最近ミスター苺は、この間の自称「女性行進」に集まった連中や反トランプや保守派の言論弾圧に余念のない奴らのことを「リベラル」とか「革新派」と呼ぶのは止めろといっている。それというのも、奴らのやっていることは元々のリベラル=自由主義とか革新とかいったものとはかけ離れていて、共産主義独裁に近い革新どころか後退の思想だからというのである。
確かにその通りだ。それに加えて、民主党の間でも平和的な政治活動で共和党から政権を取り戻そうとするリベラル派と暴力を使って共和党政権を打倒しようという過激派との間で分裂が生じている。なのでこれらの人々を十把一絡げにして左翼とか左翼リベラルとか呼べなくなってきた。
さて、本日はこのリベラル派と過激派の意見の違いについていくつかの記事を読み比べて見たい。一つ目は1月25日2017年付けのポリティコ掲載ビル・シャー(Bill Scher)著の「トランプ抵抗への六つの方法」

  1. ナチ攻撃とか窓ガラス破損とかリムジン車放火などを奨励しないこと。暴力行為を奨励すれば、トランプ派に我々の抵抗はすべて違法行為だという口実をあたえてしまい。かえって逆効果。
  2. 「女性行進」大いにやるべし。実施的には反トランプラリーだったにも関わらず名前が「女性行進」だったため男性が参加に商況的だったという批判もあるが、すべての人に当てはまるテーマだとメッセージが混乱して解らなくなる。女性蔑視の共和党に立ち向かうためには女性問題を中心にするのは大事。参加者の数からいってこの行進は大成功だった。批判者は無視してこれからも「女性行進」を続けるべき。
  3. 芸能人はいいけど、演説者の人選を厳しくする。マドンナが生放送なのに放送禁止用語を羅列した下品な言葉使いでホワイトハウスをぶっとばしてやろうかと思ったなどと、リベラルにとって恥かしい発言があったように、こんな演説を聴いたら反トランプ派でもトランプ支持になってしまうような馬鹿なことを言う芸能人に運動を代表させないよう気をつけること。
  4. インターセクショナリティーは大事だが、そればかりに固執するな。「女性行進」の発足者が白人男性だったことから、有色女性の間からクレームがついたので、即多種族の人々がリーダーとして起用されたが、白人は特権階級だと言い張る黒人女性の声に白人女性たちが理不尽に差別されていると文句を言い出し、仲間うちで誰が一番差別を受けているかで揉めてしまった。そのことで保守派批評家に批判のネタをあたえてしまった。違いにばかりに拘らずに共通の目的で団結しよう。
  5. 活動家に意味のない役割をあたえるな。「女性行進」の主催者は参加者たちに自分らの要求をそれぞれ葉書に書いて自分の地区代表政治家に送りつけろと促しているが、いくつも違う要求をあちこちの政治家に送ってみても意味がない。これは徒労である。リベラル革新派は我々にとって一番大事な問題に絞ってトランプの弱みに付け込んで攻めるべきである。オバマケア撤廃のようにすでに共和党内部でも消極的な問題から取り組むべきだ。
  6. トランプのゲームに引き込まれるな。大事な問題に焦点をあてろ。トランプ就任式に集まった人数などでトランプの嘘を暴いたことは確かに気持ちよかったかもしれないが、トランプはこういうくだらないことで言い争いをすることが好きなのだ。しかしこんな小競り合いでいくら勝ってみてもトランプ支持者の気持ちを変えることは出来ないし、政策を変えることもできない。トランプへの個人攻撃よりもトランス政策に焦点を当ててそれに対抗していくべきだ。

確かに理論だった提案だろう。暴力行為で抵抗を違法行為とみなされないようにすること、団結して大事な問題に焦点をあてようというのも自分らの政治目的を果たすためにはもっともな理屈だ。
しかしそうではないと主張するのが八フィントンポスト掲載「悪いなリベラル、反トランプへの暴力は論理的な方法だ」である。これは、よくよく読んでみるとひどい文章。とても訳す気になれない。こんな記事をハフポはよくも載せたもんだ。とてもプロのニュース紙とは思えない。ま、とにかく概訳すると下記のようになる。

  1. 選挙運動中からトランプラリーでトランプ支持派による暴力は顕著だった。メキシコ移民は麻薬ディーラーだとかレイピストばかりだといって見たり、モスレムはまとめて国外追放にしろと言ってみたり、トランプの政策は20世紀のファシズムとは違うが、21世紀の新しいファシズムである。トランプラリーで起きた暴力は支持派によるものであろうと反対派によるものであろうと、すべてトランプのファシズム思想が生み出したものだ。
  2. トランプ支持の背景には共和党による人種差差別や移民差別、温暖化科学者や、フォックスや保守派トークラジオなどによる主流メディアや、教育システムなどへの執拗なまでの攻撃がある。政権奪回だけに専念して背後にあるこうした文化撲滅を無視していては勝利は得られない。ヨーロッパのファシズムから勝利を勝ち取ったのは市民による暴力的な革命だ。
  3. 暴力的抵抗は大事だ。暴動による抵抗は結果をもたらす。現在のLGBTQの権利をもらたしたのはリベラル政治家でもなければ、すましたリベラル作家でもない。人々が街頭に繰り出してストーンウォール革命のようなことをやったことが原因だ。長年に渡る黒人差別や不平等や貧困に注目が集まったのも、話し合いではなくワッツ反乱が功を成したからだ。後に起きたロサンゼルス反乱も腐敗した警察署を是正した。
  4. 最後に特権階級のエリートリベラルが偉そうにトランプへの暴力による抵抗が道徳観の失態によるものだとか理論破綻だとかお説教するのはやめてもらいたい。暴力に及ぶ及ばないは理論の理解力とは無関係だ。特権階級はそんなことを言ってる余裕があるかもしれないが、そういうふうにエリートがどのように抵抗すべきかなどと規則をつくるのは、弾圧された人々から効果的な抵抗手段を奪うことになり、沈黙させることになるのだ。そういうリベラルになるな!

ま、最初のシャーのリストはまだ納得がいくが、ハフポのリストは単にトランプ政権はファシズムだからファシズムと戦うには暴力革命しかないという理屈だ。しかしそれが本気でやったら、暴力での仕返しがあるってことも頭に入れておくべきだな。オバマ時代は左翼の暴力をオバマ政権自体が容認していたから、街でどれだけ暴動をやろうと誰も逮捕されなかったが、トランプの代になったらそういうわけにはいかない。何しろオバマにとって暴動者たちは自分の味方であったが、トランプにとっては敵だ。法と秩序をうたったトランプにとって暴力的な敵は取り締まりやすい。シャーはそのことを忠告しているのに過激派のハフポ記者はそれが理解できていない。
カカシ自身、本当の意味でもファシズムや共産主義といった独裁政権に対しては暴力による抵抗が悪いとは思わない。いや、今のヨーロッパの状況を見ていると、今こそヨーロッパ市民は暴力によって野蛮人や既存の政府に立ち向かう必要があるとさえ考える。
左翼過激派の問題は彼らが本当のファシズムとはなんたるかを全く理解していないことだ。実は自分たちの方こそどんな異論者も許さないファシストであることに彼らは気がついていないのだ。トランプ政権のやっていること(まだたったの10日足らず)の一体何がファシズムなのか?
ハフポのコラムは、最初からトランプに関する嘘八百が前提となっているので、はっきり言って全然意味がない。だがこういう奴らに「トランプはそんなことやってないよ」などと事実を踏まえて話そうとしても無理。トランプ=ファシスト、だから暴力で阻止。ということしか頭にない低能な奴らだから。
こいつらによる暴力はエスカレートするだろうが、就任式の日に暴動を起した暴徒200人あまりが逮捕されたということも考えて、トランプはこういう暴徒を黙ってほうっておかないだろう。こういう奴が騒げば騒ぐほど民主党はその支持を失っていくだろう。良識あるリベラルたちは大変である。
つけたし:
これを書いてすぐに「レイシストへの暴力は正当化されるべし」という記事を読んでしまったので、足しておこう。これはビデオメッセージだが、ロンドン住まいのスダン人 Nesrine Malikという女性が、トランプ支持者への暴力行為は正当である、なぜならトランプ投票者は人種差別偏狭者だからというもの。
このビデオのほうが先に紹介したハフポの記事よりうまくまとまっている。こんなふうに話せる人が暴力を奨励するというのも情けないというか悲しいというか。ビデオのトランスクリプトがないので概要を紹介しよう。
英語の直訳では題名は「低い相手に高く出るのは不十分」だが、意訳するなら「卑怯な相手に高貴な手段は効果がない」とすべきかな。

本来ならば誰に対しても暴力はよくない、それがナチであっても。ただ、リチャード・スペンサー(白人至上主義の右翼活動家)が道端でインタビューの途中に殴られたのはカトリックな瞬間だった。我々の多くは突然にして恐ろしく危険な見解が放映されるだけでなく主流となりつつあることにどう反応していいのか解らなかった。こうした出来事に適応できず我々は何か新しい思想にでも出会ったかのように取り組もうとした。世界は変ったのだ。だが我々は追いつけずにいた。だがあのパンチによって、我々は追いついた。

「相手が低く出たら、我々は高く出ろ」とミッシェル・オバマはトランプの醜い選挙運動の真っ最中に言った。高くでるのは常にうまくいくとは限らない。ある立場は議論どころか考慮することすら不可能だ。左翼の間では理屈にかなった議論という嘘が蔓延している。レイシストや女性蔑視者を攻撃したりボイコットしたりせずに議論をしろ、低く出ずに高く出ろという。行儀良くしろと。
だが何故だ?
なぜ我々は行儀良くする必要があるのだ?単に良く思われたいためだけか?行儀良くして効果が出るのか?この弱みがリベラルデモクラシーのアキレス腱になっているのだ。
だからといって私はむやみやたらにナチス連中を殴りに行けと奨励しているわけではない。だが同時に殴る行為を糾弾するつもりもない。あのパンチはあまりにも多くの指摘されるべき悪行が指摘されないでいたことを指摘する行為だった。高く出ることは党としては気分がいいかもしれないが、適切な行動ではない。それに効果がない。やっと獲得した自由と人権への攻撃がされている今は特に。
行儀のいいことへのナルシシズムは除去されるべきだ。リベラルには衝撃と特権と余韻による油断がある。リベラルの威厳を保つことによって偏狭者たちに恥をしらしめることになるという考える人もいる。こんな意味のない議論などやめろ。
声高に指摘し抗議運動をしボイコットをしろ。そして絶対にその手を休めるな。

こんなことを言う連中はおよそリベラルとは言えない。リベラル連中もそろそろこういう連中とは手を切るべきだね。そうでないと民主党はもう終わりだ。


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