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March 23, 2007

『モハメッドに関する真実』 その3

宗教と文化

本日はロバート・スペンサー著のThe Truth about Muhammad『モハメッドに関する真実』感想文最終回。

原点に戻った聖戦主義たち

この間私はヨーロッパの暗黒時代に関するドキュメンタリーを観たばかりだが、当時のイスラム圏の文化はヨーロッパがローマ時代の文化を失い後退したのと反対に、文明社会を満喫していた。それがルネッサンスを迎えたヨーロッパに完全に追い越され、以来全く発展せずに中世のまま留まってしまった。以前に読んだバーナード・ルイス博士のWhat Went Wrong? という本にも書いてあったが、イスラム教徒は何か悪いことが起きると、「どこで我々は道を踏み外したのだろうか?」と自問いするという。それは決して悪いことではない。なんでもかんでも他人のせいにするよりはいい。だが、その結論が常に「イスラム教の教えを忘れたからだ」となってしまうという。だから苦境から脱するためには「イスラムの原点に戻ること」となってしまうのである。

中世にあれだけ発展していたイスラム社会の多くが7世紀に逆戻りしてしまったのは、モハメッド時代の原点に戻ろうという原理主義のせいなのである。そしてモハメッドの生き方を地で行ってるのが聖戦主義者たちなのだ。

異教徒を暴力で改宗させる、相手がそれを拒めば追放する、もしくは首を切る。女性の価値は男性の半分であり、性犯罪の罪を証明するには男性四人の証言が必要だなど、すべてコーランに書いてあるのだ。

スペンサーにいわせると、タリバンなどはイスラム教の過激派でもなければイスラムを間違って解釈したのでもなく、タリバンのような聖戦主義者たちこそがイスラムの代表なのだ。だから西側の人々はイスラム教を「平和な宗教」などといって美化してはならない。その本質を理解しその危険性に対抗しなければないのだ。

イスラムとの共存は可能なのか?

私はイスラエルとパレスチナの紛争をみていて、彼等が平和共存することは不可能だといつも感じる。そしてその原因は一重にパレスチナ側にあると考える。これは決して私がイスラエル贔屓だから言うのではない。ユダヤ教には異教徒を暴力でユダヤ教に改宗させなければならないなどという教えはない。それどころか、ユダヤ教は父親がユダヤ人でも母親がユダヤ人でなければユダヤ人として認めないとか、かなり排他主義的なところがあり、はっきり言ってユダヤ人は宣教とか布教ということに興味があるとは思えない。

だがパレスチナの原理主義者たちは異教徒、しかも宿敵(mortal enemyは宿敵でいいのかな?)であるユダヤ教国家が聖地エルサレムに在するなどもってのほかだ。イスラムをモハメッド時代にさかのぼって解釈したならば絶対に許せることではない。

ではイスラムと西洋社会は共存できないのだろうか? 私はそうは思わない。

私はスペンサーの引用したコーランのなかでも、文字どおりの解釈をせず現代風のスピンを加えた解釈がいくらでもできると感じた。もしイスラム教徒のなかにコーランの新しい解釈をするだけの勇気のある人がいるなら、イスラムが7世紀の原始的な社会から文明社会へと参加することが可能だと私は考える。

だが、そのためにはイスラム教徒自身がその道を選ばなければならない。彼等のなかで命の危険を覚悟でコーランの現代風解釈をイスラム社会に広めなければならない。

西側諸国はスペンサーの警告に耳を傾けるべきである。これを無視することは致命的な間違いをおかすことになる。イスラム原理教の脅威は真実である。だが、もし我々現代人がイスラム対文明社会という悲惨な最終戦争を望まないのであれば、我々は穏健派イスラム教徒に訴えなければならない。

イスラム教は平和な宗教だ! イスラム教の教えは暴力での征服を求めない! イスラム教は異教徒を寛容に受け入れる! と、、

十字軍やスペイン宗教裁判などで象徴される不寛容で残虐だったキリスト教が生まれ変わったように、イスラム教も生まれ変わることができるはずだ。ただ、キリスト教がかかったような何百年という時間を待つような余裕はイスラム教にも西側にもない。

世界が宗教戦争で滅びないうちにイスラム教が生まれ変わってくれることを神に祈ろう。

March 23, 2007, 現時間 12:33 PM | コメント (0) | トラックバック

March 21, 2007

『モハメッドに関する真実』 その2

宗教と文化

引き続き今日はロバート・スペンサー著のThe Truth about Muhammad『モハメッドに関する真実』をご紹介しよう。

都合のいいお告げ

モハメッドは一生の間何度も天使ガブリエルからお告げを受ける。しかしモハメッドのお告げは非常にご都合主義なのだ。これも聖書に出てくるユダヤヤ・キリスト教徒らが神から受けるお告げとかなりの違いがある。

例えばモーゼは神から十戒をさずかり、それを広めることを命ぜられる。キリストは神から人々の罪をしょって自分の命を犠牲にするよう命じられる。どちらも神から試練を与えられた。彼等の個人の意志や願望とは裏腹なものである。

だがモハメッドが受けるお告げは非常に自分勝手なご都合主義のものが多い。例えば自分の養子の先妻を気に入って結婚したいと思うと、都合良く神のお告げを受け、普通はスキャンダルな結婚がなぜかモハメッドだけには許されたりするし、和平交渉を結んだ敵との条約を破って攻め入るときも、イスラムが勝つためには異教徒との約束ごとは無効になるというお告げを受けたりする。

どうりでパレスチナがイスラエルとの停戦条約を守らないわけである。コーランにちゃんとそう書いてあるのだから。

特権階級としてのイスラム

スペンサーによると、イスラムには世界中の誰にもあてはまる普遍の法則というものはない。イスラム教徒は特別なのであり、異教徒と同じ法律に従う必要はないという考えなのだ。ここがユダヤ教などとは全く異なる点だろう。

例えばユダヤ教は公平な裁きを要求する。法律は誰にも同じように当てはめられなければならないという考えだから、王様でも乞食でも同じ法で裁かれるべきであり、神様でさえ自分の作った法をやぶるべきではないと考える。

腐敗したソドムとゴモラを滅ぼそうという神の意志に対して、アブラハムは「いくらなんでも一人も善人がいないってこたあないでしょう。大半の人口が悪いからって罪のない善人まで一緒に滅ぼしてもいいんですかい? ひとりでも善人がいたらどうするんです?」と神と交渉する。古(いにしえ)の時代でもやっぱ弁護士はユダヤ人に頼むべきだという証拠である。(笑)ユダヤ人が世界中で嫌われるのはこういうふう誰に対しても公正な裁きを要求するからだという説もある。

しかしイスラム教はそうではない。よく中世のイスラム社会は他宗教に寛大な時代だったという人がいる。確かに異教徒への迫害がひどかったヨーロッパに比べれば当時のアラブ諸国は比較的寛大だったといえなくもない。だが、それも異教徒が異教徒として下層階級である地位に甘んじる限りはという意味である。

モハメッドは自分が侵略した土地に住む人間が多神教徒であれば容赦なく虐殺した。異教徒がユダヤ・キリスト教徒であった場合は三つの選択をあたえた。1)イスラムに改宗する。2)出ていく。3)その場でイスラムの奴隷となる。

イスラム圏に住む異教徒達はそれぞれ宗教によって階級を与えられそれに見合った税金を収めさせられた。イスラム教徒は税金を払わないため、イスラム社会の経済は異教徒からの税金で成り立っていた。現代のサウジアラビアで働くのは外国人ばかりという状態と酷似している。経済上の理由から後には多神教の人間も受け入れたようだ。

これらの異教徒はディミーと呼ばれ、自分らの奴隷的な立場を受け入れさえすれば、一応平穏に暮らすことが出来た。とは言えそれもモハメッドの気分次第でいつ何時どうなるかわからない。異教徒にはイスラム教徒による暴挙に対して全く抵抗する手段がなかったからである。イスラム教のいう寛容とはこういうことなのだ。

March 21, 2007, 現時間 11:50 PM | コメント (0) | トラックバック

March 20, 2007

『モハメッドに関する真実』 その1

宗教と文化

今週から一週間、例によってネットアクセス不可能な状態になるため今週は先日読み終わったロバート・スペンサー著の、the Truth about Muhammad(モハメッドに関する真実)という本についてちょっとお話したいと思う。

新しい宗教

モハメッドはご存じの通りイスラム教の創設者だが、イスラム教はその原点となったユダヤ教やキリスト教よりもずっと新しい宗教で、創設はなんと7世紀。モハメッドは自分こそが旧約聖書で約束された救世主なのだと信じてイスラム教を布教した。

しかし、キリスト教徒もユダヤ教徒もモハメッドを救世主とは認めなかった。キリスト教徒はイエス・キリストという立派な救世主が存在するし、ユダヤ教徒はユダヤの教えをきちんと学んでいないモハメッドが救世主などであるはずがないと判断したからだ。

モハメッドは最初キリスト教徒やユダヤ教徒に対して「本を信じる人々」といって敬意を表していた。だが、彼等に拒絶されると敬意が憎悪へと変ぼうするのである。特にユダヤ教の教えに関して知識の浅いモハメッドはユダヤ教のお坊さんであるラーバイ達に笑いものにされたのを根に持ちユダヤ教への憎悪はいっそう激しいものとなった。

よく、中東問題はイスラエル建国から始まるようなことをいう人がいるが、この本を読んでいると、イスラム教によるユダヤ教徒迫害は何も今に始まったことではないということがわかる。それどころか、イスラム教のユダヤ憎悪はモハメッド自身からはじまるのである。

だから例え本日イスラエルという国がなくなって、イスラエルに住むユダヤ人がすべて別な場所に移動したとしても、イスラム過激派によるユダヤ迫害は世界中に住むすべてのイスラエル人が皆死ぬかイスラム教に屈服するまで終わることはないのだ。

宣教師としてのモハメッド

モハメッドは自分が救世主であるということを天使ガブリエルからのお告げで知るとあるのだが、自分の妻や従兄弟以外にはイスラム教に改宗させることがなかなかできない。近所のユダヤ教徒を説得しようとしても反対に馬鹿にされるし、多神教を信じる人たちからも相手にされない。そこでモハメッドはだんだんと腹を立て強制的な宣教に挑む。

モハメッドがキリストと違うのはその宣教の仕方が非常に乱暴なことにある。キリストは神の教えを唱えることで周りの人々から自然と信頼をうけ信者が増えていった。キリスト自身は自分がユダヤの王だなどと自負していなかった。人々から受けるあまりの期待に埋もれそうになったりする。キリスト教の名の下に後にいろいろな暴力が振るわれたとはいえ、キリスト本人が暴力的なひとだったと語るひとは誰もいない。右の頬を殴られたら左の頬をだせというほどの平和主義の人だったことは疑いの余地はない。

それにひきかえモハメッドの宣教の仕方はお世辞にも平和的とはいえないのである。モハメッドは自分の信者たちを武装して近所にいる多神教の信者たちに攻撃を仕掛ける。そしてイスラム教に改宗しろ、さもなくば追放か皆殺しにしてやる、と迫るのである。

モハメッドが戦士であったことは有名だが、モハメッドは最初から豪族の親玉だったのではなく、イスラムを平和的なやり方では広めることができなかったため、武力による布教をするための蜂起だったのである。

ロバート・スペンサーは現在の聖戦主義者はまさにモハメッドの武力による布教を地でいく人々なのだという。イスラム教に改宗するか屈服するしろ、さもなくば首をちょん切る。スペンサーのテーマはテロリストはイスラム教を乗っ取ったのではなく、聖戦主義者こそがモハメッドの教えを忠実に守っている人々なのだと言うのである。


March 20, 2007, 現時間 07:38 AM | コメント (0) | トラックバック

March 18, 2007

北米キャンパスを乗っ取る聖戦主義のユダヤ弾圧

宗教と文化 , 映画

今日は2002年にカナダのモントリオールにあるコンコーディア大学の生徒会が過激派イスラム教徒にのっとられた一年間を記録した記録映画、マーティン・ヒメル製作の"Confrontation at Concordia" by Martin Himel(コンコーディアの対立)を紹介したい。

映像はパワーラインのリンクをつたって4部にわけて観ることができる。

2002年、イラク戦争前夜のコンコーディア大学ではどこの大学でもそうであるように、大学の生徒会に関する一般市民の関心は薄かった。それを利用したイスラム過激派の生徒たちが生徒会に立候補。イスラム系生徒を動員して生徒会の委員をすべてイスラム教徒で乗っ取ってしまった。

多数議席を取ったイスラム生徒会が最初にやったのは、キャンパス内にあるユダヤ教サークル、ヒラルを生徒会から追放することだった。大学のサークルとして公式に認められないサークルは学校からの資金援助が全くもれなくなり、大学祭などの参加にも支障を来す。ヒラルとは全世界に存在するユダヤ教のグループで、ヒラルを追放したことのあるのはナチスドイツ政権下のドイツ以来だということだ。

同年、ヒラルは元イスラエルのネッテン・ヤフを演説の客賓として招くが、過激派イスラム教生徒たちが現れメガホンなどを使って演説を妨害。警備に当たった警察の数は全く足りずにデモ隊に完全に圧倒されてしまう。演説を聞きにきたある男性はヒジャブをつけた男に押し倒され、転んだ際に股間を蹴られたと証言。「まるで私が逃れたオーストリアでナチスの暴徒に接しているようだった。こんなことが再び起きるとは思ってもみなかった」とその恐怖と怒りをあらわにした。

暴徒らは会場にあつまってきた生徒や市民に暴力を古い、会場の窓ガラスを割、会場にはいりこんでエレベーターを占拠。(ベルリン市内のユダヤ系商店の窓ガラスを割るナチス暴徒の映像と重なって無気味だ。)先に会場内にはいっていた他の生徒たちを缶詰にした。ネッテン・ヤフ首相の身柄をあんずるという理由で学校側は演説を中止。演説をききにきた生徒たちの間で抗議の声があがる。なぜ我々は暴徒に屈するのか、ヤマカをかぶったユダヤ系生徒にたいし、主催側の生徒は「我々は彼等とはちがう、我々までいきりたっていては話にならない」と必死になだめていた。

演説が中止になったときいて外で騒いでいたイスラム教暴徒たちは大喜び。イスラエルの旗を持っていたユダヤ系生徒から旗を奪い取り引き裂いて足げにして猿のように飛び回って喜んでいた。

1960年代の学生運動がおきてから、北米の大学の多くが左翼運動家に乗っ取られてしまった。普通大学こそが多様の考えを自由に交換できる場所であるべきだが、実際にはそうではない。アメリカで保守派として愛国主義や親軍隊の思想を持っていたら左翼生徒だけでなく、左翼の教授らからも目の敵にされるのは必定だ。社会学や政治科学などの時間で保守派生徒は自分らの考えを述べようものなら赤点をとるだけでなく、クラスから追放されかねない。

また、保守派のサークルなどが保守派のスピーカーを招いて演説など主催しようものなら、左翼生徒たちがメガホンやラッパなどを使って会場を取り囲むだけでなく、暴力を使って演説を阻止するなど普通である。左翼主義の学校側もこのような左翼生徒の暴挙を見て見ぬ振りをするなどしょっちゅうだ。アメリカの大学でリクルートをしていた軍人たちが生徒に暴力を振るわれた例などざらにある。

コンコーディア大学ではイスラム系の生徒たちがこのやり方でユダヤ系生徒の運動を何かと妨害した。ヒラルのメンバーが校舎内で机を出してパンフレットを配ったりほかの生徒と話をしていると、パレスチナ人特有のスカーフを巻いた生徒たちがやってきて大声をはりあげ嫌がらせをする。ヒラルが主催するパーティや勉強会の会場前では常に徒党を組んで、参加者に口頭や時には暴力で参加の邪魔をする。

イスラム生徒達は英語圏では人々が敏感に反応する言葉使いに堪能だ。例えばヒラルのメンバーがイスラエルの歴史についての勉強会を開くといえば、「人種差別をやめさせよう!」といって騒ぐ。彼等のいう「人種差別」というのは「シオニズム」のことだ。彼等は「人種差別」「アパルタイト」と言った言葉を連発してユダヤ人を攻撃する。

ここで私がユダヤ人というのは文字どおり、ユダヤ人の血を受け継いでいるひとたちのことをさし、ユダヤ教徒やイスラエル国民に限定しない。イスラム生徒たちは自分らはイスラエルの暴挙に抗議しているだけであって、ユダヤ人そのものに敵意を持っているのではないと主張する。「仲間のなかにはユダヤ人の彼女を持ってるやつもいるし。」と薄ら笑いを浮かべる生徒会の男は無気味だ。そしてこれが真っ赤な嘘であることくらい誰の目にも明らかである。

コンコーディアのイスラム生徒たちはほとんどがパレスチナ系アラブ人だが、彼等の目的はパレスチナの独立だのイスラエルとの平和共存などではない。最終的な目的はユダヤ民族撲滅であり、イスラエル撲滅はその第一歩にすぎない。ユダヤ民族を海に葬ることさえできればパレスチナなどどうなってもいいのである。

イスラム系生徒たちの反ユダヤ人運動はナチスドイツのやったこととそっくりそのままである。最初にユダヤ人の陰謀というプロパガンダを流し、ユダヤ人の行動をなにからなにまで規制しはじめる。ユダヤ人には物を言わせない。ユダヤ人に味方する人々を暴力で脅迫するなどなど。

以前にも私はISMと呼ばれるパレスチナテロリストの外人部隊の話をしたことがある。彼等は欧米の大学のサークルなどを利用して、感化されやすい大学生を勧誘しパレスチナで反イスラエル運動をやらせるというあくどいテロ軍団である。しかしこのようなテログループが欧米の大学で自由に行動できるという事実に問題がある。

私はこの映画をみていて、ホロコーストはこうやって始まったのだと実感した。当時のドイツ人たちは、ユダヤ人が弾圧されるのを見て、自分には関係ないと考えたかもしれない。また多くのユダヤ人たちも、目立たないようにしていればいずれこの危機も去る、やたらに抵抗などしないほうがいいと思ったかもしれない。

だが、我々はその結果がどのような悲劇を招いたかを知っている。ユダヤ人がナチスドイツから学んだことは「二度とご免だ」ということだ。当時ドイツやオーストラリアにいたユダヤ人はそれでも逃げる場所があったが、いま北米に住むユダヤ人たちは逃げることはできない。いや、逃げるべきではない。このような反ユダヤ運動は発芽のうちに摘んでおくべきだ。イスラム教だろうがなんだろうが、自分らの考え以外の存在を許さない思想を我々は容認してはいけない。

イスラム生徒たちが反イスラエル思想をキャンパスですすめたいなら自由にやるべきだ。だが、ユダヤ生徒や他の意見を持つ生徒の言論や行動を迫害する態度は厳しく罰せられるべきだ。誰の主催する講演会であれ暴力で阻止しようとする生徒たちは機動隊を導入して暴力で阻止し、警察官および市民や生徒に暴力を振るった生徒は逮捕されるべきだ。

コンコーディア大学で一年間を描いたこの映画は希望の持てる終わり方をしている。

ヒラルの生徒たちの抵抗のおかげで、コンコーディア大学側もやっとイスラム過激派生徒による生徒会乗っ取りがかもし出した深刻な問題に対処しはじめた。まず生徒会は学校の予算を悪用している疑いがかかり、調査の対象になった。生徒会がパレスチナ運動のみに執着して肝心な学校の生徒会運動をおざなりにしていることで生徒の間でも不満がつのった。2003年の生徒会選挙では生徒全体を代表する生徒会にしようという新しい動きが生まれ、2000票対1000票という圧倒的勝利を得た。

一年間にわたるイスラム生徒独裁政権は終わったのである。

March 18, 2007, 現時間 12:51 PM | コメント (0) | トラックバック

March 15, 2007

イスラム教スーパー店員ベーコンの販売を拒否!

宗教と文化

この間ミネアポリス空港で酒類を持った乗客を拒否するイスラム教タクシー運転手たちの特別扱い要求が拒絶されたことに対応してか、同じミネソタ州に住むサマリア系イスラム教徒移民たちの中で今度はスーパーなどに勤める店員が豚肉製品の販売を拒否するという作戦に打って出た。

パンベリル・デスーザさんは二週間前にターゲット(スーパーの名前)に牛乳とパンとベーコンを買いに寄ったとき、すでに遅刻しそうだった。スーパーでぐずぐずしているような気分ではなかったデスーザさんはレジ係の店員の態度にびっくり。店員は頭に伝統的なヒジャブと呼ばれるスカーフをしているイスラム教女性で、ベーコンをスキャナーにかけるのを拒んだのである。

「彼女は私にスキャンをさせたのです。そして私に袋をあけて袋のなかに入れさせました」(アメリカのスーパーでは店員が袋に入れるのが普通)とデスーザさん(53歳)は言う。「どうしてこの人はレジの仕事についたのだろうと不思議に思いました。」

豚製品の取り扱いを禁じるコーランの教えを厳格に守ろうとするツィンシティ(ミネアポリスの別名)の一部のイスラム教徒の信仰が職場での緊張感を高めている最近の例である。彼等は自分でするかわりに客自身にスキャンをさせるか、イスラム教徒でない他の従業員にやらせるなどしている。

まったく冗談じゃない。私が店長ならこういう店員は即座に首だね。与えられた仕事がどんな理由があるにしろ出来ないというのであれば、そういう人には働いて欲しくない。コーシャーというユダヤ教の教えを守っている人はいくらもいるが、ユダヤ教徒の店員が豚肉を扱うのを拒んだ例など聞いたことがない。

イスラム教徒の間でも、自分が食べてはいけないという豚肉を扱っていけないという規則があるかどうか意見が別れるようで、特にあつかってはいけないとコーランに書いてあるわけではないらしい。はっきり言ってこれもタクシーの運ちゃんの例と同じでイスラム教徒でない人々にイスラム教徒を特別扱いさせようという企みだと私は思う。

サマリア系イスラム教徒の多くはアフリカでの弾圧から逃れてきた難民である。本国での堪え難い人権迫害を逃れて来た彼等が、彼等を大手を広げて受け入れてくれたアメリカという国に対して、自分達からあわせようとせず、ホストカントリーのアメリカに特別扱いを要求するなど言語道断だ。アメリカのやり方が気に入らないなら本国へ帰ってもう一度本当の弾圧を経験するがいい。そうすればベーコンをスキャンにかけることくら耐えられるようになるだろう。

March 15, 2007, 現時間 05:42 PM | コメント (5) | トラックバック

March 13, 2007

空飛ぶイマームの訴訟

宗教と文化

どうせこういうことになるだろうと多くの人たちが予測していたことだが、数ヶ月前にミネアポリスの空港で不振な行動をして搭乗を拒否された数人のイマーム(イスラム教聖職者)達が本日搭乗を拒否したUSエアウェイズ航空の行為を不満として、本日正式に同航空会社を相手取って訴訟を起こした。

この話は以前にも「空飛ぶイマームの逆襲」でした通り。(2006年11月30日つけの「苺畑より」)

月曜日、ミネアポリスの空港ターミナルでお祈りを捧げていたイスラム教徒のイマームと呼ばれる聖職者たち6人が一旦搭乗した後で、心配したほかの乗客からの通報により飛行機からおろされて質問を受けるという事件があった。

最初は単に時と場所をわきまえない無神経で不作法なイスラム聖職者が警察に尋問されて過激な反応をしめしただけの話かのように報道されたが、 詳細 を読んでみると, 6人の聖職者たちが単に無神経なだけだったとは信じ難くなってきた。

  • わざわざ従業員や他の乗客の注意を引くような大声をはりあげてゲートでお祈りをささげ、搭乗時に英語でアメリカを批判する会話を交わしていた。
  • 太ってもいないのに、シートベルトの延長ベルトを注文。ところがシートベルトにつけずに椅子の下においた。(鉄のバックルとベルトはぬんちゃくのような武器としても使える。)
  • 6人のうち二人が指定されていないファーストクラスの席に代わろうとした。これによって6人は911の乗っ取り犯人がとったのと同じ配置になった。

航空機から無理矢理おろされたことから、彼等は人種差別だの人種プロフィールだのといって人権を損害されたとして航空会社を相手どって訴訟を起こす立派な口実を得た。...訴訟の目的は単なる金儲けが目当てではない。本当の目的はもっとあくどいものである。イマームたちはアメリカ人を恐喝して平和な宗教をアメリカ人に強制しようとしている。アメリカ人の道徳観や訴訟システムや政治機構を逆手にとってアメリカにシャリアを広めようとしているのだ。

最初からこれが狙いだったことは誰の目にも明らかだった。 訴訟をしたことを公式発表したのはこれも予想通り、市民団体とは名ばかりのテロリスト看板組織、米国イスラム評議会(CAIR、ケア)である。 ケアは何かとアメリカではイスラム教徒が差別されているという言いがかりをつけては訴訟を起こしているが、911以後、アメリカ国内で一番勢力を強めた市民団体がこの当のCAIRなのである。私はどうしてアメリカ政府がこのようなテロ組織を野放しにしておくのか不思議でしょうがない。

March 13, 2007, 現時間 06:29 PM | コメント (1) | トラックバック

March 10, 2007

オーストラリア、ビキニならぬバーキニ?

宗教と文化

以前にオーストラリアの浜辺でレバノン出身のパレスチナ人たちの暴力行為に反応した地元白人達との間で暴力沙汰がおきて、2005年の12月には暴動まで起きたという話を「残念! 豪州ビキニマーチは来年一月に延期」でしたことがある。

私はその時、オーストラリアでは海水浴に来るレバノン移民と白人救命員とのいざこざを解消し、移民と地元白人との関係を緩和するため、レバノン移民の救命員を募集しているという話を読んだ。特にイスラム教徒の女性でも恥かしくなく着られる宗教に敏感な水着をデザイン中だということだった。

そしてついにデザイン完成。その名もバーカ+ビキニでバーキニ!(Hat tip ミスター苺)



Burqini

右側が救命員の女性用水着、バーキニ

この水着は厳しい回教に従ったもので、写真の救命員、メッカ・ラーラーさん(20歳)は頭から首からすべて覆われている。しかし水着そのものはスパンデックス生地で伸縮自在。体にぴたっとしてるため泳ぎの邪魔にならない。最近カカシを多いに失望させているオリンピック水泳選手が着ている体中を覆っている競泳水着と似ている。 水着のデザイナーはイスラム教女性、アヘダ・ザネッティさん。

この何気ない話は、実は現代社会で生きるイスラム教徒にとって非常に大切な第一歩といえる。なぜならこれは想像力を働かして、いかにイスラム教の教えを現代社会の実用性に順応させるかという完璧な一例だからだ。

私は最近ロバート・スペンサー著のThe Truth about Muhammad (モハメッドの真の姿)という本を読み終わったばかりだ。それについてはもっと詳しく追ってお話したいと思うが、スペンサー氏の主題を要約すると、

イスラム教テロリストは平和な宗教を乗っ取った過激派なのではなく、聖戦主義といわれるテロリストの信じていることこそが、まさにイスラム教の創設者モハメッドの唱えた教えなのだ。だからイスラム教は元来平和的な宗教だとか、騒いでいるのは原理主義の過激派だけだと解釈するのは間違っている、問題の原点はイスラム教の教えそのもにあるのであり、そのことを無視すれば西側は聖戦に負けてしまう。

というものだ。 しかし私はスペンサー氏が引用したコーランのあちこちで、いくらも現代的な解釈のしようがあると感じた。現代のイスラム教徒は7世紀に生きているのではない。7世紀の価値観や生活環境にない現代人がコーランの教えに文字通り従うなどということは現実的ではない。

たとえば私の同僚のアブ・ナットー君(仮名)はアフガニスタン出身だが仕事中に一日5回もメッカに向かってひれ伏してお祈りを捧げたりしないし、ラマダンの時でもお昼ご飯をちゃんと食べている。会社の宴会の時はビールも飲んでたしね。はっきり言って他の男性たちに比べたらよっぽども女性に優しい紳士。それでもナットー君は敬虔なイスラム教徒を自負している。

まさかスペンサー氏はこういう穏健なイスラム教徒まで敵に回せというわけではあるまい。大事なのはナットー君やラーラーさん、そしてデザイナーのザネッティさんのようにイスラム教を拒絶せずに現代化していくことにあるのだ。

余談だがこの水着の話を載せたニューヨークタイムスは例によってオーストラリアの海岸で起きた暴動について非常に偏向的な報道をしている。

(イスラム教徒参加促進の)アウトリーチはシドニーの下町から約20マイルほどいったところにあるクロヌラ海岸で起きた2005年12月の醜い出来事への反応である。(このとき)体中に人種差別的なメッセージを塗りたくったり、メッセージのはいったTシャツを着たスキンヘッドやニオナチを中心とした群集が、よっぱらってあたりをうろつきまわりレバノン人の男性らを襲った。

諸外国ではオーストラリアは人種的な緊張が台頭する時代にはいっているのではないかと懸念された。この暴動は多くのオーストラリア人に、暴力はオーストラリアの根底にある人種差別に起因しているのではないかと、改めて考えさせるきっかけとなった。

まったく最近のニューヨークタイムスの偏向報道は日本の慰安婦問題にしろ、オーストラリアの移民問題にしろ、滅茶苦茶だ。 去年12月に私が暴動当時のオーストラリア新聞記事を多々読んで得た情報によると実際には暴動はこのようにして起きた。

一般にCronulla riot と呼ばれる暴動のきっかけとなったのは去年12月に浜辺を歩いていたカップルがイスラム系の十数人に襲われたことから始まる。その数日後、同じ砂浜でサッカーをしていたイスラム系青年数人に注意をした救命隊員がやはり十数人のイスラム系若者に襲われるという事件があった。それまでにも何度かイスラム系の若者によって海岸を訪れる人々が嫌がらせを受けていたようだが、この二つの事件で地元白人の堪忍袋の緒が切れたのかもしれない。

トークラジオのDJやブロガーなどが浜辺を取り戻そうと呼びかけたことから、12月11日、Cronulla海岸には5000人の白人の若者が集まった。最初のうちは単にお祭り騒ぎをしていただけだった若者たちは、一人のアラブ系男性が数人の白人男性に追いかけられて近くのホテルに逃げこんだのを皮切りに浜辺にいたアラブ系と見られる人々を次々に襲った。若者たちは駆け付けた警察官や救急隊員などにもビールの空き缶を投げ付けるなどの暴行を行い、数人が逮捕された。

その晩から数日後の15日にいたるまで、今度はイスラム系の若者が復讐のため町にくり出し、商店を破損させたり行き交う人々に襲いかかったりした。キリスト教の小学校に銃弾が打ち込まれ、最後にはキリスト協会が4つも焼かれてしまった。

明らかにニューヨークタイムスの記事が無視しているのは、暴動のきっかけとなったイスラム教暴徒による数度による一般市民や救命員に対する暴力行為と、白人達の一日の暴動に対して何日も続いたレバノン人たちによる報復暴動である。 

挑発した片方の行為を全く無視して、それに反応した方だけを批判して人種差別だなんだかんだと書きたてるのはあまりにも一方的な偏向報道である。ま、ニューヨークタイムスの常套手段ではあるが。

March 10, 2007, 現時間 12:02 AM | コメント (0) | トラックバック

February 23, 2007

ミネアポリス空港イスラム教タクシー運転手の乗車拒否に厳しく対処

宗教と文化

去年の10月アメリカのミネアポリス空港において一部のイスラム教タクシーの運転手が酒類を持った乗客を拒否するという事件が相次いでいることをお話した。いまや空港に出入りするタクシー運転手の3/4がサマリア出身のイスラム教徒であることから、乗客からの苦情が殺到し空港側もその対処に困っていた。

ミネアポリスの空港ではタクシーがお客を拒否した場合、一旦空港を出てタクシー乗り場の列の最後部に並び直さなければならないため、暇な時は2時間も3時間も自分の番が再び回って来るのを待たなければならない。そこでこの待ち時間を不服に思ったタクシーの運転手らが、空港に特例を出してもらい、イスラム教徒のタクシー運転手が酒類を持っている、または持っていそうなお客を拒否する権利をもつ特別許可を申し出ていた。空港側は宗教を理由に短距離のお客を断る運転手が出るのを恐れ、この申し出を却下した。

しかし、いくつものタクシーに乗車拒否をされた外部からの乗客から苦情が殺到しているため、空港側は酒類を拒否する車は特別な色のライトを車の上につけることを提案した...

