年末に女性を自認する人間を女子施設に立ち入らせることの是非について色々やりとりをしたが、ふと考えさせられることがあった。トランスとしての整形手術を受けるためには二年間異性として暮らさなければならないという規則が日本やアメリカにはある。しかし、この異性として暮らすというのはどういうことなんだろうかと私は常に不思議に思っていた。

例えば私の場合、明日から私は男として暮らしますと決めたとしよう。私の仕事は男でも女でも出来る仕事で、お給料も同じことをやってれば全く同率。職場に制服はないし、ドレスコードもこれといってないので女だからドレスを着なければならないというわけでもない。カジュアルな職場だから私がブラウスとスカートをやめてポロシャツにスラックスの恰好で出勤しても別に誰も気が付かないだろう。

他人の迷惑もあるから、トイレや更衣室やシャワーは女性用を使うとなると職場において私の生活には全く変化はない。

では個人的な生活はどうか。異性になろうというからには、すでにパートナーの理解を得ていると考えると、その他の友達や家族に男名で呼んでくれとか、彼と呼んでくれとか頼むこと以外は特に変化はない。今まで通り帰宅したら食事作って食べてテレビ見たりネットしたりして終わるだけ。私は元々買い物とか嫌いだし、友達や家族と外出するにしても男だろうと女だろうと全く違いはない。

となると、いったい私の生活の何が変わるのだろう?欧米のような男女平等社会においては、男であっても女であっても均等に機会は与えられる。昔と違って男でなければ出来ない仕事とか、行かれない場所とか、参加できない団体もそれほどない。

ということは女性らしさや男性らしさはその人の内面の問題なのではないだろうか?

普通の人は自分が自分をどう思っているかということに関して他人の承認を求めても意味がないことを知っている。例えば自分は美人だと思っていても、実際はブスだったら回りは美人としては扱ってくれないだろう。自分はまだまだ若いと思っていても、60歳こして孫も居る人を20代の人たちが「若い」とは思ってくれない。でもだから何なんだと私は言いたい。

自分の内面のイメージと自分の外見が一致しない人などいくらでもいる。それは男か女かということだけでなく、美人かブスか、デブか痩せか、若いか年寄りかなど色々だ。しかし一般の人は、自分なりに外見と中身を一致させようと努力するか、単にそんなもんだとあきらめるかで終わる。他人に自分を美人だと認めろとか年寄り扱いするなとか要求するのは自分勝手なことだと誰もが知っている。

なのに何故トランスだけが他人の考えや行動を規制する特権を持つと思うのだろうか?何故トランスのみが自分らの妄想に他人が付き合わなければならないと思うのだろうか?

何度も書いたが、何故男っぽい女性や、女っぽい男性ではだめなのだろう?人はそれぞれ色々な素質や性質があるわけで、それが男とか女といったステレオタイプに結び付かないことなどいくらでもある。もし女性がエンジニアになりたかったら、先ず彼女は男性に性転換しなきゃならんなどという理屈はない。わざわざ自分の特性にあった性に転換しなければならないと思うことこそ、男女差別の最たるものだ。

私はトランスコ活動家の横暴にこれ以上付き合うつもりはない。彼らが我々の言葉使いや生活態度にまで口出ししてくる以上、彼らとの接点は全くないと考えている。彼らこそが男女差別者の最たるものだからだ。



1 response to トランスジェンダーこそ男女差別の究極思想では?

よもぎねこ8 months ago

 これはトランスジェンダーに関して根源的な疑念なんですよね。

 人間は年齢も身長や体重も、自認で決められるわけではないのです。

 64歳の人が「自分は体力も落ちて70代としか感じられないので、生年を一年繰り上げて65歳にして老齢年金を支給してほしい」と言っても、そんなことは絶対に認められないのです。

 一歳の年齢差なんて実に微々たるものなのにです。

 それなのに性別は自認で良いというのは、どう考えても納得できないのです。

 それでも性同一障害などの障害であるというなら、ある程度の配慮はするべきだとは思いますが、それでも他人に「オレは女だと思うから女なんだ。
 疑う事は許さぬ。」なんていう権利はないと思うのです。
 
 そもそもこれを「権利」として認めると、自己に対する認識と、他者に対する認識と言う、言ってみれば人格権の根幹を狂わせてしまう事になります。

ReplyEdit

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *