先日、ツーサンの乱射事件で無くなった方々への追悼式が行われたが、追悼式にしては、あまりにも騒ぎ過ぎの参加者の態度に私はかなりむっとした。最初に出て来た地元インディアンの祈祷師が犠牲者に対する祈祷をする前に、何を勘違いしたのか自分の祖先がメキシコから来たとかいうどうでもいい話を長々とやりだし、それに反応して参加していた学生達がいちいち歓声を上げたのも不愉快だった。
犠牲者の六人はほぼ全員がカトリック教徒だったのだから、ここはカトリックの神父さんにでも来てもらって、祈祷を捧げてもらった方が適切だったのではないか? 何故こんなところに場違いなインディアンの祈祷師なんぞが出てくるのだ?
ま、それはいいとしてもだ、肝心のオバマの演説はどうだったのかというと、YSジャーナルがすっかり私の言いたい事を言ってくれてるので、引用する。

まず、スピーチが長い。(35分)亡くなった方へのトリビュート、容疑者逮捕や救急活動等の英雄的な活躍をした普通の人々への賛辞、そして撃たれてから始めて目を開いたガブリエル・ギフォーズ下院議員の回復具合の発表。事件を政治化して大騒ぎする人々へ冷静になるようにする呼びかけと言いたい事がてんこ盛りなのは分かるが、もう少し抽象的で短い方が良かったと思う。

会場がアリゾナ大学のスタジアムなので学生の参加者が多かったのか、オバマ大統領登場の時に既に歓声が上がっていた。オバマ本人も最初は戸惑い気味であったが、スピーチ途中で議員が目を始めて開けたと言う発表で大いに盛り上がってからは、メモリアルサービスがオバマの演説会に変貌していった。
(略)
今回の事件を政治化せず対話を進めようと呼びかけていたが、何の根拠もなく、保守系やオバマ就任以来の政治環境を事件の背景として非難し始めた張本人は、担当の保安官であり、その尻馬に乗ったのは民主党議員やリベラルであった事を考えると、民主党のトップであるオバマはただのマッチポンプ男だ。
(略)
オバマの価値観、死生観が滲み出る様な深い言葉を紡ぐ事は出来なかったのだろうか?

オバマは演説がうまいということになっているが、私はオバマ王の演説に感動したことはない。だいたいいつも的を射ない話を長ったらしく、だらだらするという印象がある。私には全く理解できないのだが、オバマ王の批評家の間でも頭が良くて演説がうまいということになっている。マーティン・ルーサー・キング牧師のようにすばらしい演説家だと言い張る人もいる。だからオバマ王の演説力に感心していないのは私くらいなのかなと思っていたのだが、YSさんの批評を読んでちょっと安心した。
はっきり言って、これはオバマの政治演説の場ではなく、あくまでも死者への追悼が目的だったはず。オバマ王一人の責任ではないとはいうものの、あんまり観客の歓声を煽るような態度は不適切だったと思う。これではまるで大統領再選にめがけての選挙ラリーのようだ。
リベラルメディアはこぞってオバマの演説を絶賛しているが、保守派の間でもまずまずの評価だった。私には何がそんなに良かったのかさっぱりわからないのだが。
それに比べて同日の朝、追悼式の数時間前に、左翼リベラルが毛嫌いするサラ・ペイリンが事件についてフェイスブックで発表したビデオ演説は、時間も8分と短く簡潔で非常によかった。内容も的を射ていてオバマ王のだらだら演説よりもずっと大統領的な演説だったと思う。
ペイリンの演説を訳すのは大変なので、誰か日本語で書いてくれてる人はいないだろうかとグーグル検索してみたら、ペイリンを悪く言うサイトばかり。しかも、保守派も感動させたオバマの演説に比べ、ペイリンが失言したとか頓珍漢なことを書いてるものが多い。ニュースウィークのこれなんか典型だ。

(前略)オバマは「責任をなすりあうのではなく、団結して品位あるデモクラシーを実現しよう」「(殺された9歳の少女が)夢見たようなアメリカにしよう」と、選挙戦当時のオバマに戻ったような熱のこもったスピーチを展開、会場だけでなく保守派のFOXニュースの解説委員たちをも感動させるという結果で、政治的にも成功しています。

 一方のペイリンは、この集会に先立って水曜朝にフェイスブックにビデオメッセージを寄せて沈黙を破ったのですが、髪型を変え、相当練習した形跡があるものの、自分たちへの政治的非難に対して反論してしまったスタイルが共和党系の人々からも猛反発を受けています。「アリゾナの事件はペイリンのカトリーナだ」という言い方もされ始めていますし、超党派での追悼集会が大成功だっただけに、余計に「利己的なペイリン」の孤立が浮き彫りになっています。

