先日ツイッターで自分の身の上話をしている日本人(今は帰化してアメリカ市民)を見つけた。私のフィードになぜか上がってきたからつい読んでしまったのだが、彼の半生は波乱万丈でドラマにでもなりそうだった。しかしここでちょっとひっかかったのが彼がアメリカに移住したきっかけがアメリカ永住権をたまたま抽選で獲得してしまったという点。著者はツネヒサ・ナカジマさん(Tsunehisa Nakajima / AAPI@carlostsune)自己紹介に「サンフランシスコ在住の移民一世のベーシスト兼経営者。」とある。ま、音楽関係の仕事でもしているのだろう。

ナカジマに言わせると、アメリカには特に目的もなく「なんとなくアメリカに来て何となく居着いてしまった」という人が結構いるという。そして今と比べて永住権が比較的に容易に得られた1980年代初期に、取り立てて目的もなく何となくやってきた移民のことをナカジマは「モラトリウム移民」と呼ぶ。

1981年に移住した私は、さしずめナカジマの言うモラトリウム移民かな?彼は時期を多少間違えているが、彼のいうように「なし崩し的にグリーンカード」が取れた時代は1970年代の話で、80年代に入ってからは色々うるさくなっていたので、彼が思っているほど容易にグリーンカードなど取れなかった。ただ80年代はアメリカで寿司ブームが始まり、寿司の板前だと言えば結構すぐに就労ビザは発行してもらえた。経験や技術なくしても片言英語でなんとかなることでもあり、日本食レストランでウエイトレスをやる女性は結構いた。

話を戻すと、ナカジマが移住したのは2004年の話で、彼は永住権抽選に応募して幸か不幸か一度で当選してしまったという。

僕が渡米したのは2004年。モラトリアムな先輩達から遅れること20年。ビザ要件が厳しくなってからというもの、留学でもなく、就職でもなく、結婚でもなく、なにも決まっていない状態で永住権だけもってフラフラしている若い日本人なんて超レアな存在で、80年代からタイムスリップしてきた若者の様だった

ナカジマは英語も話せず、これといって手に職があったわけでもないのに永住権だけぶら下げてアメリカにやってきた。しかも所持金は二か月間どうにか食べられる程度。バイト位すぐ見つかるだろうと楽観的に思っていたが、英語が出来ないのでやれる仕事はレストランのサラ洗いくらい。メキシカン皿洗いの見習いというレストラン内では下の下の仕事。

この話を聞いて私は非常に面白いなと思った。実は私は1980年代に趣味で物語を書いていた。誰に見せるでもなく今や原稿をどうしたのかさえ覚えていないが、彼の最初の頃の話が私が書いた架空の登場人物の境遇とよく似ていたのだ。

題名は「サンタモニカの青い空」。当時、桜田淳子ちゃんが謡ってた「来て、来て、来て、さんたもーにか~」というイメージでつけた題名。主人公は18~9の青年。なんとなくあこがれだけでアメリカに来たはいいが、英語も話せず才能もないため日本食レストランで下働き。嫌な日本人の経営者にこき使われて自暴自棄になってる。せめて英語でもできればウエイターになってチップが稼げるのに、そんな努力をする暇もなし。アメリカ生活に失望しながらも帰るに帰れないでいた。そのうちアダルトスクールで出会った日本人の女の子と仲良くなるが、その子には変なヒモがついていて、結局おかしな犯罪に巻き込まれて日本へ強制送還されるって話。

そんな話を書こうと思ったくらいだから、私のそばには誰かそんな日本人が居たんだろう。時代は20年もずれているが、まさしく当時のナカジマは私の話の主人公そのものだった。

ヒッピーあがりや、遊び人が多かった寿司シェフ達。彼らは80年代にアメリカに渡ってきて生きるために寿司を握った。その店は人気店だったからシェフ達は成功者だった。結構いい車に乗り、皆家も買っていた。皆が寿司シェフになりたがっていた。「ツネも寿司を覚えればちゃんとした暮らしが出来るぞ」

ウェイトレスやウェイターは週末の夜は一晩で100ドルから200ドルのチップももらっていた。それを羨望の眼差しで見ていた僕の月給は1000ドルいかなかった。彼女達は言った「キッチンをやめて良い店のウェイターになった方が良いんじゃない?」

毎日ひたすら野菜と肉を刻み続けていた。店のヒエラルキーの一番下っ端だったから、ウェイトレス達からの扱いも軽かったし雑用は全部回ってきた。こんなことをやるためにアメリカに来たのか?と考え続ける日々だった。こんなはずじゃないと思いながら、どうすれば何が変わるかわからなかった