しかし少なくとも今回に限っては、この提案は市民の間で非常に悪評版であったため、案はお釈迦になった。

空港側はタクシー会社の代表者や地元イスラム教団体、サマリア移民団体代表らを招いたりして、自主的な譲歩などお互いに納得のいく解決方法を話し合ってきたが、タクシー運転手側の譲歩は全くなかったという。そこで空港側はタクシー運転手による乗車拒否にたいしてさらに厳しい対応策を提案した。

結果、空港委員会は乗車拒否に対する厳しい罰則を提案する。一回めの違反は30日間の空港での営業許可の差し止め。二回目からは許可とり消しとする。

あっぱれ、あっぱれ、ブラボー!

空港側は一般利用者からの意見を求めており、三月二日まで手紙を受け付けるということだ。私は空港側が運転手側の理不尽な要求を受け入れるのではないかと心配していたのだが、かえって厳しい対処をするとはあっぱれである。

ここはアメリカ、アメリカのやり方が気に入らないならアメリカでタクシーの運転手などするなといったところだろう。ところで、イスラム教徒が酒類を運送できないというイスラム法は存在しないと他のイスラム教徒らは言っている。ニューヨークなどでもアフリカ系やアラブ系のイスラム教運転手がいくらでもいるが、酒類を持っていて乗車拒否されたなどという話はきいたことがない。またカリフォルニアなどイスラム教徒が経営するコンビニでいくらも酒類は売られている。イスラム教徒は自分達が酒を飲むことは禁じられているが、他宗教のものが酒を飲むのを阻止する義務はない。

ここでも何度も紹介しているが、一部のイスラム教過激派はなんとかアメリカや他国にイスラム教を広めようとしている。そしてそれはこのような小さなことから始まるわけだが、我々はその度ごとに戦って勝たねばならない。そうでないと気が付かないうちにいつの間にかアメリカがシャリア法によって支配されることになるからだ。

February 23, 2007, 現時間 01:45 PM | コメント (1) | トラックバック

February 22, 2007

エルサレム、なぜ通路修復工事が問題なのか

宗教と文化 , 対テロ戦争

今、イスラエルのエルサレムでは宮殿に続く通路の修復工事を巡ってイスラム教徒による暴力沙汰が起きている。下記は9日の毎日新聞の記事。

エルサレム旧市街のイスラム教の聖地ハラム・アッシャリーフ(ユダヤ名・神殿の丘)につながる通路の修復工事を巡り、金曜礼拝に集まったイスラム教徒が9日、投石などで激しい抗議行動を展開、イスラエル警察が聖地に入場してゴム弾や催涙ガスを使用する事態に発展した。死者はいない模様だが、双方に負傷者が出た。

 イスラム教徒はイスラエル当局が実施している同工事について「聖地が破壊される恐れがある」と激しく反発。指導者らが9日の礼拝にあわせて大規模な抗議行動をするよう呼びかけていた。

 高台にある聖地の下部にはユダヤ教徒が祈りをささげる「嘆きの壁」があり、投石が始まった後、イスラエル警察はこの付近からユダヤ教徒らを退避させる一方、聖地に入場して催涙ガスなどを使用した。イスラム教徒の一部は聖地の「アルアクサ・モスク」内に陣取るなどして抗議を続けた。毎日新聞 2007年2 月9日 21時22分

いつものことではあるが、イスラム教徒側の主張はただの言いがかりだ。この通路はテンプルマウント(神殿の丘)にあるアルアクサ・モスクに続く道ではなく、丘の下部にあるユダヤ・キリスト教の聖地へとつながる通路である。第一、イスラエルはこれまで存在しなかった通路を新しく建築しているわけではなく、すでに存在していた通路が数年前の地震で破壊された際に臨時に建てられた木造通路を、もっと安全な通路へと修復するために工事をしているに過ぎない。通路がモスク破壊につながるというのであれば、とっくの昔に破壊されていたはずである。以前にもイスラムは惜しみなく奪うで書いたように宗教的に価値あるものを破壊するのはイスラム教徒のほうでありユダヤ教徒ではない。

では何故、モスレムたちはこの修復工事にこうもムキになっているのだろうか。実は丘の上から聖地へつながる通路はモスレムが管理しているため、イスラム教徒以外の信者は通ることができない。モスレム以外の信者が聖地へいくためには下部にあるこの通路を通る以外にないのである。つまり、モスレム達はインファデル(不信心者の意味)が聖地に入るのを全面的に阻止しようとしているわけだ。

この話を理解するためには神殿の丘にまつわる歴史的背景を振り返ってみる必要がある。ここでウィークリースタンダードに掲載されたこの記事を参考に考えてみよう。(Ramping Up the Violence, The truth about the Temple Mount controversy. by David Gelernter, 02/26/2007, Volume 012, Issue 23)

先ず考古学の立場から考えてこのあたりは遺跡の宝庫である。ローマ時代から種々の文化が建築しては破壊してきた歴史が地下何層にも渡って埋まっているのだ。であるからイスラエルの考古学者やオーソドックスの宗教家の間でも古い通路のある場所には問題があったため、修復される際にこの通路をどこに建設するかでかなりもめていた。

しかしながらイスラム教徒が通路修復を反対しているのはこのような考古学上の立場からではない。

神殿の丘はエルサレムにあるWagfと呼ばれるイスラム教機構によって管理されているが、丘におけるどのような発掘作業も工事もWagfはイスラエルの承認を得なければ着工できないことになっている。1996年、イスラエル政府は何故か大きなイスラム教地下聖廟の建設を許可した。工事がはじまるとイスラム教徒たちはさらに「非常出口」の必要性を主張。イスラエル政府はこれもまた許可してしまった。

神殿の丘は考古学的にも遺跡の宝庫であると書いたが、Wagfはこの土地における発掘をかたくなに拒んできた。おかげでこの土地にはまだまだ発掘されていない遺跡がぎゅう詰めになっていたのである。その貴重な遺跡がこの「非常出口」工事の際に2000平方メートルにわたり6000トンという莫大な量の土とともに運び出されてしまった。しかもこの土はごみため場に無造作に積み重ねられ放ったらかしにされたうえに、その上に積もったゴミで遺跡もなにもごっちゃになってしまったのである。

これには世界中の考古学者が悲鳴をあげて当時のイスラエル首相エクード・バラク氏にイスラム教徒による工事をやめさせるよう嘆願した。

「世界の世襲財産がダンプトラックによって運び出されてしまっている」とビビカル・アキオロギー・レビュー(聖書考古雑誌)の編集者ハーシェル・シャンクス(Hershel Shanks) は2000年7月のワシントンポストに書いた。「エルサレムの神殿の丘に存在する遺跡を大切に思う人々ならだれもイスラエルがWagfを止められないことに怒るべきだ。Wagfは違法にイスラム教徒だけでなくユダヤやキリスト教徒にも歴史的に貴重な遺跡を破壊している。」

イスラエルでは政党を超えた何十人という著名人がバラク首相にこの破壊をやめさせるようにと嘆願書を送ったがバラク首相は聞き入れなかった。当時バラク首相はパレスチナとの「ピースプロセス」と呼ばれた和平交渉を進めるのに必死でイスラム教徒をやたらに刺激したくないという方針をとっていたからだ。

しかし神殿の丘の管理人としてはおよそ適切ではないイスラム教のWagfなるものが神殿の丘を牛耳っているのか、これもイスラエルの長年に渡る妥協政策が仇になっている。

1947年に国連が英国パレスチナにユダヤ教とアラブの政権を隣同士に創設した際、エルサレムはどちらにも所属しないということで国際化されるはずだった。シオニストたちはこれを受け入れたがアラブ人たちは拒絶した。そして1948年の5月レバノン、シリア、イラク、エジプト、そしてトランスジョーダンのアラブ連盟の連合軍は新しいユダヤ国を攻撃した。彼等はエルサレムを破壊することには失敗したが神殿の丘が建つ旧市街のある、エルサレムの大事な半分を獲得した。その後20年間にわたってヨルダン王国はユダヤ人の旧市街への入境を阻止し西の壁への通路を拒否した。そして彼等は避難したユダヤ人の代わりに組織的に市にあったユダヤ教寺院を次々に破壊した。

1967年(六日戦争)にエジプトが率先して起こしたイスラエルへの攻撃の際、イスラエルは神殿の丘を取り戻した。その時イスラエルはヨルダン人がユダヤ教徒の墓地を掘り起こし墓石を使って道路や公衆便所の建設に使っていたことを知ったのである。

にも関わらずその直後イスラエルは一方的に丘の管理をWagfに引き渡した。これはバラク首相が30年後にWagfによる丘の冒涜を許したのと全く同じ、みじめな胸が張り裂けるほど切実な友情と戦争はもうしたくないと言う渇望からの仕草だった。

むろんこの好意がイスラム教徒によってどのように「恩返し」されたか我々はよく知っている。

先週私はエルサレムの市長が修復工事を一時停止すると発表したのを聞いた。イスラエルがイスラム教徒に好意から妥協する度にイスラム教徒らによる敵意はつのり、その憎悪は一層深まる。もう何十年もの歴史がそれを証明しているではないか、なのに何故イスラエルは同じ間違いを何度も繰り返すのであろうか? 神殿の丘はユダヤ教徒によって建設された大事な丘である。そしてこの土地はユダヤ教徒だけでなく、キリスト教徒にも、そしてイスラム教徒にも大切な聖地なのだ。それをイスラエル政府は遺跡などには何の興味もない野蛮人に明け渡してしまったのだ。

これまで破壊の限りを尽くしてきたイスラム教徒たちがアル・アクサを守るために通路の修復工事を阻止しているなどというのは偽善も甚だしい。かれらは聖地を自分達の手で破壊し続けるのをユダヤ教徒やキリスト教徒に邪魔されたくないだけなのだ。

February 22, 2007, 現時間 05:39 PM | コメント (0) | トラックバック

January 28, 2007

韓流から寒流へ?

宗教と文化 , 音楽芸能関係

さっき、坂さんのエントリー、韓流など初めからなかったを読んでいて、ふーむと考えさせられてしまった。

今年になって日本への韓国映画の輸入はなんと前年よりも82%も激減したという。この変化はいくら飽きやすい日本とは言えひどい減り方だ。しかし、ここで私には非常に不思議に思うことがある。

日本には昔から外国映画やテレビ番組がいくらも輸入されていた。映画ではアメリカが主流とはいえ、フランスやイタリアの映画も結構人気がある。テレビは圧倒的にアメリカ製品が主流だが、それでもその歴史はもう何十年にもさかのぼり、韓国の番組の人気があがってもアメリカ番組の人気はそれほど下がっていない。

どうしてアメリカのテレビ番組や映画は何十年も人気が継続しているのに、韓国ブームはほんの数年で終わってしまうのだろうか? これは坂さんのいうここにあるような気がする。

韓国には自国民を満足させるだけの文化がないということである。...実際、強く規制しているにもかかわらず、海賊版のCDやDVDで日本のポップスやシネマが出回っており、若者たちは原宿のファッションに敏感に反応する。

また、大衆文化とは言えないが、小説では村上春樹、江國香織、吉本ばなななどがベストセラーを連発し、韓国人作家を圧倒している。これは、韓国人が日本文化に強い憧憬を抱いているということであり、それだけ韓国の現代文化の底が浅いということの証明でもある。

実は日本で韓流などという言葉が流行る十何年も前のことになるが、私はテレビで韓国の娯楽番組を結構観ていた。そこで気が付いたことは、韓国の演歌が日本の演歌そっくりであるだけでなく、ポップス歌手の格好、歌い方、振り付けなどが日本のをそっくりそのまま真似したものだったことである。当時韓国では日本語では歌を歌ってはいけないことになっていたが、人気のある日本の歌が韓国語の歌詞で歌われるなどは普通だった。

韓国人の同僚から韓国では芸能人が日本へ行って成功したら、日本の野球選手が大リーグで成功するのと同じくらいハクがついたとはなしてくれたものだ。当時、私が韓国の人たちと話をしていて感じたのは、韓国人の持つ日本への限りない羨望と憧れである。当時は今のような反日感情を私は韓国人から感じたことがなかった。

個人的な経験だが、私は1980年代後半にアメリカのとある町の銀行で働いていた。そこは昔は白人ばかりの非常に保守的な町で、少数民族といえば戦前に移民してきたごく少数の日系人経営の苺畑がある程度だった。しかし私がつとめはじめてすぐ、ほん1〜2年の間に突然韓国からの移民がどっと増え、町はあっという間に韓国化してしまった。私が勤めていた店には東洋人は日本語のできない日系人のおばちゃんと私だけだった。そこへ英語のはなせない多くの韓国人のお客さんが来るようになると、同僚もお客さんたちも私をたよりにするようになった。私がいくら韓国語と日本語は違うのだといっても駄目。なにしろ話は通じないと私が主張しているそばから、年配の韓国人が日本語で話しかけてきたりしたので余計に話がこんがらがってしまった。

日本語のできる韓国人ということは旧日本帝国の統治下にいた人たちのはずだ。だが私はその人たちから敵意の目で見られたことはないし、かえって日本軍のおかげで教育が受けられたと感謝しているとさえ言われた。私が日本人と知っての議事麗句にしてもそこまで言う必要はないはず。ある中年の女性は協会のピクニックに招いてくれたし、あるおばあさんは私に手作りのお蕎麦をもってきてくれたりした。一度近所で韓国の秋祭りが催され、宣伝になるからとうちの銀行も屋台をだしたことがあった。その時韓国語放送のラジオのDJが私に話しかけてきて、私が韓国語が分からないという顔をすると、歌は歌えるかというきくのでアリランを日本語で歌ったら、周りにいた韓国人と大合唱になってしまったことがある。

あれだけの韓国人に囲まれていても明らかに日本人に見える私に敵意を見せた人は一人もいなかった。もし歴史的な問題が原因で韓国人の反日感情が生まれたというのであれば、20年前のほうがひどかったはずであるが、実際はその逆だ。

私は韓流ブームのきっかけになった「冬のソナタ」も見てないので、これは母や叔母から聞いた話からの判断なのだが、日本の中高年の女性に人気があったのは韓国の純愛ドラマのせいではないのだろうか。日本のドラマにしてもアメリカのものにしてもそうだが、最近の恋愛ドラマは視聴者の対象が若すぎる。主人公が若くて美しいのは当たり前だが、ロマンスよりもセックスが先行し、愛し合えども結ばれぬ定め、、なんていう演歌風ドラマからはほど遠い。韓国ドラマには日本のドラマが失ったロマンスが残っていた。だから韓国番組のファンには私の母親世代の中高齢女性が多かったのではないかと思う。

しかし、韓国映画やテレビドラマが人気が出るにつれ、韓国映画もハリウッド病にかかってきたように思える。セックスや暴力なら予算の多いアメリカ映画を見ればいいのであって、わざわざ韓国映画を見る必要はない。韓流ブームがただのブームではなく、欧米映画のような伝統となるためにはやはり韓国ならではの個性のある純愛ものを続けて作っていく必要があるのではないだろうか。

それに、あの気違い大統領の反日発言もどうにかしてほしい。韓国人の日本に対する反感は本物ではない。韓国がやたらに国粋主義に走るのも、独自の大衆文化がなく、アメリカや日本の真似しかできないことへの憤りではないだろうか。

しかし日本もアメリカに追い付け追い越せから卒業して、日本のゲームショーがアメリカで真似されるようになるくらいだから、韓国も自信をもって欲しい。お隣同士、また仲良くしたいものだ。

January 28, 2007, 現時間 02:05 AM | コメント (2) | トラックバック

January 16, 2007

豪州で非難轟々イスラム聖教者の暴言

宗教と文化

English version of this post can be read here.

当ブログでも何度か話題にしたオーストラリアのイスラム聖教者ヒラリ師。以前に水着姿の女性を「布巾のかぶってない肉」と比べて強姦されても女性が悪いという発言をして大批判を浴び、謝罪を余儀なくされた。その同師が今回エジプトのテレビインタビューでまたまた暴言を吐いたようである。

前回の失言で謝罪はしたものの本気で反省していたわけではなく、『同師は今回のインタビューで、「イスラム社会に対する計画的な陰謀」と豪州メディアなどを非難し、白人は「最大のうそつきだ」と述べている。』また自分が市民権を持つオーストラリアの市民を犯罪者の子孫などといって批判した。

この模様を報道したオーストラリアのニュース番組のビデオはOccidentalismで見ることができる。このテレビ局で解説している人の話だと、このヒラリ師は過去20年間に渡って強姦を正当化してきたという。 

オーストラリアだけではないが、欧米でも地元のイスラム教徒は西洋のテレビ局などでのインタビューでは結構穏健的な意見を発言するが、我々がきいていないと思うと本心がでて信じられないようなことを言っている。時々その場面が暴露されても、支持者たちが「前後のつながりもなく一部的に誤解された」といって言い訳をする。今回もヒラリ師はエジプトのテレビ局でオーストラリア人が観ていないと思って好き勝手なことをいったようである。

 【ジャカルタ井田純】オーストラリアのイスラム指導者が、「手かせをされて来たアングロサクソンより、我々イスラム教徒の方が豪州でより大きな権利を持つ」などと発言し、反発が広がっている。同国が18世紀末、英国の流刑地として植民地化された歴史的経緯を踏まえた発言だが、閣僚も不快感を表明するなど、白人とイスラム教徒との潜在的な緊張関係を示す騒動となっている。

 この発言をしたのは、エジプト出身で豪州市民権を持つイスラム高位指導者のヒラリ師。エジプトのテレビ局のインタビューで、「アングロサクソンは豪州に手かせをされてやって来た。我々イスラム教徒は自由な市民として、自分で切符を買って来た。国に対する権利は我々の方が大きい」などと述べたとされる...

 豪州ではイスラム教徒によるテロ計画が発覚するなど、少数派のイスラム教徒に対する警戒が強まっている。バンストーン移民相は、ヒラリ師の発言に対する怒りの声が政府に多く寄せられていることを明かし、「豪州が嫌ならエジプトから帰ってくる必要はない」と公言している。

豪州を含む欧米諸国で西洋を批判しイスラム教を唱えるイマーム(イスラム教聖教者)たちは自分達を移民として迎え入れてくれた国の政策をことごとく批判するので、地元の国民にしてみれば「そんなに嫌なら祖国へかえれ」といいたくなる。だがここに我々の間違いがある。彼等は理想の国を求めて外国に移民したのではない。彼等の目的は最初から移民した先の国を乗っ取ることにあるのである。

我々は彼等の穏健な表向きにだまされてはいけない。イスラム市民団体代表のハンサムな男がアマディのスーツを着てチャーミングにふるまうからといって彼等が西洋文化を尊重していると勘違いしてはいけない。彼等がヒラリ師のような過激派を糾弾できないのであれば、彼のような人を自分らの代表者としていつまでもあがめたてるのならば、イスラム教団体そのものに問題があると思われても仕方ないだろう。

関連ブログエントリー:

豪州女性たちイスラム教ベールにビキニで抗議デモ行進!
残念! 豪州ビキニマーチは来年一月に延期

January 16, 2007, 現時間 09:52 PM | コメント (0) | トラックバック

January 12, 2007

米イスラム市民団体に断固たる姿勢:バーバラ・ボクサー民主党議員

アメリカ内政 , 宗教と文化

CAIRというアメリカ最大のイスラム教の、市民団体とは名ばかりのテロ団体の話は以前から何度もしているが、今回カリフォルニア州の下院議員バーバラ・ボクサー氏が公にCAIRとテロ軍団との関係を批判しイスラム教徒らから大攻撃を受けている。

以下はワシントンタイムスに載ったジョール・マーブレイ氏のコメンタリーを参考にして書かせてもらった。

バーバラ・ボクサー議員といえば私には地元の民主党議員だが、その思想は非常に左翼的で私は何一つ賛成できることがない。だから今回女史が穏健派を装い裏ではテロ軍団に資金援助をしたりイスラム過激派思想を広めているCAIRにたいして断固とした姿勢を示したことは驚くと共に非常に喜ばしく思う。

ことのきっかけはボクサー議員がサクラメント市の政治運動市民バシム・エルカラ氏に「活躍賞」を贈呈する予定だったのをエルカラ氏が地元CAIRのリーダーであることを学んだ直後ボクサー議員が賞を取り下げたことにある。これにショックを受けたのはエルカラ氏当人よりもCAIR本部である。

911事件後、なぜかアメリカ最大のイスラム市民団体はその勢力が衰退するどころか一見穏健な意見を掲げてアメリカの政治家達に取り入り、あらゆる部門でその権力の幅をきかせるようになってきた。特に反ブッシュ政権の左翼政治家への取り入りかたは熱心だったので、今回左翼の政治家であるボクサー議員から公の場でテロリストとの関係を指摘され大々的に拒絶されたことはCAIRにとっては予想外の衝撃であったろう。

ボクサー議員は同じく民主党の左翼議員ニューヨーク代表チャールズ・シューマー議員やディック・ダービン議員が三年前に発表した見解を繰り返したにすぎないのだが、政治家の間では民主党も共和党の議員もCAIRを表立って批判する人間は少ない。これまでCAIRについて批判的な意見を表明してきたのは主に保守派の政治評論家やブロガーたちである。

CAIRはボクサー議員が「親イスラエルロビー」の「反イスラムの過激派」に丸め込まれたのだと主張している。ボクサー議員は地元では人気のある議員であり、今後も再選で負ける可能性のほとんどな安全な議席の所有者だ。そのボクサー議員がCAIR関係の市民に賞を与えたからといって特にこれといった批判を受ける心配はない。だが逆に人権擁護を表看板にしている勢力ある市民団体CAIRを公に批判することで、ボクサー議員はイスラム教過激派から政治的にも身体的にも多大なる攻撃を受ける危険性がある。政治的に経験豊富なボクサー氏がその危険性を考えなかったとは思えない。だから今回の彼女の行動はかなり勇気あるものだと評価されるべきだろう。

CAIRは予想どおりその組織力を動員してボクサー議員の事務所に大量の嫌がらせ電話攻撃をおこなっている。皮肉なことにこのCAIRのボクサー議員への攻撃がCAIRの暴力団的な危険性を世間に示す結果となった。

CNNテレビのインタビューにおいてCAIRのスポークスマンであるイブラヒム・フーパー氏はCAIRは常にテロリズムを厳しく批判してきたと大嘘を述べた。

CAIRは過去に一度だけハマスのテロ行為を批判したことがある。2002年3月にユダヤ教の大事な祭日パスオーバーの日にイスラエルのネタンヤで起きた虐殺事件がそれである。しかしCAIRはその声明文で事件がイスラエルで起きたとせず「中東での攻撃」とだけ書いていた。またヒズボラに関してはこの間の一か月に渡る戦争について、CAIRはヒズボラのテロ行為を一度も批判せずアメリカとイスラエルへの批判ばかり少なくとも8回は声明を発表している。

実際にCAIRがハマスやヒズボラを糾弾したことなど一度もない。その気になればワシントンポストやピッツバーグガゼットなどの紙面を使ってその機会はいくらでもあったのにである。ニュースウィーク誌が先月ハマスを糾弾すべきではないかと直接質問した時もCAIRの会長で創設者のひとりNihad Awad氏は「親イスラエルロビーの遊びだ」といって一笑に伏して答えなかった。

しかしCAIRは誰も聞いていないと思うとその会合などでテロリストへの熱烈な支援と共感を述べている。

1994年フロリダのバリー大学で行われた演説のなかでAwad氏は「私はハマス運動を支持する」と宣言。氏は「私はハマス運動を支持する」と1999年シカゴで行われたパレスチナイスラム協会の大会でも青年たちに向かって述べた。またもう一人の創設者Omar Ahmad氏も自爆テロ犯人を讃え「イスラムのために自決した」「自由のために戦い、イスラムのために戦ったのだ、自殺ではない、イスラムのために死んだのである。」と語った。

CAIRはしたたかな団体なので今後も色々と問題を起こすだろうが今回のボクサー議員の行動がきっかけとなって、アメリカの左翼の間にもCAIRがアメリカの敵なのだという意識がひろまってくれればこれに越したことはない。

この間下院議員に就任したばかりのアメリカ初のイスラム教議員にしてもそうだが、イスラム教過激派は正体を隠して我々の世界に潜入するので、十分な注意が必要だ。

January 12, 2007, 現時間 06:21 PM | コメント (0) | トラックバック

December 29, 2006

おせち料理に見る日本人の心

宗教と文化 , 日常の出来事

本日ミスター苺と一緒に色々なスーパーを飛び回っておせち料理の材料を集めて参りました。

え、カカシさん、おせちなんて作るの? と言われそうだが、実は作るのです!

アメリカに移住してから私は日本を恋しいと思ったことはほとんどないのだが、お正月だけはどうしても日本風のお祝いをしたくなる。12月になると年末の慌ただしい商店街とか、町内会で父が先導してやっていた餅付きなどがなつかしくてたまらなくなる。日本にいる時は一瞥もくれなかったおせち料理も自分では食べなくても食卓に並ばないとどうも正月気分にならない。それで私はロサンゼルスのリトル東京にある日本食スーパーに行って出来合いの御節料理を買い込んでは、自分では食べきれずに日本人の女友達と一緒に豆きんとんを食べながらおとそを飲んだりしていた。

しかし、私がおせちに興味を持ちはじめたのは日本のバブルが弾けた後の1990年代初期の頃だった。当時は南カリフォルニアに住む日本人の数が激減し、世界中に手を広げていたヤオハンなどが店を閉めてしまい、ほかの店が開いた頃だった。

そんなある年の暮れ、私は小東京にあるちいさなスーパーに買い物に行ったのだが、どこにもおせち料理がおいてない。店員をしていた日系の若い男の子に「おせちはどこにあるの?」と聞くと「え? おせち? なにそれ?」と聞き返してくる。ショックを受けた私は「あんたそれでも日本人?」というと「ボク、アメリカジン」と日本語で言い返されてしまった。ううう、、、(涙)

小さい店だからないのだろうと気を取り直して、おおきな日本食スーパーへ足を運んだがそこでもうってない。かろうじて日本語のわかる店員にきくと早めにだしても腐るから30日まで売り出さないという。「だっておせち料理を作る人は一週間前から料理をはじめるのに、30日まで材料が買えなかったら待ちあわないでしょうに」というと「今時つくるひとなんかいないでしょう」といわれてしまった。

仕方なく30日に買い物をしたが、需要が少ないため供給もすくなくその値段の馬鹿高かったこと!一万円くらいの予算ではおつまみ程度のものしか買えない。しかもどうせ自分だけで食べるのだからとちょっとだけ買ったおせちをミスター苺に味見させたのが悪かった。おせち料理に魅せられたミスター苺は私の買った少量のおせちをたった一回の食事で平らげてしまったのだ。

これでは正月がくる度におせち料理で破産してしまう。仕方ないのでせめてミスター苺のすきな栗きんとんだけでも自分で作ろうと思い立ったのが、苺畑家のおせち料理伝統の始まりである。

しかしこれが思った以上に大変だった。実家でも忙しい母はおせち料理などつくらなかったので、おせちの作り方などカカシは全く知らなかった。くりきんとんの作り方など母はおろか日本人の友達や親戚に聞きまくったが誰もしらず、友達の友達という人から聞いてやっとわかったことがある。

ひとつでも自分で作ってみると、欲が出てきて、その後はどうせならすべて自分で作ってみようという気になり、料理の本を買い込んだり友達とレシピの交換をしたりして自分なりにおせちは三重の箱をきちんとうめられるくらいに腕があがった。

ところでここ数年気が付いたことがある。一時期は30日までおせち料理を出さなかった店で25日頃からおせち料理がおかれるようになったのだ。しかも、出来合いのものばかりではなく、おせち料理を作るのに必要な材料がおせちコーナーとしてもうけられた場所で大量に売られるようになったのである。日本ではどうなのかわからないが、ロサンゼルス界隈では自分でおせちを作ろうという日本人が増えたようだ。

数年前までは栗の甘露煮や練りごまをみつけるのに一苦労したものだが、いまやくちなしの実(くりきんとんを黄色く染める)などがきちんと売られていた。外国にいるとお正月が恋しくなるのはどうやら私ひとりではないようだ。

December 29, 2006, 現時間 08:46 PM | コメント (0) | トラックバック

December 28, 2006

イスラム教議員批判は人種差別ではない!

