昨日のエントリーに関してコメントを頂き、その返事を書いているときに、この会話は以前にも別の人としたことがあったな、と思い出した。それでもう一度以前に書いたエントリー「言論の自由とは何か?」(2・16・2008)を読み返してみた。当時書いたことと今とこの件に関する私の意見は全く変わっていない。特にモハメッドの漫画のことにも触れているので抜粋したい。だが、考えさせられたコメンターさんのコメントを紹介しておこう。

下記投稿者名: goldbug
それでもある人たちが最も大切にしている価値観でも、言論の自由のためにはどれだけ侮辱しても許されるというのも、ちょっと違和感がありますね。
確かアメリカにはウェストボロ・バプティスト教会というのがあって、イラクやアフガニスタンで戦死した兵士の葬式に押しかけて、「神様、アメリカ兵を殺してくれたことに感謝します」、「アメリカはオカマの国」、「神はアメリカが嫌い」、「911テロは神の意志」、「アメリカ兵が死んで神様は笑っている」などと、それを見た家族が一体どんな思いをするだろうかと思うようなプラカードを掲げている団体があると聞きました。さらにアメリカの裁判所はそれを言論の自由として認めてしまったとか。私などは、これも一種の行き過ぎた原理主義ではないかと思ってしまいますね。

goldbugさんのおっしゃることは非常にもっともだと思う。だが、あえて言わせてもらうならば、自分が「最も大切にしている価値観」を侮辱されたときこそ、その言論の自由は守られなければならないのだと。しかしながら、強調しておきたいのはこの点。

無論言論の自由とは自分勝手なことをいって誰からも批判されない権利という意味ではない。私が他人の気持ちを傷つけるような言動をとった場合、社会の人々から私のそのような発言を批判されたとしても文句はいえない。たとえば私がラジオのDJで、特定の少数民族を侮辱するような発言をしたとしよう。このことによって私は警察に逮捕されるべきではない。しかし、腹をたてたリスナーの人たちから苦情が殺到して、ラジオ局が私を解雇したとしても、リスナーには苦情を述べる権利があるし、ラジオ局には私を解雇する権利があるのだ。

悪意によって他人を傷つける言葉を発した場合には、法律ではなく社会が制裁すべきだというのが私の主張だ。つまりいつも暴言を吐いて失礼なことや馬鹿なことを言っているひとは、その人が所属する社会が批判するなり村八分にするなり抗議するなりすればいい。 政府が法律で口をはさむべきではない。

言論の自由という権利は個人が元来持っているものではあるが、他人の言動によって自分の気持ちが傷つけられない権利などというものは存在しない。であるから仮にそのような言動が悪意に満ちたものであったとしても、その言動によって傷付かない権利など政府が守る義務がないどころか、政府はそのようなことに口出しすべきではないのだ。なぜならそのような権利を守ろうとしたら、それは必ず言論弾圧に結びつくからである。
以前にカナダの人権擁護審議会で質問を受けていたレバント氏の話をしたことがあるが、彼が審査員から「あなたがモハメッドの漫画を掲載した意図はなんだったのか」と質問された時、彼が自分の意図は出版の自由という自分の権利を施行することであり、たとえそれによってイスラム教徒らの気持ちが逆なでされようと自分にはそうする権利があるのだと語っていた。
言論の自由とは自分が気に入った言論だけを許可するというものではない。悪意に満ちた発言で自分ではとうてい賛成できないような発言でも保証されなければ、いやそういう発言こそ保証されなければ真に言論の自由があるとはいえないのである。
「悪意のある発言は禁止する」などという法律が実際に通ったら、それこそこれは思想コントロールである。同じ言葉を使うにしても善意で使う分にはかまわないが、悪意で使った場合は法律違反などということになったら、我々一般市民は恐くて何もいえなくなる。いったい悪意だの善意だの誰が判断するのだ?政府か?人権擁護審議会か?

ちょうど日本で人権擁護法なるものが議論されていたときだったのでこういう展開になった。
多くの左翼リベラルはイスラム教に迎合することでイスラム教の魔の手から逃れられると勘違いしている。だが実はそうではない。今回のテロはフランスがイスラム教の神経を逆撫でしたから起きたのではなく、フランスがイスラム教の横暴に甘すぎたから相手が付け上がったのである。
何度も言う。イスラムは惜しみなく奪う。
軒先貸して母屋取られるである。イスラム教の横暴に屈してはならない、少しでも譲ってはならない、相手はこちらの譲歩や思いやりなどに感謝するどころか、それを我々の弱みと取ってどんどん無理難題を吹っかけてくる。彼らの最終目的はイスラム教による世界完全制覇なのだ、平和共存などあり得ない。そのことを我々は肝に銘じておくべし。
これはフランスだけの問題ではない。アメリカもそして日本も他人事のような顔をしていてはいけない。アメリカの陸軍基地フォートフッドで一匹狼のイスラム教徒による乱射事件があった際、以前から犯人のハサーンの挙動がおかしいと周りの人々は気がついていた。だが、彼がイスラム教徒だったので、やたらなことを言うと人種差別者とかハラスメントだとかいって反対に罰せられる可能性があり、誰も予防処置をとらなかったのだ。このばかげたポリティカルコレクトネスが数人の命を奪うこととなったのである。
何故我々はいつまでもイスラム教に遠慮ばかりしているのだ?他の宗教だったらこんなことは絶対にあり得ない。アメリカではキリスト教、特にカトリック教徒がさんざんひどい侮辱にあっている。クリスマスはキリスト教のお祭りだから公共施設にツリーを飾るなとか、同性愛者らがプロテスタントの教会で式をあげさせろと要求したりしている。もちろんユダヤ教は常に侮辱の的。コメンターさんがあげたウエストボロのアホ宗教についても一部の親戚親族以外の人たちは馬鹿にしきって相手にもしていない。
自分は無宗教だといって既存のユダヤ・キリスト教の教えはぼろくそに攻撃する奴らも、イスラム教だけは批判しない。それはユダヤ・キリスト教徒は頭にきても暴力で報復するなどということはしないことを無宗教家らは十分に承知しているからだ。無宗教家にとって一番の敵はイスラム教のはずなのに。
ここに奴らの偽善が丸見えになる。
なんか話がとんでしまったので、このへんにしておこう。
ところでアメリカの憲法補正項目第一条で保証されている言論及び宗教の自由だが、これを実際に守っているのが憲法補正項目第二条なのだ。その理由が何か読者諸君にはお分かりかな?


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