興味深いのはナカジマはそんな暮らしを一年もしたということだ。私なら絶対諦めて帰国してると思う。実は私はアメリカに移住したばかりの頃、普通預金に必ず1000ドルだけ入れておいて、何があっても手を付けなかった。それは最悪の場合、そのお金で日本に逃げ帰るつもりだったからだ。私も最初は日本食レストランに勤めたが、英語はなんとか出来たのでウエイトレスをやった。だがウエイトレスは全く性に合っていなかったので三か月がまんしたが、求人広告にあった日系企業での秘書の仕事に応募したところ、すんなり受かって収まった。日本の英語専門学校で貿易英語を学んだことが非常に役に立った。

ナカジマはその後、企業したが失敗。ラスベガスに渡ってミュージシャンまがいのこともしたが、うだつが上がらずほぼホームレス状態に。当時の様子をナカジマはこう振り返る。

このアメリカ生活の最初の3年間に就労ビザを取ってアメリカ企業で働いている様な優秀な日本人には会ったことが無かった。僕の周りにいる日本人達は皆どこかなし崩し的に生きてきてしまった人達ばかりだった様に思えた。程度の差はあれ所謂「成功」からは遠い場所にいる人達だった(略)

「底辺」とはその社会において経済的にも社会的にも最下層に近いところに属しているということなんだと思う。そして、アメリカにおいてはマジョリティの経済圏で暮らせず、マイノリティのコミュニティの小さい経済圏でしか暮らせない人達は限りなく「底辺」に近いところにいると言って良いと思う。

小さい経済圏には良い仕事は回ってこない。騙し合い、足の引っ張り合いで小さなパイを奪い合う。マジョリティの世界に比べるとスタンダードがもの凄く低いのだけど、そもそもそんな事を知らないから比べることも出来ない。身近な誰かを妬み嫉む。精神が暗黒面に落ちたら底辺へのカウントダウンが始まる。

ナカジマがいう「マジョリティの経済圏で暮らせず、マイノリティのコミュニティの小さい経済圏でしか暮らせない人達」というのは、要するにアメリカ社会に融和していない人たちのことを指すのだろう。確かにアメリカという物理的な空間に住んではいるが、アメリカ社会の一員として生きていないのだ。ちゃんと英語を覚えてアメリカ社会で融通の利く技術を身に付けていれば、合法な就労資格のある彼らが底辺での生活に甘んじる必要などないからだ。

ナカジマの偉いところは、こんな状況にあっても薬物に身を落としたり犯罪行為に走らなかったことだろう。ラスベガスのようなところでは、道を見失った若者が陥る落とし穴はいくらもあったはずだが、彼はその誘惑に負けなかった。なんだかんだいいながら、芯はしっかりした男だからだろう。彼は海賊版DVD製造の会社に誘われたが、違法行為に手を染めたくなく断ったという。

日本がバブルだった1980年代の終わりごろ、私は日系大手企業で秘書をやっていたが、お給料は大したことはなかった。特に生活に困るほどではなかったが、それでも貯金が出来るような金額ではなく、なんとかワンベッドルームのアパート暮らしが出来ると言った程度のものだった。その頃、ロサンゼルスでは進出している日系企業のビジネスマンでにぎわっていた日系のキャバクラは大変なホステス不足に悩んでいた。それである程度の年齢の女性なら、見かけなど贅沢なことは言わずに雇ってもらえたものだった。

私の知り合いの女性は、はっきり言ってさほどの美人でもなかったが、日系キャバクラで当時の私の給料の三倍も稼いでいた。時々お客として彼女のお店のバーで飲んだことがあるが、行く度に仕事に誘われた。高額のお給料は魅力的ではあったが、もしあの時、そこで働いてしまっていたら、多分もう普通の事務職には戻れなかったろう。水商売が悪いとは言わない。だが、自分で店を構えようとでもしない限り、将来性は全くない職業だからだ。

ナカジマはその後、尊敬できるちゃんとした人との出会いもあり、サンフランシスコに戻って就職。その後も色々あったが今では自分で企業して従業員も雇えるほどになった。きちんと帰化もしてアメリカ人にもなった。つまり、アメリカ社会に参加しようという気になったということだ。

ここまで来るのにずいぶんと回り道をしたものだ。やはり安易に抽選で永住権など取るものではない。抽選に当たって取ってしまったものにはありがたみと言うものがないからだ。それでもナカジマの場合は十分にその代償は払ったし、今や社会に貢献する一市民となったので、それはそれでよかったのだろう。

ところで私の物語を一度ミスター苺に見せたことがある。ミスター苺は「なんだ、強制送還になっちゃうのか?まるで希望がないじゃないか、せっかくの苦労が水の泡だよ」と言った。それで考え直した結末は、

主人公はその後面倒見のいいアメリカ人のレストラン経営者の元で働くようになり、その人の手ほどきで腕のいいシェフになる。めでたし、めでたし。やっぱり人生には希望が必要だ。


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