アメリカ内政 , 宗教と文化 , 狂ったメディア

アメリカ初のイスラム教徒議員が、就任式の宣誓を従来の聖書ではなくコーランを使ってやるつもりだと発表して以来、賛否両論色々でている。私は反対派だが、それについてはすでに何回か取り上げているので是非過去ログを読んでいただきたい。特に二番目は背景を知るのには大切。

『コーラン宣誓』でみた日本人の誤解
米初のモスレム議員聖書宣誓を拒否
アメリカのイスラム化を狙うCAIR

さて、ミネソタのイスラム教の新議員キース・エリソン氏(民主)をとりわけ批判しているのはバージニア州の共和党議員バージル・グッド氏(Rep. Virgil H. Goode Jr.)。これについて22日付けのワシントンポストの社説はグッド議員を「人種差別者」といって批判している。

人種偏見は色々な姿に変装して現れる。それらは暗号だったり、潜伏していたり、信じられないくらい馬鹿だったりする。バージニア南部の一片を代表するバージル・H・グッドJr議員が示した人種偏見は三つ目のカテゴリーにぴったりあてはまる。他民族恐怖症の妄想状態にあったと見えて、グッド氏は合衆国へのイスラム教移民によって迫る危機と堕落の脅威に対して熱弁を振るった。「今のアメリカ合衆国の価値観と信仰を守るための厳しい移民制度を取り入れ手おかなければ、来世紀にはもっとく多くのイスラム教徒が移民して来るだろう」と氏は彼の地元住民に当てた手紙に記した。

社説はグッド氏はアメリカの価値観とは寛容、多様性、宗教の自由だと教えた授業中に居眠りでもしていたんだろうとおちょくっている。そしてアメリカにとって危険なのはグッド氏のような偏見を持った考えがアメリカの価値観だと世界が誤解して、あたかもアメリカがイスラム教に宣戦布告をしたかのように思われることにあるとしている。

これが他の宗教の話なら、私もワシントンポストの社説に同意したかもしれない。だが、ことイスラム教に関してはグッド氏の懸念を単なる被害妄想で片付けることはできない。イスラム教移民が20%を占めるようなフランスや他のヨーロッパ諸国において、一世代前に受け入れた多量のイスラム教移民がどれだけ深刻な問題をおこしているかワシントンポストも無知ではないはず。それだけでもグッド氏の懸念は決して行き過ぎではない。

しかしもっと身近で差しせまった心配はグッド氏が批判しているエリソン議員本人にある。Jihad Watchの著者、ロバート・スペンサー氏は、エリソン議員がネイション・オブ・イスラム(アメリカの黒人イスラム過激派グループ)の長年のメンバーであること、イスラム過激派テログループのモスラム・ブラザーフッドなどと深い絆のあるアメリカのイスラム教市民団体CAIRとも深いつながりがあることなどをあげ、エリソン氏の危険な考えについてワシントンポストが一言も言及していないことを指摘している。

上記のリンクからスペンサー氏作成のビデオを見ることができるが、エリソン議員がコーランをつかって宣誓をすると発表した際、参加していた支持者の間から「アラー・アックバー(神は偉大だ)」という大斉唱が聞こえてくるのは非常に無気味だ。

グッド議員が支持者に出した手紙の内容をすべて読んだわけではないので、彼が移民全体に関してどのような意見を持っているのかは定かではない。だがグッド氏の懸念と批判をただ人種偏見だとか差別主義だとか脊髄反射でいう前に、エリソン議員がアメリカの憲法や道徳や価値観を尊重する意図があるのかどうかワシントンポストは問いただす義務があるのではないか? 

この間も私はダラスの記者がイスラム教批判の記事を書いて地元イスラム教市民団体から苦情をもらった時、ではあなた方はアメリカはシャリア法のもとで生きるべきだと考えるのか、という質問にはっきりイエスともノーとも答えられなかったことを書いた。エリソン議員にもアメリカはこの質問をすべきである。本来ならば議員の選挙運動の時に地元新聞がこの質問をすべきだったのだ。だが、ライバル議員によるこのような質問はすべて異教徒への偏見だ、人種差別だ、被害妄想だ、といって片付けられてきちんと報道されなかった。

アメリカ初のカトリック教徒大統領だったケネディ大統領が大統領に立候補した時、彼は彼の忠誠はアメリカにあるのかそれともローマにあるのかと問いただされた。モルモン教徒である共和党の議員で、2008年の大統領選出馬の意志表示をしているミット・ロムニー議員も同じようにモルモン教の教えとアメリカの憲法とどっちを重んじるかという質問に何度も答えている。

それならば、なぜエリソン議員だけがイスラム教だというだけで特別扱いを受けるのだ? はっきり言って、イスラム過激派テロリストと戦争状態にあるアメリカでは、イスラム教こそカトリックやモルモンなどよりも問題にされていい宗教のはずだ。これはアメリカの存続がかかっているのだ。グッド議員がいうように、今はっきりさせておかなければ、今後もっと増えるだろうイスラム教移民にアメリカは適切な対処ができなくなるだろう。

ワシントンポストの社説がいうような、アメリカがイスラム過激思想を大手を広げて寛容に受け入れ、イスラム教批判者は人種偏見者といって黙らされるなどというメッセージを世界のイスラム教徒に広めるほうがアメリカにとってはよっぽども危険なことである。

December 28, 2006, 現時間 06:34 PM | コメント (1) | トラックバック

December 22, 2006

『コーラン宣誓』でみた日本人の誤解

宗教と文化

アメリカ初、イスラム教議員の就任の際、コーランに手をおいて宣誓をしたいといいだしたキース・エリソン議員の話が日本のブロガーたちの間でも結構話題になっているが、そこで日本の方々はかなりこの件について誤解しておられるようなので、その典型的な例をふたつほどあげてみたい。

その前に私がこの件について書いた過去のエントリーをリンクしておこう。

米初のモスレム議員聖書宣誓を拒否
アメリカのイスラム化を狙うCAIR

まずは清谷信一さんのブログ。彼のブログにコメントしようかとおもったら、うちのブログでよくコメントを下さるアラメイン伯が私のいいたいことをすべて書いて下さっていたので、コメントは彼におまかせするとして、こちらではエントリーとして書かせていただく。

そら、キリスト教関係者やら保守系の人たちは「議員辞めろ」大騒ぎです。エリソン氏はキリスト教原理主義者によって暗殺されるかもしれません。

アメリカでは裁判やら公的な仕事に就く場合とか宣誓するときには聖書に手を当てますよね。俺はバテレンじゃないし、聖書は嫌いだから聖書は使わないとか言い出したらどうなるのだろうとか、仏教徒だから般若心経で宣誓する人間とかいないんだろうか、などと昔から疑問に思っていたのですが、まさにそういうケースが起きたわけです(セオドア・ルーズベルト大統領は聖書を使わなかったそうですが)。

 まあ幾ら信教の自由を保障するといっても、それは建前の国ですから、米国世論は沸騰するでしょう。あの国はキリスト教原理主義国家ですから。ニューヨークとかロサンジェルスとか大都会はまだしも、ノースダコタやらアラバマの田舎なんぞは極めて保守的で、ホモだとバレると殺されるとかありますからね...

 移民にしてもヒスパニックがかつての日本人の移民ほど問題にならないのは彼らがカソリックからです。あれがブードゥー教とかイスラム教とか、拝火教だったら排斥されていたでしょう。

 実はアメリカは宗教に関しては実はイランやイスラエルとたいして変わらない、とう事実を認識し、アメリカは自由の国とかすべてにおいて先進的という幻想は捨てるべきだと思います。

はっきりいって、ここまでアメリカについて無知なひとにアメリカの悪口をいわれたくないというのが私の個人的な感想なのだが、、そんなことを最初からいっていたのでは議論にならないのでひとつづつ考えよう。

まずアメリカでは公の場に赴く時に聖書の上に手をあてるが、あれは憲法では「宣誓もしくは確認する」とあり、絶対にキリスト教の神に誓わなければならないなどとは書かれていない。別にアメリカの議会も保守派もキリスト教徒でもないエリソン氏にキリスト教の神に誓えと強制しているわけではないのだ。アメリカの議員なのだからアメリカの伝統に敬意を示すべきだといっているに過ぎない。

日本人の移民が問題になったのは太平洋戦争があったからであって、それまでは日本人移民は農園などの経営を通じてアメリカ社会に溶け込んでいた。ヒスパニック系の移民が問題になっていないと清谷氏が考えているなら、先の中間選挙でメキシコと国境を面しているいくつかの州でこれがどのくらい問題になったのかお調べになることをおすすめしたい。

エリソン氏が保守派に暗殺されるとか、南部では同性愛がばれると殺されるとか、イランのようにそれこそ同性愛者の首を平気でちょんぎるような国とアメリカを一緒にしないでいただきたい。アメリカではイスラム教諸国でおきているような異教徒に対する迫害は全くない。それどころか多様文化主義によってキリスト教徒のほうが他宗教に気を使うケースのほうが多いくらいだ。民間の企業や商店などではあからさまに「メリークリスマス」といわず、「ハッピーホリデー」といいましょうとか、役所などの公の場所からは十戒の書かれた壁飾りが取り除かれたり、クリスマスツリーですら飾ってはならないという規則ができたりしている。イスラム教のテロリストを集めたゴンタナモ収容所ですらイスラム教徒用の食事を出すなどという気の使いぶり。はっきりいって最近のアメリカはやり過ぎだという感じる人も少なくない。清谷氏はそういうアメリカの現状を全くご存じないにも関わらず、ただの噂話を信じ、この件についてのみでアメリカの価値観を評価しようとなさっている。非常に残念だ。

さて、今回の件でアメリカのキリスト教至上主義が暴露されたとおっしゃるのは早撃ち0.3秒のガンマンさん。

要は信教の自由とはキリスト教を基礎に成り立っているという現実をアメリカ国民が認識しているが故にここまで大きなニュースになっているのだろう。こんなことは当たり前のことで国家とは基本概念で均質化する必要がある。それを実現するために一番効果があるのが宗教である。そういった前提の信教の自由を掲げていたわけである。

しかし、日本ではこの「信教の自由」が一人歩きを始めた。神道は日本が古来から育くんだ神聖なものであったが、アメリカに押し付けられた昭和憲法により相対的なものとされた。独立国家の宗教が他国により蹂躙されたといえよう。

その根拠とされたのが「信教の自由」である。しかし、その「信教の自由」を日本に押し付けたアメリカ本人ですら、キリスト教至上主義であることをここにおいて暴露した。ここでアメリカという国家がどういう反応にでるか興味がある。万が一イスラム教の宣誓を排除するような行動に出た場合、アメリカの建前がもろくも崩れ去るだろう。

いいかげん、日本もくだらない昭和憲法など破棄して、日本にあった憲法を作るべきではないのか。

日本が憲法を改正したいのであれば思う存分改正すべしだとは思うが、それはアメリカに「押し付けられた」からという理由ではなく、日本の現状にそぐわないからという理由であるべきだろう。アメリカが日本に憲法を「押し付けた」といっても、アメリカは日本人に神道を信じるなとはいってない。日本が神道を基盤とした国であることを拒絶せよなどともいっていない。 アメリカが「押し付けた」宗教の自由とは、日本の基盤が神道であると国民が承知のうえで異教徒が他宗教を信じる権利を迫害してはならないということだけだ。

以前にも書いたようにアメリカはキリスト教の価値観によって創立された国であり、それが基盤となった出来た社会であるからその伝統であるキリスト教のしきたりがあちこちに残っている。それは別に異教徒にむりやりキリスト教を押し付けるというようなものではない。今度の件はそうしたアメリカの伝統と歴史をアメリカで議員をやろうという人間が尊敬できるのかということにかかっている。キリスト教至上主義などというくだらない問題ではない。以前にも書いた通りエリソン氏に聖書をつかえと強く訴えている保守派のコメンテーター、プレーガー氏はユダヤ教学者である。

私が日本語でブログを書きはじめた一番の理由は、アメリカを知らないことによって起きるこうした一連の誤解を日本の皆様に解いてほしいとおもうからに他ならない。ぜひともこのお二方のみならず、読者の皆様にはこの件を通じてアメリカの宗教観について多少なりともご理解をいただきたいものだ。

December 22, 2006, 現時間 01:30 AM | コメント (2) | トラックバック

December 19, 2006

欧州にて反イスラム意識強まる、、当たり前だ!

ヨーロッパ , 宗教と文化

本日喜多さんのところで『イスラモフォビアがヨーロッパを支配する』というイギリスのインディペンデント紙の記事を読んだ。イスラモフォビアとはイスラム教恐怖症という意味。だが、恐怖症というのは実際には危険でないものを病的に恐れる症状のことをいうのであって、ヨーロッパでおきているイスラム教徒らによる暴虐を考えると、ヨーロッパ人がイスラム教徒を恐れるのは当たり前だという気がする。

イスラモフォビアがヨーロッパ全土を支配する中、ムスリム達は肉体的攻撃、言葉による暴力、そして広がる差別に苦しんでいる。

新しい報告書は、ドイツとスペインでの放火から人種差別が原因とみられる殺人事件、そしてイタリアにあるモスクが豚の脂で汚された事件まで、犯罪や脅迫といった多数の事例をリストしている。...

また、ムスリム・コミュニティの人々に対する、言葉による脅しや暴力的な振る舞いは100件以上あった。

まず、この記事を読んでいて気が付くことは、ヨーロッパにおいてイスラム教徒がどれほど欧州人の差別や虐待の犠牲になっているかということが羅列されているにもかかわらず、イギリスも含めヨーロッパ各地で起きているイスラム教徒による暴挙の例がひとつものっていないことである。

これはパレスチナ・イスラエル問題でもよくある報道のしかただが、片方が暴力行為をしたことが原因で反対側が応戦したにもかかわらず、応戦した側の暴力だけに焦点をあてて最初に手をだしたほうの行動を完全に無視っしている。これでは現実の状況を正しく判断することなどできない。

この記事を読む限りでは、まるで人種差別意識でヨーロッパ人が異人種を迫害しており、イスラム教徒らはそのかわいそうな犠牲者であるという印象を受ける。だが現実には当ブログでも度々紹介してきたように、犠牲者というならやたらなことを新聞に掲載したり公の場で発表したりするだけで命を狙われるような状況で、安心してイスラム教批判のできない国となってしまったヨーロッパこそがイスラム教過激派の犠牲者であるといえる。

インディペンデント紙がそれを知らないわけはなく、にもかかわらずその事実を完全無視したこの一方的な報道。そうやってイスラム過激派に迎合することで自分らだけはイスラム過激派の攻撃対象とならないとおもっているなら愚かなことだ。先日もノルウェーで強姦事件が急増しているという記事をles chroniques de l'eXtreme-centre
紹介で読んだのだが、ノルウェーの新聞Afterpoften紙のこの記事では、ノルウェーでおきている強姦犯人の2/3までが「西洋でない国からの移民」と書かれている。なんという遠回しな言い方だ! イスラム教移民だとはっきりいえ、はっきりと! 

ヨーロッパの政府やメディアがイスラム教過激派の暴挙を過小評価し無視または迎合することでこの問題を片付けることができるとおもっているなら大間違いだ。ヨーロッパ諸国の政府がイスラム教徒のご機嫌取りをすればするほどヨーロッパのイスラム教徒は図に乗って過激化する。イスラム教徒による暴力を国がきちんと取り締まり切れていないと市民が判断すれば、市民による反撃が起きるのは当たり前。しかし一般市民は法律に基づいた道徳的な仕返しをするとは限らず、いやそうでない場合のほうがおおいだろうから、このままにしておけば反イスラム派の攻撃はイスラム教徒らがやってきた暴動のような生易しいものではすまなくなるだろう。

ヨーロッパ諸国がその道を歩みたくないのであれば、いますぐイスラム教暴徒らによる犯罪を徹底的に取り締まり、イスラム教徒らによる理不尽な要求をつっぱねるべきである。いそがないと本当にひどいことになるだろう。

December 19, 2006, 現時間 12:51 PM | コメント (0) | トラックバック

『穏健派』を装うアメリカの過激派イスラム市民団体

宗教と文化

アメリカはテキサス州にあるダラスモーニングニュース新聞のコメンテーターであるロッド・ドレイヤー(Rod Dreher)氏が、地元のイスラム教徒市民団体の代表者と会談を行った。それというのもどうやらドレイヤー氏が以前に書いたイスラム教市民団体に関する記事への抗議だったようだ。抗議の内容はドレイヤー氏の書いていることは一部の過激派イスラム教徒の意見であり、自分達穏健派イスラム教徒の意見を反映していないというものだった。しかし対談が進めば進むほど、この団体墓穴を掘っていくような気がしてならない。

私は代表者たちに前回に彼等と面会した時に、私と同僚に向かって同性愛者は殺されるべきだ、姦通した女性は投石処刑されるべきだ、といった彼等のリーダーの言葉を説明してもらうようにお願いした。代表者はこの立場について、ユダヤ教もキリスト教も同性愛を禁じていると盛んに言い訳をした。確かにその通りだが、彼等はゲイを殺すことを要求していない。彼等は殺されるべきだと考えるのか? イマームはどうし回教が泥棒の腕の切断を求めることが正当なのかと説明しだした。後に代表者はもし私がイスラムがこのような要求をすることを謝罪すべきだといっているならそんなつもりはないとも言った。

ドレイヤー氏のアメリカでシャリア法を取り入れるべきだと思うかという質問にたいしてイマームは、アメリカではシャリアをとりいれるほどイスラム教徒の人口は増えないだろうといって質問から逃げたようだ。 また地元のイスラム教図書館に反ユダヤ、反キリスト教の書籍があることに関しても、イマームはこの書籍の著者はイスラム社会からも認められていない過激派でとるに足らない作家だと答えた。ところがこの作家はオサマ・ビンラデンやイスラム教のテロ軍団、モスラムブラザーフッドなども崇拝している人間で、ダラス最大の聖廟において若者がテロリストの崇拝する書物を読むことを推薦されているというのは問題ではないだろうか?

代表団はこの考えを拒絶した。誰かが(イスラム教徒の)過激化は西洋にあるとまで言った。

とまあこんな具合である。この会談の結論としてこのイスラム集団のリーダーたちはどのような批判も受け入れない、それがどれほど正当なものであろうとも、ただの偏見だと解釈する。彼等は彼等の社会で起きている過激化の事実を認めなず、起きているそばから過小評価する。彼等は我々が「イスラムの偉大なる先見者アヤトラ・ホメーニ追悼式」に参加したイマームを批判したことは間違っているという。 まったく気違い沙汰だ。

ドレイヤー氏はアメリカ国内のイスラム教団体が若者に過激な教えを広めていることを多くのメディアが無視しているという。そしてダラスのイスラム教団体は地元の新聞に圧力をかけることで自分らが若者の過激化を促進している事実を隠そうとしているのである。

幸いなことにダラスモーニングニュースは、こうした口うるさい地元のイスラム教徒らの脅迫に負けずに過激派イスラムの批判を書き続けているようだ。しかしアメリカにしても、ヨーロッパ諸国にしても、自称イスラム教徒代表とう偽穏健派の手にのってはいけない。こういう連中は穏健派どころか欧米をイスラム教徒で乗っ取ろうという過激派に他ならないのだ。

彼等が地元の言葉を流暢にはなすとか教養があるとか応対が穏健だというだけで欧米社会はだまされてはならない。ただ、この代表者がいうイスラム教徒の過激化は西洋に責任があるというのは少なからず当たっていると思う。それは西洋社会がイスラム教の横暴な要求に最初に出会った時、「ばかいうな!」と一喝して拒絶せず、彼らのわがままを「寛容」に受け入れたことに生じている。

しかし、今からでも遅くはない。文明社会はイスラム過激派の理不尽な要求を突き付けられる度に断固として拒絶すべきだ。そして彼等の悪い点は遠慮なくびしびし批判すべきだ。イスラム過激派とは交渉も妥協もあり得ない。戦いあるのみである。

December 19, 2006, 現時間 12:42 AM | コメント (0) | トラックバック

December 14, 2006

なんでいつもイスラエルなの?

イラク関係 , 中東問題 , 宗教と文化 , 対テロ戦争

ディケンズの著書、デイビッド・コッパーフィールドのなかでミスター・ディックという登場人物が出てくるが、この男性はチャールズ王の斬首刑に病的な執着をもっていて、何の話をしていてもなぜかいつの間にかチャールズ王の首の話になってしまう。

これと同じようなイスラエルへの病的な執着が国際社会にも存在するような気がする。この風潮にはカカシは前々から気が付いていたが、カナダのナショナルポストに載ったデイビッド・フラム氏のエッセーに私がいいたかったことがかなり書かれているのでカカシの感想も含めて紹介しよう。

この間、イラク勉強会(ISG、別名the Baker-Hamilton commission)という民主党と共和党のエリート元外交官らによる委員会がブッシュ政権にたいしてイラク対策をどうすべきかという推薦調査書を提出した。この調査書の内容はアメリカでは大騒ぎになったので、ここでも取り上げようかどうしようか迷ったのだが、だらだら長い割には中身のない調査書だったのであえて取り上げないでいた。

しかしこのISG調査書のなかにちょっと気になる部分がある。それはイラク戦争の話をしているはずなのに、なぜかイスラエル問題が出てくることだ。この調査書には

「合衆国が中東における目的を果たすためにはアラブ対イスラエル問題に直接関与する必要がある。」

とある。なんでイラクの話をしているのにイスラエルの話がでてくるのか? しかもイラクの未来をアメリカがシリアと交渉する際、イスラエルがゴーラン高原をシリアに返還することやパレスチナ人のイスラエル国内への帰還の権利を話あうべきだとかいうとんちんかんな変な話も出てくる。どうしてアメリカのイラク対策でシリアと交渉するのに、他国イスラエルの領土問題を持ち出す必要があるのだろう。だいたいイスラエルがアメリカのために自分らの領土を犠牲にするなんの義理があるというのか全く不思議である。ベーカーさんは昔からイスラエルを毛嫌いしているとはいえ、アメリカの外交問題でイスラエルを犠牲にすべきだと簡単に考えが出てくるところが恐ろしい。

しかし大抵の場合は尊敬できるイギリスのブレア首相でさえも、中東の平和はイスラエルが鍵だと思っているらしい。フロム氏によると、先月ロンドンで開かれた毎年恒例の市長宅での晩餐会において、ブレア首相は「イラクに関する答えの主な部分はイラク自身ではなく、イラクの外にあります...イスラエル/パレスチナからはじめるべきです。それが根源なのです。」と発言したそうだ。

(このような意見は)ブレアひとりだけではない。似たような意見は先進国のどの国の外務省、シンクタンク、新聞の社説からもきくことができる。

単純に繰り返すことによってこの説が真実になるというなら、パレスチナ問題とイラク紛争のつながりは、ニュートンの法則と同じくらい高いレベルで「確かな」ことと言えるだろう。

しかし我々の脳みそが黙従に打ちのめされる前にパレスチナとイラクの関係がどう作動しているのか説明をもとめても良いだろうか?

とフロム氏は問いかける。まさしくカカシもこの説を理解したい。アルカエダのテロリストが自動車爆弾を学校の子供たちが集まる場所で爆破させる、その仕返しにシーアの民兵どもがスンニ市民を誘拐する。こうした行為と600マイルも離れたところで起きているイスラエルとパレスチナ紛争とどういう関係があるのだ? イラクの市街でおきている宗派間暴力がイスラエルとパレスチナ間の和平交渉でどう解決するというのだ?

反米の民兵たちに武器を供給し、アメリカ軍をイラクから追い出し、中東で石油国家の有力勢力となろうとしているイランが、パレスチナが国連に席を置けばその野心を捨てるなどという保証は全くない。

トニー・ブレアがいう通り、パレスチナ問題が解決しないことが中東アラブ人をより過激にしているというのは本当かもしれない。だが、そうだとしても歴史上世界中で起きた紛争のなかで、どうしてパレスチナ・イスラエルだけがこうも執拗に解決できないままになっているのだろうか。

ドイツ人はポーランドがDanzigを支配していることに抵抗してGdanskの通りで自分らをふっ飛ばしたりはしない。ギリシャ人はSmyrnaの返還を要求してトルコの小学生の乗ったバスを乗っ取ったりしていない。ボリビアはチリにたいして太平洋戦争の結果を覆そうと終わりのない戦争など挑んでいない。

アラブ人たちは1949年以来イスラエルと有利な条件で和平を結ぶことはいつでもできた。だが彼等は頑固にそれを拒絶してきた。パレスチナはウエストバンクとガザに1967以来いつでも独立国を持つことが できた。彼等はその提案もつっぱねてきた。

だとしたらアラブ人の過激化はイスラエル・パレスチナ問題の結果というより原因だという方が正しいのではないだろうか? 平和がないのは多くのイスラム教諸国であるイスラエルの近隣国が、アラブ人でもなくイスラム教徒でもない少数民族が服従者としてでなく中東に存在することを容認できないせいではないのか。それこそがこの問題の本当の「根源」なのであって、交渉で解決できるようなものではない。

フロム氏はそれこそ西洋社会が性懲りもなくイスラエルとパレスチナの和平交渉をいつまでも続けることこそが問題を悪化させていると語る。そのいい例が2000年に行われたキャンプデイビッドでの交渉だろう。あの時パレスチナは前代未聞な有利な条件をイスラエルから提案された。にも関わらずそれを拒絶して第2インティファーダというテロ戦争をはじめた。2003年まで連続しておきた自爆テロ攻撃も結局パレスチナには何ももたらすことはなく、パレスチナは惨敗したのにあきらめきれずロケット弾をうち続け、いまだにイスラエルからのミサイル攻撃を受けている。

本来ならもうこの辺りでイスラエル・パレスチナ間の交渉は無駄だと人々は悟るべきである。私はもう長いことイスラエル・パレスチナの話が出る度に「イスラエルは放っておけ」といい続けてきた。繰り返しになるがイスラエルがどんなやり方でイスラエルの国を創立したにしろ、幾度にも渡るアラブ諸国からの挑戦に自国を守り続けてきた。それだけで普通の世の中ならイスラエルは勝者なのであり負けた側のパレスチナをどうしようが部外者の我々がどうこういう問題ではないはずだ。

それなのに、どうして欧米諸国は自分らが中東で困難に陥るとすぐさまよってたかってイスラエルを生け贄の羊にしようと企むのか。いやそれでももし、イスラエルを生け贄にすることによって自分らの問題が本当に解決するいうならそれも分かる。だが現実にはイスラエルが原因でない以上解決にもつながらない。

それなのに彼等はいつもいつもイスラエル、イスラエルと繰り返す。あたかも「イスラエル」がどんな問題も解決してしまう魔法の呪文ででもあるかのように。

December 14, 2006, 現時間 12:52 AM | コメント (6) | トラックバック

December 12, 2006

腰抜けイギリス政府よ、どこまでイスラムに迎合するのだ?

ヨーロッパ , 宗教と文化

弱者であるイスラム教徒になにかと迎合して、「テロリストさん、僕をいじめないで」と根性のないことをいってる典型がブレア引退直前のイギリスだ。サッチャー首相が現役だったらこんなことは絶対に起きないのに全く残念だ。天下のイギリス帝国の栄光はどこへいったのだろう?

11月の終わりにダニエル・ジョンソンがCommentary Magazine.comに掲載されたエッセイーに、現在イギリスがどれだけイスラム教徒に迎合しているかが書かれている。

マイルエンドといわれる地域は東ロンドンの真ん中にあり、イギリスで一番古いユダヤ教徒の墓地のあるところだ。しかし最近はこのあたりにイスラム教徒が多く住み着き巨大な聖廟まで建ててしまった。この聖廟のムハメッド・アブドゥール・バリ(Muhammad Abdul Bari)会長は英国モスレム議会(the Muslim Council of Britain)の委員長でもある。この自称イギリスイスラム教徒の代表者であるバリ氏のイギリスにおける権力はいまや相当のものになっているらしい。

イギリスの警察庁、スコットランドヤードなどは国内のテロリスト組織に手入れをする前に、いちいちこのバリ氏にお伺いをたてているというのだからあきれる。もしバリ氏がテロリストと関係があったら、イギリスのテロ対策はテロリストたちに筒抜けではないか。

2005年7月7日のイギリス国籍のイスラム教徒によるテロ事件があった後も、バリ氏はイスラム教徒の不所行を謝るどころか、イギリスがイスラエルと仲良くするからこのようなテロが起きるのだと、脅迫まがいの発言をしている。

これに対してイギリス政府やイギリス社会がイスラム教への非難の声をあげるかとおもいきや、悪いのはイスラエルだ、ユダヤ人だと声を揃えて叫び出す始末。この間のレバノン戦争のときでもイスラエルの反撃は過剰だったと2/3のイギリス人が世論調査で答えている。

なんでイスラム教テロリズムがイスラエルのせいだってことになるんだ、いい加減にしろ! 

ま、ヨーロッパのアンティセメティズム(反ユダヤ主義)はなにもいまにはじまったことではないから驚きはしないが、どうしてヨーロッパの連中はヨーロッパの敵はイスラエルが長年に渡って戦ってきているイスラム教ジハーディストなのだということがわからないのだろう。いったいあと何人のイギリス人が殺されれば本当の敵にきがつくのだろうか?

などと考えている真っ最中に喜多龍之介さんとこで、こんな記事を発見。日本語風にいえば腑が煮えくり返る思い、英語風にいうならば血が煮えたぎる思いである! 腰抜けイギリス外務省! いい加減にしろ!

以下、ワシントンタイムスの記事引用: (喜多竜之介さん訳)

イギリス『テロとの戦争』看板を外す@ワシントン・タイムズ

イギリス外務省は、アメリカ用語の『テロとの戦争』という言葉を「やめれ!」と政府に訴えている。というのも、なにやらこれがムスリム系イギリス人を怒らせて、政府の目的を妨げる、んだそうな…。とまあ、週間新聞が昨日報道した。

政府は「前後の脈絡も無しにさあ、あんな事言うとテロリスト共のくだらねー話に味方しちゃうしさ、逆に助け舟出してるようなもんでさー、逆効果じゃね?」と外務省報道官がオブザーバー紙に…。

外務省は同じメッセージを閣僚にも送った。ついでに外交官とか、他の政府代表者とか…世界中の連中におくったそうな。

「僕らってまあ、同じような価値観を掲げてるって事をさ、テロリストに立ち向かっちゃうツールにする事がままあんのよ」と報道官。

週間新聞によれば、イギリスの役人やらアナリストやらの大勢は、こういっていたそうな。
「イスラム過激派はさあ、西側の政府がテロとの戦争を連呼すればするほど『あれってさー、実はイスラム教を目の敵にしてんだぜ』ってな事を言って、テロリスト志願者をゲットしやすくしてるんじゃないかな〜、とか俺達も疑ってたわけ」。

ロイヤル・ユナイテッド・サービス・インスティチュートのテロ専門家、ギャリー・ヒンドル。
彼はこの言葉をやめましょう、という決断にマンセー。
ま、ちゃんと皆そうするかどうかなんてのは当てにならんが…。

「そういう時期なのよ」
とヒンドル氏。
「軍人が使う言葉ってさあ、まるっきし逆効果なのよ。ただ単にさ、コミュニティをアイソレートするのにコントリビュートしちゃってるわけ。これってとってもイー感じ』.....

