日本の人たちにはあまり親しみがないかもしれないが、アメリカではドクタースースの絵本は過去40年にわたって子供たちから愛読されてきた。いくつか映画にもなっており、ドクタースースのキャラクターを知らないアメリカ人は居ないといっても過言ではないだろう。日本でいうところのドラえもんみたいな存在だ。ところが、先日ドクタースースの誕生日に、スース作品のいくつかが人種差別描写があるとして絶版になると発表された。

(CNN) 米国の絵本作家、故ドクター・スース(本名=セオドア・スース・ジーセル)氏の著作のうち6冊が、人種差別的な内容を理由に出版中止となった。同氏の権利を管理するドクター・スース・エンタープライズ社が2日に発表した。

2日はスース氏の誕生日に当たる。同社は教育者らと相談してラインナップを見直した結果、「マルベリーどおりのふしぎなできごと」「おばけたまごのいりたまご」など計6冊の人物描写が「有害で間違っている」と判断し、出版中止を決めたという。

スース氏の著作は世界で発行部数が計6億5000万部を超えたとされるが、長年に及ぶ差別的な描写が指摘されてきた。

児童文学の多様性に関する2019年の研究によると、学生時代の作品では黒人ボクサーをゴリラになぞらえ、ユダヤ人をけちな人物として描いていた。

同氏の著作50冊を調べた結果、非白人の登場人物45人のうち43人が反アジア系、2人が反アフリカ系の描写に当てはまるキャラクターだったという。

出版中止が決まった6冊のうち、2冊はこの研究が具体例として挙げていた。

「The Cat’s Quizzer」には「日本人」として、鮮やかな黄色の顔で富士山の上に立つ人物が登場する。

「If I Ran the Zoo」には、白人男性がアジア人3人の頭上に乗り、銃を手にした場面がある。アジア人たちは全員「目がつり上がり」、「だれもスペルを知らない国」の出身だと書かれていた。

はっきり言ってこれらは言い掛かり以外のなにものでもない。興味があったので私は上記に上げられた二冊にざっと目を通してみた。

The Cat’s Quizzerでは一ページの下の方に、山のふもとに立つ東洋人らしき人の姿が描かれているが、顔が鮮やかな黄色ということはない。ドクタースースの絵は誰もが誇張されているので、特に日本人を馬鹿にしたようには描かれていない。

Dr. Seuss Enterprises To End Publication of Six Titles Over “Hurtful and  Wrong” Imagery - Bounding Into Comics

If I ran the zooは、少年が自分がもしも動物園の経営者だったら、という想像の世界を描いたもの。少年は色々な想像の国から想像の動物を集めて来るという空想をしている。問題の画像を見てみたが、たしかに昔の典型的な中国人風の男性三人の頭に動物が入った檻が乗り、その上に主人公の子供が銃をもって座っている絵がある。そしてそこの住人は目が吊り上がっているとある。しかし、それは少年が想像する国であって、特にどことは言ってない。また、「誰もスペルを知らない国」はその次のページでしかも別の想像の国。つまり東洋人は字が読めないとバカにしてるわけではないのだ。

Tackling Racism in Children's Books: Conversations in Seussland | Nashville  Public Library

ハリウッド映画で描かれる東洋人像を見慣れてる私としては、この程度は単にアメリカ人が想像する東洋人のステレオタイプであって、別に差別意識があって故意に悪く描こうとしているようには見えない。これらの本が書かれたのは1970年代のことなので、当時の一般アメリカ人が東洋人に関して持っていたイメージをそのまま描いただけのこと。

もしこれがドクタースースの絵本に描かれた人種差別の典型だとするならば、このように重箱の隅をつつくようなことをしなければ人種差別を見つけられなかったということになる。なぜならドクタースースは人種差別者などではなかったからだ。

フォックスニュースのタッカー・カールソンはドクタースースがキャンセルされるのはドクターが人種差別者だったからではなく、彼が反人種差別者だったからなのだと言う。

ドクタースースは人種差別者などではなかった。彼は反偏狭の宣教者だった。彼は反人種差別に関するいくつもの本を書いた、しかも曖昧な書き方ではなかった。これらの本は明確に反人種差別を示すものだった。子供たちに人種差別者になってはいけないと教えることこそがこれらの本のを書いた理由だったのだ。

ドクタースースをキャンセルするのは計画的だったとタッカーは言う。

ドクタースースをキャンセルするのは馬鹿げたことではない。ドクタースースを排斥するのは彼が人種差別者だったからではない。いやむしろ彼が人種差別者ではなかったことが理由なのだ。

タッカーはドクタースースが1961年に書いたスニーチスという本を例に出す。これはマーティンルーサー・キング牧師が反人種差別の行進をする前に書かれたものだ。この中でスニーチスと呼ばれる架空の動物が出てくる。彼らはお腹に星模様のあるかないか以外は全く区別がつかないどう種族である。ところが誰かがが星印のついている者の方が偉いと言い出し、星印対無印の対決が始まる。しかし最後には星があろうがなかろうが個人の価値に差はないことにスニーチスたちが気づくという内容。

これは明らかに肌の色で優越を決めることの愚かさを描いた本だ。こんな本を書く人が人まで人種差別者ということになるのか?いったい今の左翼リベラルの基準というのはどうなってるんだ?

しかしタッカーは、ドクタースースが唱える人種色盲社会こそ意識高い系ウォークと呼ばれる過激派左翼にとって都合が悪いのだと言う。確かにそうだ。もし肌の色など問題ではないということになるなら、今左翼が推してるクリティカルレースセオリーという「白人は生まれながらに人種差別者だ」などという思想は崩れてしまう。

過激派左翼の思想はすべて人種差別で成り立っている。人種によって派閥を作り、人種によって優越が決まる。この世の悪はすべて白い肌で生まれた人間の罪なのである。そんな思想を推し進める左翼にとって人種色盲社会などあってはならないのである。

ドクタースースはいわゆるクラシックリベラルである。しかし人種差別こそが一番大切な現代の左翼にとってドクタースースの反人種差別メッセージは不都合な存在なのである。

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And to Think That I Saw It on Mulberry Streetより、「箸でご飯んを食べる中国人の少年」



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