この話は以前にもしたと思うのだが、どのエントリーだったか忘れたのでもういちど書き直してみよう。

先日経済省の職員が女子トイレの使用を巡って訴訟で負けたという話をしたが、その時に、彼以外にも職場で「女として働いている」のに女子トイレ使用は許可されず、男子トイレか個室を使ってくれと言われたという男性の話を読んだ。この二つの話に共通していたのは、自称女性になった人が、職場では女性として働いていたのに女子トイレを使わせてもらえなかったと苦情を述べていたことだ。そこで私が非常に不思議に思ったのは、「女性として働く」とはどういう意味なのかということだ。

この二つの例では、二人とも肉体労働に携わっていたわけではなく、男性でも女性でも同じように出来る仕事をしていた。特別な職場で女性と男性の役割がはっきり分かれているというなら別だが、男も女も同じ仕事をしている場合、職場で「女性として、、」というのは一体どんなことを指すのだろうか?

私の職場は男女の差はない。男でも女でもその担当をこなせる人がやっている。給料も同じ仕事なら同じ給料である。特に制服などないので、皆好き勝手な恰好をしている。管理職の人はスーツを着ているが、それにしたってひとそれぞれだ。であるから、今私が突然私は男ですとカムアウトしたとしても、私の職場での生活にはまるで変化がない。既婚者なので職場恋愛もあり得ない。となると、問題になるのはトイレはどちらを使うのかということだけだ。

しかし自分の都合で生き方を変えようと思うなら、なるべく周りに迷惑にならないように努力するのが普通ではないだろうか?特に上記の男性たちは中年で、結婚して子供までいて、数年前まで普通の男として暮らしていたと言う。だったらそれまで通りに男子トイレに入ることがどれだけ苦痛なのだろうか?いや、たとえ自分が苦痛でも、だからといって同僚の女子社員たちに別の苦痛を強いても良いという考えはおかしくないか?

私が思うに彼らは「女性として働いていた」のではなく、トランスジェンダーとして職場の人々が容認してくれていただけなのだ。かれらの仕事ぶりに関して特にまわりから苦情はなかったというが、今のご時世、やたらに批判などしたら何を言われるか解ったものではない。だから周りも特に問題を起こさない限り黙っていようとなっただけなのではないか?

実は私の勤める会社でも、本社にトランスジェンダー女が居ると聞いたことがある。そのひとは元軍人でかなりごつい体つきのひとだそうで、私は会ったことはないが、かなりの有名人である。彼が有名なのは特異な存在だからで、彼が普通に女性としては受け入れられていない証拠だ。彼自身は女性として働いていると思ってるかもしれないが、周りはそうは見ていないのは、その人に関する噂話を聞いていればはっきりわかる。彼がどちらのトイレを使っているのかは不明だが、彼は決して女性として生きているわけではない。

女性として生きるというのは選択ではない。我々女性は女性として生まれてきた。だからどんな生き方をしようとも女性であるという事実を変えることは出来ない。宝塚の男役のように髪を切ってズボンを履こうと、いくら低い声を出して男性のように颯爽とふるまおうと、彼女たちは男装の麗人であって男性ではないのだ。

ちょっと話がそれるが、私が大昔勤めていた銀行は非常に保守的な地域にあった。住民の99%は白人で、有色人種は私を含めてコンビニのおばちゃんなど数人居ただけだ。ある時同僚と一緒に近所のパブで飲んでいたら、誰かが有色人種のことを「カラード」と呼んで冗談を言い、傍にいた人たちが一斉に笑ったことがある。彼らが悪気はないのは解っていたので私は笑いながら「おいおい、ここにもカラードが一人いるんだけど」と言うと、ジョークを言った男性は「いや、カカシはカカシだから、、」とバツが悪そうに笑った。彼が言いたかったのは「カカシは白人ではないが俺たちの仲間だから冗談の対象にはならない」ということだ。

同じく、その地域には男性だけのビジネスクラブがあった。そこへ地域とのつながりが全くない韓国系女性が入会を要求。前例がないからということで拒否された途端、彼女はメディアに訴え地方紙で大々的に○○市のクラブは、レイシストでセクシストだと取り上げられてしまった。この扱いに怒ったのは私を含めた地元女性達である。私は正式メンバーではなかったが、そのクラブには何度もゲストとして行ったことがあったし、地元には別に女性クラブがあり、二つのクラブは非常な友好関係にあったからだ。

何が言いたいのかと言えば、一見差別主義にみえる状況でも、個人的な関係があれば差別など乗り越えられるということだ。それを回りがまだ受け入れ準備ができていないうちに、法律などで規制し強制したりすれば、マイノリティーに対する反感を生み、かえって当事者は迷惑を被ることになる。

ちょっと前にミッドナイトスワンという映画の予告編を観たことがある。その中で女装男性が世話をしている娘のバレエの先生から「お母さん」と呼ばれて苦笑するシーンがあった。彼がどうみても女性には見えないことは問題ではない。彼のふるまいがバレエの先生から「お母さん」として受け入れられたのだ。

常識あるトランスジェンダーのひとたちは、そうやって自分の周りのひとたちとの交流関係を深めることで個人として受け入れてもらうことに努力している。周りの人がこの人はいい人だ、一緒にいても安心だ、と受け入れてくれれば、そんな人が万が一女子トイレにはいってきても危機感はないかもしれない。だが、そういう努力を全くせずに法律で他人の行動を規制しようとするのは、せっかく周囲の理解を得て暮らしてきた本当の当事者さんたちにも大迷惑だろう。


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