これまでにイスラム教過激派に迎合してテロから見逃してもらった国など存在しない。あれだけイラク戦争を阻止しようと躍起になった働いたフランスやロシアでイスラム過激派が国内の治安を脅かしている事実は同じヨーロッパのイギリスならわかるはず。それをいまさら穏健派を装うイスラム教団体などの顔色を伺うことで、彼等がイギリス政府をよく思ってくれるなどと考えているならイギリス外務省は愚かとしかいいようがない。

イスラムの過激派はイギリスの腰抜けぶりをさぞかしあざ笑っていることだろう。

December 12, 2006, 現時間 12:32 AM | コメント (3) | トラックバック

December 11, 2006

イスラムは惜しみなく奪う

ヨーロッパ , 宗教と文化

昔の世界はよかったね。どっか強力な国が弱小国を侵略して占領したら支配者は負けた国の国民の人権や宗教などまったくむとんちゃくに、なんでもかんでも奪い取った。勝った方も負けた方もそれが当たり前だとおもっていたから、占領国を敵だという理由で恨むことはあっても占領国のやっていることが不当だという意識はなかった。立場が逆なら自分達だって同じことをやっているのだから。

ところが、近代社会では勝った国が負けた国の国民の人権を重んじるようになった。いくら戦争に勝ったからといって負けた国の国民を虐殺強姦略奪してもいいという意識は我々にはない。それどころかそのような行為は文明人として恥だと思うようになった。

問題なのはこのような文明社会が我々の価値観を全く共有しない野蛮な文化と接した場合の意識の格差である。文明人同士なら相手から親切にしてもらったらこちらも親切で返そうというお互いに暗黙の了解がある。しかし野蛮人は慈悲を当たり前のものと思ったり文明人の弱点だと思ってあざ笑ったりする。そういう野蛮人はこちらが親切にすればするほどつけあがって我々への戦意を増すばかりである。

無論、この場合わたしがはなしているのはイスラム教徒のことだ。先日LATimesににレイモンド・イブラヒム著のこんなコラムが載った。(Islam gets concessions; infidels get conquered.What they capture, they keep. When they lose, they complain to the U.N.、By Raymond Ibrahim)「イスラム教徒は同意を得る、インファデル(非イスラム教徒)は征服される。イスラム教徒は奪ったものは返さない、失った時は国連に苦情をいう。」とでも訳すのだろうか。この題名だけでもかなりはっきりするが、イブラヒムはイスラム聖廟とキリスト協会とを例に出して比べている。

この間ローマ法王がトルコへいった時、法王はハギア・ソフィア美術館を訪れた。この美術館は六世紀に建てられたものだが、もともとはキリスト教徒にとっては非常に大事な聖堂だった。しかし15世紀にトルコ王国の手に堕ちてしまい、その後アラブのイスラム教徒たちの手にわたり、即座に聖廟にとってかわってしまった。 1935年にトルコは世俗化し聖廟は美術館として生まれ変わった。

にも関わらず、イスラム教が大半を占めるトルコでは、法王のハギア・ソフィア訪問を阻止しようという動きがあった。法王が美術館で十字を切ってキリスト教の儀式を披露するのではないかと心配したからである。

このようなイスラム教徒の不寛容な態度に比べてイスラエルによるアルアクサ聖廟の扱いかたは対象的だ。アルアクサはユダヤ教徒がエルサレムを奪い返した時にユダヤ教徒の手におちた。イスラム教徒がハギア・ソフィアを冒涜したのとは反対にユダヤ人たちはアルアクサ聖廟を破壊してユダヤ教寺院に改築するなどということはしなかった。アルアクサ聖廟はイスラム教徒が故意にユダヤ教とキリスト教の聖なる土地であるテンプルマウントの上に建てたものだったにもかかわらずイスラエルはアルアクサの支配権をイスラム教徒に返還した。

イスラム教徒はこのような特別扱いは当たり前だと考えている。イスラム教諸国が他国を侵略し占領した後は謝罪があるわけでもなければ、占領した国の子孫に土地を返還するなど脳裏にひらめくことすらない。もし強者が弱者を征服し、好き勝手にすることが許されるというのであれば、なぜイスラエルがパレスチナを奪い取ったといってアラブ人は何年も文句を言って国連に訴え続けるのか、とイブラヒム氏は問いかける。

実を言えばカカシもイスラエル・パレスチナ紛争に関してずっとこの疑問を持ち続けてきた。たとえイスラエルが武力でパレスチナを侵略して征服したにせよ、征服された方が武力でイスラエルを追い払うことができない限り、被征服者として潔くあきらめるべきだ。アラブ諸国はイスラエル建国いらい何度も武力でイスラエルに挑戦し、その度に大敗してきた。イスラエルに真っ向から戦争を挑んでイスラエルの土地を奪い取れないならつべこべ言わな、と言いたい。

しかしイスラム教徒いつまでたってもつべこべうるさい。

だがイスラム教徒が特別扱いを期待し聖戦が正当であり神の命令だと考えることばかりを責めることはできないのかもしれない。西洋社会は常にわざわざそれを確認するような行為にでているからだ。イスラムがこれまでに一度だってしたことがないのに、西洋社会は自らを批判し、謝罪し、譲歩することによってイスラムが特別な立場にあると再確認させているようなものである。

イブラヒム氏の言う典型的な例がイギリスにあるので、それについてお話しよう。でも長くなるので次回に続く。

December 11, 2006, 現時間 09:23 PM | コメント (0) | トラックバック

December 10, 2006

フランスを蝕むイスラム系移民二世たち

宗教と文化 , 対テロ戦争

今朝、陳さんとことで、こんな記事を読んだ。

仏スーパー:18歳未満入店禁止 暴行・万引き絶えず(毎日新聞)

【パリ福井聡】移民系若者たちの暴力事件が絶えないパリ北東部郊外にある大手スーパー「カルフール」の2店が、「18歳未満の未成年者は大人同伴でなければ入店お断り」の独自規制に踏み切った。未成年者による客や店員への暴行や万引きが絶えないためという。周辺の店にも同調する動きがある。
ただカルフール本社(パリ)は「支店レベルで実施に踏み切ったことであり、撤回を望む」と説明。人権団体の反発などに配慮しているとみられる。
パリ周辺などフランス都市部の郊外では昨秋、移民系若者が日常の不満などを爆発させる形で大規模暴動を起こした。今年は大規模には発展していないが、日常的な衝突や暴力は頻発している。
毎日新聞 2006年12月9日 12時40分

ここでいう「移民系若者」というのは暗号で「イスラム教徒」という意味なのはこのブログの読者のみなさんにならもうお分かりだろう。フランスではイスラム系の移住の歴史は長くなるので、移民系といってもすでに2世3世の代になっている。一世の時代にはフランスではイスラム系移民による問題というのはあまり取りざたされていなかったが、最近はこの2世代3世代目の過激化が目立つ。

私のすきなフランスのブログ、les chroniques de l'eXtreme-centreによれば、そんなフランスの2世代目連中がジハーディストとなって中東でテロ行為をする事件が相次いでいるという。しかも逮捕されたイスラム系フランス人は家庭も豊かで教養もあり、とてもテロリストになるような人たちには見えないというのだ。

先週もイラクへいってアメリカ兵を殺すつもりだった三人のフランス人ジハーディストがシリアで逮捕され、フランスに送り返されたという話をきいたばかり。この三人の若者は19、20、31歳のTours出身でSalafiという静かな郊外の町にある同じ聖廟に通っていた。 フランス政府が一番心配しているのはこれらの若者は過激派とはみられておらず、どの名簿にも載っていなかったということだ。一番困惑Mustafa El Sanharawi で、彼は(フランスに)非常に溶け込んだ家族があり、父親は外科医、母親は大学教授、三人の兄弟はそれぞれ医学を勉強しているという。また Mustafa は優秀な生徒でありパリ最高の工学大学への入学が決まったばかりだった。この例は貧困と社会からの隔離が若者をテロに追い込む理由だとする多くのコメンテーターや専門家の説が成り立たないことを意味する。

フランス人ジハーディストといえば12月4日にもエジプトにて九人の北アフリカ系二世のフランス人を含むテログループが摘発されている。犯人グループにはこのほかに、ベルギー人二人、アメリカ人一人、などが含まれていたが、グループはイラクで「殉教者」となるべく勧誘されたという。このグループは先にサウジアラビアで逮捕された137人のテロリストに含まれていたベルギー人による証言がもとで発見された。

エジプトは最近ジハーディストたちがヨーロッパや諸外国からイラクへ渡る中継地としてよく利用されているらしい。一年半まえにもフランス国籍を持つ15人の若者がイラクへ渡る際にエジプトを通過しようとして追放されている。しかしエジプト政府はフランス政府による対テロ政策には全く協力していないようだ。

フランス人はイラクにおいて、アメリカ軍との戦いで9人が戦死、2人が自爆テロ、30人が投獄、12人が取調中だ。

どうしてフランスで自由に暮らしているイスラム系2世たちがわざわざイラクなんぞへ出かけていって死にたいのだろうか? これはイギリスやアメリカのエリートたちがスペインの内乱に志願したのと似たような心境なのかもしれない。自分らが恵まれた環境にいるのに「同胞」が帝国の横暴に苦しめられている、なんとか力になりたい、などという若者特有の理想主義からくるものなのかもしれない。

何にしても外国で訓練を受けたイスラム系二世のテロリストたちが、フランスに帰国してフランス国内でテロをおこなう可能性はひじょうに大きい。フランス政府はイスラエル・パレスチナ間での戦いや、イランへの外交、およびイラク戦争などに関しても、イスラム教に迎合することで自国内での攻撃を防げると考えているのだとしたら大間違いである。フランス人テロリストの台頭についてもっと今すぐ真剣に取り組まなければフランスこそがテロ組織の温床となってしまうだろう。


December 10, 2006, 現時間 03:03 PM | コメント (2) | トラックバック

December 09, 2006

残念! 豪州ビキニマーチは来年一月に延期

宗教と文化

せっかく楽しみにしていたオーストラリアのビキニマーチが、来年の一月まで延期されることになった。状況からいって来年になっても実際に実行できるのかかなり見通しは危ない。この「偉大なるオーストラリアビキニマーチ」(the Great Australian Bikini March)のホームページによると、メディアの歪曲報道及び主催者や家族への深刻な脅迫があったようだ。

ここ一か月に渡るキャンペーンにおいて、ほとんどのメディアは礼節で、事実を報道し、問題点に注目し主催者の個人情報を公開することを控えることに同意してくれていました。

ところが、ここ数日の間に我々の信用度を落とすような衝撃的な中傷が増えました。誤った情報をもったジャーナリストや”独立した”メディアに対し、我々はホームページを通じて事実を訴える必死の努力をしましたが、彼等はそれを承知の上で我々の意志や行進の詳細をわい曲して報道しました。中には我々の行進を阻止したい宣言したメディアもありました。

明らかにメディアのいくつかはビキニマーチの施行は許されるべきではないと考えているようです。

これらの人々は非常な権力を持っています。どうやら言論の自由は「寛容な」社会では許容されないようです。

我々への脅迫のレベルはただの口先での侮辱から我々の個人情報を公開するというものまで含まれます。ひとつのメディアがこのようなことをすれば最終的には家族の身に危険がおよびます。

マーチの主催者は一般の皆様から圧倒的な支持をいただいたことを改めて申し上げておきます。諸外国出身の移民の方々を含む色々な背景を持つオージーが我々のホームページに支持のコメントを述べてくれました。ある移民の方々は自分らが国を捨てたのは過激派から逃れるためだった、オーストラリアでそのような過激派に根を植えてほしくないと書いていました。ひとりでそのような意思表示をするのは恐れていたので、その意思表示を団結してできる機会を歓迎するともいってくれました。

迷惑なことに白人崇拝主義の団体が応援にしゃしゃり出てきたことで問題は複雑になってしまった。この行進には批判的なオーストラリアのブロガーSlack Bastard によると、11月の半ば頃から、犯罪者として前科もあるニオナチのメンバーがビキニマーチを応援しようと自分達のホームページで宣伝しだしたのがきっかけでビキニマーチのことを知ったという。

ビキニマーチの主催者であるクリスティーン・ホーキンズさんは、自分らとこのグループとは無関係であり、共催しているという書き方はやめてもらうよう要請したとホームぺージで発表している。しかし、オーストラリアの左翼団体やイスラム教団体はこの事実を悪用してあたかもビキニマーチは白人至上主義グループの人種偏見に満ちた行進であるという報道をしてビキニマーチの阻止を狙ったようだ。

このビキニマーチの背景にはイスラム教徒移民というもっと深刻な問題がある。オーストラリアでもレバノン系イスラム教徒が大量に移住してきてからというもの、それまで静かで平穏だった郊外の町々が犯罪に満ちたスラム街と化してしまっているという話は以前にも当ブログで紹介した。オーストラリアではヨーロッパほどではないとはいえ、イスラム教徒移民による暴力犯罪がオーストラリアの文化と治安をかなり広範囲に及んで脅かしているようだ。

このビキニマーチの執行日はもともと12月9日に予定されていたが、これはシドニーのCronulla海岸でおきた暴動からちょうど一年目にあたる週末だったのである。一般にCronulla riot と呼ばれる暴動のきっかけとなったのは去年12月に浜辺を歩いていたカップルがイスラム系の十数人に襲われたことから始まる。その数日後、同じ砂浜でサッカーをしていたイスラム系青年数人に注意をした救命隊員がやはり十数人のイスラム系若者に襲われるという事件があった。それまでにも何度かイスラム系の若者によって海岸を訪れる人々が嫌がらせを受けていたようだが、この二つの事件で地元白人の堪忍袋の緒が切れたのかもしれない。

トークラジオのDJやブロガーなどが浜辺を取り戻そうと呼びかけたことから、12月11日、Cronulla海岸には5000人の白人の若者が集まった。 最初のうちは単にお祭り騒ぎをしていただけだった若者たちは、一人のアラブ系男性が数人の白人男性に追いかけられて近くのホテルに逃げこんだのを皮切りに浜辺にいたアラブ系と見られる人々を次々に襲った。若者たちは駆け付けた警察官や救急隊員などにもビールの空き缶を投げ付けるなどの暴行を行い、数人が逮捕された。

その晩から数日後の15日にいたるまで、今度はイスラム系の若者が復讐のため町にくり出し、商店を破損させたり行き交う人々に襲いかかったりした。キリスト教の小学校に銃弾が打ち込まれ、最後にはキリスト協会が4つも焼かれてしまった。

偶然かどうかは分からないが、このような暴動のあったちょうど一年後にビキニマーチが計画されたため、人種紛争と関係があるといわれても仕方ないことなのかもしれない。だが、ビキニマーチの主催者たちは行進中問題がおきないように参加者に平和的に降るまい酒類はいっさい禁止すると表明していた。メルボルンの警察が群衆統制をしっかりやりさえすれば例え白人至上主義者たちが集まったとしても暴力沙汰になる必要はない。

問題なのはイスラム過激派の暴力を恐れて一般市民が安心して海水浴に出かけられないとか、自由にデモ行進ができない状況がオーストラリアに存在しているということにある。好きな場所に出かけることができる、または政治的なスピーチを保証するということこそが自由社会の基本ではないか。それが仮に白人至上主義者たちのデモ行進であろうと共産主義のものであろう保証されるべきだ。誰もがどんな偏見に満ちた意見であろうと身の危険を感じずに表現する自由こそが自由主義社会に生きるという意味なのだ。それが主催者や家族が暴力による脅迫を恐れて自由な自己表現ができないとしたら、そうした過激派の暴力から社会が市民を守れないのだとしたら、それこそオーストラリアはビキニマーチでの混乱などより深刻な問題を抱えていることになる。

私がイスラム教過激派を憎む理由は、彼等が自由社会に住む我々文明人が一番大切にしている価値観を根底から暴力によって覆そうとしていることだ。もし我々が文明社会をこの野蛮人たちに乗っ取られたくないのであれば、彼等が要求するどのようなささいなことも受け入れてはならない。彼等の行うどのような脅迫にも怯んではならない。

オーストラリアにしろ、ヨーロッパにしろ、政府が市民の自由や安全を守ることができなければ、去年シドニーで起きたような暴動はまた起きるだろう。そしてその時は前回のようなやわなことではすまされない。イスラム過激派による社会への冒涜が黙認される度に地元民による不満は高まり、地元民による暴動は増すだろう。

イスラム過激派は今回ビキニマーチをやめさせることができたかもしれない。だが自由を求めるオージーたちが、それをいうなら欧州人たちにしても、彼等を脅迫で永久に黙らせることができると思うならイスラム過激派はおおきな勘違いをしていると思う。

December 09, 2006, 現時間 11:56 PM | コメント (0) | トラックバック

December 06, 2006

豪州女性たちイスラム教ベールにビキニで抗議デモ行進!

宗教と文化

オーストラリアではベールをしていない女性は布巾の被っていない肉と同じだと発言したオーストラリアのムラー(イスラム教聖職者)に抗議の意味で、キリスト教徒の女性たちを中心にビキニ姿でデモ行進を行うことが予定されている。



Miss Bikini

ビキニマーチにはミス・ビキニのオーストラリア嬢も来るかな?


ビキニマーチの主催者はメルボルン在住のおばあちゃんクリスティーナ・ホーキンズさん。どうしてビキニマーチを思い付いたのかという質問に対してクリスティーナさんは、オーストラリアといえば夏休みに海にいって楽しむというイメージがあるからだと言う。

「世界の人々がオーストラリアといえば海辺の文化だと思ってるのよ。だから海辺の文化という象徴を通じて私たちが今の生き方を守っていくというメッセージを伝えたいの。

だからビキニなのよ。あの「(布巾の)被っていない肉」という発言があったからよ。私たちが言いたいのは、私たちは変わらないわよ、私たちはオージーよってことなの。レイプされたくないからって布をかぶったりしないわよ。」

さっすがオーストラリア、欧州と違って度胸あるな。行進の出発点は公園だが終着点はイスラム教聖廟に前にする予定だそうだ。クリスティーナさんの提案は一見軽いようで実は非常に重要な運動も含まれている。

「実は私たちは政府に対して、過激派が入ってこないように、もしすでにここにいるなら追い出せるような新しい市民権の法律を提案しています。

私たちには(過激派)なんて要りません。ここは美しい国です。世界中から人々がオーストラリアに移住してくるのは自由が欲しいからです。」

これに対してオーストラリアのイスラム教徒らはビキニマーチ対抗バーベキューを予定している。う〜む、ビキニマーチに対応して頭からつま先まで隠れるバーカマーチ。どちらの行進に、より人が集まるか見物だね。(笑)



Burka

ビキニに対抗、バーカマーチ!


オーストラリアからもうひとつイスラム教の話題

メルボーンにあるイスラム教学校において、聖書に放尿しページをやぶって火をつけるなどの冒涜をした三人のイスラム教生徒が学校を退学になるという事件があった。この事件があったのはメルボルンにあるイスラム系小学校でのことで、教師たちは校長に対して聖書冒涜は他宗教の生徒や教師への憎しみと過激な思想のあらわれであることを心配して訴えたという。

欧米もオーストラリアを見習ってほしいものだ。

December 06, 2006, 現時間 07:53 PM | コメント (1) | トラックバック

December 05, 2006

アメリカのイスラム化を狙うCAIR

宗教と文化

この間からイスラム教市民団体を装った実はイスラム過激派テロリスト集団CAIR(ケア)について何度も書いてきたが、CAIRの支援する下院議員が当選してからというもの最近彼等の活躍はとみに活発になってきた。

先日カカシは米初のモスレム議員聖書宣誓を拒否で、新しくミネソタ州の下院議員に選ばれたイスラム教議員キース・エリソン氏が就任式の際、伝統となっている新約聖書の上に手をあてての宣誓をコーランを使って行いたいと主張していることに関して、新約聖書での宣誓はアメリカの伝統であり聖書をつかった宣誓を拒絶するならアメリカの議員などやるべきではないと発言した人気ラジオDJデニス・プレーガーの話をした。彼の発言は神経質なCAIRの怒りを買ったようである。

ワシントン:イスラム系アメリカ人市民団体はラジオトークショーのDJデニス・プレーガー氏が、先日当選議員が来月の就任式での宣誓を聖書ではなくコーランをつかう計画であることを厳しく批判したことで、氏を連邦政府が提供するアメリカホロコースト博物館の委員会からはずすべきだと訴えた。

「彼のような偏見に満ちた不寛容で差別的な意見をもった人が税金で経営されている施設において、アメリカ人に嫌悪が及ぼす破壊的な影響を与えた、そして今の世の中でも与え続けている憎しみついて教える政策を作る地位につくべきではない。」と CAIRは博物館理事長フレッド・ザイドマン氏あての手紙に書いた。

「大統領任命の立場としてプレーガーの存在はアメリカの宗教への寛容性について好ましくない印象を世界のイスラム教徒に与えるであろう。」とCIARは書いた。

プレーガー氏は人気ラジオDJであるばかりでなく、ユダヤ教の学者でもあり、数々の書籍の著者でもある。ホロコーストの歴史を祀る博物館の理事としてこれ以上の適任者はいないだろう。CAIRの手紙はアメリカの公共施設の役員の任命に口出しする脅迫以外の何者でもない。アメリカの議員ならアメリカのしきたりに従えといったプレーガー氏が「アメリカの宗教への寛容性について好ましくない印象をあたえる」って? 異教徒によるイスラム教批判に怒りくるって世界中で暴動をおこす「寛容な」イスラム教徒を批判もせず、ホロコーストが起きたことさえ否定しているイランと仲良しこよしの宗教団体が、イスラエルを攻撃し続けるテロリストのために募金運動までやってる市民運動とは名ばかりのテロ組織が、宗教の寛容性についてアメリカ人に説教するなど片腹痛いわ!

だが、この間の空飛ぶイマームの件や、イスラム教タクシー運転手による乗車拒否などでも分かるように、アメリカの人口の1%にも満たないイスラム教徒たちは、アメリカでもヨーロッパ風のイスラム化をすすめようと最近とみにその活躍が目立つようになってきた。

先日もアメリカのデトロイト地方で運動ジムでお祈りをしていたイスラム教女性がほかのメンバーにお祈りを邪魔されたことに腹をたててジムのマネージャーに訴えたところ、「ほかの客があなたの神に敬意を示す必要はない」いわれたことで腹を立ててジムの本社に苦情を申し立てるという事件があった。

これらのイスラム教徒のわがままに対していまのところアメリカ人の反応はまちまちである。イマーム事件と乗車拒否があったセントポール空港では先のタクシー運転手らの特別扱い要求は拒絶したが、今回は空港に特別な祈祷室を設けることで問題を解決しようとしている。この祈祷室がイスラム教徒だけでなくキリスト教徒や仏教徒、およびユダヤ教徒のお祈りの場として使えるというのであれば私は特に文句はない。ロサンゼルス空港にはすでにキリスト教の聖堂もあることだし、飛行機に乗る前に静かにお祈りしたい人々への配慮はよいことだといえる。

だが、このような祈祷室でイスラム教徒は他宗教の祈祷者に敬意など示すだろうか? 彼等だけで大声を張り上げてお祈りしているところへ仏教徒が木魚をたたいてお経を読みはじめたり、キリスト教徒が賛美歌を歌いはじめたら彼等は絶対に自分らのお祈りが邪魔されたと苦情をいうだろう。そしてまたぞろCAIRがしゃしゃり出てきて「イスラム教徒専用の祈祷室をつくれ」と言い出すに違いない。

イスラム教諸国は自分らの国々で他宗教に対しては全く不寛容であり、暴力を使って異教徒を迫害する。イスラム教への批判はくだらない冗談ひとつでもいきり立って暴動を起こす。そういう人間が欧州の社会で自分らへの扱いが寛容でないと文句ばかりいうこのダブスタ! これだけでも私は腹がたつが、もっと腹がたつのは欧米社会がヘーコラと彼等の理不尽な要求にいちいち迎合する態度である。

欧米社会がイスラム教徒の暴挙から社会を守る方法はいくらでもある。だがそれには勇気がいる。イスラム教徒が日常の何気ない習慣にたいして下らない要求をしてくる度に欧米は個人レベルで抵抗しなければならない。すでにイスラム教徒による暴力が多大な被害をもたらしているヨーロッパではこれは難かしいが、まだそこまでいっていないアメリカでは今のうちならそれができる。今のうちにそれをしなければならない。

例えば運動ジムにおいてイスラム教徒が静かにお祈りできる場所がないと苦情をいったなら、お祈りの時間にはジムにこないようにと勧めればいい。イスラム教男性がジムにおける女性の運動着が肌を出し過ぎて気が散るといったら、女性メンバーをみないようにと冷たくあしらえばいい。イスラム教をちゃかした冗談をいったコメディアンをテレビやラジオ番組からおろせと苦情がきたら、番組側はキリスト教徒やユダヤ教徒にいつもいっているように言論の自由だといって拒絶すればいい。

イスラム教徒が理不尽な要求をしてもそれがことごとく無視されれば彼等もいずれあきらめるだろう。だが彼等が何か要求する度にアメリカ社会が一喜一憂しているうちは彼等はそれを悪用し続ける。これはデニス・プレーガー氏が先日新聞に書いた通りである。

誰がそういうことを決めるにしても、アメリカの新聞のほとんどの社説がイスラム教徒を怒らせまいとしている。それどころか多くの人々はこれはよいことだという、なぜならアメリカがオープンな社会で、どれほどアメリカがイスラムやコーランに敬意を評しているかを世界のイスラム教徒に示すことになるからだという。

この理屈はアメリカの最大のゴールは世界中から愛されることだと信じている人々を惹き付ける。特にイスラム教徒に愛されることで、アメリカを嫌うイスラム教徒が減れば減るほど(アメリカを爆破しないだろうから)よいことだと信じている。

しかし、このような甘い考えをする人々はエリソンがコーランを聖書のかわりにすることによって反米イスラム教徒の態度は変わらないということを理解していない。いやむしろ反対にエリソンのそのような行為はイスラム過激派を図に乗らせるだけであり、新しい過激派を生み出すのがおちである。それが正しいかどうかは別として彼等はこれが彼等の最大の目的であるアメリカのイスラム化の第一歩と解釈するからだ。

すべての当選した議員が同じ本に手をあてて就任の宣誓をする時、彼等はアメリカの文明の下敷きとなった価値観の元に団結するという確認をする。もしキース・エリソンがそれを変えることを許されるなら、彼がアメリカの団結に与える損害は911のテロリストがもたらしたよりもひどいことになる。私にはこれがイスラム系アメリカ人がアメリカに残したいものであるとは信じがたい。だがもしそうだとしたら、ひどい状況になっているのはヨーロッパだけではないということになる。

December 05, 2006, 現時間 09:14 PM | コメント (0) | トラックバック

December 01, 2006

米初のモスレム議員聖書宣誓を拒否

アメリカ内政 , 宗教と文化 , 対テロ戦争

来年の一月から議会が入れ替わるが、その前に新しい議員たちの就任式が行われる。アメリカでは公式な就任式ではかならず新約聖書の上に手を置き就任への宣誓をすることになっているが、今回イスラム教徒として初めてアメリカの下院議員に選ばれたキース・エリソン氏(ミネソタ州民主党)は自分はキリスト教徒ではないので聖書ではなく、コーランで宣誓式にいどみたいと言い出した。

キース・エリソン議員は単にイスラム教徒であるというだけではなく、アメリカの黒人の間で人気のある非常に悪評の高いネイション・オブ・イスラムという反ユダヤ教の暴力団まがいの団体のメンバーで、しかも市民団体を装ったイスラム教テロリスト集団CAIRとも密接な関わりのある男である。こんな人間が議員に選ばれること自体不思議だが、ミネソタの地元新聞はエリソンがイスラム系暴力団やテロ軍団と深い関わりがあることをライバル共和党議員のでっちあげだとして全く報道しなかった。だから彼に投票した地元の人々は多分ほとんど彼の正体にきがついていないのだろう。

だが、エリソン議員は就任する前から、彼がアメリカの政治家になった本当の目的をちらつかせはじめた。彼の目的は今回の聖書を拒否しコーランを使った宣誓を主張することによって顕著にあらわれはじめている。

アメリカには宗教の自由もあり、通常は政教分離の習慣がある。だからキリスト教徒でない人間が聖書での宣誓を拒んだとして何が悪い、好きな本で宣誓させればいいではないかと言う人もいる。しかしこれは宗教の自由とか個人の趣向の問題ではないのだ。問題なのはエリソン議員は彼の勝手な信念で長年にわたるアメリカの基盤と伝統となったキリスト教の価値観を崩そうとしていることにあるのだ。

何をそんな大げさなと日本の方々は思うかもしれない。だが他国の人々には理解できない伝統と価値観というものがそれぞれの国には存在する。どうして日本の伝統を重んじる人々が総理大臣の靖国神社参詣や男性による天皇承継を主張するのか、外国人から考えてみれば「どうでもいいこと」ではないだろうか? しかし日本人にとっては大切なことだ。それはなぜか? 日本の基盤は神道であり、日本の創立は神道なくしては考えられないからだ。いくら日本が世俗主義の国であろうと政教分離の法律があろうと人々の心のなかで日本形成の基盤となった神道への愛着が消えたわけではないのである。

日本では我々が普段あまり注意をはらわないあらゆる場所で神道の影響があらわれている。ハイテックの旅客機を製造するような工場でも仕事初めは神主さんにお払いをしてもらうのはごく普通のしきたりだし、古い井戸を埋める時には厄払いをしてもらってからではなくては作業員が仕事を拒否するなどということは今でも起きる。それを作業員の多くがイスラム教徒だから、今後のお払いは神主さんではなくイマームにやってもらうなどということになったら日本人の作業員は納得するだろうか? 問題は日本人の作業員の大半が神道をしんじているかとかいうことではなく、これが日本の伝統だということにある。それを後から来た外国の宗教やしきたりを日本社会に押し付けるということは日本そのものを侮辱することになるのだ。

それと同じで、アメリカの基盤はキリスト教だ。アメリカの創造の父と呼ばれる人々も皆キリスト教徒だった。聖書によって宣誓を行うということはアメリカ人としてアメリカ人の代表として選ばれた議員としてアメリカ社会をまもりアメリカに支えるということを意味する。これは決して自分が新約聖書を信じるという意味ではない。これまでにもユダヤ教徒やモルモン教徒、および無宗教者も議員となってきたが、誰も聖書による宣誓を拒否したことはないし、拒否などしたらそれこそ議会が許さなかっただろう。

それでは何故、今回に限って民主党が多数議席を占める議会はエリソン議員の身勝手な要求を受け入れようとしているのだろうか? それはひとえに彼がイスラム教徒だからだとユダヤ教学者で人気ラジオ番組のDJでもある保守派のデニス・プレーガー氏は語る。

誰がそういうことを決めるにしても、アメリカの新聞のほとんどの社説がイスラム教徒を怒らせまいとしている。それどころか多くの人々はこれはよいことだという、なぜならアメリカがオープンな社会で、どれほどアメリカがイスラムやコーランに敬意を評しているかを世界のイスラム教徒に示すことになるからだとう。

この理屈はアメリカの最大のゴールは世界中から愛されることだと信じている人々を惹き付ける。特にイスラム教徒に愛されることで、アメリカを嫌うイスラム教徒が減れば減るほど(アメリカを爆破しないだろうから)よいことだと信じている。

しかし、このような甘い考えをする人々はエリソンがコーランを聖書のかわりにすることによって反米イスラム教徒の態度は変わらないということを理解していない。いやむしろ反対にエリソンのそのような行為はイスラム過激派を図に乗らせるだけであり、新しい過激派を生み出すのがおちである。それが正しいかどうかは別として彼等はこれが彼等の最大の目的であるアメリカのイスラム化の第一歩と解釈するからだ。

すべての当選した議員が同じ本に手をあてて就任の宣誓をする時、彼等はアメリカの文明の下敷きとなった価値観の元に団結するという確認をする。もしキース・エリソンがそれを変えることを許されるなら、彼がアメリカの団結に与える損害は911のテロリストがもたらしたよりもひどいことになる。私にはこれがイスラム系アメリカ人がアメリカに残したいものであるとは信じがたい。だがもしそうだとしたら、ひどい状況になっているのはヨーロッパだけではないということになる。

以前に話したイスラム教運転手によるタクシー乗車拒否、空飛ぶイマームの件などでも話たが、過激派イスラム教徒らは欧米及び世界のイスラム化をはかっている。彼等の我々の文明への攻撃は戦闘行為だけではない。こうして文明社会に潜入し我々の文明を根底から覆していこうという魂胆なのだ。

我々はこれが戦争だということを常に忘れてはならない。かれらが我々の伝統をひとかけらづつ角から砕いていくのを指をくわえてみていてはいけないのである。アメリカがヨーロッパのようにならないためには、彼等の要求をひとつひとつ断固として拒絶していかなければならない。

だが、多文化主義の甘い考えをもった民主党議会にそれができるだろうか? 私には全く自信がない。だとしたら民主党が多数議席をとった先の中間選挙で負けたのは共和党ではなくアメリカだったのかもしれない。

December 01, 2006, 現時間 10:16 AM | コメント (0) | トラックバック

November 30, 2006

空飛ぶイマームの逆襲

宗教と文化 , 対テロ戦争

The English version of this post can be found at Intimidating Imams and Ludicrous Lawsuits, Big Lizards.net.

