日本の保守派ブロガーのなかでは日本内政情報についてのその知識の豊富さによって人気ナンバー1の極右翼評論の瀬戸弘幸さんが、なんと我がブログとアレックスさんのブログを並べてアメリカの中東政策情報の参考にしているとおっしゃってくださったので、新しく訪れた読者の皆様を失望させないためにも、ここはひとつイラク情勢について書かねばらないだろう。 (当ブログにおけるイラク関係の過去ログはイラク関係カテゴリーをご参考にされたし。)
のっけから瀬戸さんのご意見に異議を唱えるのも心苦しいのだが、私は瀬戸さんのイラク戦争は失敗だったとの分析にはちょっと賛成しかねる。 そこで私はアメリカのイラク政策は大成功したとは言わないが、完全に失敗したという状況ではないということを二回に分けてお話したいと思う。

フセイン旧政権が崩壊、新憲法が国民の圧倒的支持で承認されてから25日で一年が経過した。しかし、イラクは未だに武装勢力が国土の大半を支配している。

 この武装勢力は各宗派によって組織化されており、深刻な宗教対立、民族対立の中で、まさに行き場のない混沌とした状況下にある。どう見ても米国のイラク統治は失敗である…

世界中のメディアが全く認めようとしない事実に、イラク戦争において軍事的にアメリカは多大なる勝利を収めているということがある。 このようなことを書くと「え? 何が勝利なの?」と私の正気を疑うひともあることだろう。 だがちょっと振り返ってイラク戦争が経てきた三つの大きな段階に注目していただきたい。 
イラク戦争と一口にいってもこの戦争は2003年の開戦当時からいくつかの段階を通過してきた。 先ずはフセイン政権崩壊、アルカエダという外国人テロリストグループ及びスンニ親派との戦い、そして現在のイランの影響を強く受けているシーア過激派民兵との戦いである。 この三つの戦いのうち最初の二つにおいてアメリカ及び連合軍が圧倒的勝利を得た事実を皆さんに思い出していただきたい。
フセイン政権の崩壊はあっという間の出来事であったし、数あるフセインの銅像があちこちで引き倒されイラク市民がサンダルでフセインのポスターを殴りつけるシーンはいくらも放映されたので読者の皆様の記憶にも残っていることだろう。 だが、第2段階のアルカエダテロリストに対する大勝利はアメリカのメディアを始め世界メディアはほとんど無視した。 メディアの第2段階から第3段階への移行はあまりにもスムーズだったため、多くの人々がこれを見逃したとしても不思議ではない。 しかししイラク戦争の報道に注意を傾けていれば、新聞の紙面からアルカエダ、ザルカーウィ、スンニ抵抗軍、自爆テロ、自動車爆弾テロ、路肩改良爆弾(IED)という語彙がいつの間にか、宗派間紛争、民兵、サドルといった言葉に置き換えられたことに気がついたはずだ。
ではいったい連合軍はどのようにしてアルカエダ及びスンニ抵抗軍に対して勝利をおさめたのか。 イラクのアルカエダはザルカーウィを筆頭とした外国人勢力であり、その中堅部の指導者たちはイラク人ではなく外国人が占めていた。 当初彼らはアメリカ軍に対して真正面からの攻撃を試みたがこれは数十人のアルカエダ兵士の死者に対して一人二人の米兵の戦死という全く不均衡な惨敗の連続だった。 そこで彼らはスンニ居住区でのゲリラ戦を行ったが、これも2004年の二度にわたるファルージャの戦いなどでも解るようにアメリカ軍が圧勝した。 この頃(2004年2月ごろ)、ザルカーウィがアルカエダ本部へ当てて書いた手紙を持った使者が捕らえられ、ザルカーウィがアメリカ軍はどんな戦いにもひるまない、我々には新しい作戦がいる、支援を求める、といった内容の手紙が公表された。 ザルカーウィはアメリカ軍は臆病者だとののしった後で、それでもアメリカ軍はシーアを味方につけその勢力を増しており、一旦アメリカ軍に奪われた地域はアメリカ軍が去った後でも取り戻すのは難しいと語っている。

