男女共同参画という政策にはジェンダーフリーという概念がついて回る。あたかも性別を無視することによって男女平等が実現するかのような不可思議な思想だ。しかし現実には、ジェンダーフリーとは私が当初考えていたよりもずっと悪質な概念であることが最近になってわかってきた。

真実のジェンダーフリーとは男女平等だの女性救済のための思想などではなく、文明社会の基盤となる一夫一婦制という男女間の関係を破壊し、我々の自由社会を根底から覆えそうという恐ろしい概念なのである。この思想は我々が一番大事にしている道徳観や価値観や信仰を嫌い、個人の自由を迫害する全体主義の左翼思想だ。

ジェンダーフリー推進者の真の目的は、人権擁護法が特定の少数派が特権階級となるために提案されているのと同じように、自分達の変態的な性嗜好を一般社会に強制的に押しつけ、伝統的な社会を破壊した上で自分達が理想とする変態社会を作り上げ、ファシストよろしく自分たちがその社会をコントロールしようというものなのだ。

カカシはジェンダーフリー推進者の本質を暴くことによって、この概念がいかに邪悪なもので、我々の愛する自由社会を脅かす非常に危険な思想であるかを証明していきたいと思う。

そこで先ず、今回はジェンダーフリーを押し進める人々とは、いったいどんなひとたちなのか、という話から進めてみたい。


自分が男か女か答えられない人たち

カカシ:あなたをレズビアンといったのは、あなたが自分のことをクィア(同性愛者)だといったことと、あなたは女性であると思ったからですが、違うんですか?

小山エミ:クィア=同性愛者、ではありません。いまさらあなたにあれこれ説明してそれを理解してもらおうとは思いませんが、同じではないことだけはご理解ください。

上記の会話は小山エミとの会話の一部である。

「彼女」が聞かれてもいないのに、自分のことを「クィア」だと言ったことについて私がした質問と「彼女」の返答だ。

この後に他のコメンターの人が「上記の質問は小山さんが同性愛者であるかどうかということではないでしょうか?」と質問しているが、実はそうではない。この「違うんですか?」という質問にはコメンターさんが考えた「あなたは同性愛者じゃないんですか?」という質問の前に「あなたは女性じゃないんですか?」という質問が含まれているのである。小山は無論そのことを察知した上で、そのどちらの質問にも答えていない。

自分が同性愛者かどうかという質問に答えるためには、自分が男か女かという質問に答える必要がある。しかし「彼女」にはそれができないのだ。その理由は下記のとおり。

エミコヤマの性別は何? エミは以前この性別とかあの性別とかで自己の確定をしたり、時には性別は無しとまで言ってました。でも最近はそういうことには疲れました。一時期は「ジェンダークィアー」で説明がつきましたが、それが特に確定なしだった頃はよかったのですが、「ジェンダークィアー」と確定する人たちが使うようになったため、これにもあてはまらなくなりました。

今日、エミは特にどの性別という自己意識はありません。しかし全く無性別という性別に強く同調しているという訳でもないのです。正直な話、彼女は自己確定があること、特に性別による自己確定をするということ自体、なんか奇妙だと思うのです。彼女が自分をどう見るかは、彼女の内側にある自身というものよりも、彼女の周りの人たちとの関係ややりとりによって判断されるといったほうがいいと思います。ーーーエミ・コヤマの英語版自己紹介より

小山にとって自己というものは存在せず、彼女の存在は彼女の周りにいるひとたちが彼女にどう反応するか彼女をどう見るかによって決まるというのだ。だから人間としての基本ともいえる性別さえ彼女には確定することが出来ないというのである。自分の自我を他人の目に映った反映でしか確認できない人間とはなんと悲しく情けない存在であろうか。

どうりで小山は個人という単位を軽視するわけである。自身の価値を見極めず、常に全体の中でどこに自分が位置しているかということでしか自分の価値を見いだせないという考え方こそ社会主義(左翼)の根本的な思想である。そのミス左翼のお友達の自称変態人間は自分の性別についてこのように語っている。

セクシュアリテイをイエス/ノーで答えられると思ってる人ってものすごくストレートな感性をお持ちだと思う。答えられる人もいるだろうけれど、それはあくまで一部の人だ。

いや、簡単に考えればすぐ分かる事じゃない?晴れのち曇りみたいに「今日は女だけど昨日は男」みたいな人もいるわけだから。そんな人に「貴方の性別が、男(女)であるのかどうか、YES/NOで答えなさい」と聞く事で「いつも必ずどちらか」であることを求めるのは、無茶ではないか。ーーーノダダ腐男子より

カカシは子供の頃から女子か男子かという質問には色々な場所で答えてきたが、その質問が無茶だと思ったことは一度もない。これは自分の生年月日や親の名前などと同じようにごく普通の個人情報だと思って生きてきたのだが、ジェンダーフリー推進者にはそんな常識も通用しないらしい。

自分達を変態と呼んではばからないひとたち

小山エミは自分のことを「クィア」であると断言した。しかし自分が何であるかを確定しない小山が使う言葉は注意して読む必要がある。私としてはなるべく日本の読者に分かりやすい訳として「変態」という言葉が一番適切であると考えた。

クィア(名詞)とは普通の英語では1)変態 2)同性愛者(特に男性同性愛者への侮蔑語として使われる)という意味ですから、エミさんが同性愛者ではないと言い張るなら、今後私はエミさんを左翼変態フェミニストとお呼びするより仕方ないですね。ご本人がそう主張なさってるのだから、Who am I to argue?

これに対して小山はもちろん私の解釈は間違っていると主張している。

あなたの理解が不十分です。わたしは何を言われても平気だけど、そんな中途半端な理解で人のセクシュアリティをあれこれ言うと失礼に当たるのでお気をつけください。それぞれの言葉がどう使われているのか知らないし理解するつもりもないのであれば、ある人がゲイだと言えばゲイ、クィアだと言えばクィアという具合に、相手の言った通りを尊重するのが一番だと思いますよ。わざわざ「左翼」とか「変態」とか相手が言ってもいない言葉に言い換えない方が無難です。

いや、自分は理解する意志はあるぞと言うのでしたら、先に紹介した「クィア・スタディーズ入門」をよく読んでください。

というのでそのクィア・スタディーズの説明を読んでみると、、、

クィアをとてもうまく説明したものに、“Anything that is not straight(ストレートでない者はすべてクィア)”という表現がある。ストレートは、「真っすぐ、まっとうな」の意。とすると、クィアは「まっとうではない」ので、そういう意味では「変態」という日本語がいちばん近い。(強調はカカシ)

つまり、クィアとは、自分はまっとうなものとは違う、という差異を示す言葉であって、どう違うかを示す言葉ではない。違いの内容に言及すると、なにがまっとうかを認めてしまうことになるから。中身の違いを言わずにただ「違う」とだけ主張するのがクィアだから、究極的には態度の問題であるといえる。クィアとは、「自分たちはまっとうじゃないよ」という態度のこと。…

したがって、クィアとは特定のグループを指す言葉ではない。ましてや、同性愛者やバイセクシュアル、トランスジェンダーやトランスセクシュアルを指す用語でもない。原理上は、「自分はまっとうじゃない」と言えばだれでもクィア。なにがまっとうかまっとうじゃないかは決めない。そんな線引きはせずに、みんな変態でいいじゃないか、という感じ。だから、クィアとはある意味、非限定的な言葉。いろんなものを含む包括的な用語概念。ーーーミヤマアキラ著クィア・スタディ入門(2)より

私は小山に

あなたは常に『私は〜じゃ、ありまえせん!』とはいうけど、『私は〜です!』といはいいませんね。つまり相手にいつまでも『左翼ちゃんて何なんだろう?』と想像させ、『あなたは〜なんですね?』というと、『違います!』と主張するだけで、では何なんだという質問には絶対に答えない。

と言ったことに対して小山は、

クィアだって書いてるじゃん。あなたが回答を理解できないからといって、「絶対に答えない」などとすり替えるのは不誠実ですよ。

と反撃したが、上記の説明を読むとカカシが言った通り「クィア」とはあえて訳すならば「変態」が一番近いが実は「非限定的な言葉」だとある。つまりカカシが最初から指摘している通り、小山は自分がなんであるかをはっきり確定することをあくまで拒む人間なのである。だからこそ常にジェンダーフリーの本質を一般市民から隠し通そうとしている推進者の代弁者としては理想的な存在だろう。ちなみに小山が自分のブログで推薦しているノダダ腐男子もクィアは変態という意味だと書いている。

そんな自分にとってYES/NOでセクシュアリティを問われる事は、答えられない問いを突きつけられるようなものだ。だからこそ、私にとってクィア変態、あるいはオカマというのは自己説明に便利なものだ。ーーーノダダ腐男子

自分達の間では自分達を「変態」といってはばからない人たちが、外部のものからそれを指摘されると、その元の言葉が一般社会でどういう意味で使われているかを理解しているので、そういういい方は「失礼にあたるのでお気をつけ下さい」などと白々しいことを言う。これはカカシがせんだって左翼の二枚舌を見抜く方法で説明した通りの手口である。

