昨日誰かがツイッターで松戸市の博物館で1960年に建設された常盤平(ときわだいら)団地の複製を展示しているとして写真をいくつか載せてくれた。実を言うとカカシの両親はこの時代に全国各地で建設された新しい公団住宅の初代入居者だった。
私たち四人家族(両親と私と妹)はこの団地サイズの2DKで(6畳間と4畳半間、台所、水洗トイレ、ふろ場)に10年間暮らした。上記の写真は6畳間の方だが、家族四人の家庭でソファや椅子を入れてた家庭はないと思う。そんなことをしたら寝る場所がなくなるから。しかしうちにはなんとピアノがあった!
下記は台所。いちおうテーブルを置くスペースがあったのでダイニングと呼ばれていたが、本当のダイニングルームがどんなものかを知っている私としては、単なる台所。それにしてもレンジがお粗末。こんなところで料理してたなんて母もよくやったものだ。確かうちは流しの左側に冷蔵庫が置いてあった。
四畳半の方はこんな感じ。
うちはこちらの部屋は子供部屋で私と妹が寝起きしていたが、私たちの勉強机が置いてあったので、本当に足の踏み場もないほど狭かった。
こんなところでよく家族四人が暮らせたなと思うかもしれないが、当時日本の住宅事情は非常にひどいものだった。両親が結婚したのは1958年。当時まだ法律事務所のインターンだった父は、母と二人で東京の三畳一間の下宿で暮らしていた。今では信じられないかもしれないが、三畳一間でトイレや台所は共同で風呂はついていなかった、そして翌年私が生まれてしまったので、この狭い猫の額みたいな三畳間で親子三人の暮らしとなったのである。
それで当時の政府は若い人たちが安い家賃で住める公団住宅の建設に力を入れた。上記のような2DKでもそれまでの暮らしよりはずっとまし。それで入居希望者が殺到したため、家賃の三倍以上の収入がある日本人という規定で、なんと抽選で入居者が選ばれた。我々は運よくその抽選に受かったのだが、父は申込用紙を届ける時に書類の記入を間違えて最初から列をならび直したのが幸いしたのかもしれないと何度も言っていた。
団地の生活は子供であった私たち姉妹には非常に快適だった。公団住宅は単なるアパートの集団ではなく、公園や市役所や託児所や銀行までも揃っていた。子供たちは安心して公園で遊べたし、あちこちにきれいな花が植えられていてきれいだった。
苺畑カカシ3 years ago
1960年代の下町の住宅事情を描いたドキュメンタリーを紹介されたので張っておこう。これを見ると、何故団地が抽選で選ばれたのかがよく分かる。
Edithttps://youtu.be/Kh1LHBkSffc
私の記憶では当時の団地の家賃は2DKで1万円くらいだったと思う。入居資格は家賃の三倍以上の収入のある人だったと思う。