本日はロバート・スペンサー著のThe Truth about Muhammad『モハメッドに関する真実』感想文最終回。
原点に戻った聖戦主義たち
この間私はヨーロッパの暗黒時代に関するドキュメンタリーを観たばかりだが、当時のイスラム圏の文化はヨーロッパがローマ時代の文化を失い後退したのと反対に、文明社会を満喫していた。それがルネッサンスを迎えたヨーロッパに完全に追い越され、以来全く発展せずに中世のまま留まってしまった。以前に読んだバーナード・ルイス博士のWhat Went Wrong? という本にも書いてあったが、イスラム教徒は何か悪いことが起きると、「どこで我々は道を踏み外したのだろうか?」と自問いするという。それは決して悪いことではない。なんでもかんでも他人のせいにするよりはいい。だが、その結論が常に「イスラム教の教えを忘れたからだ」となってしまうという。だから苦境から脱するためには「イスラムの原点に戻ること」となってしまうのである。
中世にあれだけ発展していたイスラム社会の多くが7世紀に逆戻りしてしまったのは、モハメッド時代の原点に戻ろうという原理主義のせいなのである。そしてモハメッドの生き方を地で行ってるのが聖戦主義者たちなのだ。
異教徒を暴力で改宗させる、相手がそれを拒めば追放する、もしくは首を切る。女性の価値は男性の半分であり、性犯罪の罪を証明するには男性四人の証言が必要だなど、すべてコーランに書いてあるのだ。
スペンサーにいわせると、タリバンなどはイスラム教の過激派でもなければイスラムを間違って解釈したのでもなく、タリバンのような聖戦主義者たちこそがイスラムの代表なのだ。だから西側の人々はイスラム教を「平和な宗教」などといって美化してはならない。その本質を理解しその危険性に対抗しなければないのだ。
イスラムとの共存は可能なのか?
私はイスラエルとパレスチナの紛争をみていて、彼等が平和共存することは不可能だといつも感じる。そしてその原因は一重にパレスチナ側にあると考える。これは決して私がイスラエル贔屓だから言うのではない。ユダヤ教には異教徒を暴力でユダヤ教に改宗させなければならないなどという教えはない。それどころか、ユダヤ教は父親がユダヤ人でも母親がユダヤ人でなければユダヤ人として認めないとか、かなり排他主義的なところがあり、はっきり言ってユダヤ人は宣教とか布教ということに興味があるとは思えない。
だがパレスチナの原理主義者たちは異教徒、しかも宿敵(mortal enemyは宿敵でいいのかな?)であるユダヤ教国家が聖地エルサレムに在するなどもってのほかだ。イスラムをモハメッド時代にさかのぼって解釈したならば絶対に許せることではない。
ではイスラムと西洋社会は共存できないのだろうか? 私はそうは思わない。
私はスペンサーの引用したコーランのなかでも、文字どおりの解釈をせず現代風のスピンを加えた解釈がいくらでもできると感じた。もしイスラム教徒のなかにコーランの新しい解釈をするだけの勇気のある人がいるなら、イスラムが7世紀の原始的な社会から文明社会へと参加することが可能だと私は考える。
だが、そのためにはイスラム教徒自身がその道を選ばなければならない。彼等のなかで命の危険を覚悟でコーランの現代風解釈をイスラム社会に広めなければならない。
西側諸国はスペンサーの警告に耳を傾けるべきである。これを無視することは致命的な間違いをおかすことになる。イスラム原理教の脅威は真実である。だが、もし我々現代人がイスラム対文明社会という悲惨な最終戦争を望まないのであれば、我々は穏健派イスラム教徒に訴えなければならない。
イスラム教は平和な宗教だ! イスラム教の教えは暴力での征服を求めない! イスラム教は異教徒を寛容に受け入れる! と、、
十字軍やスペイン宗教裁判などで象徴される不寛容で残虐だったキリスト教が生まれ変わったように、イスラム教も生まれ変わることができるはずだ。ただ、キリスト教がかかったような何百年という時間を待つような余裕はイスラム教にも西側にもない。
世界が宗教戦争で滅びないうちにイスラム教が生まれ変わってくれることを神に祈ろう。


2 responses to 『モハメッドに関する真実』 その3

asean17 years ago

お帰りなさい、カカシさん(お疲れ様っす)
何気にカカシさんのイスラムに関する理解が以前から僕が言ってる内容に近づいて来たので
少々、ホットしていますが(笑)、それでも少々、簡略化し過ぎですねぇ・・・
特に
>だから苦境から脱するためには「イスラムの原点に戻ること」となってしまうのである。
この部分は少々、端折り過ぎっす。
僕のブログで何度も書いているように、このカカシさんの説明だと、原理主義に回帰することと
後段の共存は可能だ、っとするカカシさんの説とが結び付くプロセスが見えなくなってしまう。
(最後の、イスラム教自身の問題だ!としているのは正解だと思いますが)
自分達の価値観が絶対だと信じている限り、相対的な比較検討を自ら行うことは即刻「背教的な行為」とされてしまう
が故にその絶対とする価値観はそのままにして、その結論に達する論理構成を”自らの価値観の中で探すしか”
思想的な袋小路を打開する方法が無い・・・つまり、原理主義にならざる得ない、ってことですね。
この自らが絶対だと信じるモノを外部からの介入で変更すること等(多分)先進国の人間でも不可能だと思いますね。
ですから、絶対的な価値観と直接対立する方法論と言うのは、自由・民主主義側にはマイナスにしかならない。
政治的、思想的な事柄の全てはイスラム側からすると全てが非イスラムの”理屈”であってイスラムの理屈ではないので
自由・民主主義、世界平和、尊厳、平等、公正、公平等は全て拒否されてしまう
(国連に対するイスラム側の理解がそれですからね)。
なぜなら、上記の表現全てには「主語」が欠落している、イスラムの自由・民主主義、イスラムの世界平和、
イスラムの尊厳、イスラムの公正、イスラムの公平等などと「主語にイスラムが付かない存在」は
全てイスラムを否定する存在でしかない。
つまり、イスラム側の政治指導者なり宗教指導者なりが相当にプラグマティックな思想を持っていない限り
妥協点等は全く見出すことが出来ないことになる。
ですから、極論を言えば
「言葉による相互理解」等は何の保障も見通しもそれこそ相互理解自体を全く担保しないのです。
(イスラム教徒が英語で書くブログが胡散臭いと僕が言うのはそういう意味も含んでいるんですが・・・)
自らの価値観以外、具体的な”モノやコト”でしか異教徒(異文化)に対して評価や判断を
下す物差しか無い相手に言葉はもはや意味を成さない。
すなわち、
圧倒的な武力(具体的なコト)を背景にしてイスラムの経済的な繁栄に手を貸す(これも具体的なコト)
以外にいわゆる共存の道等現段階では考えられない。
(これを共存と言うならですが)
相手が7世紀のままなら、コチラ側も7世紀の解釈に付き合う以外に道は無いのです。
(ラムズフェルドの失敗は此処ですね、相手は「大軍=強力な軍隊=大国」としか理解出来ないのに少数精鋭主義を
試した為に、武装勢力に舐められてしまった)
人間、誰でもそうなはずなんです「未知の事柄」に出くわした際に「その未知の事柄を”既知の事柄”に置き換えて
理解しようとする」のですから。
ご参考迄に再掲させて頂きます。
A True victory in the Iraqi War.-1:The unfinished dream of Neo-con.
A True victory in the Iraqi War.-2:Who is the true person concerned?
A True victory in the Iraqi War.-3:A just cause of the Iraqi War
A True victory in the Iraqi War.-4:A realistic scenario of international politics-Iran
加筆訂正のお知らせと補足です・・・
Respect: A difference of interpretation–Islam and non-Islam

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scarecrowstrawberryfield17 years ago

アセアンさん、

相手が7世紀のままなら、コチラ側も7世紀の解釈に付き合う以外に道は無いのです。

相手がテロリストの場合はまあ、それ以外ないでしょうね。でも私がいってるイスラム教徒たちは、なにもみんながみんな7世紀に生きている武装勢力ばかりじゃない。私が共存できるはずだと考えているイスラム教徒は21世紀に生きたいと考えている穏健派のイスラム教徒のことです。
ミネソタの空港で搭乗拒否をされたいイマームたちが航空会社や乗客を相手取って訴訟をおこしている事件について今日も書きましたが、訴えられた乗客を弁護しようと募金活動をはじめた穏健派のイスラム教徒たちの話を読んでみて下さい。(本日の最新エントリーです。)そこで紹介したジャシャール医師のような人こそ、21世紀のイスラム教に必要な人だと私は思います。
カカシ

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