ジェンダーフリーは性別抜きという意味
英語でこういうふうに「フリー」と言う言葉を使った場合、「〜抜き」「〜無し」という意味になる。「フリー」には「解放する」という意味もあるが、そういう意味で使うなら「フリーフロムジェンダー(Free from gender)」といういい方の方が適切だろう。しかしどちらにしても、ジェンダーフリーとは性別抜き、もしくは性別解消という意味だと解釈するのが適切である。無論これは別に私独特の考え方ではない。

ジェンダーバイアスからのフリー」は、それをとことん追求すれば自動的に「ジェンダーレス」の追求になってしまうような構造になっているのです。「ジェンダーバイアスからのフリー」と「性差否定」とは、もともと連続しているもので、両者の間にはあらかじめ明確な境界線が存在しているわけではありません。ーーー神名龍子

ジェンダーフリーはジェンダーレスと違うと言うが、ジェンダーフリーの提唱者で、男女共同参画社会基本法の理念作りに中心的役割を果たした大沢真理・東大教授は、「ジェンダーからの解放=ジェンダーそのものの解消」とはっきり書いている。ーーーBruckner05

これに対して小山はお決まりだが、Bruckner05さんが大沢教授のいったことを誤解していると主張する。

これは、大沢さんがどういう意味で「ジェンダーそのものの解消」と言ったのか、Bruckner05 さんが理解できていないだけ。ジェンダーというのは辞書的には文化的・社会的な性役割や「男らしさ/女らしさ」といったものを指す価値中立的な言葉だけれども、現実にそれは一種の規範として強制力というか圧力を持つわけ。ジェンダーフリーの立場は「性役割の強制はよくない」「男らしさ・女らしさの強制はよくない」というものだけれど、強制力を伴わない「ジェンダー」というのは実質的に考えられない。(強調はカカシ)というか、辞書的な定義はともあれ、現実には強制力を伴う規範的なものが「ジェンダー」として認識されるわけ。大沢さんが「解消」するべきだという「ジェンダー」は、このような規範のことであり、また性別という差異にことさら大きな意味が与えられ違った扱いの理由とされる社会的構造のことでしょ。

大沢真理の「ジェンダーからの解放」という概念は同じフェミニストの間でも誤解を生む解釈であるとしてかなり批判を得ているので、小山がBruckner05さんの解釈が間違っていると主張するのはいつもながら不誠実である。しかし実は小山は大沢真理の本音に完全に同調していながら読者をだまそうとしている。これを左翼の二枚舌で分析してみるとよく分かる。

建前:ジェンダーフリーとはジェンダーレスという意味ではない。
条件:ただし社会によって強制された性別は除く。
満たされない条件:強制力を伴わないジェンダーは実質的には考えられない。
本音:ジェンダーフリーとはジェンダーレスという意味である。
上記の神名龍子さんもジェンダーフリーの本質をついてこのように語る。

ジェンダーフリーやその元になったフェミニズムでは、「男らしさ」や「女らしさ」というジェンダーは歴史的・社会的に作られたものであり、それを個人に押し付けられるのだと考える。それと同時に、人間は誰でも皆、その人に固有の「自分らしさ」をもっていると考える。ジェンダーが押し付けられることによって「自分らしさ」が抑圧されると考えるわけだ。

しかし、ジェンダーフリーでは最初から「ジェンダー」をネガティブな意味でしか扱わないため、本当にジェンダーが「自分らしさ」と相容れないものなのかということが検証されていない。それは、ジェンダーフリー思想の中では疑うことすら許されない「真理」なのである。また、本当にジェンダーを知らずに成長したら「自分らしさ」が発現するという実験も存在しない。強いていえば、狼に育てられたという野生児姉妹の話があるが、彼女達は、ついに人間としていかなる可能性を持つこともなく、その短い生涯を終えた。

1960年代後半から1970年代にかけて、子供たちを対象に中性的な教育をするのが一部の過激派左翼の間で流行ったが、その結果は悲劇的なものだった。男の子と女の子を育てたことがある親なら誰もが知っていることだが、男の子と女の子は全く違うのである。男の子はお人形を与えられてもお人形をトラックのように「ぶーぶー」とやって遊ぶし、女の子はトラックの上にコーヒーカップを乗せてままごとをやりはじめる。

私が思うに、本気で性別解消を唱える変態の存在は女性優遇社会を目指すジェンダーフェミニスト達たちにはかなり迷惑な存在だろう。この山口智美のサイトなどを読んでいるとその葛藤が理解できる。

