今日はカラ・ダンスキーという作家のエッセーを紹介したい。今年の4月にアンドリューサリバンがA Truce Proposal In The Trans Wars(トランス戦争、和平提案)というエッセーを書いたことへの返答である。アンドリュー・サリバンと言えばゲイ作家で同性婚の頃によく聞いた名前だ。ダンスキーのエッセーを読む前に先ずサリバンの提案とやらを読んでみたが、それ自体には問題があるようには思えない。

  • 子供と大人の扱いは区別する:18歳以上の大人が何をしようと本人の自由。性移行に関するすべての医療を開放すること。
  • トランス女性と女性の両方の権利を守る:ほとんどの場合トランスと女性の権利は衝突しないが、シェルターなど女性のみの施設は守られるべき。刑務所ではトランス女性は他の危険な犯罪者とは分けられるべきだが、女性とトランス女性は一緒にすべきではない。
  • 未成年の治療は限定し安全を保つべき:未成年への治療を全面的に禁止するのはプライバシーの侵害であり、政府にそのような権限を与えるべきではない。だが第二次性徴を止めるブロッカーなどの処方は安易に行われるべきではなく、充分な精神カウンセリングをした後に限定的にされるべき。
  • 同性愛者や性別不適合の子供たちを守る:世の中のステレオタイプの性別に嵌らない子供たちは成長するまでほうっておいてあげるべき。特にどちらかのワクに嵌める必要はない。人口のたった1%にも満たないトランスジェンダーの子供を守るためといって、自分が男になるか女になるかなどという議論を学校でするのは子供たちを混乱させるだけである。そのような議論は学校でされるべきではない。

サリバンの提案はまともなものだと思うが、サリバンはこのような提案はトランスジェンダー活動家にもフォックスニュース右翼にも受け入れられないだろうと言う。しかし彼に言わせればこの妥協案こそトランスジェンダーの威厳を保ったまま、女性の権利と安全を守る最良の手段だと語る。

さてそれではダンスキーの反論を読んでみよう。

まずのっけからダンスキーは妥協案という概念そのものに疑問を投げかける。

なんだって我々女性が我々の人間性において妥協しなければならないのだ?

ダンスキーは自分は左派寄りだが、これまでに色々な政策の面で右派との妥協には応じて来たという。しかしこと女性や少女たちの権利やプライバシーや安全と人間性そのものにおける性自認がもたらす「妥協」とは単なる政治見解の違いにおける妥協とは全く異なるものだと語る。

先ずサリバンは冒頭から女性には女性という枠のなかにトランスジェンダー女性という集合が含まれるという前提で話を進めている。これを認めてしまったら女性というカテゴリーそのものが消えてしまうのだ。もうこの時点で妥協などありえないとダンスキーは言う。

問題なのは、サリバンがこの討論が権利が相反する二つのカテゴリーの人々との間で起きているとしていることだ。ダンスキーに言わせればトランスなどというカテゴリーは存在しない。これはごく少数の大金持ちの男たちが広めた神話だと主張する。

妥協というの意見の違う二つのグループが争いを止めるために何らかの条件に同意して成り立つものだが、トランス問題ではきちんと同意できる争いそのものが存在していない。争いがあるとしたら、それは一部の男性は女性なのかということだけで、それはまともな論争ではないからだ。もちろんこれらの男性が本当に女性であるのなら、女性の空間に入ってくることはゆるされるべきだ。しかし彼らは女性ではない。そして彼らはそれを知っているのだ。

サリバンは生物学的に男と女が違うということを無視している。なぜ我々は事実に反する妥協をしなければならないのか?

妥協策を探すことに興味のある人々は自分に質問すべきである。いったいどれだけの人間性を犠牲にするつもりなのかと。もしその質問の答えがゼロ以上であるなら、我々はすでに人間性と事実そのものを捨て去る決意をしたのだと認めなければならない。すまないねアンドリュー。でも私は今日妥協する気はない。

さて、読者諸氏はどう思われるかな?


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