この間コメント欄でちょっと書いたのだが、ネットおともだちでダニエル・パイプス氏の著書の専属翻訳家でもあるリリーさんから私の訳語が適切でないというご指摘を受けた。下記はそのコメント欄から抜粋。

ネットおともだちのリリーさんから、マレー氏の著書の題名は「ヨーロッパの不思議な死」というより「奇妙な死」と訳すべきなのではないかというご指摘をうけた。確かに「Strange」という単語を英和で引くと「奇妙な」と出てくるのだが、「不思議」を反対に和英で引くと「Strange]と出てくる。だからどちらを使うかは訳者の判断に任せられる。
私は「奇妙」という言葉自体を自分であまり使わないので、普段自分が使っている「不思議」という言葉を使ったのだが、言われてみると確かに「奇妙」という言い方もあったなと思った。その方がいいのかもしれないとも思ってツイッターではそう答えた。
しかしよくよく考えてみたら、やっぱり自分としては「不思議」の方がしっくり行くと考え直した。「奇妙」というのは物事を説明する時に使うような気がする。「奇妙な形」とか「奇妙な現象」とか。それで著者の感情移入がないような気がするのだ。
これを「不思議」と訳すと、著者にとってこの現象は何か異様な興味を抱かせる現象であると言っているように聞こえる。少なくとも私にはそう思えるのだ。
この題名だけなら、確かに「奇妙」でも「不思議」でも訳者の好みの問題だろう。いや、学術的な論文なら、多分「奇妙」の方が適切かと思われる。しかし、これまでマレー氏のインタビューやスピーチを色々聞いてきて、この場合は「不思議」の方があってるような気がするのだ。(強調は後から加えた)
無論これはカカシの独断と偏見に満ちた考えかた。私はプロではないからいい加減な訳なのもお許し願おう。

こんな生意気なことをど素人のカカシが言えば、国文学専門で多言語に堪能で翻訳を長年手掛けているリリーさんが黙っているはずはないと思っていた矢先、案の定ご返答があった。リリーさんのおっしゃることは全くもっともなのだ

著述の全体を読めば、「不思議な」というよりは、もっと強いニュアンスの「奇妙な」が適切だと、私は思います。事例の使い方や言葉の選択に、意図的な狙いとウィットと皮肉が込められているからです。(ツイッターより)

アメリカ東海岸への留学と駐在を計4年間、経験した主人は、理系だが、私よりも遥かに英語が正確でよくできる。パイプス親子先生の母校および職場でもあったハーヴァードでも(外国人向けの)英語のクラスを取っていたし、専門分野以外に難しい対米交渉もこなしてきて、ユダヤ系も含めたアメリカ人を採用する立場にもあった。
その主人が本件に関して一言。「奇妙な、でなければおかしい」。
なぜ、‘mysterious’という単語をダグラスさんが使わなかったかは、本書を読めば歴然としている。

ちなみに英語母国語のミスター苺にも「不思議」と「奇妙」の違いを私なりに説明して意見を聞いてみたが、リリーさんやご主人と同意見だった。(笑)
リリーさんが最初ツイッターで、私が「奇妙」のほうがベターかも、と書いたとき、「ベターはベストよりも低い」という返答をしてきた時、何を言っているのかよくわからなかったのだが、これを読んではっきりした。つまり、リリーさんはカカシのようにいい加減に「確かに『奇妙』でも『不思議』でも訳者の好みの問題だろう」みたいな態度は許せないようだ。リリーさんにとって翻訳は正確でなければならないからだ。

パイプス訳文については、「読みやすい日本語」よりも「正確さ」を第一にしている。学者を名乗り、シンクタンクを率いている方の文章だから、たとえ読みやすくても、間違っていたらダメだ。そのことは、繰り返し、パイプス先生に伝えている。

学術書では確かにその通りなのだ。私が「学術的な論文なら、多分「奇妙」の方が適切かと思われる」と書いたのもそれが理由。
私は10年以上も自己流で英文を訳しているが、最初に気が付いたのは、英文はそのまま訳すと日本語として成り立たないことが多いということだ。私の最初の頃の文章がどうもぎこちないのは、先ずは英語で考えてそれを訳すような書き方をしていたからだ。日本語は日本語で考えなけりゃダメなのである。
ちょっと例を出すなら、英語でI don’t know him from Adam という言い回しがある。これをそのまま直訳して「私は彼をアダムの頃から知らない」とやると何のことかわからなくなる。アダムとは聖書に出てくるアダムとイブのアダムであり男の原点を表す。だから意味だけ訳すなら「素性の解らない男」となるが、原文で古い言い回しが使われているのだから、日本語でも「どこの馬の骨ともわからない男」とした方が原文の雰囲気がより伝わる。
それで私はとうの昔に原文の英文を緻密に訳すという作業はあきらめて、先ず英語で読んだ原文を頭のなかで整理してその概念を自分なりの日本語で考えなおして書くというやり方に切り替えた。そうすると原文は英語でなく日本語なので書きやすいし読みやすいという結果が生まれる。少なくともそれが狙い。
しかし、忘れてならないのは、これをやると、細かい英語のニュアンスは失われる。著者のウィットや皮肉的な書き方も失われる。意味が解りやすく通じればそれでいいのかと言えば、それは原文が何なのかにかかわってくる。
カカシが拙ブログで扱っているような新聞記事なら、単に内容が通じればいいだけなので問題はない。しかし細かい論理が逐一吟味される学術書であればそれではだめだ。また芸術的な小説であったり詩であったりすれば、それはまた別。例えば、韻を踏んでいる詩を意味だけ訳しても原文の感覚はすべて伝わらない。だが日本語で韻を踏めば原文の意味が変わってしまう。
以前に源氏物語を英文に翻訳した人のエッセーの中に、翻訳する際には何を大事にして何を犠牲にするかという葛藤が常にあるとあった。
私が大好きなJRRトールキンの指輪物語の和訳が何種類もあるのも、版によって原文の何が強調されるかの解釈が違ってくるからだ。指輪物語の場合は原文がイギリス英語なのに、アメリカ出版の際にはアメリカ英語に直す色々な「翻訳」が加えられたという。
だからリリーさんのように原作者と常に交流して著者が何を一番強調したいのか、これはこういう意味で解釈していいのかと確認しながらの翻訳は理想だ。
翻訳は科学ではない、芸術だ。何が絶対的に正しいとは一口に言えないことが多くある。翻訳者の技量はいかに原文の意図を失わずに他国語の人間に解るように伝えるかにかかている。だから母国語が堪能な人でないと絶対に無理な仕事だ。
ま、そういう意味で長年のアメリカ生活で日本語がハチャメチャになっているカカシには絶対に出来ない仕事である。
リリーさん、カカシの素人談義にお付き合いくださりありがとう。


1 response to Strange case of translation – 翻訳における奇妙な出来事

苺畑カカシ2 weeks ago

2019年5月のアップデート。ダグラス・マレーさんのThe Strange Death of Europeはこの度日本語訳されて出版された。で、どんな題名になるんだろうと楽しみにしていたら、なんと「西洋の自死」。不思議でも奇妙でもなかったね、リリーさん。

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