先日ネットでとある女性と同性婚について話をしていた。彼女のツイッターを読む限り、彼女は離婚専門の弁護士であり共同親権に反対する立場の人であると推測される。ま、それはいいのだが、私の主張は同性婚が合法になったら、宗教上の理由から同性婚にサービス提供を拒否する人が訴えられる可能性があるという話をしたら、彼女は「誰にも差別をする自由などない」と断言した。

これは非常に興味深い宣言だ。人権屋の皆さまは、やたらにこの「差別」という言葉を使いたがる。なんでもかんでも「差別だあ~」と言えば相手を黙らさせることが出来る魔法の呪文ででもあるかのように。だが私は差別も自由人の大事な権利だと考えている。

差別という言葉を使うから語弊があるが、これが区別であれば、特に問題はないはず。我々は日常生活において色々なものを区別している。私は甘いものは好きだが塩辛いものは好きではない、ズボンは好きだがスカートは嫌い、
Aさんは好きだがBさんは嫌い、といったように。そして私たちは皆、その好き嫌いを基本にして自分らの行動を決めている。これはれっきとした差別だ。だが、何を好み、誰と付き合うか、それは個人の自由であるはず。

無論これが個人単位ではなく企業など商売になったらどうなるかという問題はある。例えば私がキリスト教の神父だとして、自分の協会に同性婚の結婚式を挙げてくれという依頼が来たら、私は宗教上の理由からお断りするしかない。だが私には法律上この依頼を断る権利があるのだろうか? いや、宗教の自由が保証されている日本では、断る権利を守る必要があるのでは?

私は「~は差別されなければならない」という差別的な法律さえ取り除けば、個人や民営の企業が誰をどのように差別しようと認められるべきだと考えている。昔アメリカで黒人と白人が一緒の施設で行動することを違法としたジム・クロー法などは、例えレストランの経営者が黒人客にも入ってほしいと思ったとしても、経営者にはその自由はなかったのである。つまり、法律が差別を強制していたのだ。だからこのような悪法は撤廃されて正しかった。

しかし、差別法を撤去することと、差別をしてはいけない、という法律を通すことは違う。私は差別を撤廃するのは法律ではなく市場だと考えている。例えば黒人の多い地域でレストランを営む経営者が黒人客を拒否したとする。こういう行為は店の客数を減らすことになり不経済だ。それに黒人の友達や家族の居る客や、差別者の店を好まない客など、客数は極端に減るだろう。だから経営者もこんな不経済な差別はやらなくなる。

反対に○○人は行儀が悪く、大して物も頼まないのに長居をするため不経済だと思えば、経営者が「○○人はお断り」と言っても構わないと私は思う。そうなれば、今度はまた別の経営者が「○○人大歓迎」という店を始めればいい。そうすれば、それなりに儲かるだろう。

だから私は本当に差別をなくしたいなら、法律を通すのではなく市場に任せておけば自然と是正されると考えている。資本主義がきちんと機能していればそういうことになる。(残念ながら現状のアメリカではそのような差別は許されていないが。)

ただし、誰もが必要な公共施設の場合はこういう差別は許容できない。水道局とか市役所とか銀行とか、一般人にとってなくてはならない組織での差別は人権迫害であるから、そういう企業に限っては、個人の好き嫌いによる差別はあってはならない。

しかし、「~を差別してはいけない」という法律はいったい何をして「差別した」ということになるのか、それをはっきりさせる必要がある。これがはっきりしないと左翼活動家によってなんでもかんでも差別だと騒がれて訴えられたり、政府によって罰せられたりする可能性は出てくるからだ。

しかし、同性婚推進者にしろLGBT活動家にしろ、この差別の定義をはっきりっせようとする人はない。

たとえば、LGBT差別解消法なるものが通過した場合、男性性器のある女性自認の人物を女湯に入れないのはトランス差別とみなされるのか、といったことは、事前にはっきりさせる必要があるが、活動家の方々は、そんな心配はいらない、そんな問題は起きない、というだけで、我々が聞いている差別の定義をはっきり示すことは絶対にしない。それだけ強く変化を要求するのであれば、何故変化が必要なのかしっかり説明する義務が彼らにはあるのではないか?

