先日カリフォルニアはサンディエゴに住む若い両親が自分の5歳の娘はトランスジェンダーだとして男の子として育てる決意をしたという記事を読んで、そりゃ幼児虐待だと即座に思った。
ジェフ・ウィティングトンとその妻のヒラリーは5歳の娘レイランドを男の子として育てることにしたと、サンフランシスコ初の同性愛市長で暗殺されたハービー・ミルクの名前を取った第六回ハービーミルク多様性朝食会でその「勇気ある決断」を評されインスパレーション賞を受賞した。夫妻は5歳の「息子」のトランスへの「長旅」を始めたと誇らしげに語り、男の子姿で現れたレイランドも1000人の観客の前でお辞儀をして自分はトランス子供だと自慢げに挨拶した。
ウィティングトン夫妻は、自分の娘が2歳の頃に自分は男の子だと宣言したことからはじまって、レイランドは常に女の子の服装を嫌がり、男の子の活動を好んだことから、我が娘はトランスに違いないと思い込み、娘が5歳になったのを境に娘の髪の毛も短くして名前も変えて学校も変えて男の子として育て始めたという。
この親アホじゃないの?
と思うのが普通の人間の反応であるはず。娘が自分は男の子だと言ったら「あなたは女の子よ」と言ってあげるのが親だろう。2歳の幼児に男の子も女の子もないのだ。親に正してもらわなければ男女の違いなど理解できない。
だが今や極左翼リベラルLGBTに文化を占領されてしまったアメリカではそんな常識的な批判をすることさえ許されない。ウィティングトン夫妻の記事は主流メディアでは賞賛するものばかり。『夫婦の勇気ある決断』とか『トランスへのジャーニー』とか劇的な言葉使いで夫妻を英雄扱いしている。
まるで裸の王様である。アメリカメディアにはこの夫妻のしていることが幼児虐待だと指摘するものは居ないのか?そう思って色々さがしていたら、ようやく一人私と同じことを書いてるマット・ウォルシという男性のブログを発見した。
マット曰く、この年頃の子供は親の言うことはほとんど本当だと信じ込む。だから親に言われれば、太っちょの白ひげの赤い服を着た爺さんが暖炉の煙突から毎年一回贈り物を届けにくるなんて話しも簡単に信じる。
私も子供の頃よく言われたが、女の子のくせに男の子のものが好きな娘に向かって「お前は本当に男みたいだね、男にうまれてくればよかったのにね」などといったら、感性の強い子供なら親を喜ばせようとして「僕は男の子!」と言い張るかもしれない。子供にはまだ自我の確立が出来ていない。常識も理屈も通用しない。はっきり言って思春期を迎えるまで、自分が何たるかなどということをしっかり把握している子は先ずいないだろう。だから子供には想像の友達がいたり、ぬいぐるみの動物を本物のように扱ったり、自分は女の子なのに男の子の振りをしたりしてみる。そんな子供に自分をトランスジェンダーだと思い込ませるのは簡単である。
親であれば、子供なら誰でも通り過ぎる成長の過程を、なるべく子供の想像力を損なわないようにある程度の妄想は黙認しながらも、危ないときは手を貸してあげるげきだろう。子供が「僕はスーパーマン」といって風呂敷を首に巻いて走り回っているのは放っておいてもいいが、空を飛ぶといって窓から飛び降りようとしたら、親は即座に止めなければならない。
それを大の大人が子供の妄想を助長させてそれを何か勇気ある行為であるかのようにメディアで大々的に発表するというのはどういう神経なのだ?マットも指摘しているが、ウィティントン夫妻は単に娘を利用して自分らが左翼リベラルの間でちやほやともてはやされたいだけなのではないかという。これは娘のトランスというより、娘を洗脳して自分らの名声獲得に利用しているだけなのではないかと。だとすればまさしく幼児虐待である。
この間から私も書いてきたが、だいたいトランスという概念自体が、これまでジェンダーフリーを主張してきたフェミニズムの概念に反する。左翼リベラルは常々、「男とか女というステレオタイプに拘るべきではない」と主張してきた。女の子はおままごとをし、男の子だったらバレエ教室より野球をやらせるべき、といった男女のステレオタイプを子供に押し付けるべきではないといい続けてきた。
だとしたら、女の子であるレイランドがドレスを嫌がり、ズボンが好きで野球帽かぶって外で運動するのが好きだからといって、「この子は男の子なんだ」と決め付けることは、女の子を女の子としてのステレオタイプに押し付けようとする行為ではないのか?
だいたい男女の考え方や素質の傾向にはものすごい個人差がある。たとえば日本人成人女性の平均身長を線グラフで表した場合、左端の120センチくらいの人は少なく、だんだんとなだらかな線が右上がりになり160センチくらいのところが一番高くなり、その後170になってくると右下がりになり、180センチくらいではほぼひらべったくなるだろう。しかし両極端の120センチや180センチの女性も存在する。女性の平均身長が160センチだからといって、120センチや180センチの人は女性ではないなどと言う人はいないはずだ。
それと同じで、女性的とか男性的という性別的な傾向の度合いはひとそれぞれであり、ステレオタイプは単に平均的な性質を述べているに過ぎず、その平均に当てはまらない人々は男女ともに少数派ではあるが存在するのだ。
普通の女の子がおままごとを好むからといって野球やサッカーが好きな子は女らしくないというなら、オリンピックの女子選手はすべて女らしくないということになってしまう。女性は普通エンジニアなどの職種には付かないが、そういう仕事をしている人は女らしくないのか?女性が軍隊に入ったり消防士になったり警官になったりしたら女性らしくないのか?
5歳の子供がドレスが嫌いでも、おままごとが嫌いでも、だから何なんだ、と私は聞きたい。男の子がスカートをはくのとは違って、女の子がズボンを履いて学校に行ったからといってどうということはないだろう。髪の毛もショートカットが好きならそうさせてやればいい。だが、あくまで娘は女の子なのだということを親はきちんと教育すべきだ。いくら思春期前は男の子を装っていても、いずれは女性の身体になるのだから、そうなってから子供が混乱しないように常に自分は女性であるということを親はきちんと納得させるべきだ。
だいたいトランスという概念ほど自己を拒絶する不寛容な概念もない。女性の身体で生まれたからと言って社会が決めた女性の役割を果たさなければならないという義務はない。特に自由社会のアメリカではそれが可能だ。何故ステレオタイプのジェンダーに自分を無理やり当てはめようとするのか?
OK,あなたは男と感じている。だったら女に生まれながら男と感じるという人間として生きていくことのどこがいけないのだ?何故世間が認める心身ともに男にならなければならないのだ?一生男装の麗人を生き抜けばいいではないか?
自分で自分を拒絶しておきながら、社会に寛容を強制させるトランス活動家に私が怒りを覚えるのはこの点だ。しかもそれを5歳児にまで押し付けるとは、、
こんな親は親失格である。


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