空港や飛行機内で怪しげな行動をして旅客機からおろされた6人のイスラム教イマーム(聖職者)たちの話をこの間したばかりだが、この話は聞けば聞くほどイマームたちによる陰謀だという気がしてきた。ことの起こりはというと、、

月曜日、ミネアポリスの空港ターミナルでお祈りを捧げていたイスラム教徒のイマームと呼ばれる聖職者たち6人が一旦搭乗した後で、心配したほかの乗客からの通報により飛行機からおろされて質問を受けるという事件があった。

最初は単に時と場所をわきまえない無神経で不作法なイスラム聖職者が警察に尋問されて過激な反応をしめしただけの話かのように報道されたが、 詳細 を読んでみると, 6人の聖職者たちが単に無神経なだけだったとは信じ難くなってきた。

  • わざわざ従業員や他の乗客の注意を引くような大声をはりあげてゲートでお祈りをささげ、搭乗時に英語でアメリカを批判する会話を交わしていた。
  • 太ってもいないのに、シートベルトの延長ベルトを注文。ところがシートベルトにつけずに椅子の下においた。(鉄のバックルとベルトはぬんちゃくのような武器としても使える。)
  • 6人のうち二人が指定されていないファーストクラスの席に代わろうとした。これによって6人は911の乗っ取り犯人がとったのと同じ配置になった。

このあからさまな(そして故意に)あやしい行動は単なる無神経では片付けられない。知らずにやったにしてはあまりにも計画的だ。彼等がどうしてこのような行動をとったのか、その理由は彼等のその後の行動からあきらかになっている。

航空機から無理矢理おろされたことから、彼等は人種差別だの人種プロフィールだのといって人権を損害されたとして航空会社を相手どって訴訟を起こす立派な口実を得た。 実を言えばこの6人の1人は過去にもそのような訴訟に関わったことがあるのである。

Muhammed al-Qudhaieen と Hamdan al-Shalawiというアリゾナの大学生二人がアメリカウエスト航空において、操縦席のドアを二度に渡ってこじ開けようとした事件があった。911調査委員会によるとFBIはこれが911乗っ取り事件の予行演習だったと判断したとある。この学生のひとりはアフガニスタンへ渡航し、もうひとりは911捜査の重要参考人となった。

にもかかわらず、この二人アメリカウエストの方針が人種的差別であるとしては今はUS Airwaysに買収された航空会社を訴えた。その犯人の一人を弁護したのが誰あろう、今週US Airwaysの飛行機から引きずりおろされた6人の聖職者たちのリーダーだったのである。

学生たちはアリゾナ州のツーサン市にある聖廟に通っていたのだが、その聖廟の経営者というのが、ミネアポリス空港のUS Airwaysの切符売りカウンターでカメラの前で大騒ぎをしていたヨルダン出身のSheikh Omar Shahinなのだ。

訴訟の目的は単なる金儲けが目当てではない。本当の目的はもっとあくどいものである。イマームたちはアメリカ人を恐喝して「平和な宗教」をアメリカ人に強制しようとしている。アメリカ人の道徳観や訴訟システムや政治機構を逆手にとってアメリカにシャリアを広めようとしているのだ。

彼等の最終的な目標はイスラム教徒やイスラム教そのものへの批判を完全に禁止することにある。しかしとりあえず、民主党が多数議席をとった新しい議会においてイスラム教徒へのプロファイリングをやめさせる特別な法律をとおさせようという魂胆なのだろう。

彼等は適切なキーワードを使い政治的に正しくあろうとするアメリカ人を威嚇すれば腰抜けのアメリカ人は怖じ気づいて反撃しないと考えているのだ。なにしろ同じ手段でヨーロッパでは大成功をおさめたのだから、アメリカでも同じようにうまくいくと踏んでいるのであろう。

おふらんすでは、政治的に正しくあろうという姿勢がいきすぎて、『比較的平穏な日』にいちにち百台もの車が焼かれているのに、フランスメディアはその犯人たちである暴徒をただ「若者」というだけでイスラム教徒と特定することすらできないでいる。イスラム教暴徒のバス放火で若情勢が重傷を負った時でさえもまだそうなのだからあきれる。警察官への攻撃は悪化する一方で、警察は警察官の安全すら守ることができない状態だ。おかげでイスラム教徒の居住区は事実上シャリアによって統括されているのである。まだそこまでいっていないとはいえ、イギリスでもその傾向が多少みられる。

最近ではヨーロッパの各地でイスラム教を批判したり、女性のかぶるベールを批判したりする程度で、命を脅迫される。イスラム教過激派はこのような状況をアメリカにも持ちこもうというのである。イマームたちがこの空港を選んだのは決して偶然ではない。この空港は以前に紹介したイスラム教徒のタクシーの運転手が酒類をもった乗客を拒否しても罰があたらないような特別な法律を要求していたのと同じ空港なのである。

この6人のイマームのうちの4人は市民運動団体とは名ばかりのイスラム教テロ組織CAIR(Council on American-Islamic Relations)と組んで訴訟を起こしている。そればかりか誰が経費を負担しているのか知らないが、国中のテレビ局を回ってあちこちのトーク番組で反米プロパガンダをまき散らしている。情けないことにアメリカメディアは喜んでこれに協力している。

音声を聞いただけなので完全に正確な言い回しではないが、CNNのポーラ・ザーンはインタビュー番組で次のような「厳しい」質問をイマームたちに投げかけた。

  • 「この経験はどれほど屈辱的でしたか?」
  • 「911以後、イスラム教徒は理不尽に標的にされてると思いますか?」

民主党の下院議員、シーラ・ジャクソン・リーなどは911事件がイスラム教徒への人種プロファイリングによるイスラム教徒やアラブ系アメリカ人を差別したり迫害したりする口実になってはいけないとし、今回の事件で彼等は明らかに屈辱を感じ、差別されたと感じたことだろうと語った。

それじゃあ何かい、ジャクソン・リー議員によると我々は人種プロファイリングのみならず、あやしげな行動をする人間さえ尋問してはいけないというのか?

アメリカの馬鹿サヨの反応をみていると、どうやらイマームたちの作戦の一段階目は成功したようだ。アメリカはまだヨーロッパのような状況にはさらされていないが、こんどのようなことを黙認すればあっという間にヨーロッパと同じ運命をたどることになる。

怪しげな行動すら捜査できないとなれば、どれだけ液体持ち込みを禁止しようが、スーツケースにレントゲン検査をしようが何の役にも立たない。どんな機械も人々の観察力には勝てないのだから。

我々は戦争中なのだということを忘れてはいけない。しかも、我々の敵はCAIRやこのイマームたちが支持するイスラム教過激派なのである。我々は決して彼等の脅迫に屈して服従するべきではない。我々は自分らの国を命を守らなければならない。乗客も乗組員もそしてすべてのアメリカ人がすべての場所で常に怪しげな振る舞いに注意を払うべきである。これはイスラエルが何年も前に痛い経験を積んで学んだことである。

ただイスラム過激派が見落としていることがひとつある。アメリカ人は度重なる政治家の試みにも関わらず銃砲所持を絶対にあきらめない国民である。アメリカには「12人にさばかれる方が6人に運ばれるよりましだ」という言い回しがある。12人とは陪審員のことで、6人とは棺桶を運ぶ人の数である。これと同じで、私はテロリストのような怪しげな行動をする人間を目撃したら人種差別者といわれようとどうしようとためらわず通告するだろう。なぜなら、他人の気持ちを気遣っていて空中でふっ飛ばされるのはごめんだからである。

ほかの乗客も同じように感じてくれてることを願うのみだ。

November 30, 2006, 現時間 12:43 AM | コメント (0) | トラックバック

November 24, 2006

同和対策が導いた落とし穴

宗教と文化

この間私は日本の人権擁護法案とアメリカのアファーマティブアクションが抱えている落とし穴について、日本とアメリカ、共通する差別問題と落とし穴においてこのように書いた。

アファーマティブアクションの当初の目的は、雇用や大学などの入学審査のときに、人種や性別によって差別されないよう少数民族や女性の人権を守ることだった。 それまでジム・クロー法などといった悪法にいより、黒人と白人が同じ公共施設を使用できないという現実があり、同じ職業でも黒人と白人では給料に格差があったり、少数民族や女性がつける職業は限定されていたりと、色々な差別が存在していたことを是正するのが目的であった。

ところが人種・男女差別をしてはいけない、という法律がいつの間にか少数民族や女性を特別扱いする法律へと変貌してしまった...

アファーマティブアクションが適用されるのは大学だけでなく、雇用の際でも同じである。 黒人運動のリーダー的存在に、ジェシー・ジャクソンという人物がいるが、彼とその中間達は、大企業などの雇用方針が黒人差別を行っているといいがかりをつけては訴訟を起こすという行為をくりかえしていた。 大抵の企業は人種差別のレッテルを貼られて訴訟をおこされては会社のイメージにかかわるということで、裁判沙汰になる前に急いで示談にしてしまう。 つまり、ジャクソン氏の一連の訴訟は裁判を脅しにつかった恐喝に他ならない。 日本でも同和開放同盟などが同じような行為をしているのではないだろうか?

しかし板さんの同和対策事業はもう必要ない!を読んでいて、日本の場合はアメリカよりもっと組織的なレベルでの問題になっているということがわかった。

なぜ、本来は“差別の解消”が目的だった同和対策が、このような“特権の世界”になってしまったのか?

その最大の原因は“窓口一本化”にある。

そもそも同和関係の団体は、大きく分けて三つあった。部落解放同盟(解同)、全国部落解放運動連合会(全解連)、全日本同和会(同和会)。このうち全解連は共産党系であり、同和会は保守系、そして解同は社会党(現社民党及び民主党)と密接な関係があった。

被差別部落の住民が同和対策事業にともなう施策を受ける時、これらの団体が窓口になることが多かった。ところが、解同が「窓口一本化=全解連や同和会の排除」を要求し、行政がそれに屈服することで、解同が“特別な団体”になってしまったのである。

毎年、国と地方を合わせて何千億円という税金が同和対策事業に投入される。それを解同が一手に取り仕切る。
ここに、被差別部落民は解同に従わなければ同和対策事業が受けられない、また行政は解同の了解がなければ同和対策事業を進められない―そういう同和対策事業の頂点に解同が君臨する構図ができ上がったのである。

こうなると“利にさとい”連中は、皆、解同の下(もと)に結集することになる。そこでは理念も方針も関係がない。とにかく解同にいれば利権にあずかれる。だから暴力団や単なる利権屋も皆、解同ということになる。
そこで何が起こったのか?

“悪貨は良貨を駆逐する”という現象である。まじめに差別の解消に取り組む者より、威嚇と暴力でより多くの税金を分どる者の方が幅をきかせるようになる。

この「窓口一本化」はアメリカの労働組合と非常に似ている。私の職場にも組合があるが、組合のメンバーは毎月会費を給料から差し引かれ、給料の交渉などは個々で出来ず組合が一括してまとめて行う。だが個々の能力はそれぞれ異なるのであり能力のない職員も能力のある職員も一律の給料というのは不公平だ。私はこういう全体主義は非常に嫌いだ。

病気を理由に5年間で数カ月しか働かなかったという職員が交渉の際に机をひっくりかえすなどの暴力をつかって交渉相手を威嚇していたという話をきいて、カカシは私の職場で2年前に起きた事件を思い出した。

私より1年後に入ってきた同僚のAさんは学歴の高い期待の新人だった。カカシより学歴があるということで一年後輩といえどもグレードは私よりずっと上でお給料もずっといい。ところがこのAさん、何をやらしても失敗ばかりで全く役に立たない。Aさんが携わった企画部では部長からAさんはつかいものにならないといってはずされてしまったこともあった。先にはいったということで上司が私にAさんをトレーニングしろといった時も、訓練生を好まない出張先の職場の担当を拝み倒してAさんを加えてもらったのに、当日になって家族に緊急の用ができたのでいかれませんと飛行中に切ってあった私の携帯に伝言がひとこと入っていたきり。無理をいって訓練生を加えてもらったカカシは出張先で面目丸つぶれだった。しかしその後もAさんからは何の説明があるでなし、迷惑かけて申し訳ないというわびのひとつもなかった。

怒った上司は年度末の成績見直しでAさんの昇級を見送ることにした。 ところが次の日Aさんは労働組合のおっかないお兄ちゃんと連れだって上司のオフィスに乗り込んだ。そこでどういう交渉が行われたのかは分からないが、Aさんは単なる年功序列の昇進ではなく、二つぐらい級を飛び越えた大幅昇進となり給料も大幅に跳ね上がってしまったのである! 上司としては悔しかっただろうが「労働組合をおこらせるな」と上から圧力がかかったらしい。

Aさんはいまだにうちの職場にいるが、毎日いったい何をやっているのか誰も知らない。やたらなことをいうとやくざなお兄ちゃんから訪問を受けかねないので誰もなにもいわないでいる。ひとつの団体に給料交渉の権限を一括して与えてしまった以上こうなるのは最初から目に見えていたことだった。そしてこういう団体に暴力団がひっつくのも自然現象というものだろう。

アメリカの労働組合にしろ、日本の解放同盟にしろ、過去に必要な時期があったかもしれないが、いまやその役割をとおに超えて、いまやかえって差別を促進するような悪団体と成り果てた。このような団体はもういらない。

自尊と自律なくしては何一つ解決されない。差別する者と差別される者、加害者と被害者、という思考を脱皮しない限り問題は永遠に解決しないし、逆に差別もなくならない。 解同がなすべきことは、行政に特別扱いを求めることではなく、むしろ特別扱いを必要としない人間を一人でも多く養成することである。

まさにその通りだと思う。

November 24, 2006, 現時間 11:28 AM | コメント (0) | トラックバック

November 23, 2006

フランス軍、イスラエル偵察機への発砲を許可

中東問題 , 宗教と文化 , 対テロ戦争

以前にレバノン、フランス軍が戦う相手はイスラエル???で書いたように、フランス軍はイスラエルがレバノンの上空を偵察するのは停戦条約を違反するものだと文句を言っていたが、ついにフランス政府は軍隊にイスラエル偵察機に発砲してもよいという許可を出したという。(Hat tip Yoni the Blogger)

フランスはイスラエルを敵にまわすことによって国内のイスラム教過激派に迎合できるとでもおもっているのだろうか。なぜフランスはフランスもイスラエルも同じ敵と戦っているのだということに気が付かないのだろう。敵に媚を売る手段は絶対にうまくいかないのだということが全然理解できないようだ。(フランスはナチスドイツとの戦いで十分に学んだはずなのだがね。)

それにしてもフランスは本気でイスラエルとドンパチやるつもりなのだろうか? イスラエルは黙って撃ち落とされるようなやわな軍隊ではないのだが、、、

November 23, 2006, 現時間 10:38 AM | コメント (0) | トラックバック

空港でお祈り、航空機から降ろされた6人のイマームたち

宗教と文化

月曜日ミネアポリスの空港ターミナルでお祈りを捧げていたイスラム教徒のイマームと呼ばれる聖職者たち6人が一旦搭乗した後で、心配したほかの乗客からの通報により飛行機からおろされて質問を受けるという事件があった。

そのうちのひとりが常に口うるさいイスラム教市民団体のCAIRとともに、搭乗拒否をしたUSAirway航空会社のボイコットを呼びかけている。

通報した乗客はなぜこの6人が怪しい連中だと感じたのだろうか。単に彼等がアラブ人だったからという人種差別が原因だとCAIRは主張しているが彼等の行動はかなり怪しげだったようだ。ニューヨークタイムスによると、詳細は目撃者によって違ってはいるものの、US Airwaysの乗客や従業員の何人かが男たちが反米的な発言をしたり、搭乗の際と後に飛行機からおろされた時に「アラー」と唱えていたりしたのを聞いている。

またひとりの乗組員の話では男たちは搭乗後、シートベルトの延長を求めたと証言している「(長めのシートベルトが)必要なようには見えませんでした。」と搭乗員の一人は警察で証言した。「彼等は太ってませんでした。」

またゲート従業員は男たちがゲート付近で大声で祈っているのをきいており、「あんまり大きな声で祈っているので怪しいと思いました。」と証言している。

普通、空港ではやってはいけない行動というものがある。ゲート付近で「ハイジャック」とか「爆発、爆弾」といった言葉を口にしないことは常識だ。またこれまでにも搭乗口で、乗客が「パイロットは酔っぱらっていないだろうね」と冗談をいって搭乗を拒否された例もある。

今のアメリカはイスラム過激派テロリストと戦争中である。しかもその戦争の発端となったテロ事件の犯人たちはアメリカの旅客機を乗っ取ってビルに突っ込んだのである。私がイスラム教徒の若い男性だったら、空港で自分がイスラム教徒であることをおおっぴらに発表するような真似は避けるだろう。もしお祈りの時間なら心の中でつぶやけばいいではないか。何もわざわざ他人の注意を引くような大声で祈る必要がどこにある? そんなまねをしておいて警戒されたら人種差別だの宗教弾圧だの騒ぐほうがどうかしている。

US Airwaysには乗客の安全を守るという責任があるのだから、怪しげな人間を警戒するのは当たり前だし、通報のあった警察が尋問をするのも当たり前だ。それができないというのであれば空港でいくら鞄や靴をレントゲンにかけてみても空港の警備などないも同然ではないか。一部の人たちの気分を害するからといって多くの人々の安全を犠牲にしてもいいという理屈は通らないはずだ。

もっともイスラム教徒がUS Airwaysをボイコットするというなら、今後は安心して乗れると考える乗客がかえっ増えたりして、、はは、、

November 23, 2006, 現時間 03:57 AM | コメント (0) | トラックバック

November 22, 2006

穏健派イスラム教徒の意見を聞かない理由

宗教と文化

どうしてアメリカ国内では、穏健派のイスラム教徒の内部告発を聞くことができないのだろうか、それは過激派イスラム教徒が穏健派を黙らせようとするからだ。

ミスター苺の弟の母校でもあるワシントンDCにあるエリート大学のブラウン大学で、ユダヤ系生徒のグループ、ヒラルの主催で現在のイスラム教に批判的な意見を持つイスラム教穏健派スピーカーを招待して講演会が開かれる予定だった。ところが、これをきいたイスラム教生徒の間から激しい抗議が殺到。学校側は様々な意見をきくことの価値を強調するどころか、生徒の意志にまかせるとして決断を生徒達にゆだねてしまった。イスラム生徒たちからの脅迫に怖じ気づいたヒラルのメンバーたちは臆病にも講演をキャンセルしてしまったのだ。(Not talking back to Nonie Darwish Kesher Talk)

招待をキャンセルされたスピーカーはノニー・ダーニッシュ女史。エジプト生まれのダーニッシュ女史はイスラム教徒として育ち、テロリストグループに所属していた父親をイスラエル軍に殺された体験を持つ。 女史は過激派イスラム教徒による女性弾圧や、911はシオニストの陰謀だなどと信じる考え方について批判的な意見を述べるはずだった。

ダーニッシュ女史は、イスラム教徒の間では建設的な自己批判を聞く姿勢が全くないと嘆く。これは以前にもコメンターのアセアンさんが同じことをいっていた。

カカシさんの仰ってることはイスラム教が21世紀という現代にどうイスラム教自体が変革するのか?という問いを含んでいるのです。

その為に最も重要なことは、当のイスラム教徒が真にイスラム教を学習し直す必要性があるのです。

しかし、それを実現する為には「権力闘争」の一環でもある宗派対立的な問題を解消する必要性をイスラム内部(特に宗教指導者層、エリート層)が理解しなくてはなりません。(統合する必要性はありません、キリスト教でもカトリックとプロテスタントが存在するのですがから)

以前、ローマ法王の発言に対して批判が噴出しましたが、あの最大のポイントはローマ法王の神学論争としての発言に対してイスラム教が神学論争として応えられないこと大きな問題が含まれていたのは自明なのです。

イスラム教徒の多くがコーランを暗記しているだけで、中身をきちんと理解しているわけでもなければ、自分なりに解釈しようなどとは考えたこともない。コーランの解釈は専門家である聖職者に任せきりで、彼等の勝手な解釈がどう政治的に利用されていようともそもまま鵜呑みにされてしまうというのが現代におけるイスラム教のもっとも悲劇的な状況だと思う。

だからイスラム教徒の行動に関する批判を、イスラム教を向上させる、または時代遅れのイスラム教を21世紀の文明社会に沿った宗教にしていこうという建設的な意見を素直に聞こうとするどころか、イスラム教への冒涜であるとか攻撃であるというふうにしか取り扱えずに反射的で暴力的な拒絶反応をしめすわけだ。

本来ならば、ブラウン大学の学校側は教育者として、異なる意見も多いに聞き、演説者の意見に反対であるならば清聴した後の質疑応答で演説者に挑戦し討論の場として教養を高めることを教える場所である。反対意見を公表されたら反論もできないというのなら自分達の理論に落ち度がある可能性を反省するべきだ、くらいのことを指導するのが筋だろう。それが大学という教育者の義務ではないか。それを気に入らない意見の演説者を沈黙させた生徒の意見を尊重するなどもってのほかだ。

演説をキャンセルしてしまったユダヤ系生徒グループも腰抜けだが、学校側からの後押しがない以上、脅迫を恐れた生徒たちが怖じ気づくのも無理はない。保守派の演説者がリベラルの生徒らの暴力で壇上からひきずりおろされる事件がアメリカのあちこちの大学で起きているという事実がある以上、生徒たちも講演者の安否を気づかったという可能性も否定できない。

自由社会の将来を担う若者を育てる大学で、言論の自由が暴力で脅迫されて迫害されているというのはなんと情けないことだろう。このような大学を出た生徒たちが実社会に出れば、反対意見は暴力で黙らせればいいと考えるようになるのは当たり前ではないか。

November 22, 2006, 現時間 03:51 PM | コメント (0) | トラックバック

November 20, 2006

日本とアメリカ、共通する差別問題と落とし穴

宗教と文化

先日、私が日本の保守派としてよく参考にさせていただいている極右評論の瀬戸さんらが主体となって維新政党・新風という新しい政治運動が結成された。 

この新政党結成にあたり、瀬戸さんが大事な項目として次のことを挙げておられる。

我々は次の項目を維新政党・新風に要望しました。

 教育の正常化        日教組の解体・道徳教育の復活
 安心・安全な社会      不法滞在外国人の強制送還
                  入管法の強化・雇用者罰則強化
 在日特権の廃止      特別永住資格付与制度の見直し
 人権擁護法案に反対   部落解放同盟の同和利権阻止
 外国人参政権に反対   国籍条項の完全徹底を図る
 「政教一致」問題      公明党の政界からの追放!
 国家反逆罪の制定     極左・総連・カルト宗教の解散
 国防体制の強化      非核三原則の廃止・核保有論議の推進
 偏向マスメディア      マスコミ監視制度の創設・特権の廃止


瀬戸さんが挙げておられる多くのことが、アメリカの社会問題とも非常に通じるところがある。 教育問題しかり、同和問題や不法滞在外国人や、在日朝鮮・韓国人への特別永住権の問題などはアメリカ社会の人種問題や移民問題と酷似しているといっていい。

こういう問題を取り上げ、既存の法律を改正すべきであると唱えると、必ず左翼の方から「人種差別だ!」という脊髄反射的反応で批判されるので、保守派がこれらの問題を扱うときには充分な注意が必要だ。 特に改正案が講じて本当の人種差別になってしまう危険が存在することは事実なので、そのようなことは断固避けねばならない。 しかし、だからといって存在する問題にいつまでも目を瞑っていては事態は悪化するばかりである。

そこで私が気になった人権擁護法案と移民問題の二つの項目に絞って日本とアメリカを比べてみたいと思う。 この際読者の皆様にご理解いただきたい点は、私は日本で大人をやったことがないので、日本の社会問題をきちんと理解しているとは言いがたい。 最近になってネットを通じ、日本の状況が以前よりはわかるようになってきたとはいえ、地元で肌で感じるものとは程遠いと考える。 いわゆる鼓動が今ひとつ聞こえてこないといったところだろうか。 だからもし私の比較のなかで日本の状況に関する無知から来る頓珍漢な解釈があったら、読者の皆様からご遠慮なくご指摘いただきたいと思う。

人権擁護法案とアファーマティブアクション 

人権擁護法案というものをネット検索でザット読んだ限り、この法案が言論の自由迫害につながる危険性は充分にある。 また企業などが雇用方針が差別的であるという理由で起訴されやすいという危険性も多く含まれている。 ここで訴訟社会のアメリカにおいて人権擁護の目的で1960年代に設立されたアファーマティブアクションがアメリカ社会にもたらした悪影響を少し考えてみよう。

アファーマティブアクションの当初の目的は、雇用や大学などの入学審査のときに、人種や性別によって差別されないよう少数民族や女性の人権を守ることだった。 それまでジム・クロー法などといった悪法にいより、黒人と白人が同じ公共施設を使用できないという現実があり、同じ職業でも黒人と白人では給料に格差があったり、少数民族や女性がつける職業は限定されていたりと、色々な差別が存在していたことを是正するのが目的であった。

ところが人種・男女差別をしてはいけない、という法律がいつの間にか少数民族や女性を特別扱いする法律へと変貌してしまった。 雇用、大学入試、アパートなどの賃貸契約、レストランのサービスに至るまで、アファーマティブアクションがやたら介入してくるようになったのである。 

大学入試を例にして説明すると、大学入学の際、少数民族だからといって入学を拒否されないように、新入生の人種の枠をつける方針が多くの大学で取り入れられた。 この枠組みはアメリカ社会の人口比率が参考にされており、詳細は学校によって違うがここでは便宜上黒人20%、ラテン系10%、東洋系10%、白人60%としておこう。 ここで問題なのは大学志願者の比率が社会の人口比率とは一致しない点である。 これは文化の違いによるのだが、黒人やラテン系の若者が大学へ進む比率は東洋人や白人のそれよりもずっと低い。 ということは同じ大学へ志願しているにもかかわらず人種によってその倍率が全く違うということになってしまうわけだ。 

たとえば単純計算である大学の100人の枠のなかで、黒人志願者が20人、東洋人志願者が100人だったとする。 同じ大学へ志願したにもかかわらず黒人の志願者は全員入学できるが、東洋人の合格倍率はなんと10倍。 嘘みたいな話だがこれは実際に起きたことなのである。

数年前にカリフォルニアのバークレー大学に志願した中国系の女性が通知表はほとんど完璧、全国学力テストの成績もほぼ99%という優秀な成績だったのに不合格、同時に合格した黒人生徒の学力テストの成績は60%代だったという事件が発覚した。 東洋人も黒人ほどではないにしろ、人種差別の対象になってきたことは事実なのだが、持ち前の努力と勤勉さでいまやアメリカ社会では有能な人種として尊敬されている。 だが、それが裏目に出て東洋人を人種差別から守る目的で決められた下限の枠がかえって東洋人を差別する上限となってしまったという変な状況が起きてしまったのである。

それで生徒達の間でも、黒人生徒は頭が悪いという先入観をもたれるし、学力不足で落第する生徒もあいつぎ、かえって黒人への差別意識を高くしてしまうという悪影響がおきた。 ちなみに東洋人生徒は頭がいいという先入観があることも事実である。 特に理系は得意だというステレオタイプがあるため、私など大学時代化学の実験パートナーになってくれという申し込みが殺到して困った。 カカシは化学は大の苦手なのに~! (カリフォルニアの公立大学では人種による枠決めは14~5年前から廃止されている。)

さて、アファーマティブアクションが適用されるのは大学だけでなく、雇用の際でも同じである。 黒人運動のリーダー的存在に、ジェシー・ジャクソンという人物がいるが、彼とその中間達は、大企業などの雇用方針が黒人差別を行っているといいがかりをつけては訴訟を起こすという行為をくりかえしていた。 大抵の企業は人種差別のレッテルを貼られて訴訟をおこされては会社のイメージにかかわるということで、裁判沙汰になる前に急いで示談にしてしまう。 つまり、ジャクソン氏の一連の訴訟は裁判を脅しにつかった恐喝に他ならない。 日本でも同和開放同盟などが同じような行為をしているのではないだろうか?

アパートの賃貸などでも差別をしてはいけないことになっているが、白人のおばあちゃん一人で管理人をやっているところに、人相の悪い黒人のギャングバンガーのような男がひとりでアパートを借りにきても、おばあちゃんはやたらにこの男性を断れない。 実際に夜中に仲間のギャング達がアパートにおしかけ夜毎大騒ぎをしたり、麻薬売買などをやることは目に見えていてもである。 また私の昔の知り合いのメキシコ系アメリカ人女性は、メキシコ人には部屋は貸さないと私にささやいたことがある。 それはメキシコ系夫婦に部屋を貸すと、いつのまにか親戚一同50人近い人間が合同宿舎のように寝泊りするようになるからだという。 だが、もしこの女性がメキシコ人だから部屋は貸さないなどと言えば、人種差別の法律に触れることになるのである。

また最近では、アラブ系の若い男性に照準をあてて空港などの警備の対象にするいわゆるプロファイリングも、人種差別だと言われて出来ない状態にあることも付け加えておこう。

人種差別をなくす法律はあるのか?

私はそんなものは存在しないと考える。 人種差別という個人的な感情を法律で規制することなど出来ない。 差別をするなといって強制的に嫌いなもの同士を一緒に勉強させたり仕事させたりしては、かえって反感を買うのがおちである。 

ではどうすればいいのか。

私は人種や男女を差別する法律さえ取り除けば、後は市場が解決すると考えている。 (人種差別をする法律とは、過去のジム・クロー法のように、同じ公共施設を黒人と白人が使ってはならないとか、黒人や女性が一定の職種につくのが禁じられているとかいうような悪法を意味する。)

たとえばあるレストランの経営者が、「黒人お断り」の看板を出したとしよう。 このレストランがどういう場所にあるかによるが、黒人客は無論のこと、黒人を含んだ他人種のお客や、白人客でも、「こんな人種差別をするような店で飯など食えん」といって敬遠するだろう。 お客がこなければ商売にならないのに、わざわざ一定の客を遠ざけるような商売方針は愚の骨頂というものだ。

また黒人だからという理由で有能な人材をみすみす見逃せば、企業にとっても痛手である。 たとえば黒人だからとか女性だからという理由で多くの企業が彼らを雇わなかったとする。 これを利用したある企業が有能な黒人や女性を白人男性より低い給料で雇ったとしよう。 雇われたほうも別の企業で低レベルの仕事をしているよりは給料がいいので、この会社にとびつく。 他では雇ってもらえないことがわかっているから企業への忠誠心も強い。 そこでこの企業は人件費を節約して儲けが上がるという寸法だ。

金の力は強いから、他の企業もこれを見習ってだんだんと黒人や女性を雇うようになる。 そうすると彼らの給料はだんだんとあがり、いつの間にか白人と変わらない状態になる。 これにて人種差別は事実上消えてしまうのである。

このように人権擁護法などというものは、一見少数民族の人権を守るために作られるもののように見えるが、現実問題として一部の市民団体の政治勢力強化に悪用されるのがおちであり、実際に差別を受けているひとたちは、この法律によって一般市民が得る反感によってかえって差別がひどくなる可能性の方が大きいと考える。 差別をなくすために必要なのは特別な擁護法ではなく、差別が悪いことだという道徳的な教育からはじめることだ。 差別意識のある人々に法律で差別をするなと押し付けてみてもかえって逆効果である。

長くなるので移民問題に関しては次回へ続く。

November 20, 2006, 現時間 07:15 AM | コメント (0) | トラックバック

November 19, 2006

求むイスラム教メソジスト!

宗教と文化

English version of this post can be found here.

さてさて、私は西洋の宗教キリスト教がしたように、イスラム教にも改革の希望はあると書いてきたが、そのことについてミスター苺が2005年の9月に書いているので、その記事をここで紹介して今週のイスラム教談話を完結することにしよう。

私は昨日、西洋の政治家たちが「イスラム教は平和な宗教だ」と言い続けることは大事だと書いた。 しかしミスター苺はこれには全く反対の意見をもっている。 なぜならミスター苺もロバート・スペンサーと同じ意見で、コーランそのものに暴力を奨励する節がある以上、イスラム教は平和な宗教だという解釈は間違っているという。 そんな口からでまかせをいっても、コーランの裏表を知り尽くしている敬虔なるイスラム教徒を説得することは出来ないというのだ。

ではイスラム教には希望はないのか? ただただこのまま暴力を繰り返し我慢しきれなくなった西洋社会に滅ぼされる運命なのか? いや、そうではない、とミスター苺は語る。 イスラム教にも希望はある。 だがそのためにはイスラム教は中世にキリスト教が行ったような宗教改革が必要だというのだ。

歴史を振り返ってみれば、キリスト教も決して「平和な宗教」などではなかった。 何世紀も前のキリスト教はいまの過激派イスラム教に勝るとも劣らないほど暴力的な宗教だった。イスラム教徒のようにユダヤ教徒と不信心者を攻撃していただけでなく、背教者、異教徒、(神に対する)不敬者、魔女、想像できるありとあらゆる人々が攻撃された。 悪名高き十字軍、Torquemada、Kramer そしてSprengerなどがいい例である。

しかし、協会は色々な課程を踏みながらついに自ら改革をすすめた。 すべてが同じ時期に起きたわけではないし、世界中のあちこちで同時に起きたわけでもない。だがだんだんとキリスト教の「宗教革命」は成し遂げられた。 そしてその結果キリスト教は今日ある姿に生まれ変わったのである。

今日、カトリック、バプティスト、ロシアオーソドックスの協会が通りを隔てて同じ町に建っているなどというのは普通だ。お互いの牧師や神父たちが仲良くチャリティー運動を一緒にするのも珍しくない。

またキリスト教徒もユダヤ教徒も厳密な意味での宗教の教えを実施する人々はほとんどいない。 だから例え敬虔なクリスチャンとかユダヤ教徒とか言われる人々でも、現実的には家族、近所付き合い、仕事などが優先される。 そしてこれはいいことなのだ。 我々はキリスト教徒のお隣同士で住んでも、ユダヤ教徒だといって迫害されることはないし、我々もお隣がコーシャーでないからお呼ばれされてもいけないとか断る必要もない。 (カカシとミスター苺が結婚式を挙げた裏のユダヤ寺院のカンターが駐車場でマクドナルドのチーズバーガーを食べてたのをカカシは目撃したもんね!)

つまり、ミスター苺はイスラム教にももっと多くのメソジストが必要だというのである。

個人的なレベルではイスラム教メソジストはすでに多く存在している。たとえば私の同僚にはアフガニスタン出身のイスラム教徒がいるが、彼は一日に何回もメッカに向かってお祈りなどしないし、ラマダンの時期でもちゃんとお弁当を食べているし、企画終了の打ち上げのときにはビールも飲む。 それでも彼は自分をイスラム教徒だと考えている。 カカシが行った大学の同級生には何人もイスラム教徒がいたが、私が間違って豚と牛の合い挽きでシュウマイを作ってしまったときでも、豚と知ってて皆たべていた奴が結構いた。 明らかに我々はこのようなイスラム教徒と戦争をしているわけではない。

こうした人々は自分達のことをイスラム教徒だと考えてはいても、それはもっと自分の内部のことだと解釈している。 たとえばシャリアとは自分の心の中の葛藤であると考えることによって、普通の生活がそれに従うことから開放されるというように。 大事なのはイスラムを現実の生活から引き離して、死後の世界のものとすることである。 日常生活に支障をきたすような面倒くさい儀式や習慣はこの際だから捨て去ることだ。 オーソドックスのユダヤ教徒でさえも、きょうび妻が生理の時に汚らわしいものといって触らないなどという人はいないのと同じだ。(Leviticus 15:19).

このような穏健なイスラム教徒はいくらでもいるはずだ。いや、たとえ熱心なイスラム教徒でシャリアを自宅で実施しているひとでも、イスラム教徒でない人間をすべて殺したいなどと考えている人はそうはいないはずだ。 いや実際の話このような穏健派は大多数に違いない。

だが、問題なのはイスラム教徒の運動団体はどこの国でも皆かなり過激であり、テロリストにも同情的だ、アメリカのCAIRなんてのがそのいい例である。 彼らの存在は非常に危険だ。 なぜなら穏健派イスラム教徒が見る公のイスラム教グループが皆過激派であることから、穏健派である自分には何か問題があるのではないかという疑問を抱くようになるだろう。 そして自分の意見を聖廟などで表現するのは控えめになるはずである。 やたらにイスラム過激派を批判するような行動はイスラム社会から村八分にされるだけでなく、命の危険すら伴う可能性があるからだ。

もしも多くの穏健派イスラム教とが、イスラムメソジスト運動を起こし、組織を作って自分らはひとりではないということをイスラム教徒内部で訴えることができれば、この動きはだんだんと広まるのではないだろうか。 憎しみにはエネルギーを要するから、普通の人は自然と穏健派メソジストの方向へ魅かれるのではないだろうか。

多くの男達が静かな絶望感をもって生きていると言う。どれだけ多くの穏健派イスラム教とはこの「静かな絶望感を持って生きている」のだろうか? どうにかしてこの人たちに絶望的な行為に走らないよう説得できないものだろうか?

追記: イスラム教徒が独特である事には二つの理由がある。イスラム教の創設者であるモハメッド自身が戦士であり、戦闘を指揮した経験のある人間だということ。 もうひとつはモハメッドは長生きしすぎたため、老齢になって機嫌の悪い爺さんになってから、彼を拒絶したユダヤ教徒への憎しみに満ちた愚痴が救世主の言葉として記録されてしまったということがある。 これらの点がこのイスラムという宗教をどのくらい暴力的なものにしているのか知る由も無いが、前にも書いたとおり、今は平和な宗教として定評のあるキリスト教にも、暴力的な歴史はあった。

中世の人たちが考えていた宗教と、現代人が考える宗教とでは全く天と地との差がある。 現代人には宗教が理由で何年も戦争をしていた十字軍の頃のキリスト教徒の心情などとても理解できない。

彼らの生きていた世界は現代の我々の生きる世界とは全く別な世界なのだ。 イスラム教だってそのくらいの年月がたてばどのくらい変わるか解らない。 イスラム教のためにも、その日が来るのに数百年もかからないことを祈ろう。 そうでないとこっちが持たない。

November 19, 2006, 現時間 07:19 PM | コメント (7) | トラックバック

November 18, 2006

何故西洋社会はイスラムの事実を認めないのか?

宗教と文化

さて、イスラムについて文明社会が知るべき事実、シリーズ三段目の最終回はおなじみロバート・スペンサー氏のおでましである。

スペンサー氏は、西洋社会は悪の根源はイスラム教にあるという明白な事実を受け入れようとしないと語る。この事実はイスラム教の教えをみれば誰にでもわかる事実だという。 本来ならば「イスラムについて、、」のようなドキュメンタリーはハリウッドの主流映画会社が作るような作品であり、多くの人々にイスラムの脅威を知らしめる必要があるのだと。

にも拘わらず主流メディアはこの事実を無視しようとする。 しかしこの事実を永久に無視し続けることは不可能だと氏は語る、なぜならこの事実に真っ向から立ち向かわなければ我々は自滅してしまうからである。

シューバット氏はコロンビア大学で演説した時に受けた生徒達からの反応をこのように語る。

私の演説のなかで、私はイスラムへの批判のみならず、プロテスタントの変革者マーティン・ルーサー の書いた「ユダヤ教とその嘘」についても批判しました。また私はマーティン・ルーサー・キングJRが黒人の人権のために戦ったと讃えたにもかかわらず、生徒達からは人種差別者、偏見主義と批判を受けました。 どうして私がマーティン・ルーサーを批判したことについては誰も私をキリスト教への偏見だと批判しないのでしょうか?

ここまではよく聞く話だが次のシューバット氏の話には衝撃的だ。

私がテロリストだったときには世界は私を解放戦士と呼びました。 私が「解放戦士」だったときは私は「ユダヤ人はシャイロックだ、イスラエルは人種差別政権だ、(アメリカの)議会もメディアもユダヤ人によってコントロールされている」と言いたい放題でした。 その頃は私はユダヤ人を憎んでいました。でもこのごろは気が変わってすべての人々を愛するようになると、私は人種差別者とレッテルを貼られるようになったのです。

しかもシューバット氏がテロリスト時代に言っていたようなレトリックがいまではアメリカの大学教授らが普通に言っているというのだ。 彼らがテロリストの味方といわれず、シューバット氏が人種差別者と言われるなんて逆さまではないのだろうか? またシューバット氏はイギリスのBBCでインタビューを受けたとき、こんな応答をした。

インタビュアーは私に「今日の問題は原理主義にあるのでは」と聞くので私は「キリスト教の原理主義は我々に頭痛を与えるだけだが、イスラム教の原理主義は我々の頭を肩から斬り取るんですよ」とこたえたところ、速やかに感謝され出口に案内されました。

私はこのブログでも何度か文明社会がイスラム教徒全体を敵に回すことの危険性を主張してきた。 だから私は悪の根源はイスラムの教えにあるというこのドキュメンタリーの製作者たちの意見には全面的に賛成できないでいる。 特にシューバット氏はイギリスのブレア首相がイスラム教を「平和を愛する宗教」だと何度も繰り返すことに関して、愚かなのか嘘つきなのかどちらかだろう、と言い切ることには全く同意できない。

ブレア首相ほど対テロ戦争に関して自分の政治生命を犠牲にしてまでブッシュ大統領と一緒になって努力してきた政治家はいない。 ブレア首相ほどイスラムテロリストの脅威を正しく理解して戦い続けなければならないと主張した人はいない。 私は911事件以後のこの世の中にブレア首相という立派な政治家がイギリスにいてくれたことを何度神に感謝したか知れない。

「イスラムについて、、」の製作者たちがわかっていないのは、政治家達がイスラムを「平和な宗教」だと主張し、テロリストは過激派であり、本来のイスラム教の教えを歪曲しているのだと語るには理由があるということだ。 イスラム教の人口は12億といわれている。 この中で過激派は約一割というではないか。 彼らはその一割の過激派と戦うために我々文明諸国に対して12億の人々全体を敵に回せというのか? 

無論、数や欧米の戦争技術をすれば、12億の敵をもってしても西洋社会がいずれは勝つだろう。 だが、もしそのような戦争がおきれば、第2次世界大戦どころの騒ぎではなくなるということがこのドキュメンタリーの製作者たちにはわかっているのだろうか?

イスラムの教えそのものに問題があるという事実は私も認める。 その事実から我々が目をそむけてはいけないという事実も認めよう。 しかしながら、12億からいるイスラム教徒全体を敵に回して我々が得るものは何もない。

キリスト教、ユダヤ教、仏教、ヒンドゥー、どの宗教をとってみても、詳しい読み方をすればあらゆる部分で暴力を容認する節を見つけることができるはずだ。 これらの宗教の歴史のなかにも他宗教を排斥し虐待してきた事実があるではないか。 だがこれらの宗教が現在の平和的な共存をみつけたのには理由があるはずだ。 その変革がイスラム教だけには出来ないと断言してしまうのはあまりにも乱暴ではないだろうか?

イスラム教徒でも大抵の人々はテロリストではない。 大抵の人々はただ普通に自分らのささやかな生活を守って生きたいだけの人々だ。 彼らが心のよりどころとしているイスラム教を真正面から批判するよりも、イスラム教を正しく解釈せよと促すことのほうが建設的ではないだろうか? 我々はイスラム教徒でありながら穏健派の道を選んだ沈黙の多数派に注目し、何故それが可能なのかを考える必要があると思う。

私はこのようなドキュメンタリーが作られることには賛成だ。 そして多くの西洋人が(日本も含む)イスラム教の脅威を学ぶべきであるとも、アメリカの教育の場でイスラムを美化した嘘が教えられているという事実を暴露し変えていく事実も必要だと思う。 だが、政治家達は今までどおりイスラムは本来は平和な宗教であるというレトリックを言い続けるべきだ。 そしてイスラム教徒ら自身にその「事実」を納得してもらい、暴力的な過激派ジハーディズムを拒絶してもらよう努力すべきだと考える。

本来のイスラム教の実態への教育は政府レベルではなく、草の根運動でやっていくべきだと私はおもう。

November 18, 2006, 現時間 04:44 PM | コメント (1) | トラックバック

November 17, 2006

西洋社会が持つ間違ったイスラム像

宗教と文化

昨日に続き、フロントページマガジンに載った「イスラムについて西洋が知るべき事実」の座談会から紹介しよう。

教育界が教えるイスラム偽りの歴史

トリフコビック氏は、アメリカの教育の場ではイスラム教の真実が教えられるどころか、アメリカのエリート教授らが勝手に信じ込んでいるイスラムを美化した妄想が公然と教えられていると語る。たとえばカリフォルニアの中学で使われているHoughton Mifflin出版の教科書などは、CAIRの創設者のひとりでテロリストと強い関係のあるShabbir Mansuriという男がその一部を執筆しているという。

アメリカ人の12歳から13歳の子供たちを教えるこの教科書では、コーランの最初の節はモハメッドが西暦610年に「打ち明けられた」とあり、モハメッドの最初のひらめきは「後に彼がガブリエルと明らかにした」天使から授かったものだなどという事実まがいのことが書かれているのです。 これはパキスタンの聖廟では似つかわしいかもしれませんが、アメリカの公立学校で教えられるにはふさわしくありません。 もっとひどいのはこの教科書には「ユダヤ人の中にはモハメッドが神の最新の救世主であることを認めない人たちがいます。」とあり、モハメッドがユダヤ教徒が彼を救世主であることを受け入れなかったことに対して、暴力的なユダヤ憎悪論の「ひらめき」をコーランに書き連ねているという事実を無視しています。このようなアラーからの教えこそが後にモハメッド政権下における民族浄化や極端なユダヤ民族駆除への下敷きになったのです。 その部分をイスラム初期の歴史から除外してしまうというのは、ナチス台頭の歴史でクリスタルナクットやヌーレンバーグ法(Kristallnacht and the Nuremberg Laws)を無視するのと同じです。

氏はこの教科書から別の例もあげて語る。 ひとつはジハードという言葉の意味の説明だ。 ジハードという言葉には「葛藤」という意味がある。これは「誘惑に抵抗し悪に打ち勝つ」という意味で個人の人間形成の葛藤を意味すると解釈することができる。 しかしこの葛藤が他者への暴力を容認していることについて、この教科書には場合によっては武力を使って悪に抵抗することが許されているとはされているものの、それは他者からの攻撃への正当防衛に限るとコーランには書いてある記されており、イスラムに改宗しない異教徒を暴力で脅迫し、挙句の果てには殺してもいいという解釈は全く無視されているというのだ。

また同教科書にはイスラム教は女性の権利を尊敬し結婚や教育いおいても正当な権利が認められているとあり、キリスト教やユダヤ教などの他宗教もイスラム社会では宗教の自由が認められているというでたらめが書かれているというのである。そしてこの教科書の練習問題には、イスラムの着物を着てイスラムの名前を名乗り、「アラーの名の下に、、、」、「アラーをたたえよ、創造の主よ」とお祈りのお経を唱えることが課されているという。

こんなことがアメリカの公立学校で、しかもカカシの地元のカリフォルニアで教えられていたとは驚いた。 子供の教科書は親は注意をして見る必要があるというものである。

ハリウッド創作のイスラム美化の神話

トリフコビック氏は、アメリカメディアは常にヨーロッパのキリスト教徒が暴力的な攻撃者であり、イスラム教徒は唯その理不尽な攻撃から身を守ろうとする道徳的な民族であるというイスラムを美化した描写を我々に押し付けるという。 リドリースコット監督のキングダム・オブ・ヘブン( Kingdom of Heaven) などがその典型的な例だと語る。(注:映画の公式サイトは音楽が鳴るので音量に注意)

またアメリカの公共テレビ局PBSが2002年に政策したモハメッドの伝記ミニシリーズ番組、Legacy of a Prophet, ではソビエト共産党当局製作のレーニン像さながらの美化伝だったという。 PBSの番組ではモハメッドがユダヤ民族に対しておこなった強姦や虐殺の歴史、イスラム教徒以外の人々を人間以下として扱い理不尽な税金をかけた事実などすべて無視した。 登場した9人の「専門家」は信じられない口調でモハメッドを褒め称えたという。しかもモハメッドは女性解放を行った人物と描写され、コーランの節に女性を強姦したり、妻に暴力を振るうことが容認されている部分があることなどは全く語られなかった。

氏は「イスラムについて、、」においてこのような神話を次々に崩壊していくと語る。 しかしこのようなドキュメンタリーはイスラム美化の神話を長年植えつけられてきた西洋社会で受け入れられるだらうか? 氏はこの真剣な質問に対してブラックユーモアで答える。

ヨーロッパ連盟では放映禁止になるでしょう。そして私も他の4人の「スター」たちも次の(イギリスの)ヒースロー空港やSchiphol行きの飛行機に乗るのは考え直したほうがいいでしょうね、そうでないと言ってはならないことを言ったといって刑務所送りは間違いないでしょう。 しかし我々のナイーブで油断しきった西洋の中間達におうちが火事だよと気がついてもらうためには充分価値のあることかもしれませんが。

刑務所送りになるくらいならまだしも、ヨーロッパには過激派ジハーディストがわんさかいて、イスラム教を批判する人間を暴力で脅迫していることはすでにこのブログでも何度も書いたとおり。 彼らがヨーロッパ旅行をする際にはボディガードを連れて充分な警戒対策をとってほしいものだ。

明日は座談会もうひとりの参加者、当ブログの読者にもおなじみのロバート・スペンサー氏の話を紹介しよう。

November 17, 2006, 現時間 03:22 PM | コメント (0) | トラックバック

November 16, 2006

イスラム教、文明社会が知るべき事実 その1

ヨーロッパ , 宗教と文化 , 対テロ戦争 , 映画

本日はイスラム教過激派の脅威を描いた二つのドキュメンタリーを紹介したいと思う。 ひとつはObsession(執念)、 もうひとつはIslam - What the West Needs to Know(イスラムについて西洋が知るべき事実)。

イスラム過激派の狂信を描くオブセッション

「執念」のほうは先日テレビでその一部を観たが、情報提供をするドキュメンタリーとしてはあまり良く出来ているとはいえない。 ただ過激派イスラム教徒の狂信ぶりを言葉で説明するのではなく、イメージで訴えるやり方にはそれなりの効果がある。 何万人という信者が集まって「アメリカに死を!」と独裁者の音戸に取られて腕を降りたてながら何度も繰り返す映像はナチスドイツのヒットラーの演説を思い出させる。

また別のシーンでは幼稚園の女教師が子供に「ユダヤ人は豚だ」と教えていた。 女児が言葉に詰まった時に「はい、次はなに? 」と優しく聞き返し、女児が「ユダヤ人は豚です!」と答えると「は~い、よくできました!」と褒めてる図は背筋がぞっとする思いである。

我々文明人は自分らの物差しで他の社会を計るため、比較的民度が高いと思われるサウジやトルコ、エジプトのようなイスラム社会であからさまな反西欧のプロパガンダが朝から晩まで流されているということの深刻さに気がついていない。 一歳児に自爆ベルトを着させて自慢げに写真を撮る父親の気持ちが理解できていない。 幼稚園児が大きくなったら自爆テロになってイスラエルの豚どもを吹っ飛ばすなどと涙を流しながら訴える姿がつかみきれない。 

外面(そとづら)のいいイスラム諸国の代表者らは、西洋のメディアに面するときは西洋諸国が聞きたがる奇麗事を並べ立てる。 多くの「スポークスマン」たちは英語も達者で西欧風の振る舞いにも長けてチャーミングなため、我々西洋人は彼らも我々と同じ価値観を持っている文明人なのだとちゃっかり騙される。 だが彼らが自分達だけの間で話す時の西洋観は我々がきいてぞっとするような憎しみに満ちているのである。 たとえばここでも何度か取り上げたアメリカのイスラム教市民団体CAIRの代表が、911事件直後、「我々はこのテロリズムを断固糾弾する」と表向きは宣言しておきながら、自分らの会合では911の犯人たちを「19人の英雄たち」とたたえている映像がこのドキュメンタリーでははっきり映し出されている。

イスラム過激派は西洋社会に嘘をつきインファデル(無信心者)の我々を欺くことなど屁とも思っていない。 彼らの真の姿を知るべきだ、というのがこのドキュメンタリーのテーマだ。

悪の根源はイスラムの教えそのもにある

これとは別に、「イスラムについて西洋が知るべき事実」のほうは私はまだ観ていないが、その製作者たちの座談会がフロントページマガジンに載ったので。(Hat tip le'eXtreme-Centre )そこからこの映画の内容について紹介しよう。

元パレスチナ解放連盟(PLO)のテロリスト、福音書キリスト教徒に改宗し現在は熱心なシオニスト、「何故私がジハードを去ったのか」の著者ワリード・シューバット(Walid Shoebat)氏は、この映画についてこのように説明する。

私が過激派イスラム教を去ってからというもの、私は常に過激派イスラム教徒の心情について無知な西洋人に遭遇してきました。 どちらの側にもいたことのある私にとって私はその度に、スタートレックのスポック博士がカーク船長に幾度も宇宙人の考えを説明したように、(西洋人に)異邦人の考え方を説明するはめになったのです。 しかし西洋人と話す上で最初に私が遭遇した問題は彼らがイスラム社会も彼らと同じように、自由、平等、文明化、民主主義、そして生活向上といった希望を持っていると勘違いしている点なのです。

今日、古の世界で西に傷つけられ忘れられていた巨人であるイスラムは凄い勢いを息で吹き返してきてます。 イスラム教徒が多数を占める多くの国々で世俗主義や社会主義は人気を失い新しい傾向、本当はとても古いのですが、山火事が広まるかのように、よみがえろうとしているのです。 それが過激派イスラム教です。

私が参加したこのドキュメンタリーではイスラムの歴史のはじめから今日にいたるまでのつながりを、神話と事実が織り交ぜながら見せています。このドキュメンタリーはイスラム創造の父であるモハメッドによる紛れもない供述、イスラムそのものを情報源として、どう彼の教えが現在の我々の時代に生きているかということを説明しています。この証拠が討論されている間にも、世界の政治家達は否定できない事実を否定しています。 イスラムの真髄は単に「美しく平和な宗教」などではありません。 これは彼らだけの政治機構であるだけでなく残りの世界にも強制されようとしているのです。

東洋はイスラムが生まれた最初から知っていますが、西洋はまだ全くこの歴史に無知です。しかし西洋でもイスラムは広まりつつあるのです。すべての西洋人がこのドキュメンタリーを観るべきです。特にまだイスラムを批評する自由をもっている今のうちに。

このドキュメンタリーの製作者で、座談会に参加したほかの二人は、サージ・トリフコビック(Serge Trifkovic, 元 BBCワールドサービス報道員、元US News & World Report の記者、元Chronicles海外ニュースの編集長, そして The Sword of the Prophetの著者)と、ロバート・スペンサー(Robert Spencer, おなじみのイスラム教歴史学者。トルコ系カトリック教徒。イスラムに関する多々の著書があるが、一番最近はThe Truth About Muhammad)氏である。

この顔ぶれだけを観ても読者の皆さんにはこのドキュメンタリーの主旨がご想像いただけると思うが、彼らのテーマは欧米社会の政治家達が好んで使う、「イスラム教が問題なのではない、本来のイスラムは美しく平和な宗教である。問題はジハーディズム(聖戦主義)というイスラム過激派がイスラムを歪曲して解釈をしてテロを行っていることなのである。」という西側のレトリックは間違っているというものだ。 このドキュメンタリーはジハードの根源はイスラム教そのもにある、我々西洋人はそのイスラム教の悪から目をそむけてはならない、というのである。

この座談会でトリフコビック氏が紹介しているアメリカの公立中学で教えられているイスラム教について、驚くべき事実がある。

長くなるのでこの座談会の続きはまた明日。

November 16, 2006, 現時間 04:29 PM | コメント (3) | トラックバック

November 15, 2006

過激派イスラム教徒へ穏健派が挑戦!

宗教と文化

私が過激派イスラム教徒に対して持っている印象は、彼らは非常に幼稚な文化だということだ。 彼らは自分の要求が通らないとかんしゃくをおこして道路に寝転んでぎゃーぎゃー騒ぎ立てる3歳児と全く同じである。 

彼らは我々文明社会の宗教や慣習を尊敬したことなど全くないのに、自分らの宗教を多少でも批判されると大騒ぎして暴動を起こす。 アメリカでもヨーロッパでもイスラム教徒に関してちょっとでも気に入らない表現があると、誰に選ばれたでもない自称イスラム教徒代表なる怪しげな奴らが大声を張り上げて「人権侵害だ」「宗教差別だ」といって抗議に出てくる。

イスラムの過激派はその12億の信者のうち一割がただという話だ。 沈黙の多数派といわれる人々のなかにも穏健派として、この過激派イスラム教徒のダブルスタンダードを批判する勇気あるイスラム教徒たちが何人か存在する。

アラブ系アメリカ人心理学者のワファ・スルタン(Wafa Sultan)女史がそのひとり。 彼女が今年のはじめアルジェジーラのトークショーでした演説は有名なのでもうご存知の方々もたくさんおられるだろう。 下記はその一部。

ユダヤ人は(ホロコーストの)悲劇を経験しましたが、世界を感服せしめました。テロではなく知識で尊敬をかちとったのです。怒号や絶叫ではなく知の力で感服せしめたのです。19世紀、20世紀の科学の進歩発展上、人類はユダヤ人科学者に負うところ極めて大なのです。ユダヤ人口1500万。世界各地に散在しますが、力を合わせ仕事と知識で権利をかちとったのです。ドイツのレストランで自爆するようなユダヤ人は、ひとりもいませんでした。キリスト教の教会を爆破したユダヤ人も、ひとりだっていなかったのです。人々を殺しまくって抗議と称したユダヤ人など、ひとりもいませんでした。

ムスリムは、(バーミアンの石窟)仏像3体を爆破し、こなごなにしてしまいました。我々は、モスクを焼き打ちにしたり、ムスリムを殺したり、或いは大使館を焼き打ちにする仏教徒を、ひとりでも見たことがありません。自分の信仰を守ると称して教会を焼き打ちしたり、人を殺し或いは大使館を破壊しているのは、ムスリムだけです。このやり方、この道は何の成果も生みません。ムスリムは、人類は自分達を尊敬せよと要求する前に、人類のため自分達に何ができるか、と自問しなければなりません。

イギリスのアラブ系ジャーナリスト、アデル・ダルウィッシュさんもそのひとり。 先月イギリスの国会議員がイスラム教女性のベールが彼女らと他のひとたちとを遮断するバリアーになっているという発言をしたことで、自称イスラム教徒代表の「男性」連中から批難をあびたことについて、こんなことを書いている。

〝ムスリム指導者〟は、ストローが〝間違った祭壇〟からベールを論評する、と非難する。彼等の言葉では、彼等が受入れる祭壇とは、地方のモスクやイスラムセンターであり、議会や選挙区とは全くかけ離れた存在である。これはダブルスタンダードの典型例である。何故ならば、この〝ムスリム指導者〟は選出された存在ではなく、自分だけを代表する。問題の地方のモスクは、イマムの統制下にある。居住国の国語を喋らず、参考図書室にあるのは、パキスタンの中等コーラン学校の教科書である。イスラム文化センターなるものの大半は、金を与える者の政治主張を開陳する場でしかない。資金提供者はイギリスの外に住み、イギリスの有権者による監視は全然うけない。

ベールをつける女性達と国民代表として自由選挙で国会議員に選ばれた人との対話は、何年も続いていた。ストロー議員がこの話を地方紙で発表しなければ、公けにはならなかったであろう。議員は古い民主的伝統に従って、事務所を一種の選挙区診療所として使っている…週に1回有権者に開放し、悩みを聴き有権者の問題解決を助ける。そして有権者に代って問題や提案を議会に提出する。ストロー議員の場合、有権者の3分の1はムスリムである。

読者に聞きたいが、有権者に関心のある諸問題を論じる時、二つの祭壇のどちらにより正当性と代表性があるのだろうか。民主的な選挙でムスリム住民を含む市民の代表として選ばれた議員か。それとも、選ばれてもいない人間に統制され、資金提供者が誰なのか神のみぞ知るイスラムセンターなのか。

そして私は過激派イスラム教のわがままを決定的に指摘しているのがこの部分だと思う。

怒声を張りあげる少数派は、〝ムスリム人民の文化〟を理解しないとして西側を非難する。それでは尋ねるが、そういう君達はイギリスの文化を理解しようとしたことがあるか?例えば私の妻は、イスラマバードの庭園でビキニ姿になって静養するなどということは、夢にも考えていない。同時に、イギリスの文化では、ベールで顔全体を覆い隠すことはいわずもがな、サングラスをつけて他人と話をするのは、礼儀正しいことではないし、気配りのある行為でもない。この国には、表現、思想の自由があり、個人に解釈の自由を認め、男女平等である。これがこの基本的な文化概念である。少数派のなかの一少数派の権利という口実で、この国の文化をあなどり、無視するのは如何なものか。この国の基本的文化を理解しようともしないのに、何故この国にわざわざ来て住むのであろうか。

まさしくその通りだ。

November 15, 2006, 現時間 01:18 PM | コメント (1) | トラックバック

November 05, 2006

国産イスラム過激派に怯えるスカンジナビア

ヨーロッパ , 宗教と文化

実は一週間前にこのスカンジナビアの国産イスラム過激派に関する記事を読んで、当ブログで紹介しようと思っていてそのままになっていたのだが、(The Danger of Homegrown Terrorism to ScandinaviaBy Lorenzo Vidino)、欧州における過激派イスラム教徒の台頭は非常に深刻である。

この前もちょっと触れたように、フランスでは本当のインティファーダが起きているという気がする。 インティファーダとは現政権に対する反対運動だが、いってみれば革命運動というべきものだろう。 これがイスラム教という過激派思想と混合して、ただの抵抗運動ではなくテロ行為へと動きが過激化していくことが現代の欧米及び東南アジア、アフリカなどでも問題なのだ。

ただフランスのインティファーダが主にイスラム系移民によって行われているのに対し、カナダ、ニューヨーク、ロンドンなどで最近起きたり未然に防がれたテロ陰謀は国産のイスラム教徒改宗者によるテロリストらによるものだった。 イスラム過激派というテロ団体がなければ、彼らは単に地元のギャングか暴力団に加わって普通の犯罪をおかすちんぴらで終わっていたか、あやしげなカルトに入って壷でも売っていたのだろうが、現代社会では世界的に広まっている聖戦主義イスラム教が彼らの飢えた精神を蝕んでいる。

この問題が深刻になっている地域にスカンジナビア諸国、デンマーク、スエーデン、そしてノルウェーがある。

これらの国々では多少ではあるがアルジェリアやエジプトのテロリストが多少の活動を行っていた歴史はある。 だがこれらの組織は規模も小さく、スカンジナビア諸国に危険をもたらすほどのものではなかった。 だが近年になってこれらの国々で危険な活動をしているのは、国産のテロ組織である。

2年ほど前にデンマークでは警察があるテロ組織を崩壊したばかりだが、去年の10月27日にコペンハーゲンで逮捕された16歳から20歳の若者が所属するテロ組織はまた別のものであるらしい。 去年の逮捕のきっかけとなったのはボスニアの対テロ作戦によるものだった。 逮捕の一週間前にサリエボの対テロ警察が二人の若者Mirsad Bektasevic とAbdulkadir Cesurを逮捕したが、この二人はスカンジナビアと深いつながりがあった。19歳のBektasevic青年はボスニア系スエーデン国籍で、 サリエボに爆発物を購入にきていたところを逮捕された。 21歳のCesurはトルコ系のデンマーク生まれ。 二人はサリエボで20kgの多種の爆発物材料を購入。これをすでに購入済みの自爆テロ用ベルトに装着する予定だったという。 彼らは自分らの野望を述べた映像をビデオに撮り、「ヨーロッパに対しイラクやアフガニスタンにいる奴らに対して」戦うと宣言していた。 彼らの標的はサリエボのイギリス大使館だったらしいとボスニア警察当局は考えている。

Bektasevicの電話通信を盗聴して、ボスニア当局はデンマーク当局に連絡。彼らの仲間はコペンハーゲンにアジトがあると告げた。 デンマークで逮捕された4人は地方当局ではテロリストとして全くマークされていなかった。 彼らは中東系デンマーク生まれの普通の若者で、普通に学校に通いサッカーチームに参加し、ごく普通の生活をしていたという。 それが何故か突然過激派イスラム教に興味を覚え、ネットで聖戦チャットルームに参加したりしているうちに、スエーデン国籍のBektasevicと出合った。後になってBektasevic はスエーデンを基盤にしたオンライン聖戦グループの重要陣部であることがわかった。このネットワークはオンラインを通じてイギリスや多のヨーロッパ諸国、そして海を超えてカナダやアメリカにまでひろがっているという。Bektasevicは MaximusというHNを使ってヨーロッパのイスラム教徒を募ってイラクでテロをやらせようとたくらんでいたという。

スエーデンで見つかった別の事件でも、やはりオンライン活動が重要な鍵を握っていた。スエーデン当局はこの5月国の各地で三人の若者を学生街のアプサラにある福音書協会爆撃陰謀の疑いで逮捕した。イラン系スエーデン人のNima Nikain Ganjin(22)と生粋のスエーデン人Andreas Fahlen(25)はストックホルムの郊外でつかまった。19歳のAlbert Ramic スエーデン南部の Trelleborgで取り押さえられた。三人はオンラインのチャットルームで聖教戦士について話し始めたのがきっかけで仲間になったという。 Ganjinは2005年にストックホルムのイラク投票場に火炎瓶を投げた疑いで調査の対象となっていた。彼らは具体案は何も持っていなかったが、イスラエルに同情的な姿勢を示す協会を爆破してやるつもりだったと語った。裁判の結果彼らは禁固8ヶ月から3年の刑が言い渡されたが、控訴の結果かなり刑が軽くなったようだ。

これらの若者に共通する点は彼らが普通テロリストになるような背景をもった青年らではないということだ。特に暴力的な問題児というわけでもなく、経済的に恵まれた中流クラスの平凡な若者達である。にも拘わらず彼らはネットのチャットルームなどに参加するに従い突然過激派ジハーディストへと変貌してしまったのである。ストックホルムのイラク投票場を火炎瓶で爆破した後、Ganjinはアルカエダ本部にメールを送って自分あちはアルカエダのスエーデン支部だなどと豪語したりしていた。

ムジャハディーンネットワークと呼ばれるこの組織のメンバーは、10年前までの過激派などとは違い、イスラム教に関する知識はほとんどない。彼らが興味がるのは暴力を使った抵抗の思想だけだ。

この9月、ノルウェー当局はオスロのユダヤ教寺院に銃弾を打ち込んだ4人の男を逮捕した。 彼らはアメリカとイスラエル大使館を襲う予定だったと語っている。 この男達は地方警察にはこそ泥もしくはギャングメンバーとして知られていたといい、イスラム教に対する知識もほとんど皆無だったという。

この記事の著者Lorenzo Vidino氏は、イスラム系移民でもなければ、特にイスラム教にそれほど関心がなく、家庭があれているとか、貧困生活をおくっているとかいう背景ではないスカンジナビアの普通の若者が聖戦主義・ジハーディズムに誘惑されるのか解らないと困惑している。

だが私にはこれは珍しい現象ではないと思う。どこの世界にも心のよりどころを求める不安定な若者はいくらでもいる。 もし彼らがキリスト教でも仏教でもいいからなにかすがれる宗教を信じて育ってきたならまた別だが、親への反発や自分らにとっては伝統的な宗教への反動がおかしな思想へと彼らを追い立てるのだ。 一昔前なら、欧米や日本などではハーレクリシナや統一教会といった比較的無害なカルトへ入会するような人々が、いまはオンラインを使って勧誘するジハーディズムへと魅かれて行く。 感受性の高く自分の無力を感じている若者が世界を変えることが出来るという破壊的な宗教にひかれたとしても私には不思議でもなんでもない。

だが、ここ数年の国産のテロリスト組織発生は、スカンジナビア諸国では深刻な問題だ。彼らには組織的な破壊力はないが、ひとつの自動車爆弾でも何十人何百人と殺すことができるわけだから、直接中東のテロ組織と関係があるかないかは問題ではない。 

デンマーク当局はデンマーク軍がイラクやアフガニスタンに出動していることや、モハメッドの漫画が2005年にデンマークの新聞に掲載されたことなどが原因となって、デンマークで大規模なテロが起きるのではないかと心配している。 そしてスカンジナビア諸国で起きるテロは国産のテログループによって行われるだろうと予測している。

最初に書いたように、イスラム過激派というテロ組織がなければ、彼らは別のおかしなカルトやギャングに参加していたような馬鹿者たちだ。 デンマークがイラクやアフガニスタンに出兵しているなどということなどテロの口実に使われこそすれテロが起きる本当の原因ではない。 

スカンジナビアが将来の国産テロを未然に防ぎたいのであれば、オンラインを注意深く観察し、ネット上でのテロネットワークを厳しく見張ることにあるだろう。 そして私はこれが一番大事なことだと思うのだが、世俗化したヨーロッパ諸国は伝統的なキリスト教などの宗教をもう一度見直すべきである。心によりどころのある若者はおかしなジハーディズムなどという死と破壊のカルトになど誘惑されないからだ。

November 05, 2006, 現時間 06:24 AM | コメント (0) | トラックバック

November 04, 2006

パリは燃えている

ヨーロッパ , 宗教と文化 , 狂ったメディア

私はこの間フランス国内のイスラム問題はイラク戦争にある?! において、フランスで起きているインティーファーダ(過激派イスラム教徒による反政権運動)について、やたらにメディアが遠慮がちであることを書いた。 アメリカのメディアは重体者を出した数台のバス放火事件の犯人を単に「若者」とか「移民を祖先に持つ若者」もしくは「低所得者住宅地の若者」といった言葉で表現し、明らかにイスラム系移民であることを必死に隠そうとしていた。

しかしこの傾向は当のおふらんすメディアでも同じことらしい。 

だがその話をする前にちょっとマイネ・ザッヘさんのブログに載ったこの記事(日本語)から紹介しておこう。 去年のイスラム教徒による暴動のきっかけとなった二人のちんぴらが感電死した記念日に、なんと市長さんが慰霊碑にお見舞いをするという珍動。 いくらイスラム系移民の多い地区とはいえ、ここまで迎合する必要があるのか、といいたくなる。

しかし過激派に対して迎合すること以外にフランス政府には政策がないというのも事実なのだろう。 そしてその迎合の姿勢を必死で守っているのがフランスメディアである。

前にもちょっと書いたが、フランスでは毎晩のように乗用車が平均100台は焼かれているという。 しかも今年にはいってすでに2500人のフランス警察官が暴徒によってなんらかの怪我を負わされているというのである。 こんな異常な状態を「比較的平穏な日」などと表現するフランス社会とはいったいどこまで狂ってしまったのだろうか?

この間マルセーユで起きたバス放火事件だが、この事件が世界的なニュースになる前からフランスではバス放火事件は起きていたのである。 その際に被害者がでなかったとはいえ、放火されたバスには偶然誰も乗っていなかったというわけではないのだ。 大抵の場合暴徒が待ち伏せして放火しようとする直前に乗客らが危険を察知してバスから逃げ出したことがこれまで犠牲者を出さないでいた理由だ。 普通このような事件が起きれば命からがら逃げ延びた乗客やバス運転手らのインタビューなどが新聞やテレビででかでかと報道されてしかるべきところだ。 ところがフランスのメディアは単に空っぽのバスが「若者」によって放火されたという報道しかしていなかった。 

だからこれらのバス放火に感化されたイスラム教過激派の暴徒が真似をしてバス放火をあちこちで始めたわけだが、数が増えればいずれどこかで犠牲者が出るのは時間の問題だった。 メディアが最初のバス放火の時にこの犯罪がどれほど深刻なもので、フランス社会は激怒している、フランス警察当局がどれだけ厳しい取り締まり対策を持っているかという報道をしていたなら、第2、第3の放火を防げたかもしれない。 だがフランス警察が犯人を逮捕して厳しい処罰がされたというニュースはないし、社会的な征伐もないとなれば、面白がって真似をするチンピラどもが増えるのは当たり前だ。

瀕死の重傷者がでたマルセイユの事件でさえ、メディアは犯人がイスラム過激派であることを隠しているだけでなく、必死に逃げた他の乗客らの話など全く報道していない。 今でさえマルセイユの市長はこの事件は独特な事件であり、普段このあたりは他民族が仲良く暮らしていて平穏だなどと、のたまう。 だが被害者の女学生、Mama Galledouさんの通っていた医学学校では付近のちんぴらによる暴力に日ごろから悩まされていたと病院に見舞いに来ていた同級生らは語っている。

いったいフランス社会は何時までイスラム過激派によるインティファーダに目を瞑っているつもりなのだ?

Pajama Media:はフランスが常識感覚麻痺症状に陥っているという。(Burning Buses: “She was black but she looked white, her skin was peeled."

フランスは劇的な事件に劇的に反応するセンセーショナリズム意識の喪失に病んでいる。言葉は人々に命を与える。残酷な襲撃の犠牲者は庶民の心には存在しない。彼女の友達や家族が遠方から病院に向かって歩いている姿が報道され、(被害者の女学生が通っていた大学の)教授が言葉少なに何か言ったが、幸せだったときの彼女の写真は映されなかった。

もっとも印象に残ったのはレ・パリジャン誌に載ったRacidさんの供述だ。彼はバスが燃え始めた時バス停に立っていた。彼は若い女性がバスから下りるのを見たが、その焼け爛れた姿を見ても少しで気絶するところだったという。「彼女は黒人でしたが白く見えました。彼女の皮膚がまくれていたからです」彼女に障ることで余計に傷を深くしてしまうのではないかという恐れを乗り越え、彼は彼女をバスから離れたところまで運んだ。そばにいてはバスが爆発するのをより恐れたからだ。 彼は自分の上着で彼女の燃える炎を消そうとした、同時に友達に携帯電話を渡して救急車を呼んでもらった。

どうしてこの英雄的な Rachidの顔を報道しない?彼は付近のギャングたちに気づかれて復讐されるのを恐れているというのか? 警察の捜査官たちは逃げ切った乗客たちの間で自発的に警察に名乗り出ていないひとたち匿名で名乗り出るようにと呼びかけている

ビラピンは遅まきながら、今後このような待ち伏せにおいては、実際に待ち伏せを行った犯人以外にも犯人を擁護した者達も同じように罰せられると発表した。 けが人が出なければこんな常識的なこともできなかったのかフランスは?

私がここでも何度か紹介したフランスのブロガーle'eXtreme-cetre など一部のフランス人を除いて、フランス社会はまだイスラム過激派ジハーディズムがどれほどイスラム系移民の若者達の心を蝕んでいるか気がついていない。 いや気がついているのにそれを認めようとしない。 

もっともフランスではたかだか30度程度の暑さで15000人のシニア市民が死んでもなんとも思わない感覚が麻痺した国民だから、我々のような繊細な神経では全く理解できない面がある。 しかしこの神経麻痺状態がいつまでも続くと、フランスは本当にインティファーダに負けてしまう。 私はいつもフランスおふらんすなどといってからかってはいるが、本当はフランスにはもともとのフランスで居て欲しいのだ。 イスラム過激派に乗っ取られて破壊されてなど欲しくはない。

最後に第二次世界大戦の時ナチスドイツに占領されたフランスを想って書かれた歌を紹介しよう。 何故か今私はこの歌を再び歌いたいムードなので。
最後にパリスと会ったのは

パリスという名で知られていたロマンチックでチャーミングな彼女は
視界から靄のように消え去ってしまった

寂しい男の目は彼女を無駄と知って探している
彼女がいた通りに彼女の姿はない

彼女はセーヌを去ってしまった

最後にパリスに会った時、彼女の心は温かく明るかった
僕は彼女の心の笑い声を通りのカフェのあちこちで聴いた

最後にパリスに会った時、彼女の木々は春の衣を着ていた
そして恋人達が木々の下を歩き鳥達が歌う歌を見つけていた

僕は何年もやっていたように、いつもの古臭いタクシーをよけながら
奴らのクラクションの合唱を僕の耳は音楽のように聴いていた

最後にパリスと会った時、彼女の心は温かく明るかった
彼女がどう変わろうと、僕はあの彼女を覚えておこう

僕は幸せだった時間を考えて、その時間を共にすごした人々を想おう
夜明けの市場で花を売ってた老婦
公園でパンチとジュディに声援を送っていた子供たち
そして夜中踊ってパリスを夜明けまで明るくしていたひとたちを

November 04, 2006, 現時間 08:34 PM

October 29, 2006

フランス国内のイスラム問題解決はイラク戦争にある?!

ヨーロッパ , 宗教と文化 , 対テロ戦争

Update:!No Pasaran! has a wall-to-wall coverage on this issue.

The English language version of this article can be found here.

日本語版AFPの記事に目をとおしていたら、フランスのマルセイユで去年に続き今年も若者による暴力沙汰で停車中のバスが放火され一人が死亡、数人が大怪我を負うという記事を見た。 

【マルセイユ(フランス)29日】昨年秋に発生した若者らによる大規模暴動から1年が経過したばかりのフランスで28日夜、南部の都市マルセイユの路線バスが若者に放火される事件があり、警察および救助当局によると、乗客の女性1人がやけどで重体となった。

 警察が目撃者の話として明らかにしたところによると、28日午後9時ごろ、3人の若者がバスのドアをこじ開けて乗り込み、ガソリンを車内にまき散らしてマッチで火をつけたという。車内には十数人の乗客がいたが、26歳になる女性が体の約60%をやけどし、重体。このほか3人が煙を吸い込んで軽傷を負った。

事件が起きた場所はマルセイユ郊外で、これまで特に暴力事件が報告されたことはない地域という。 パリ郊外でも27日夜から28日にかけて路線バス2台が放火され、警官6人が軽傷を負った。警察当局は移民が多く住むパリ郊外に警官4000人を増員して警戒に当たり、47人を逮捕した。ルモンド紙によると27日には全土で277台の車両が放火された。

警察によると、仏北東部のランスや南西部のトゥールーズでも警官隊と若者の衝突事件が発生したという。

この記事では犯人の若者がイスラム教徒であるとは書かれていない。 しかしフランスで「貧しい移民」といえばイスラム教徒以外にはかんがえられない。 しかもフランスではイスラム教暴徒による乗用車への放火が去年の暴動以前から一日に何百という数で起きており、この事件の犯人も多分イスラム教暴徒であろうことは想像に難くない。 

この事件について犯人像などもっと詳しくしりたいと思い、「フランス、バス放火」で検索していたら、なんと数日前にも同じような事件が起きていたことが解った。(Youths set passenger bus alight in Paris

10月23日:パリ南部の郊外で、30人に及ぶ若者がバスの乗客を強制的に降ろしたあと、バスに火をつけ駆けつけた消防士らに石を投げるなどの暴力を働いたと警察当局は発表した。

興味深いことに、このThe Ageニュースサイトでも暴徒がイスラム教徒であることを意識的に避けて報道している。 しかし記事の内容から暴徒がイスラム教移民の若者であることは間違いない。 さらに問題なのは暴徒の暴虐はバスや乗用車への放火にはとどまらず、警察菅を待ち伏せして石を投げたり暴行を働いたりして大怪我をさせる事件があいついで起きていることだ。

去年の暴動において、フランスの大都市を囲う低所得者居住区において移民を祖先にもつ無数のフランス市民が差別され一般市民から隔離された生活をしていることが明るみに出た。

この日曜日、5人の男性が警察菅暴行の疑いで捜査の対象となった。この5人は10月13日にパリの北側に位置するEpinay-sur-Seineにおいて、住宅街におびき寄せられた警察官は待ち伏せしていた30人の若者から石を投げられるなどの暴行を受け、警察官ひとりは顔面に30針も縫う大怪我を負った事件の容疑者である。

政府はいくつもの対策を採用して状況の改善を図っているが、問題は根が深く暴力が衰える兆しは見えない

現在のフランスの状況が去年の暴動の繰り返しになるようなものなのか私には解らない。 だが、フランス国内でもこうした状況にもっと強い対策をとらねばならないと考える人たちもいる。

私のことをご存知の方々なら、私がフランスの話をするとき、わざわざ「おふらんす」と皮肉っぽい言い方をするのにお気づきだと思う。 この理由はフランスのエリートと言われる人々は何かとアメリカ人を野蛮だ、下品だ、田舎者だといって馬鹿にする傾向があるからだ。 

しかし、フランス、フランスと言ってもひろうござんす、、中には既得な方々もいらっしゃる。 ひょんなことから見つけたこのフランス語のブログ、l'eXtreme-Centre がそのひとつ。 このブログはほとんどフランス語で書かれているからフランス語のできないカカシには読むことができないのだが、時々彼女は英語で書く。 本日もこの記事を読んで私は非常におどろいた。 ( Francifada、l'eXtreme-Centre

(フランス)では自由化はまったくない。 フランス労働市場は今までよりさらに頑固である。失業率はいまだに二桁代であり、特にもっとも失業率が高いのが移民や少数民族である。 これらは我々が書いたように気に入らないことがあるとすぐに暴動に走るイスラム教徒に、フランスは自らの姿を反映させていることと重なる。

シラク氏は国内のイスラム教徒問題を恐れてイラク戦争に参加しなかった。 しかるに、驚くべきことに彼らは何か不満があるとフランス政府に圧力をかけることで服従させることができると信じている。

フランスがこの状態から抜け出す方法は二段階に分かれる。第一に福祉制度を改正し、イスラム教徒が大半を占めている貧民窟をフランス社会に溶け込ませることである。 第二にフランスのイスラム教社会にフランスは脅迫にはひるまない、フランスは西側諸国の仲間であり、アメリカやイスラエルの同盟国であり、自由社会の一員なのだという姿勢を示すことだ。

国内においてはジュリアーニ(元ニューヨーク市長)式の犯罪容認ゼロのやり方を取り入れ、郊外をパトロールする。そして外交においてフランスはイラクへ軍隊を送って過激派イスラム教徒と戦い、我々が対テロ戦争連盟の一員であることを証明すべきである。 このままではフランスにおいてはブッシュ大統領がイラク戦争について語り始めたように、「もし撤退すれば敵は家まで追いかけてくる」という状態が真実となるであろう。

おふらんすにも、アメリカやイスラエルと同盟国であると誇らしげに言う人がいるのだと知って非常にうれしい。 まさかフランス人の口からこのような言葉を聴くとはおもっていなかった。 しかしそれだけフランスのイスラム移民暴走問題は深刻だということなのだろう。

イスラム移民の過激化に悩まされているのはフランスだけではない。 スカンジナビア諸国でも問題は非常に深刻である。 その話はまた追ってすることにしよう。

October 29, 2006, 現時間 07:32 AM | コメント (0) | トラックバック

October 16, 2006

イスラム教タクシー乗車拒否の裏にあるもの

宗教と文化

この間私は、ミネアポリスのセントポール空港で、イスラム教徒のタクシー運転手が免税店などで購入した酒類をもっている乗客を乗車拒否している状況について次のように書いた。

いくつものタクシーに乗車拒否をされた外部からの乗客から苦情が殺到しているため、空港側は酒類を拒否する車は特別な色のライトを車の上につけることを提案した。

しかし少なくとも今回に限っては、この提案は市民の間で非常に悪評版であったため、案はお釈迦になった。

私は簡単に「市民の間で非常に悪評判であった」と書いたが、どのくらいの悪評判であったのか、本日元記事を書いたダニエル・パイプ氏が記事の後日談を書いている。(No Islamic Law in Minnesota, for Now、by Daniel Pipes、FrontPageMagazine.com)

空港の報道官パトリック・ホーガン氏はさらに詳しく説明した。空港で二つのライトをつける解決案を計画しはじめたとたん、「オーストラリアやイギリスからまで反響がありました。多くの人たちの神経をかなり逆なでしたようです。 圧倒的な悪反響には正直言って驚きました。皆さんこのこのような文化的心遣いは完全に反対のようです。」この悪反響とは、ホーガン氏によると、400もの電子メールと電話が含まれているという。

しかしこの提案を押していたミネアポリスのイスラム教徒市民団体、モスレムアメリカソサエティー(MAS)はその失望を隠しきれない。「タクシー運転手の半数以上を占めるイスラム教徒や地元の心配を無視した空港のやり方は不公平だと思います。」と述べた。 イスラム教徒でない乗客の不便さを無視するのは不公平じゃないんでしょうかね、とお聞きしたくなるような身勝手な言い分。

しかし酒類を輸送することがイスラム教の教えに反するというコーランの解釈は普通ではないと他のイスラム教徒らから批判も出ている。テンプル大学のイスラム教学者モハメッド・アユーブ教授はイスラム教徒はアルコールを飲んではいけないが輸送することは別に問題ではないと語る。「私はイスラム教徒でガソリンスタンドを営む人たちを多く知っていますが、彼らの店ではビールやハムサンドイッチなども売られています。それは当然ですが、生活のためだからと割り切っています。」

また穏健派のイスラム教市民団体、フリーモスレム連盟(The Free Muslims Coalition) もタクシー運転手らの振る舞いには立腹している。

連盟は先ずイスラム教徒は酒を飲んではいけないが、運んでいけないという教えはないこと。次にタクシーの運転手になった時点でその人間は公共のサービスをする決意をしたはずで、自分勝手に他人に自分の宗教をおしつけ乗車拒否をするなどもってのほかだと発表した。 「彼らは要するに自分らがまだ故郷(くに)に住んでるつもりなんですよ。故郷では自分らの宗教を他人に押し付けることができましたからね。」と連盟のメンバー、カマル・ナワシさんは語る。

はっきり言ってタクシーの運転手が乗客を理不尽な理由で拒否した場合には、運転手は空港では働けないようライセンスを取り上げられるべきである。

ところで先の「解決案」を押していたMASというイスラム過激派市民団体だが、同じイスラム教徒ですらイスラムの教えに反しないと言っている酒類の輸送を、どうしてMASはそんなに一生懸命になって拒もうとするのか、彼らの本当の目的はこうした小さな事から少しづつアメリカにシャリアを確立していこうという思惑なのではないだろうか。

MACの最終的な目的はアメリカ国内にイスラム教政権を設立することにあると彼ら自身が発表している。彼らはすでにヨーロッパ諸国で次々にシャリアを色々な形で社会に押し付けているらしく、エジプトで生まれたイスラムテロリストグループ、モスレムブラザーフッドとも深いつながりがあるという。

イギリスではイスラム教徒が固まっている地域で公立のイスラム教学校が創設されたときいたばかり。 そうやってイスラム過激派は確実に欧米を乗っ取ろうとしているのである。


October 16, 2006, 現時間 08:44 PM | コメント (0) | トラックバック

October 13, 2006

西洋が過激化する時、 その2

ヨーロッパ , 宗教と文化

以前にも私は西洋が過激化する時と題して、ヨーロッパの穏健派がイスラム教徒による暴挙がおこる度に少しづつではあるが、過激化していくような気がすると書いた。

今、フランスではイスラム教徒の暴徒らの取り締まりにてこずり、日平均で14人という数の警察官が毎日のように怪我を負っているという。(Captain's Quaters、France Facing Intifadaより)

フランスでは生活保護住宅地に住む過激派イスラム教徒により、警察に対して、宣言のされていない「インティファダ」もしくは反乱が起きており、この衝突により毎日14人ほどの警察官が負傷している。

内政省の発表によると今年になって2500人近い警察官が負傷をした。ある警察官労働組合はイスラム教徒住宅街でも、最も貧しいbanlieue(場末)ではすでに警察官とイスラム教徒の「内乱状態」に陥っていると宣言した。 Banlieueとは, 郊外とか場末とかいう意味だが、おもに北アフリカ系の失業者が集まっている低所得者の住宅街をさす。

警察組合は政府に、すでに立ち入り不可能になっているこの地域でパトロールする警察官を守るために装甲車を提供してくれるよう嘆願していると語った。

この2年で(警察への)攻撃の回数は三割増となった。フランスではパトロール中の警察官を襲うのはタブーとされていた慣習はやぶられ、それどころか二人や少数でパトロールしている警察官が地元民を逮捕しようとすると攻撃されるようになったと、警察の報道官はLe Figaro新聞に語った。

私がフランスにたいして持っていたイメージとしては、欧州でも指折りのフリースピリッツ(自由精神)の旺盛な文化で、その精神を頑なに守り通す人々というものだ。だからよその国がアメリカのまねをしてアメリカの音楽だの映画だのを無抵抗で受け入れても、フランスは頑固にフランス映画を作り続けるし、シャンソンを歌い続ける。こちらが英語で話しかけてもフランス語で答える。コマーシャルなどでも英語の外来語を使わずフランス語を強調するなど、外国人からみればたまに頭にくるほどごう慢だが、しかしそのくらい努力して自分らの文化を保っていこうとするその自国への誇りには敬意を表する。

そのフランスが、全く正反対の文化を持つイスラム系移民らによって、今真っ向から暴力による挑戦を受けている。誇り高いフランス市民がこれを黙って見ているとはどうしても信じられない。長年に渡るリベラル政治がフランス市民を完全に腰抜けにしてしまったとは信じたくない。

汚職と腐敗で警察のお世話にすらなりそうなシラク大統領は、引退を前にしてフランスの警備などたいして念頭にないようだ。少なくとも政府の対応は十分とはいえない。これについてフランス市民はどう感じているのだろうか? 

