先日ニューヨークタイムスは「いかにして保守派が言論の自由を武器と化したか」という驚くべき記事を掲載した。ここ十年来、後退派左翼による保守言論弾圧は頓にひどくなっているが、それでもつい最近までは後退派左翼も表向きは言論の自由は大切であるという姿勢を取ってきた。ところがここ1~2年、特にトランプが大統領になってからは、彼らは言論の自由を守るべきという姿勢すら崩しつつある。このNYTの記事はまさに後退派左翼がもはや言論の自由を信じていないと全面的に認めるという驚くべき内容なのだ。

何故、言論の自由の守護神のごとくふるまってきた後退派左翼が今になってアメリカ憲法補正案第一条である言論の自由に懸念を抱き始めたのかと言えば、彼らに言わせると言論の自由は最近、保守派の思想を広めることに「悪用」され始めたからだという。

NYT曰く、最高裁判所審査最終日、リベラル派裁判官エレーン・ケーガン女史は5人の保守派裁判官が多数権を握る最高裁判所は補正案第一条を使って公務員労働組合に多大なる打撃を与えたと警鐘を鳴らした。その前日にも最高裁は宗教関係の妊娠相談所にて中絶に関する情報を与えることを義務化しているカリフォルニア州の法律は補正案第一条に反し違憲であると判断した。ケーガン裁判官は最高裁は「補正案第一条を武器と化している」と語った。

この他にも同性婚ウエディングケーキ製作を拒否したキリスト教徒のケーキ屋に関する訴訟や銃砲所持権利や限度なしの選挙運動資金などに関しても、最高裁は補正案第一条の宗教と言論及び表現の自由を理由にことごとく保守派の訴えを認めている。つまり、後退派左翼は、自分たちによる保守派言論の弾圧が憲法補正案第一条によってことごとく阻止されている。これがケーガン裁判官のいう補正案第一条が保守派の「武器と化している」と言う意味だ。

もともとリベラル派は建前上自由を信じているとされてきた。いや、実際に本当に誰の言論の自由も守られなければならないと思っていたリベラル派は多くいたのである。1977年、人権団体のACLUなどはネオナチがナチスドイツ収容所生存者の多く住む町でデモ行進をする権利すらも擁護したほど言論の自由の原則を信じていた。

その彼らが今になって恥も外聞もなく「フリースピーチはヘイトスピーチだ!」などと言えるに至ったのか。

1960年代の人権運動が起きるまで、アメリカ社会は非常に保守的だった。これは今でいう保守派とはちょっと違う。経済的には非常に社会主義的であったが、社会的には保守的だったということ。例えば映画や雑誌などでの性的表現など今では考えられないほど厳しい規制があった。であるから当時のリベラル派の間では言論や表現の自由弾圧は常に保守的な体制によるものなのであり、それに対抗するために補正案第一条の拡大を信じるのは普通の姿勢だった。

ところが最近、自分らが昔使った理屈や手法が保守派の意見拡大のために使われるという不思議な状況が生まれた。これによって言論や表現の自由は神聖なものとしてきたリベラル派の間で第一条が及ぼす害について考え直す人々が増えて来たというのだ。

例えば、ポルノグラフィや野外デモ。昔のリベラルは過激な性的描写を規制する政府からその表現の自由の側に立って戦ったが、今は女性に対する暴力や人権侵害につながるとして支持できないと考える人が増えている。昔はアメリカナチ党のデモ行進を支持したリベラル派も、去年シャーロッツビル市で行われた白人至上主義デモには概ね批判的だった。

言論の自由に関してリベラル派は多少ナイーブな考え方をしていたと語るのバージニア大学のフレドリック・シャウアー教授。

「1950年代から1960年代における言論の自由は、わいせつ表現規制や反人権やベトナム戦争抵抗運動などに関するものだったため、左翼は演説者に同情することが出来たし、こうした表現は無害だと思われていた。」と教授。「しかし言論が無害とか不活性などということが真実だったことはない。最近の現象によって左翼はその事実に気づいた。問題なのは、では何故左翼は一度でも(言論の自由が無害)だなどと信じたのかということだ。」

これはものすごい自認だ。『言論や表現が自分たちの思想と沿っている間はその自由を認めるが、それが自分たちに都合が悪くなったら認めない』というのであれば彼らは言論の自由など最初から信じたことがないと認めたも同じだ。

昔のリベラル派には自分が同意できない意見の発言も守られるべきと信じていた生粋の自由主義者が結構居たが、今やリベラルを追い出し後退派と化した左翼連中でそんなことは信じている者はない。いや、それどころか自分らの思想拡大のためには反対意見は暴力を使ってでも徹底的に弾圧すべきというのが今の彼らの姿勢だ。真実はそれまでリベラル派の間に隠れていた社会主義左翼たちがついに本当のリベラルを追い出し、リベラル運動を乗っ取ってしまったと言った方が正しいだろう。

NYTは保守派が言論の自由を武器に使い始めたというが、言論の自由が武器として使われるというのは今に始まったことではない。体制派が何故人々の言論を抑圧するのか、それは表現される思想が体制派のものだけに統一したいからだ。多々の思想を弾圧することによって体制派の権力を拡大するためだ。人々が大本営放送だけを聞いて他で種々の情報を取り入れたりせずに体制の思い通りになってもらうためだ。情報は力だ。「筆は剣より強し」というのはまさにそれを表しているのだ。

後退派左翼が自由表現に脅威を持つのは今や左翼思想こそが体制だからである。ポリコレとかコンプライアンスとかいう言葉が聞かれるようになって、アメリカ及び欧米社会で(日本も含み)後退派左翼による言論規制は昔よりずっとひどくなっている。そしてそれに対する保守派からの抵抗も日に日に増している。後退派左翼が「言論は暴力だ!」と言って保守派の講演を暴力で阻止したり、フリースピーチ(言論の自由)はヘイトスピーチだと言って人々の言論を抑圧しようとするのも、彼らは左翼が独占してきた左翼主義思想が崩れつつあることに脅威を覚えているからである。

しかし後退派左翼が言論の自由を武器として使っていた頃から全く学んでいないことは、常に自分たちの意見が多数意見であるとは限らないということだ。今はメディアや大学などの教育界が左翼によって権限を握られているからといって、今後もそうであるという保証は全くない。今後保守派が体制となり左翼が少数派になった場合、言論弾圧をよしとした方針は結局自分らの言論を弾圧するために使われることになるのだ。何故左翼連中はそれに気が付かないのだろう?

私は純粋な意味での言論の自由を信じている。だから私が馬鹿にしている後退派左翼によるどんな馬鹿馬鹿しい言論もデモをする権利も守られなければならないと考えている。自分が耳にするのも耐えられないほどひどい議論を守れなければ、本当の言論の自由など存在しないのである。

後退派左翼は一度でも個人の自由や権利など信じたことはない。彼らが信じた言論の自由とは自分らだけの思想を表現する自由であって他の意見を守る自由ではない。もし読者諸氏が少しでも後退派左翼のきれいごとを信じているのなら、今すぐやめるべきである。


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