子もプライバシーを守るために男女の区別を望んでいる。つまりこの区分けは双方が納得した上でのしくみであり、これによって誰かの人権が損なわれるなどということはない。

では人種で分けることが何故不当なのか?

昔、アメリカでは黒人が白人施設に入れないという法律があり、学校やレストランやホテルやトイレや水飲み場に至るまで、黒人と白人が区別されていた時代があった。当時人種別区分けを正当化していた民主党の議員たちは「分離しているが平等」と言っていた。つまり施設は分かれているが、それぞれの施設に差はないから差別ではないという屁理屈。

しかし実際には黒人が入れる場所は非常に限られていたし、黒人施設は白人用と比べて劣悪であることがほとんどだった。それに黒人は白人の方に入れないのに、白人が黒人の施設を使うことは許されていた。だからハーレムにある黒人のナイトクラブに黒人音楽を聴きたい白人たちが入ってきても、誰も文句は言えなかったのだ。まったく平等なんてものではなかった。

いくら分離しているが平等とか言ってみても、黒人だけが使う施設に投資する白人は居ない。必然的に数の少ない黒人は不利になった。それで黒人は才能があっても程度の高い学校に行かれなかったり、高級レストランやホテルに入れなかったりと、この分離では黒人の人権が著しく損なわれたのだ。

こうした差別と男女施設の区別を一緒にすることが、いかにおかしなものであるかがこれでお分かりいただけたのではないかと思う。

ただ、組織的な差別と個人による好みは区別して考えられるべきだ。

私は個人的に特定の人種を差別する権利は守られるべきだと考えている。最近東洋系の中高年女性を狙った黒人による暴行が頻発している。私が一人で道を歩いていて黒人男性とすれ違いそうになったら、多分距離を置こうとするだろう。すべての黒人男性がすれ違いざまの東洋人女性を殴るわけではないから、こういう態度が人種差別だと言われればそうかもしれない。しかし殴られてからでは手遅れなので、この程度の防犯は仕方ないと思う。

民間企業による差別も、その企業がどれだけ公共性があるかによると思う。例えば電話会社やガス会社やSNSなど、いくら民営でもその規模が大きく、その設備を使わないと日常生活に支障を来すような企業による差別は容認されるべきではない。しかし個人営業のレストランや貸家などで、外国人お断り方針を持つ権利は許容されるべきだと思う。無論これは差別ではあり、差別される方にはかなり迷惑な話ではあるが、経験上外国人客に酷い目に合わされている個人営業のビジネスには同情できるからだ。

さて話を元に戻して、トランスジェンダー「女性」が女性として女子競技に参加したり、女性専用施設を使うべきではない理由は単純に男性体だからだ。男性体の人は男性として扱うのは当然の話であり、これは差別でもなんでもない。むしろ男性体を女性として扱うことで女性の権利が損なわれるのであるから、これは女性差別であると言うことができる。

はっきり言ってトランスジェンダーの問題を男女差別や人種差別と比べることのほうが実際に差別を受けて来た人たちへに失礼だと思うね。


2 responses to 男女を身体で分けるのは差別なのか?

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