彼らは知っているのだ。同性婚もLGBT法も、当事者たちの人権を向上させるためなどというのは表向きで、本当の理由は一般人の自由を迫害することにあると。左翼は特に宗教家が嫌いなので、宗教の自由が迫害されることは弊害ではなく計画的だ。

だから我々は騙されてはいけない。彼らの目的は差別撤廃などというものではない。彼らの目的は自由社会を破壊することだ。よって、差別する自由は守られなければならないのだ。


5 responses to 差別をする自由は尊重されるべきか?

出雲の乙10 months ago

いつもながら難しい話ですね...

「差別を[ 行使 ]する自由」というと極度に過激になりますしね。
僕自身言われない理由で差別されたくもないですし。

ここは「差別とは何かを定義する[ 個々人の心の ]自由」で手を打ちませんか?

「思うのは自由」、けれども「行使する局面では枠をはめる」とか。
まぁ、「行使」の局面ではすでに刑法があるので、新たな法律を作る必要は無いですが。

※僕は「xxすべき」とか「xxねばならない」という文言に抵抗があります。
 「xxすべき」とかが適用できるのは「自分自身の行い」だけではないか?と。
 とはいっても、この「自分自身にだけ適応させるべき原則」を僕も忘れ、
 「カーッ」と頭に血が上って抑えられないことも”たびたび”あります。
 てか、僕の人生だいたいそんな感じですね(´∀`*)

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    苺畑カカシ9 months ago

    >思うのは自由、けれども行使する局面では枠をはめる

    公共施設による差別は許されるべきではないと思います。役所とか大学とか銀行とか。しかし一般のビジネスの場合は差別は自分らの首を絞めることになるので特に法律による規制は必要ないのではないかと思いますね。アメリカの現状では一般企業でも人種や性別や性嗜好や年齢などによる差別は違法です。

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よもぎねこ10 months ago

差別する自由を認めないなら、イスラム教など絶対禁止するべきと言う事になりますけどね。
 
イスラム教には女性差別が教理として定められていますが、しかしそれ以上に深刻なのは、異教徒に対する差別です。

イスラム教こそが唯一正しい宗教であり、ユダヤ教やキリスト教は劣った宗教、更に多神教は完全な邪教と言うことで成り立つ宗教なのです。
 
 だからイスラム法にはユダヤ教徒やキリスト教徒を屈辱的に扱う差別規定があり、イスラム諸国では近代以前は完全にこれに基づいて差別政策をとっていました。
 
 多神教徒に対してはコーランに「見つけ次第殺せ」と明記されています。

 異教徒なら捕らえて奴隷化しても構いません。 ジハード中に捕らえた異教徒を奴隷として所有売買する事はコーランでも認められています。 ボコハラムやISが女性を支配地で女性を奴隷化したのは、このコーランの規定を守っただけなのです。

 差別する権利を認めないならこんな宗教は禁止するしかないし、それでも信仰をすると言うなら、コーランとイスラム法の差別規定を削除させるべきでしょう?

 差別する権利はないというリベラルな人達はこれをどう考えるのか聞いてみたいです。

 差別する権利は認めないという人達は、こういう問題をどう考えているのでしょうね?

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Shima55559 months ago

苺畑さん
以前は日本の「外国人お断り」レストラン等に対して苦言を呈していたように
見えましたが、今回のことと比べて率直にどう思われますか?

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    苺畑カカシ8 months ago

    Shimaさん、お久しぶりです。私は「外国人お断り」レストランに関しては道義上支持はしていません。ただし、レストラン経営者がそうしたいならそうする権利は守られてしかるべしと思います。外国人差別をしてお店の経営がうまくいかなくなれば自然と差別はなくなるでしょうし、その方がかえって地元民に支持されるのであればそれはそれで仕方ないことだと思います。その代り差別しない店は外国人やその支持者たちから人気が出るでしょうから。

    差別するしないは個人の自由だと思います。ただし、そういう行為に出れば、それに対する批判や社会的制裁は覚悟しなければなりません。

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