我々は荷物をまとめ別の場所を探しに出かける、悲しいながらも、我々が何度もこの聖戦において繰り替えしてきたことである。なぜなら敵は勢力を増し、その諜報能力も日ごとに増加しているからだ。 カバの主よ、この道で我々は窒息しつつあり疲れている。人々は宗教の王たちに従うであろう。彼らの心はあなた方と共にあり、彼らの剣はウマヤの力と勝利と安全にある。神よ御慈悲あれ。

イラクで勝つためにはシーアと戦わねばならないと判断したザルカーウィは作戦んを変えて、シーア派イラク市民を狙った自爆テロや爆弾テロ攻撃を増加させ、シーア派市民を捕らえては拷問斬首している姿をビデオにとってネットやメディアにばら撒くなどした。 しかしこの野蛮な行為はかえって逆効果を生み、それまでアルカエダに同情的だったスンニ派の部族すらも嫌気がさしてアルカエダと見放すという状況が出来てきた。
これに関しては2005年7月ごろに送られたと思われるアルカエダのナンバー2のザワヒリからザルカーウィへ宛てた手紙やザルカーウィが殺されたとき所持していた別の幹部からの手紙でも、ザルカーウィの野蛮なやり方はかえってイスラム教徒をアルカエダから遠ざけることになり、アルカエダがイラクをアルカエダのテロ国家として所持する目的には邪魔になるとたしなめてさえいた。
連合軍との戦いで中堅指導者を次々に失ったアルカエダは、ヨルダンやシリアから新しい指導員をどんどん呼び寄せたが、アルカエダを裏切ったスンニ派などの密告によりイラク入りしたアルカエダ幹部は次々と暗殺されてしまった。 外国人勢力であるアルカエダは地元スンニイラク人を信用しなかったため、イラクのアルカエダは指導者を失いザルカーウィだけを首領とする死のカルトへと変貌、ザルカーウィの死とともにアルカエダの威力は急激に弱体化した。
完璧な世界ならば、ここでスンニ派部族の多くがアルカエダを見放しイラク復興の政治に参加しようという気になって、一件落着、めでたしめでたし、で終わるところなのだが、そうは行かないのが中東の難しさである。 アルカエダ勢力が弱体化したことを利用し、今度は俺達の出番といって勢力を挙げてきたのがイランの飼い犬、白豚サドル(モクタダー・アル・サドル)とその手下の愚連隊マフディ民兵軍である。
サドルのマフディ軍がナジャフで蜂起したのはファルージャとの戦いと同時期でありこれは決して偶然ではない。 フセイン亡き後アメリカを追い出しイラク国内で勢力を得ようとしたサドルがアルカエダのザルカーウィと組んで同時攻撃を試みたとしても決して不思議ではない。敵の敵は味方という理屈である。
この当時アメリカ海兵隊はサドルをナジャフの聖廟に追い詰めており、一斉攻撃を仕掛ければ一日でサドルとマフディ軍を崩壊させることが出来た。だが、シーア派の大聖教者のシスタニがそれを許さなかった。シスタニは決してサドルの味方ではない。 だがサドルをシーア派の聖廟内で無信心者で野蛮人のアメリカ軍に聖廟を冒涜され信者を殺されることを容認すればシーア派の面子にかかわる。 またイラク人によるアメリカへの敵対心を煽ってイラクは余計に混乱に陥るという心配もあったのだろう。 私たちはシスタニがなんといおうとサドルを生かしておいては後でろくなことにならないと海兵隊一斉攻撃が中止されたときは多いに腹をたてたものである。
この第三段階の宗派間紛争の鎮圧において、アメリカ軍はアルカエダとの戦いから今度はシーア派過激派との戦いへと戦略を変更した。 ラマダン中に激しい闘争が繰り返されここ二年間で10月はアメリカ兵戦死者の数がこれまでで一番多いという悲しい状況が生じた。 しかし戦死者の数だけをみてアメリカ軍が戦争に負けていると判断するのは誤りである。 何故戦死者の数が増えたのかその背後にあるアメリカの戦略を考慮に入れなければ戦死者の数だけ数えてみても意味はない。
長くなるので、この現在の状況は次回に回すことにしよう。


Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *