前回は体制派右翼保守と新しい世代の右翼アルト・ライトについて書いたが、今回は左翼の中で起きている極左翼とポリコレに挑戦する新左翼アルト・レフトとの争いについて書いてみたい。
参考にしたのは11月23日付けのイブ・ペイザーのこのコラム、The F*cking P.C. Culture Problem. How do you handle political correctness in the age of Trump? By Eve Peyserである。
先日もちょっと触れたが、まっとうな左翼の間ではこのたびのクリントン及び民主党の敗北は、リベラルによる行きすぎたポリコレ、特にアイデンティティーポリティクスと呼ばれる市民の細分化に問題があるのではないかという意見が聞かれるようになった。
ポリコレの危険性について色々書いているニューヨークのコラムニスト、ジョナサン・チャイト(Jonathan Chait)によると、クリントンの敗北はポリコレが原因というよりも、

あまりにも多くのことを人種差別とか男女差別とかという範疇に分類してしまう現象があり、そのためトランプについてきちんと分析したり議論したりすることができなくなっています。この現象の問題点のひとつは、トランプのような人間が自分たちの人種や男女差別の本性を人種差別や男女差別でない他の思想を隠れ蓑として隠すことを可能にしてしまう点です。

なにもかも人種差別だ男女差別だと言い張れば、本当の人種差別や男女差別との見分けがつかなくなってしまう。またチャイトは、ポリコレ文化は社会的に恵まれているとされる人々を差別者扱いすることによってこれらの人々の感情を傷つけていることにはまるで無関心だという。

この切断が今回の選挙で民主党におきた問題の一つです。恵まれた人々の気持ちは無視し取り合わなくてもいいという考えです。有権者の70%が白人という社会で、彼らの票がなければ勝てないのに、こういう考えは不適切です。こういう考えがリベラルに会話を交わす能力を喪失させ勝利への道を閉ざしたのです。

ペイザーはポリコレという概念そのものが人によって違うのであり、右翼保守が何かとすべてをいっしょくたにしてポリコレという範疇に振り分けてしまうのも問題だという。今やリベラルの間ではポリティカリーコレクトという表現すら「ヘイトスピーチだ」と言い出す輩もいるくらいだ。
体制派右翼保守のベン・シャーピーロはペイザーとの会話で、相手にラベルを貼るだけの行為は議論ではないと語る。トランス女は精神病の男性であると主張するシャピーロは、自分のことを「トランスフォビア」と呼ぶのは議論になっていないという。

それは議論ではありません。単なる名前です。「トランスフォビックとは何か、なぜ悪いことなのか、私の議論のどこが間違っているのか、それを説明する必要があります。「あなたは私の論と議論していません。あなたは私が議論をしているから悪者だといいます。私の論がトランスフォビアだというなら、なぜ私の論がトランスフォビアということになるのか説明しなければなりません。ただ単に私はトランスフォビアだから私の意見には価値がないというだけでは駄目なのです。

確かにそうだが、それをしないのが左翼リベラルの常套手段だ。何故なら彼らにも何がポリコレで何がそうでないのかなどわかっていないからだ。以前に拙ブログでシャピーロがテレビ番組でトランス女のことを「サー」という敬称で呼んで相手の女装男から暴力で威嚇されたという話を紹介したことがある。気に入らないことを言われて暴力で脅す行為はおよそ淑女たるもののすることではないが、元ガウカーというゴッシップ雑誌の編集者でチャイトに批判的なアレックス・パリーンは、この事件についてこのように述べる。

トランスジェンダーは精神病患者でありそのように扱われるべきだと触れ回るなら、トランスジェンダーから「ぶんなぐってやる」と言われてもしょうがない。公人が公の場でそういう意見を表現するならそういう結果を招いても仕方ない。

ペイザーはシャピーロとパリーンの意見の差が左右思想の違いを顕著に表すものだという。つまり、左翼にとって言葉は非常に強い意味を持つのであり、言葉によっては非常な憎しみを表すものであるから、それは実際の暴力に等しいと考える。だから暴力を暴力で応じて何が悪いのかという理屈になるわけだ。
パリーンは「特定の意見の表現は許可されるべきではない」と主張する。アメリカにはどんなひどいことでも礼儀正しく言いさえすればよしとする伝統があり、チャイトのような文化人は話せば解るという態度をとっているが、戦っている相手といつまでも話ていても拉致はあかない。議論をするのは左翼の責任ではない。「負けたら礼儀など何の意味もない」、正しい対応は「どんな手を使ってでも戦うことだ」という。
つまり、パリーンは自分らの側に理はない、議論をすれば負けると認めているのである。だからシャピーロやマイロなどの右翼保守が大学キャンパスで演説しようとすると暴力で阻止しようとするのだ。憎しみに満ちた演説は暴力なのであり、それを暴力で阻止するのは当然だという考えなのだ。
だが、チャイトが言うように、そういうやり方は民主党を勝利に導いていない。いやかえってマイロやシャピーロが言ったように、普通の人々をアルト・ライトの腕の中に追い込んでしまうのだ。
左翼リベラルの間では、これまでどおりアイデンティティー政治を進めていこうとする動きと、細分化されたグループごとの有益ではなく民主党全体のために良くなることを考えるべきという考えとで割れている。どちらが勝つかはトランプの勝利がよく物語っているのかもしれない。


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