昨日紹介したイギリス(及びカナダやアメリカの)ノープラットフォーム(講壇拒否)という言論弾圧政策について、ついに我慢しきれなくなったイギリスの学者や著名人たちが17日、全国学生連盟事務所(NUS)の前で抗議デモを行なった。
デモの音頭をとったのは昨日ヨーク大学での講演を拒否されそうになったゲイ活動家のピーター・タッチェル。参加者は哲学者のACグレイリング、科学者のリチャード・ダウキンス、そして作家のサルマン・ラシディーなど際最たる面々。著名な学者や作家とともに60人あまりの学生たちも参加して、狭いロンドンの街角でタッチェルはメガホンを使って言論の自由の大切さを説いた。
はっきり言って保守派の言論がイギリスの大学で弾圧されて久しい。今回のようなデモはもっと早く起きるべきだったのだが、遂にノープラットフォームが左翼リベラルの言論弾圧につながったことから人々の目が覚めたようだ。
もともとノープラットフォームは「ファシストや人種差別者に講壇の場を与えない」という建前だった。しかし、昨日も書いたように、ファシズムだの人種差別だのといった定義は決断者の独断でどんどん変化していく。たとえばモスレム野蛮人による欧州女性たちへの共謀な性犯罪について言及すると「イスラモフォビア」の汚名を着せられる。その人物が何十年にも渡って反モスレム移民差別運動をしてきた功績など完全に無視されるといったように。ファシストとかレイシストと言った言葉は、もうその言葉の本来の定義とは関係なく単に相手を沈黙させるための侮蔑語へと変化してしまった。であるからノープラットフォーム政策は単なる勢力争いの道具と成り果てたのである。
ノープラットフォームこそがファシズムそのものの方針なのである。
さて、著名人たちが立ち上がった背景にはモスレムの台頭がある。欧州のモスレム移民たちは周到に欧州の左翼リベラル思想をうまく起用して自分らの権力強化に悪用する。
タッチェルはNUSが最近イラン人で共産主義フェミニストのマリアム・ナマズィーが無宗教学生ソサエティー主催の講演を拒否されたことについて、

「イスラム過激派たちが自由に演説することは各大学で許されているにも関わらず、我々革新派が反対意見を述べることはことごとく拒否されるか規制されるかしている。

「我々は『イスラモフォビア』であるとか『憎悪を扇動している』などと歪曲した批判を浴びている。だが実際には我々こそイスラム過激派の持つ背信者や女性やLGBTやユダヤ人や穏健派イスラム教徒への憎悪に挑戦しているのだ。
「我々は偏狭心に反対し言論の自由を守る。我々はNUSや他の学生連盟もそうすることを訴える。言論の自由は人権の根本的な権利であり、守る価値があるのである。」

また、タッチェルはアメリカ創設の父トーマス・ジェファーソンが言った「悪い言論に立ち向かえるのは良い言論だ。」とも語った。
こうした大学では「安全」という言葉を歪曲して使い、大学は生徒たちにとって「安全地帯」であるべきなので、生徒たちは危険思想から守られるべきという建前を主張する。だが、たとえばチャールズ・へブドを支持するといったTシャツを着て構内を歩き回ればモスレム学生が危険を感じるという理由で禁止されても、イスラム教徒特有の服装がユダヤ人学生にとって危険を感じるから禁止すべきなどということには絶対にならない。こうした規制は常に誰が権力を持っているかで決まるのであり、公平な施行などあり得ないのである。
NUSのメーガン・ダン会長は新聞やテレビでの報道は歪曲されてNUSの目標は言論弾圧にあるかのように報道されているが、実はそれは真実からかけ離れたものだと語る。

「日ごとの現実はメディアの注目をどう集めるか長けている人たちの言っていることとは違います。彼らは学生連盟がどのように機能しどのように決断を下すのかについて語り合おうとしません。構内では毎年何千という講演が行なわれています。公開討論は学生連盟の真髄です。
「一般の学生や教授たちはピーター・タッチェルなどの著名人のような(幅広い)講壇はありません。私たちは皆私たちの意見を聞いてもらう権利があります。非常に広い講壇のある人たちが私たちを弾圧するというのは非常に皮肉です。」

自分らの独断で人々の演説の場を奪っておいて、その決断について拒絶された人々が「語り合おうとしない」といえるところがずうずうしい。また、人々に講壇を場を与えよと訴えることが「弾圧する」ということになるといえるところがさすが本当のファシストだけある。


2 responses to イギリスの著名人たち、全国学生連盟(NUS)の言論弾圧に抗議デモ

アンデルセン3 years ago

80年代から90年代にかけテレビに良く出演し、衆議院議員も務められた経済人類学者の栗本慎一郎さんという方がいます。
ハンチング帽をトレードマークにされていましたが、学会には普通のスーツに普通の頭髪(?)で普通に出席されていたそうです。理由を問われると、「あんなものは被っても被らなくてもいいんだ。ハンチング帽を被ることで相手に与える余計なストレスがある。それでまともな意見の交換ができなくなったら困る」とか。
ヒジャブにしろユダヤ教の帽子にしろ、見かけるだけで「私は○○教徒なんだ、○○教を尊重しろ、○○ルールの実行のために道を開けろ」と暗に要求されているような圧迫感を覚えます。
……もちろん尊重はしますけど、宗教が関係ない場や宗教色を持ち出してはいけない場もあるわけですが、宗教スタイルを保持され他者にも○○の流儀への尊重や譲歩を迫る方に限って、こちらへの尊重の念が欠落しているのは不思議です。
「自分」が「世界の全て」なんでしょうか。

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苺畑カカシ3 years ago

私は敬虔な宗教家が宗教に則した服装をすること自体は問題ないと考えます。ユダヤ教徒のヤマカやキリスト教徒の十字架などその分野に入ります。
ただし、イスラム教徒の場合、一般の西洋文化に則さない服装は自分たちがどれだけ宗教に服従する気があるのかという問題であり、他人に許容をおしつけるべきではないと思います。
たとえばユダヤ教徒のヤマカは取り立てて邪魔になりません。制服で帽子を被る場合でもヤマカは小さいので帽子の下に隠れてしまいます。キリスト教の十字架にしても服の下に隠れます。アクセサリーと思えば他の人のハートとかダイアモンドとたいした変わりはありません。
問題なのは、警備上の理由から顔を隠す仮面は禁止されている西洋社会で顔及び身体全体を覆うブルカを着ることを主張する女性とか、制服が規制されている職場で寝巻きみたいなイスラム教の服装をしたがる男性とか、ヘルメットを被る必要のある職場でターバンを巻くことを主張したりとか、というふうになってくると話はまるで別です。
自由国家では誰がどのような服装をしようと法律で罰せられるべきではないと思います。でも洋服の小売店のようなプライベートな職場や、制服規制のある軍隊などで、いくら宗教上の理由とはいえ自分らの勝手がまかり通ると思い込むのは非常識です。
自分らの宗教上の身勝手で他の人々のやり方を変えようとするやり方は断じてゆるされるべきではありません。

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