個人レベルでも国レベルでも、自己防衛強化に反対する人の理論は、そういう行為は他者を警戒させ、かえって自己を危険に陥れるからだという卓上の空論に収まる。確かに日本が武装強化することを声高に抗議する近隣諸国は存在する。だが、これらの国々が何故そう日本を弱いままにしておきたいのか、その動機を考えた場合、彼らの理屈を日本人が素直に受け入れるというのは不思議でしょうがない。
日本には軍事独裁政権とか富国強兵の帝国主義の歴史があることは確かである。だが、それをいうならどこの国も皆似たようなものだ。イギリス、ドイツ、フランス、スペイン、ロシア、など、当時は皆同じことをやっていた。何も日本だけが特に悪徳非道な帝国主義国家だったわけではない。では、何故日本だけが軍事強化をしてはいけないということになるのか?それについて古森さんのブログで面白いことが書かれていた。

日本は国際社会のモンスターなのか。いつまでも鎖につないでおかねばならない危険な犬なのか」――。

 米国の学者が日本の憲法上の自国防衛への制約について述べた言葉だった。この言葉はいま現在、日本で展開されている集団的自衛権の行使容認をめぐる議論への考察にも当てはまる。日本の防衛や憲法への日本自身の姿勢が外部の目にどう映るかという指針である。
 集団的自衛権は、自国の防衛や安全のため、あるいは国際的な平和維持や侵略阻止のために、他の国家と連帯して軍事行動を取る、という権利である。現在、日本以外のすべての主権国家が保有し、行使できることになっている(略)
  しかし日本だけはこの集団的自衛権を「保有はしているが行使はできない」と見なしている。その理由は、憲法第9条だとされる。 (略)
日本国内における集団的自衛権容認を巡る議論を見ると、反対派からの「暴走を防ぐ」「歯止めをかける」「危険を防止する」「前のめりを阻止する」というような表現が目立つ。
 では、それら「危険」「暴走」「阻止」「前のめり」といった言葉の対象は誰なのか。それは日本自身なのである。(略) 
 これは、日本が日本自身を信用していないことを意味する。日本は、集団的自衛権の行使を解禁すると、外部に対しての危険な侵略や攻撃をすぐに始める、という認識である。
 国際的見地からすれば、主権国家が自国の防衛を考えるときに、まず最初に自国を潜在脅威、潜在危険と見なし、その自国の防衛能力をがんじがらめに縛ろうとする、というのは、なんとも異常な行動と言うしかない。

以前にも拙ブログのコメンターさんが、日本が武装強化したら必ずや軍国主義になると断言した人がいたが、昔そうだったからといって現代の日本が必ずしもそうなると考えるのはそれこそ時代遅れというものではないだろうか?
確かに軍事独裁主義を求める輩は日本にも居るだろう。自分の政治的権力を強化するために、軍隊を悪用しようとする政治家が現れる可能性がないとは言わない。だがその歯止めとなるのは、憲法9条ではなく、現役軍人による政治介入の禁止をしている憲法の項目であるはず。
いい加減に日本人は憲法9条だけに拘るのはやめて、もっと現実を見直すべきだろう。


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