悲劇を利用して個人的に攻撃されたのだから、向けられた批難に反論して何が悪いのだと私は聞きたい。だが、ペイリンの演説を全部聞いたが、「利己的なペイリン」などという印象は全く受けなかった。日本のニュースサイトはどれもこれもペイリンの演説を批判しており、まるでニュースウィークを翻訳しただけといったものばかり。記者が独自に演説を聞いてもいないようだ。ここはひとつ、面倒でも私が真実を書いておく必要があるだろう。
ペイリンの演説の主題はアメリカが逸脱した偉大な国である基盤には、誰もが自由に平和的に違う意見を交換できるという言論の自由があるということだ。ペイリンが批難しているのは、こういう悲劇を悪用して違う意見を憎悪を掻き立てているとかいう、根拠のない言いがかりをつけて弾圧しようとする行為である。ペイリンはこういう時こそ感情に負けて安全のために自由を放り出すような行為にでてはならないのだと警告しているのだ。
では、ペイリンの演説の内容について説明しよう。いつものことだが、忠実な訳というより概要だけの訳なのであしからず。
ペイリンは最初に、土曜日に起きたアリゾナの悲劇的事件の話を聞いた時、何百万というアメリカ人同様自分も非常な悲しみを覚えたこと、どのような言葉も身内を失った家族の方々の心を癒す事は出来ないだろうが、家族の方々に同情の意を表したい、とし、前日に行われたカトリックの美しいミサによって、犠牲者の家族も国も心を癒しはじめてほしいと、犠牲者の冥福を祈った。
そしてペイリンはアメリカが他の国と逸脱した国家であるのは、違う意見を平和的に交換しあうことであり、その共和国の真髄である権利を施行していたギフォード議員とその支持者による平和的な集会において、たった一人の悪者が市民の命を奪ったことは許し難いとした。
しかしこういう悲劇の際には、アメリカ精神が一番輝く時でもあるといい、生存者の生命力、犠牲者に寄せられた暖かい応援、そして現場で犯人に飛びついた英雄的行為についても短的に語った。
ここでペイリンはここ数日間でされたペイリンを始め保守派に向けられた無責任な言いがかりに話題を変える。

レーガン大統領はかつて「我々は法律が破られる度に法を破ったものよりも社会に責任があるという考えを拒絶せねばならない。いまこそ一個人がそれぞれの行動に責任があるというアメリカの教えを取り戻すときである。」と言った。凶悪な犯罪行為は独立している。その行為はその犯罪を犯した犯人に始まり犯人で終わるのであり、その政府や市民の集団責任でもなければ、トークラジオを聞く人々や双方の政党で使われた中庸な選挙区を表す地図でもない、法に従い米国憲法修正第1条である言論の自由を選挙運動で施行している市民や、先の選挙で誇りをもって投票した市民でもない。

ペイリンはアメリカの民主主義の良さは、意見が違うもの同士が激しく意見を討論し合えることにあるのだと強調する。二年前の選挙ではオバマの政党が勝ち、今回は共和党が勝ったが、激しく選挙で闘った後は、握手をして意見の違うもの同士がDCで協力しあい、共通点を見いだして行く。そして意見が別れればまた討論する。それがわが共和国の強さなのだと。

特に、悲劇が起きた数時間のうちに、ジャーナリストや批評家達は根拠のない言いがかりをでっちあげるべきではない。それこそ彼らが批難すると称する憎悪や暴力を煽ることにしかならない。まったくけしからん行為だ。

明らかに政治色などない気の触れた行為に対して、政治的な言葉使いが原因だという人がある。そして落ち着いた政治討論は最近熱が入りすぎだという。だがいったい何時政治討論は落ち着いていたと言うのだ、意見の違いを決闘で解決した時代か?我々の創設の父たちは完璧な人間のためのシステムを作ったのではない。人々が完璧な天使なら政府などいらない。創設の父たちの偉大なところは、我々の不完全な情熱を平和的に解決していく組織を設計したことにある。であるから我が共和国の生存のためには断じて暴力は批難しなければならない。

またペイリンは「銃を持て」という表現は「投票せよ」という意味であって実際に銃を持って撃ち合いしろという意味ではなかったことを再び強調した。意見の違いを平和的に投票場で解決する、それがアメリカの逸脱したすばらしさなのだと語る。

平和的に異見を述べる権利は妨害されてはならない。悪を善と呼ぶ人々によって言論は弾圧されてはならない。

そして我々は我が国の偉大さと根本的な自由を祝福することを、その偉大さを馬鹿にし、違う意見に不寛容で、勝手に想像した侮辱を理由に騒ぎ立て、相手を黙らせようとする者達によって阻止されたりはしない。

ペイリンは数日前に、ギフォード議員が議会で憲法修正第1条を読んだが、議員はこれが単なる象徴ではないことを知っていたはずだという。そして、そのあと一週間としないうちに、別の下院銀が侮辱的な言語は規制されるべきだと提案したことを指摘。
こういう時こそ我々の価値観が試されるのだ。911が安全と自由を交換すべきか試されたように。今日もまた我々は試されている。
最後にペイリンは再びツーサンの犠牲者と生存者にたいして祈りを捧げようと呼びかけた。そして神に我が国の平和と導きを祈ろう。我々には突発的な暴力行為によってお互いに争わない強さが必要だ。そして、それを口実に地盤を弱めたり討論を抑制するようなことがあってはならないと強調。
そしてアメリカはこれからも、意見が違っても平和的に討論をし協力しあうことに勤めるべきだと締めくくった。
ところで、ペイリンが「根拠のないいいがかり」という意味で使った”Blood Libel”の語源がユダヤ教弾圧の歴史にあることから、この言葉の使用は不適切で、ペイリンの無知をさらけ出した失言だと報道しているバカがいる。
ユダヤ系家庭に育ったミスター苺も、それをいうならリベラル弁護士で有名なユダヤ教学者のアラン・ドーシュイッツ氏も、これは根拠もなく相手を中傷する行為という意味で広く色々な場所で使われており、ペイリンの使用は不適切ではないと弁護している。
内容でペイリンに反論できずに、こういうくだらないことで挙足取りをするしか能がないアメリカメディア。それをまた素直に自らの取材もしないで焼き直し記事かいてる日本のメディア。全く情けない。


5 responses to オバマのだらだら演説に対しペイリンの簡潔明快な演説

mhgt13 years ago

カカシさん、
私もYSジャーナルは愛読してます。
私もプログにも、あの追悼式を見始めたとき、歓声(?)に場違いと嫌気が差し、チャンネル変えた…って方もいました。
私の夫は、イリノイ出身ですから、元々がリベラル指向がありますが、最近のリベラルは、常識が無いって言ってます。
追悼式らしく、プライベートに何故挨拶できなかったのだ?って所が、やはりオバマらしいパフォーマーを感じますね。
同じ時に、彼のお膝元のイリノイの州の所得税の上乗せが、トップニュースになったのが1日も無かった。次の日には、この税金上乗せ、話にもなってないくらいに、皆オバマの演説しかメインで報道されてないのには、驚きです。

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Sachi13 years ago

マックさん、
私もあのメディスンマンの挨拶が始まった時に、嫌気がさして書斎に引っ込んでいたのですが、しっかり観ていた主人から「大統領がしゃべるぞ〜」と言われて呼び戻されてました。
でもYSさんもおっしゃってるように、あんまり長いので非常に退屈しました。
メディアがオバマの演説を褒めちぎっている最中に、国土安全保障省のビッグシスターは国境のバーチャル壁の電源を切ったそうですね。これでまた違法移民が流入が予測されます。
カカシ

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ysjournal13 years ago

カカシさん、初めまして。YSJournal です。
私のプログからの引用ありがとうございました。「苺畑より」、ちょくちょく読ませて頂いておりましたが、サインインが億劫でコメントもしておりませんでした。
先日のツイッターのやり取りのエントリーで、カカシさんのファイティングポーズに感銘して、ご連絡もせず、勝手にブックマークに貼らせていただいきました。
このブログは、私が感じたり、思っているたりしているが、書かない(書けない?)様にしている事を、ズバッと表現されているので、カタルシスを感じる事が出来ます。非常に感謝しております。
これからも楽しみに読ませて頂きます。

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Sachi13 years ago

YSさん、わざわざ登録していただいてありがとうございます。
YSさんのブログは最近発見してアメリカ在住で私と同じような考えの人がいると知って喜んでます。
アメリカに住んでる日本人が必ずしもリベラルではないということを、ニューヨークリベラルの連中は解ってませんね。だいたい自分たちがリベラルに囲まれているから、ステレオタイプの保守派像しか持っていない。
彼らはアメリカに住む日本人がリベラル以外の考えを持つとか、ましてや保守派になれるなんて信じられないって本気で思ってるんですね。
私から言わせたら、これだけ多種多様な人種が住む個人主義の国に住んでいながら、そんなふうにしか考えられないことのほうが信じられないんですが。
これからもよろしくお願いします。
カカシ

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momo13 years ago

冷泉さんはオバマに恋しちゃってますからね。私もオバマが辛気臭い顔してだらだらしゃべるのが嫌いです。マスコミのペイリン批判は無茶言ってるなという印象です。

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