真実の愛、それはそのまっただ中にいると気がつかないことがある。本当の幸せと言うのは、「あ〜ぼかあ〜しやわせだな〜」と実感することよりも、後になってみて「ああ、今思うとあの頃は幸せだったんだな。」ということのほうが多いのかもしれない。
本日はシリーズ四段目で最終回のシュレック4についてお話したい。日本での公開は2010年12月18日だそうだ。
シュレックも子持ち男になって早くも一年。子育てに忙しい毎日。妻のフィオナとロマンティックな時間を過ごしたくても、ロバや長靴を履いた猫が朝早くから夜遅くまで毎日のように訪れてはどんちゃん騒ぎ。こっちの迷惑などまるで念頭にない。観光客を乗せたバスがシュレックの家を観に定期的に訪れるから、ゆっくり泥風呂にもはいってられない。
そんなある日、子供たちの誕生会で村人の子供から雄叫びのリクエストを受けたシュレックはついに堪忍袋の緒がきれてしまう。子供の誕生日を台無しにして、愛妻フィオナとも大げんか。
フィオナからお説教をうけてむしゃくしゃしながらパーティ会場を後にしたシュレックは思う。ああ、昔は自分は恐れられていたものだがなあ、町に繰り出せば人々は恐れおののいて逃げ惑った物だ。あの頃はよかったよなあ。一日でいいからあの頃に戻りたいなあ。
そんなシュレックの前にランプルスティルトスキン(Rumplestiltskin)という小悪魔が現れる。スティルトスキンは、シュレックの望む一日をあげるから、交換にシュレックの過去の一日をくれないかと提案。「いいさ、過去の一日くらい、好きな日を選んでもってけよ。」と気軽に契約書に署名してしまうシュレック。
だが、シュレックが望んだ、オーガが人々に恐れられる世界とは、シュレックが存在していた世界とは根本的にどこか違う。ロバとも猫とも出会っていない、ましてやフィオナと恋に落ちた事実もない。なぜならシュレックが望んだ一日と引き換えにした過去の一日とは、シュレックの生まれた日だったからである。シュレックが生まれなかった世界での一日。日没までにまだ出会ってもいないフィオナの真実を愛を得られければ、シュレックの存在は永遠に消滅してしまう。どうするシュレック、時間がないぞ。
結婚してしばらくたった誰でもそうかもしれないが、シュレックもまた、妻フィオナの愛情を当たり前のように感じ始めていた。日々の忙しさにかまけて、子育ての大変さにめげて、大事なものを見失っていた。それを小悪魔の策略で失ってみて初めて自分の持っていたものの価値を知る。
この映画は、シュレックがシュレックのことを知らないフィオナとキスを交わせばそれで済むというような単純な内容ではない。実際にフィオナがシュレックを愛さなければ小悪魔の魔法は解けないのだ。
新しい次元の世界で出会ったフィオナは、閉じ込められていた塔からシュレックに救われたか弱い御姫様ではない。なにしろシュレックが存在しない世界だからフィオナはシュレックに救われるというわけにはいかない。待って待って誰も助けに来てくれなかったという過去のある彼女のもとに、とつぜんシュレックが現れて、「我こそがそなたの真の愛じゃ」てなことをいってもビンタを食らうのが関の山。たった一日でフィオナの愛を射止めるなんてそう簡単にはいかない。
話の設定は、クリスマスの時期によくテレビで放映される昔の映画、ジミー・スチュワート主演の「イッツ ア ワンダフルライフ (すばらしき人生)」と同じ。もしも自分がこの世に存在していなかったら、自分の回りの世界はどう変わっていたか、というアルターネートヒストリーのSF物語といったところだ。
いつもながら、おとぎ話のキャラクターをうまく起用しているところは傑作。
ロバとシュレックの掛け合いは飽きがこない。第一作の時はエディー・マーフィーのロバは煩く感じたが、回を追うごとにキャラクターに味が出て来た感じがする。アントニオ・バンデラスの猫も、今回はちょっと中年太り過ぎのせいか、いつもの潤う目もちょっと効果が薄いよう。ランプルスティルトスキンの手下の魔女たちは、明らかにオズの魔法使いの魔女で水は天敵。最後のほうはエロル・フリンのロビンフッドを思わせる。
妻の愛、大切な子供達、そして友情。失ってみて初めて解るその大切さ。シュレックはアニメとは思えないほど奥が深い。そのほのぼのさに思わず泣いてしまった。
自分の生活がマンネリ化してる人に希望を与える心温まる映画だ。是非おすすめ。


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