今日拾ったコラム。著者の意図に反して、すごく面白かったのでちょっと紹介しよう。題して捻じ曲げられた「ジェンダー」江原由美子著

このコラムの内容は彼女のいう「バックラッシュ派」という1999年に施行された「男女共同参画社会基本法」に反対した保守派政治家たちがフェミニズムを攻撃するために「ジェンダー」の意味を捻じ曲げてハイジャックしてしまったというもの。

この運動で「バックラッシュ派」が槍玉に挙げたのが「ジェンダー」という概念です。彼らの言い分をそのまま書くと「『共同参画法』をつくった者やそれに賛成する者はすべて共産主義者である――画の「共参」とは「共産」のことである――。この共産主義者たちが使うジェンダーという言葉には、性差は存在しないという意味が含まれている。つまり『共同参画法』とは、社会から性差を抹殺しようとする『ジェンダー・フリー法』である。よって、性差があることが科学的に示されれば、この法律や共産主義者の言うことが誤りであることが証明される」となります。

性別を表す英語「セックス」の代わりに「ジェンダー」という言葉を使い始めたのは後に幼児性愛者であると暴露された藪医者ジョン・マネーという変態精神科医だ。彼の理論は男女の違いは社会機構であり、男でも女でも育て方でどちらのジェンダーにもなり得るというもの。それを証明するためと称して、マネーは割礼の事故で男性器を損傷した男児を女子として育てるよう両親を説得して、その後何年も観察と称して男児の双子の兄と一緒に性行為をさせるなどという虐待を続けた。結局自分は男だと悟った弟の方は後に男として暮らすようになるが、長年に渡る虐待のため精神を病みこの双子はそれぞれ自殺してしまった。

江原はバックラッシュ派はこのマネーの話を根拠に男女共同参画法は危険だと言い出した。しかしフェミニズムが使って来た「ジェンダー」という言葉はマネーが作り上げた時の概念とは違うのだと主張する。

フェミニズムへのこうした批判に対し、そんなことを言っているのではない。男女の役割は社会や文化によってさまざまなのだから、私たちの社会に適した役割というものを考えていくべきだ。それには、生物学的な性差だけではなく、社会的・文化的な多様性をもつ性差にも目を向けるべきではないか。そうした議論のために、オークレーは「ジェンダー」という概念を使ったのです。

もしそうであるならば、フェミニストはマネーのような幼児虐待変態医者の作った言葉など使わずに別な言葉を作るべきだったのでは?

このコラムの中でも一番傑作なのが四ページ目の「バックラッシュ派は何をしたか」というという部分。強調はカカシ。

ジョン・マネーとフェミニズムでは、ジェンダー概念の定義が違うのです。性差についての考え方も、ジョン・マネーとフェミニズムでは異なりますし。そもそもフェミニズム内部でも大きく異なるのです。おそらくバックラッシュ派は、フェミニズムの混合名簿など男女平等に向けた施策実施の主張を、「ブレンダと呼ばれた少年」に対して行ったマネーの治療と同じく、「男を無理やり女にすること」「男と女の区別をなくすこと」として同一視し、否定しようと思ったのだと思いますが、このような同一視は、どう考えてもこじつけでしかなく、無理があります。

また江原はバックラッシュ派はフェミニストを攻撃するためにありもしないことを捏造したと批判。そのありもしないこととは、、

  • 小学校での着替えは男女同室でなければならない
  • トイレも一緒にしろ
  • 風呂も一緒に入れろ
  • 性教育で児童を洗脳

ふ~む、どっかで聞いた要求だなあ。江原はバックラッシュ派のこうした懸念について「こんな主張をしていたフェミニストはひとりもいません」と断言している。だが本当にそうだろうか?

聡明なる読者諸氏は私が何を言いたいかはもうすでにお分かりだろう。江原は日本の保守派の話をしているが、実はアメリカで「ジェンダー」という言葉を持ち出された時に、アメリカの保守派も同じような反論をした。男も女も変わりはないと主張したフェミニストたちに「ではトイレも男女共同にすべきなのか?」という質問はすでに出ていた。フェミニストの間違いは、すべての性差は社会が作り出したものだと主張したことにある。江原はマネーのジェンダーの定義とフェミニストのそれとでは違うというが、私にはその違いが全く理解できない。

江原はバックラッシュ派の言い分を次のように片付ける。

日本における「ジェンダー・バックラッシュ」言説の特徴は、フェミニズムへの攻撃を、ジェンダー概念を曲解し、批判することによって行おうとしたところにあります。バックラッシュ派は、性差を否定し、過激な性教育を行い、フリーセックスを推奨する「ジェンダー・フリー派」なるフェミニスト像を捏造し、「共同参画法」やフェミニズムに対する否定的な世論を喚起しました。(略)

バックラッシュ派は、開かれた合理的議論を行うために必要なルールに関して、重大なルール違反を犯しました。何のエビデンスもない、まるでロジカルでもない言説であっても、しつこく言い続けていれば、国民にそれが事実だと信じさせることができる。そのことにかれらは気づいたのです。これがフェイクニュースや陰謀論がはびこる今日の状況へとつながっていることは、もはや言うまでもありません

このコラムが書かれたのが2000年当時であるならば、彼女の言い分にも一理あるかもと思うかもしれないが、驚くことにこのコラムが書かれたのは今年2021年の5月のことなのだ。よくもまあ白々しくこんなことを書けるものだと呆れた口がふさがらない。

江原由美子は自分をジェンダー研究者などと言っておきながら、今現在「ジェンダー」という言葉がどのようにして使われているのか全く知らないようだ。バックラッシュ派のかもした警告が全く現実になっていないというならまだしも、彼らの放った警告がすべて現実となった今、本気でそれを言うのか?

もしジェンダーという言葉がの「捻じ曲げられた」というのが事実だというなら、それをやったのは彼女のいうバックラッシュ派ではなく、左翼フェミニストたちが必死に庇っている(そしてそれを反対する一部フェミニストを悪者扱いしている)トランスジェンダー活動家だ。

そんなことも知らないと言うなら、彼女はジェンダー研究者として大失格である。

(前略)先人の研究成果を――ときに批判的に――継承し、誤りがあれば正し、そこに自分が何を付け加えることができるのかを考える。そのようにして過去を今につなげ、今を未来につなげていくことが学術の歩みであり、さらに言うならば、人類の歩みなのではないでしょうか。何が正しいのかを決めることは決して容易ではありません。時代や地域によって結論が異なることもあるでしょう。しかし、いや、だからこそ、その「正しさ」を決める議論における最低限のルールは、何があっても守っていかなければならないのです。

現在のトランスジェンダー活動家の書いた論文でも読んで、ご自分の古臭い考えを改めてはいかがかな?


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