大沢真理は、ビジョンとプランの目的は「ジェンダー・フリー」の実現であり、ジェンダーそのものの解消、すなわち「ジェンダーからの解放」を意味すると解説している(「21世紀の女性政策と男女共同参画社会基本法」ぎょうせい 1998)。… 加えて、「ジェンダー」には「社会文化的に与えられた役割」としての意味の他に、「アイデンティティ」としての意味もある。この意味からいえば、「ジェンダーからの解放」という表現は確かに変だ。私が自ら選んで、「女」として「女性解放運動」に関わることもできなくなるかもしれない。

また、「ジェンダーからの解放」という概念は、「ジェンダーにとらわれない」という意味での「ジェンダー・フリー」と同様、性差別を積極的に解消するために女性を優先的に採用するなど、ジェンダーに着目した政策であるアファーマティブ・アクションやクオータ制などにつながりにくい。こうした暫定的特別措置が未だにほとんど実行されていない日本の現実を考えると、事態は深刻だ。

この大沢真理が使う「ジェンダー・フリー」と、東京女性財団版の「心や文化の問題」としての「ジェンダー・フリー」とは明らかにズレがある。大沢が「ジェンダーからの解放」を実質上は政策・制度面で「ジェンダー・バイアスをなくす」という視点で捉えているのに対し、東京女性財団版では人々の意識の問題が強調され、制度・実践面に応用される場合に関しても男女の区別(例えば持ち物の色分け、男女のグループ分け、学校での活動における男女のちがいなど)の解消という点に重点が置かれている。…

アメリカの学者の権威を借りて、「ジェンダー・フリー」という概念を誤読に基づき曲げて紹介し、誰も原典を確認せず、意味のズレが生じても批判も議論もないままに広めた学者の責任は重大ではないか。今こそ、この概念について、しっかり議論や批判をしていく必要があるのではないか。学者の権威を利用しつつ、「ジェンダー・フリー」を推進してきた行政の責任も、問われるべきだろう。ーーー山口智美

山口が理解できないのは、日本でジェンダーフリー推進者たちの目的は女性優位な社会をつくることではないということである。推進者たちは米国学者の説を間違って解釈したのではなく、意図的にわい曲して米国学者の説だと言うことにして、その権威をふりかざしているに過ぎないのだ。山口にはジェンダーフリー推進者が本気で性別解消を唱えているという事実が信じられないのである。

山口はいまでは古くなったジェンダーフェミニストであり、自分が女性であることを十分に自覚し、女性優位な社会を目指している「まっとうな」人間だ。カカシにいわせれば、女性に生まれながら男性が嫌いで女性が好きだというレズビアンも男性の同性愛者も「まっとう」な人間だ。なぜならこれらの人々は自分の性別も性もきちんと把握しており、自己の確立をきちんとして完成させたひとたちだからだ。私はジェンダーフェミニズムには全く賛同できないが、現存する社会のなかで自分達の立場を優位にさせたいという考え方はごく自然であり、賛成はできないが理解はできる。しかしジェンダーフリー主義はそれとは似て非なるものである。

今やフェミニズムは、かつて男女機会均等主義のエクイティーフェミニストたちが女性優位主義のジェンダーフェミニストに乗っ取られたように、今度はジェンダーフェミニストたちからジェンダーフリーを唱える変態フェミニストたちによって乗っ取られようとしているのだ。そしてこの変態フェミニスト達は自由社会にとって、ジェンダーフェミニストたちよりももっと危険な存在なのである。

ジェンダーフリー主義の左翼変態フェミニストたちがどのように自由社会を脅かすのか、それは回を改めてお話することにしよう。


3 responses to 変態たちが押し進めるジェンダーフリーという神話

*minx* [macska dot org in exile]16 years ago

個人主義を徹底させるのがジェンダーフリーでしょ。

 カカシさんがごちゃごちゃうるさいので簡単に。 そこで先ず、今回はジェンダーフリーを押し進める人々とは、いったいどんなひとたちなのか、という話から進めてみたい。 http://biglizards.net/strawberryblog/archives/2008/03/queerhentai.html  あー、わたしはジェン

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scarecrowstrawberryfield16 years ago

上記のトラックバックで、再び小山は自分が私から個人攻撃を受けたと騒いでいる。ま、他人がどう反応するかでしか自分の存在を見いだせないひとだから、それは仕方ないのだろう。
でもこのエントリーは小山への個人的な攻撃ではない。小山が代表する概念への攻撃である。
It is not all about you Emi!
カカシ

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腐男子じゃないけど、ゲイじゃない16 years ago

この度、ジェンダーフリー推進者に認定されちゃいました。

実は前回のエントリを書いた事で、他所様のブログでの議論に私が少しだけ関わる形になった(詳しくはTBを追ってほしい)。そこで苺畑カカシさんという方が、ジェンダーフリーについてなんか書いている。 真実のジェンダーフリーとは男女平等だの女性救済のための思想などで

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