シラク大統領の後継はドミニーク・デ・ヴィレピン氏(Dominique de Villepin)とされていたが、最近になってもっと右翼系のニコラス・サコーズィ氏(Nicolas Sarkozy)が優勢になってきたという話をきいた。私は詳しいことは知らないが、サコ−ズィ氏はフランスの大幅改革をうたっているらしく、デヴィラピン氏のような現状維持方針ではなくなる可能性が強い。サコ—ズィ氏の人気はフランス市民の現状への不満の現れといえるのかもしれない。

ベルギーでもフランスと同じように最近のイスラム系過激派による暴走はかなりの顰蹙を買っている。(New York Times, Across Europe, Worries on Islam Spread to Center)

これまでイスラム教移民にたいして批判的な発言をするのは右翼の連中と相場は決まっていた。しかし最近ヨーロッパ諸国で起きているイスラム教過激派による「神の名の元に」行われる暴挙をみるにつけ、これまで穏健派といわれてきた人々の間でも、イスラム教の過激な行動に批判的な意見が聞かれるようになってきた。これまで無抵抗に寛容性を受け入れてきた穏健派は寛容にも限度があるのではないか、と問うようになってきたのである。

『法皇の件で何が起きたかを見たでしょう』とアントワープでファンキーなワインバーを営むパトリック・ゴンマンさん43歳。「法王はイスラム教は乱暴な宗教だといいました。そしたら次の日に尼僧を殺して彼等はそれを証明してしまいました。』

『常識がなくなってるんです。』

ゴンマンさんはおよそ過激派ではない。この間も右翼の反イスラム教デモ行進に抗議して近所の飲み屋にはたらきかけてデモの日に一斉に閉店したような人である。

しかしベルギーでもフランスと同じように右翼系の政治家が勢力をのばしてきている。ベルギーの極右翼党代表、 Vlaams Belang氏は先週日曜日の市の選挙で20.5%の票を獲得した。2000年にくらべて5%増である。オーストリアではイスラム系移民を強制送還しろなどと公約する候補者がかなりの票を集めるなど、ヨーロッパ各地で右翼が人気を高めている風潮がある。

無論、今の段階でイスラム系移民を全員強制送還するなど主流の政治家たちには考えられないことだ。しかし、このような状況に、地元のイスラム教徒らは不安を隠せない。

「そういう時がくると思います」アミアー・シャフさん34歳。アントワープの商店外で洋服屋を営み高い収入を得ているパキスタン人。彼はテロリストを憎んでいるといい、彼自身はベルギー人からの敵意は感じていないという。しかし、「その時がくる前に国へかえろうかと考えています」と語る。

欧州には十字軍の時代からイスラム教対キリスト教の対立が根底にある。何世紀にも渡ってこの二つの宗教は血みどろの戦いを続けてきた歴史がある。また、全盛期の帝国主義時代に欧州がイスラム諸国でおこなった植民地時代への罪悪感なども複雑にからんでいるのである。

この間イギリス在住のコメンターななっちさんがこんなことをおっしゃっていた。

イスラムに他の宗教と同じように厳しくするというのは、「まるで植民地支配のようだ」という意見を何度もイギリスで聞きました。つまり、ヨーロピアンがイスラムに寛容になるというのは「植民地支配に反対するリベラルな自分」の演出なわけ・・だとイギリスに来てから思うようになりました。

オランダでは1960年から70年代にかけてオランダ社会が勝ち取ってきた男女平等や差別のない自由な社会がイスラム系移民によって後退させられる恐怖を感じている人々が増えている。

「多くの人々が、しかも進歩的な人々がですよ、極右翼の国粋主義者とかじゃなくて、言ってるんです。『ここに自分達の60年代と70年代に学んだ常識に挑戦する宗教が存在する。」と」欧州議会グリーン左翼党のオランダメンバーで、イスラム問題に積極的な Joost Lagendik氏は言う。

「まるでタイムマシンに乗って時間をさかのぼって、移民たちに男女平等や、同性愛者をどう扱うかとか教えなきゃならないという恐怖があるんですよ。それをまたやらなけりゃならないという考えです。」

オランダではオランダ在住のイスラム教徒がイラクでテロリスト戦うオランダ軍よりもテロリストを支持する表明をしたことなども重なって、イスラム系移民への反感が高まっているようだ。それで最近はオランダに移民してくる人々に向けたオランダ紹介のビデオにはトップレスの女性や、濃厚な男女のキスシーンなどが含まれているという。イスラム教徒を名指しで対象にしているわけではないが、メッセージは明らかだ。

ヨーロッパの人々が一番恐れ、腹をたてているのが、言論の弾圧だろう。法皇の件にしろ、この間のフランス人教授にしろ、2年前のゴッホ映画監督暗殺事件にしろ、イスラム教を批判するとささいなことでもすぐに命を狙われたり暴動が起きたりする状況に穏健派のヨーロッパ人もいい加減我慢できなくなっている。

私が心配なのはヨーロッパのイスラム過激派に対する敵意がこうじて、ヨーロッパ社会に溶け込んでいる穏健派のイスラム教徒および、中東系、アジア系のイスラム教徒以外の移民や、ユダヤ教徒などにまでそのとばっちりがかかってくるのではないかということだ。ひとつの民族に対する差別意識が許されればそれが他の宗教や民族へまで広がるのは世の常だからである。

だから私はヨーロッパの過激化は決して好ましい状況ではないと考える。

ヨーロッパ諸国のとるべき道は、特定の宗教を特別扱いしないことだ。多種文化主義などと言って自分達の社会の価値観を脅かすような文化を寛容に取り入れることを今すぐやめ、自国の法律や慣習に逆らう行為は誰によるものでも同じように罰し拒絶すべきなのである。

しかし、私はフランスが一年前くらいに通した公共施設での宗教的シンボル着用禁止のような法律には大反対だ。法律は社会の秩序を乱すような行為から社会を守るために存在すべきなのであって、宗教を弾圧するための道具に使われるべきではない。

イスラム教徒が教えのひとつだからと顔も見えないベールをかぶって公共施設にはいってくれば、これは社会の治安問題につながるから違法だというのは当然だ。しかし女性がスカーフを着用していることは警備とは無関係。同じようにヒンドゥー信者が頭にターバンを巻いているから単車に乗る時ヘルメットがかぶれないというような言い訳を受け入れるべきではないが、職場でターバンを巻いて仕事をしている市役所の職員は社会の安全を脅かすわけではない。

つまり、ヨーロッパ諸国は個人の信仰の自由を尊重しながらも、社会の安全をまもるための法律がやぶられた場合には、それがどの宗教の掟に従っていようとも特例を作らずどの宗教の信者も同じように罰することに徹底すべきである。イスラム教徒の間で頻繁に起きる未婚女性への名誉殺人などは絶対に許してはならない。

そして繰り返すがヨーロッパの穏健派イスラム教徒は団結して自分らの社会に巣食う過激派を排斥していく必要がある。そうでないとアントワープの洋服屋さんではないが、店を畳んで故郷へかえらなければならない日が必ず訪れるだろう。

October 13, 2006, 現時間 05:35 PM | コメント (0) | トラックバック

イスラム教徒のタクシー運転手の乗車拒否

宗教と文化

このあいだから、イスラム教徒の横暴な要求に譲歩や妥協ばかりしているヨーロッパの話をしていきたが、今度はアメリカでも同じような事件が起きている。

ミネアポリスセントポール国際空港で仕事をしているタクシーの間で、お酒類を免税店の透明の袋にいれて持っているお客さんを乗車拒否する運転手たちが増えているという。(Don't Bring That Booze into My Taxi, Daniel Pipesより)この問題が最初に持ち上がったのは2000年のこと、コーランにある禁酒の項をもっと拡大して解釈したタクシーの運転手らが、酒類を輸送する行為もコーランの教えに反すると言って免税店の透明袋に入った酒類を持っている乗客を拒否したのが始まりだ。ある客は16台ものタクシーに続けて乗車拒否されたという。

イスラム教徒の運転手が少ない頃はそれでもどうということはなかったのだが、いまやミネアポリスの空港に出入りするタクシーの四分の三がイスラム教徒となり、その多くの運転手が酒類をもった乗客を拒否して問題になっている。

ミネアポリスの空港ではタクシーがお客を拒否した場合、一旦空港を出てタクシー乗り場の列の最後部に並び直さなければならないため、暇な時は2時間も3時間も自分の番が再び回って来るのを待たなければならない。そこでこの待ち時間を不服に思ったタクシーの運転手らが、空港に特例を出してもらい、イスラム教徒のタクシー運転手が酒類を持っている、または持っていそうなお客を拒否する権利をもつ特別許可を申し出ていた。空港側は宗教を理由に短距離のお客を断る運転手が出るのを恐れ、この申し出を却下した。

しかし、いくつものタクシーに乗車拒否をされた外部からの乗客から苦情が殺到しているため、空港側は酒類を拒否する車は特別な色のライトを車の上につけることを提案した。

この記事の著者パイプ氏は、このような「解決策」は問題を解決するどころか社会的にもっと大きな波紋を呼ぶだろうという。別色のライトを付けるということは、政府がシャリア法を認めるということになる。つまり、地方政府が誰がイスラム教法に従うかを認可するということになってしまうというのだ。

ミネアポリスの空港以外でも同じような要求がでたらどうするのか? パイプ氏は問いかける。国中でそのような特別扱いが要求されるようになるだろう。そのうちバスの運転手なども同じような訴えを起こすだろう。交通機関全体がイスラム教に従うものとそうでないものとに別れることになってしまう。

アルコールだけではない。モスレムのタクシー運転手は他の国では盲導犬も拒否する権利を主張している。将来は袖無しの服を着ている女性や、同性愛者や、未婚のカップルなども拒否されるようになるかもしれない。それをいうならヤマカ(ユダヤ教徒の男性がかぶる帽子)をかぶっている男性や、ヒンドゥー、無宗教者、バーテンダー、(賭博上の)ディ−ラーといった人々も乗車拒否の対象になるかもしれない。

セントポール空港は地元のイスラム教市民団体にお伺いをたてたそうだ。しかしこのthe Muslim American Societyという団体はうさん臭い。元団長の奥方という人はこの団体の目的は『イスラムについて人々を教育し、イスラム教政権を設立する目的で、イスラムの教えに従う』ことだという。

アメリカ国内にイスラム教政権を設立すると表明しているような団体に、政府がお伺いをたてる義理がどこにある? いや、それこそ政教分離の法則に違反することになるはずだ。アメリカの憲法では政府が特定の宗教を強制してはいけないことになっている。イスラム教も例外ではない。

しかし少なくとも今回に限っては、この提案は市民の間で非常に悪評版であったため、案はお釈迦になった。

はっきり言って、このような法案が出ること自体どうかしている。イスラム教徒が自分らの宗教を貫き通すのは彼等の自由だ。だが、それは彼等を受け入れた国の法律や社会慣習と衝突しない範囲内で行われるべきである。もし、自分らの習慣がホストカントリーのそれと衝突した場合にはホストカントリーの習慣に従うべきである。それが嫌ならその国をでていくべきなのであって、その国の慣習を自分らのやり方にかえるように強制するなど話がさかさまだ。

イスラム教徒がほかの宗教の教徒と違って突出する理由は、この地元社会にたいして全く敬意を表さない態度だろう。自分らは地元社会の習慣を尊重もせずあわせようともしない。それどころか、周りの人間の理解が足りない、イスラム教差別だといっては自分らを特別扱いすることを口うるさく要求する。彼等のこの不肝要で拒絶的な姿勢が地元社会の反感を買うのは当たり前だ。

アメリカ社会がこの新しい移民にそのルールをはっきり分かってもらうためにも、彼等の理不尽な要求はことごとく拒絶するべきだ。多種文化主義などというものにごまかされて、不寛容な宗教を受け入れてはならない。この国は自由の国だ。それは毎日細い所から守っていかなければならない。

October 13, 2006, 現時間 02:10 AM | コメント (0) | トラックバック

October 09, 2006

心揺らぐラマダン、イスラム流祭日の過ごし方

ヨーロッパ , 宗教と文化

ラマダンというのはイスラム教徒にとっては暴動をする季節らしい。一日中何も食べないで欲求不満がたまるからなのか、夜中じゅう食べ過ぎで消化不良がたまってのうっぷんばらしなのか知らないが、至る所で乱暴を働くイスラム教徒。

イギリスのイブニングスタンダード新聞のオンラインニュースよると、(Race clashes hit Windsor)ここ数日地元の白人とアジア系(注:イスラム教徒)の若者が衝突して暴動が起きているという。ことの起こりはイギリスはウィンザーにあるイスラム教徒が経営している乳製品販売店の前で白人の青年と店の従業員との間で起きた小競り合いがきっかけのようだ。

ウィンザーには他地域から機動隊が出動して暴動鎮圧に当たっている。暴徒たちはそれぞれ野球バットやピッチフォークなどを使って殴り合いをしているそうだ。

牛乳屋経営者が従業員用に事務所を改築して聖廟にしたいと市に申し出をしてからというもの、経営者と地元住民との間の緊迫状態は高まっていた。市からの許可がおりないまま、テクノーハウス(牛乳屋の店名)は従業員や訪問者による祈りの場所として使われていた。

暴力が最初におきたのは月曜日、建物の外、ウィンザーのデッドワース地区にあるベイル通りで起きた。祈りの途中、10代の少年と牛乳屋の従業員とのあいだでいざこざがおこり、それがエスカレートして数台の車の窓ガラスが割られた。この時少年と少年の母親と妹が襲われたという。火曜日の夜になると50人の若者が衝突した。

仮の聖廟の窓ガラスは割られ、牛乳屋の配達トラックが傷つけられた。住民らによると外部から白人のギャングとのけんかを探してアジア系のギャングがやってきたという。一人の青年は歯渡り12インチのナイフを所持していて逮捕された。

水曜日、牛乳屋の建物には火炎瓶が投げられ、店はかなりの損害をおったという。経営者の Sikander Khan, 50歳は50人からいる『アジア人』の従業員の安全が心配だと語る。

近所の人たちの話だと、前の経営者が去って新しい経営者になってからというものトラブルがたえないという。

地元住民の17歳の少年は「僕は生まれてからずっとここにすんでますが、前の経営者の時は全く問題ありませんでした。牛乳とかいろいろ僕らにくれました。』

『前にもこの辺で何回か喧嘩がありました。でも今度は深刻です。彼等にはデッドワースから出ていってもらいたいです。』

付近のひとたちはこれまでも夜中牛乳屋から聞こえてくるやかましい音に迷惑していたといい、ここに聖廟がたてば、問題はもっとひどくなるだろうと心配している。

私がこの記事を読んでいて腹がたつのは、イブニングスタンダードがこの暴動を「人種の衝突」と題し、アラブ人をアジア人と呼んでいることだ。これは白人対東洋人の衝突ではない。明らかにキリスト教徒とイスラム教徒の宗派衝突である。同新聞はイスラム教徒に気兼ねして、イスラム教徒による暴動とさえかけないのである。

そしてもっと頭にきたのは、この記事の最後のほうに付け加えられている部分で、ウィンザー城の一部屋が最近城のギフトショップに勤めるイスラム教徒のために祈りの場所として使用されることを女王が許可したという話である。

イスラム教の住む所では例外なく宗派争いが起きる。イスラム教はほかの宗派が何世紀も調和のとれた生活をしているところに混乱を起こす宗派である。にもかかわらず、なんでイスラム教徒ばかりがこう特別扱いされるのだ!

October 09, 2006, 現時間 08:20 PM | コメント (3) | トラックバック

October 01, 2006

西洋が過激化する時

ヨーロッパ , 宗教と文化

よくテロリストとの戦いはイスラム過激派との戦いなどという限定されたものではなく、我々の戦っている敵はイスラムそのものであるという人がいる。ここでもそう考える人々の意見をいくつか紹介してきた。

だが私はそれは違うと考える。少なくともそうであってはならないと。しかしだからと言って、私は決してイスラムは「平和な宗教」などというイスラム過激派の表向きのいい分を買っているわけではない。イスラムの神の名の下にどれだけの人々が殺されているかを考えれば、イスラムが平和な宗教だなどとはどう考えても受け入れられないからだ。

西洋の多くの人々は、テロリズムとは一部の過激派による行為であると考えている。ほとんどのイスラム教徒は話せば分かる人々であり、文明社会がまだ発達が遅れているイスラム教徒に対して寛容な姿勢を示せば、イスラム教徒も西洋の文化に歩み寄ってくれるとまだ信じているのだ。

だが、数年前に起きたバンゴッホ映画監督暗殺事件といい、この間のデンマークの漫画事件といい、法王演説への過激反応といい、ドイツのオペラ座公園、フランス教授への脅迫と、なにか問題が起きる度に「話せば分かる」と考えている西洋の人々の間でひとつづつ「寛容」への箍が外れていくような気がしてならない。

聖戦主義者、ジハーディスト、たちは西洋の他民族や他宗教への「寛容」を我々の「弱さ」であると考えるからだ。我々が弱者をかばい、少数民族の自由を保証するやり方は、我々の「欠点」であると考えるのだ。そして彼等は我々の自由と生命を尊ぶ思想こそが我々を崩壊へ導くと信じてやまないのである。(以下National Reviewより。)

初期のイスラム歴史の章から、イスラム教徒が西側と戦争をする上で今日の教訓となるものがある。それは「死への愛」である。これは西暦636年のカディスィヤの戦いにおいて、イスラム軍の指揮者、カリード·イブ·アル·ワリードが敵側のKhosru宛てに使者に手紙を持たせた。そのなかには「そのほうたち、イスラムに改宗せよ、さすれば安全は保証する。さもなくば命を愛する貴様らを、我が輩がひきつれる死を愛する男たちの軍がその力を思い知らせてくれよう。」と書かれていた。このエピソードは今日のイスラム教の説教でも、新聞でも、教科書でも繰り返されている。

現にヒズボラの指導者ナスララも数年前イスラエルとヒズボラが人質交換をした後で、こんなことを言っている。

「我々はユダヤ人の最悪の弱点を発見した。ユダヤ人は命を愛する。だから我々はそれを奴らから奪ってやるのだ。我々は勝つ。なぜなら奴らが命を愛するように、我々は死を愛するからだ。」

これは話が完全に逆さまだ。イスラム勢力が歴史上何度も西洋社会に敗北したのは常に彼等の「死への愛」が原因なのである。男たちが敵を前に立ちはだかって死ぬまで戦い続けるのは命を愛するからであって、死を愛するからではない。死を愛するものに勇気は持てない。死への愛は希望ではなく絶望だからだ。

我々は命を愛するからこそ命を捧げて我々の自由のために戦う英雄を讃えるのである。我々は自由を愛するからこそ科学、技術、哲学などで最先端をいっている。自由主義であるからこそ戦力も優れているのである。自由な国の軍隊では個々の部隊で優れた指揮官が融通の利いた判断をくだすことができる。個人の才能が生かされ状況に臨機応変に対応できる軍隊ほど危険で強力なものはない。

ジハーディストたちがそんな自由主義の西洋と戦って勝てるなどと思うのは馬鹿げている。彼等は西洋の血なまぐさい歴史を全く知らない愚か者だ。西洋の軍隊ほど効率良く大量殺人をやってきた軍隊はない。その犠牲者の数はイスラム勢力のすべてをかき集めても足下にもおよばないのである。

最近の歴史において、戦争における最新技術を生み出してきたのはすべて西側である。自由主義の国々における技術発展は凄まじい。融通の利かない独裁社会は武器を自分らで開発できず、ライフルから戦車からすべて技術を西側諸国から買い取るか盗み取るしか能がない。このような西側がイスラム勢力と本気になって戦争をやったらイスラム勢力はひとたまりもない。

その悲劇的結末をいまはまだかろうじて止めているのが西洋社会の弱者への「寛容」である。だが、「イスラムが悪いのではない、一部の過激派が問題なのだ」といまはまだ考えいる人々も、イスラム教徒らの暴走がある度に、そして「穏健派」といわれるイスラム社会から暴力を糾弾する気配が全く感じられない度に、、ひとり、またひとりと、「悪いのはイスラムそのものだ。イスラム教徒は皆殺しにせよ」という過激派に変化していくのではないだろうか。

西洋の人々が過激化する時、「イスラム教徒は皆殺しにせよ」という過激派の思想が西洋を支配した時、崩壊するのは西側ではない。完全崩壊するのはイスラム教のほうなのである。だがその時大量に殺されるのは、「死への愛」を唱えるイスラム過激派だけでない、過激派に抗議しなかった穏健派も道ずれとなるのである。西洋の過激化を防げるのはイスラム教の穏健派だけである。

関連記事:イスラム教徒はテロリスト予備軍なのか? 灰色の思考算術さんより

October 01, 2006, 現時間 10:35 PM | コメント (4) | トラックバック

September 29, 2006

イスラム過激派におびえるヨーロッパ

ヨーロッパ , 宗教と文化 , 対テロ戦争

English readers: scroll down for an English-language translation of this post...

昨日ドイツのオペラ座がイスラム過激派の脅迫に屈して、モーツァルトのオペラ上演を中止した話をしたが、ここ数年、欧州におけるイスラム教過激派による横暴は目に余るようになってきている。

先ずはおふらんすの話題から:

この間法王の何気ない演説で逆切れしたイスラム教徒が世界中で暴動を起こしてカトリック尼僧とボディーガードを殺した事件があったばかりだが、それについてイスラム教の暴力の元凶はコーランの教えにあるのではないだろうかという記事を書いたフランスの大学教授が命を狙われ身を潜めなければならなくなった。

この教授の名前はロバート·レデカー(Robert Redeker)。彼の書いた記事の英語訳はle eXtreme-centreで読むことが出来る。(以下一部抜粋)

自由社会はどのようにイスラムの脅迫に対応すべきか?

ベネディクト16代法王によるイスラムと暴力の分析に対するイスラム教徒の反応は、イスラム教徒がイスラム諸国では存在しない西洋が一番貴重に思う価値、言論と思想の自由を封じ込めようとしたことで顕著となった。

イスラムはその規則をヨーロッパに強要しようとしている。公共水泳プールにおいて女子専用の時間をもうけたり、宗教をいいわけに学校の給食でもモスレムの子供たち専用の特別なメニューを要求したり、学校でベールをかぶる規則を強要しようとしたり、自由主義をイスラム恐怖症などと責めたりしている。

パリの浜辺でTバックのビキニを禁止することをどう説明するのか? その理由は「平穏を脅かす」危険という摩訶不思議なものである。欲求不満の若者が美女の姿に侮辱を受け暴力に走るという意味だろうか。それとも当局はイスラム教道徳警察のデモにおびえているせいだろうか?

しかし公共の道路でベールをかぶらせるということのほうが、よっぽども公共の平穏を脅かすことにある。なぜなら女性への弾圧だという苦情を招くからだ。このTバック禁止はフランスのイスラム過敏症の現れである。イスラム横暴への降参と服従ともいえるのだ。 少なくとも精神的なイスラム教徒の圧力 の結果である。ジョンポール2世広場の建設に抗議した人々もモスクの建設には反対できない。イスラムはヨーロッパを彼等の理想に服従させようとしているのである。

残念なことに、これだけのことを書いていたレデカー教授にも、フランスのイスラム教徒のがどれほど過激であるかその理解力が足りなかったようである。

レデカー教授は哲学の教授だが、イスラムに批判的な記事を書いてからというものインターネットに教授の顔写真、住所や電話番号はもちろんのこと、自宅付近の地図や勤め先に学校の連絡先なども公開され、こいつの首を切れとでかでかと暗殺命令が載せられてしまったのだという。24時間の警察警護の世話になりながら、各地を点々としている教授は自由社会のフランスにおいて言論の自由が保証されずにホームレスになってしまったと友人に手紙を書いている。

記事の載ったLe Figaroの編集長Pierre Rousselin氏はアルジェジーラ紙で謝罪を発表した。エジプトを含む数カ国のイスラム諸国Le Figaroの販売禁止が起きたからである。Rousselin氏は、記事を掲載したの紙の誤りであった。内容は当新聞の意見ではないと平身低頭の謝罪ぶりだ。

勤め先の教育委員会もイスラム教過激派の報復を恐れて教授を全く援助してくれていないという。教授は学校へもいかれず、予定されていた講演会もすべてキャンセルせざるおえなくなった。

ベルギーの暴動:

数日前に拘留中のモロッコ人の囚人が不審な死を遂げたことで、囚人が毒を盛られたという噂がたち、ラマダンで腹をすかせて欲求不満のイスラム教徒らがブルッセルの町中にくり出して壊す燃やす騒ぐの暴動をすでに三日も続けている。付近の商店街は火炎瓶を投げられるなどして大被害を受けている。Gate of Vienaより

しかしアメリカの主流メディアではロイターが一度取り上げただけで、この大事件はほとんど報道されていない。加害者がイスラム教徒である犯罪は、報道そのものがイスラム教徒への配慮から遠慮がちになるようである。
ブルッセルの新聞によると、政府は暴徒の気分をしずめるため一旦逮捕した暴徒を数人釈放したという。これではベルギー政府は地元のイスラム教徒らに、気に入らない時は騒ぎさえすれば何でも思いどおりになると教えたようなものではないか。なんという腰抜けぶりだろう。

最後にアイルランド移民で始まったオーストラリアの場合だが、さすがオージーの反応は北半球の欧州とは対照的だ。

下記は前出のGate of Vienaに寄せられた豪州のある女性からのメールだ。オーストラリアもアメリカと同じように移民で出来た国である。最初はアイルランドの受刑者の島流しの行く先となっていたが、後にはヨーロッパからの冒険家などによってどんどん人口は増えていった。1960年代から1970年代はベトナムからの難民がとっと押し寄せたが、彼等は働き者で地元の文化を尊敬し自然と国に溶け込んだ。1970年代後半から80年代に訪れたレバノンからのキリスト教徒らも、短期間のうちにオージーへと変身した。

しかし1980年代中頃からやってきたレバノン、シリア、パレスチナのアラブ人たちは全く質が悪かった。彼等は親戚一同で移民してきて、メルボルーン郊外で第二次世界大戦の退役軍人らの家族の隠居地となっていた住宅街を含め、あちこちの町々で住宅を買いあさりはじめた。自分の欲しい住宅があるとペットを殺したり、ゴミを庭に捨てたり、家主にやくざまがいの嫌がらせをしておびえたお年寄りに二束三文で家を売らせて追い出したというのである。そしてあっというまにオーストラリアの郊外がアラブ社会へと化してしまったという。

そうなるとレバノンの暴力団らによって凶悪な犯罪が頻発し、車の窃盗はおろか、殺人、幼い少女への連続強姦などが相次いだ。

いまやオーストラリア全体の二千万人の人口のうち、イスラム教徒の人口は30万におよぶという。そのうち比較的穏健なアジア系の10万をのぞくと悪質な20万というアラブ系過激派が残るという。彼等は数はまだ少ないが、彼等の過敏な感情を満たすため、周りの社会に彼等に迎合するよう要求する。

幸いなことに、オーストラリアではほとんどの人たちがこの要求に耳を傾けていません。オーストラリアの政治的に正しい多様文化主義の人々の堪忍袋の緒が切れたのは、2001年にタンパにおいて沈みかえた船からノルウェーの船に救出された違法移民たちが救援船を乗っ取って船長を脅迫し、オーストラリア領へ上陸しようとした時です。

オーストラリアは特別部隊を送り込み上陸を阻止した。ジョンハワードは雪崩勝利で当選。ハワードは移民法を改正し、イスラム教徒による違法入国は停止しました。

と、投稿者は語る。その後何年かたってから、オランダ、デンマーク、スイス、スエーデンなどもイスラム教移民の入国をかなり規制するようになった。だが、解き既に遅しという観もしないではない。

テロリストと戦うことによって社会がより危険になるなどという人々にお聞きしたい。欧州政府はことあるごとにイスラム過激派の要求に服従してきたではないか? 彼等に迎合し自らの伝統や文化を彼等にあわせてきたではないか? その結果、欧州は安全になったのか? 欧州は平穏なのか?

去年フランスでもイスラム教暴徒による暴動が何日も続いた。いまだにフランス各地では毎晩のように何百台という乗用車が焼かれているという。大学教授が新聞記事を書いたくらいで命が危険にさらされる。デンマークではたかが一こまマンガで新聞社に爆弾が仕掛けられたり、オランダではイスラム教の女性弾圧を描写した映画を作成した映画監督が日中暗殺されるなど、イラク戦争に参加もしてないこれらの国々においてイスラム教徒らの暴走は甚だしい。イギリスはやっと最近強行手段をとるようになってきたが、、

イスラム過激派に真っ向から立ち向かったオーストラリアやアメリカではこのような問題は起きない。イスラム過激派の攻撃に対して何もしなかったクリントン政権時代のアメリカでは、毎年のようにアメリカ人に対するテロが行われていたが、ブッシュ大統領の指揮で反撃して以来、戦場は別として世界のどこでもアメリカを標的にしたテロは起きていない。(無論アメリカでもテロリストの人権を守れなどと左翼連中がうるさくいうのはヨーロッパと同じだが。)

過激派の過激化をとめるのは、妥協でも迎合でも服従でもない。過激派をとめるのはこちらの反撃のみである。敗北した過激派の士気は落ちる。死んだ過激派はそれ以上過激化されることはない。

~

The following is the English translation of this post. I have changed the wording slightly; it's my article, and I can do what I want!

I have just written about a German opera theater which submitted to the threat from local Muslims and decided not to continue a production of one of Mozart's operas. Over the last few years, Muslim intimidation against Europeans has been growing more extreme.

News from France

We just witnessed a horrific incident: a Muslim man, enraged by an academic speech given by the pope, shot to death a Catholic nun and her bodyguard in Somalia. A French professor of philosophy, Robert Redeker, wrote about the incident, arguing that the violent behavior of Muslims is rooted deep in the Koran itself... and now more Muslim extremists have threatened his life, driving him into hiding.

You can read the English translation of Redeker's article in eXtrem-cetre. Following is an excerpt:

What should the free world do while facing Islamist intimidation?

The reactions caused by Benedict XVI’s analysis of Islam and violence highlight the underhanded maneuver carried out by Islam to stifle what the West values more than anything, and which does not exist in any Moslem country: freedom of thought and expression.

Islam tries to impose its rules on Europe : opening of public swimming pools at certain hours reserved exclusively for women, ban on caricaturing this religion, demands for special diets for Muslim children in school cafeterias, struggle to impose the veil at school, accusations of Islamophobia against free spirits.

How can one explain the ban on the wearing [of] thongs on Paris-Beaches this summer? The reasoning put forth was bizarre: women [wearing] thongs would risk “disturbing the peace”. Did this mean that bands of frustrated youths would become violent while being offended by displays of beauty? Or were the authorities scared of Islamist demonstrations by virtue squads near Paris-Beaches?

However, the authorization of the veil on the street is more disturbing to public peace than wearing a thong, because it invites complaints against the upholding the oppression of women. This ban represents an Islamization of sensibilities in France, a more or less conscious submission to the diktats of Islam. At the very least it is the result of the insidious Muslim pressure on the minds: even those who protested the introduction of a “Jean Paul II Square” in Paris would not be opposed to the construction of mosques. Islam is trying to force Europe to yield to its vision of humanity.

Unfortunately, Professor Redeker who alerted us of Muslim extremism did not realize just how extreme they can be (he should have read his own paper).

After Professor Redeker wrote an article critical of Muslim, his face, address, phone number, a map to his house, and his work place were published on the internet with a message calling on the faithful to cut off his head. He is now under 24 hour police protection, staying with unnamed friends a few days at a time. He has written that he has become homeless in a supposedly free country.

Pierre Rousselin, editor of Le Figaro, the newspaper that published Prof. Redeker's article, apologized in the Arab-Muslim newspaper Al-Jazeera. Why? Because several Muslim countries, including Egypt, banned that issue of Le Figaro. M. Rousselin stated that it was wrong for his newspaper to publish such an article. Prof. Redeker's opinion does not reflect the newspaper's view. Rousselin's apology is filled with humility -- that is, cowardice.

The high school that employed Redeker, and the school district, are not supporting him for fear of Muslim retaliation. The professor cannot even go to school, and he has had to cancel all his lectures.

Riot in Belgium

A few days ago, a Moroccan prisoner died mysteriously in a Belgian prison. Somebody spread the rumor that he was poisoned. That set off hungry Muslims who had been observing Ramadan. They went outside the city of Brussels and set fire to a number of stores; the riot has been going on for the last three days.

According to Gates of Viena, except for the newswire service Reuters -- which reported it once -- the American news media has kept mum about this ongoing violent protest. When it comes to Muslims committing crimes, the American news media finds virtue in silence.

According to the Brussels Journal, the police released those rioters who had initially been apprehended. Belgian authorities therefore demonstrated that they will roll over for threats: all you have to do is to scream, and they will yield. What cowards!

Thunder down under

Finally we come to Australia, a country which was founded by Irish prisoners involuntarily transported to the island-continent against their will, and their families and friends who followed as immigrants. The Aussies' reaction to the problem of Muslim extremism is completely opposite that of Europe.

This e-mail was introduced in the above-linked Gates of Viena:

As the Lebanese civil war continued into the 1980s a new wave of immigrants arrived. Families, clans, almost entire villages from the notorious Bekkhar Valley [in Lebanon], a muslim stronghold with close palestinian and syrian links barely 50km from the Israel border. More than 100,000 migrated to Sydney alone, to unsuspecting multicultural arms. This new population proceeded to occupy a series of suburbs with an aggression and speed I still find breathtaking. In the south-western suburbs of Bankstown, Punchbowl, Lakemba, Lidcombe, among others, a home in a suburban street was bought, then another & another. These suburbs were originally settled by returning Australian soldiers and their families post-WW2, and in the 1980s were largely occupied by older retired people either singly or as elderly couples.

As one home after the other was acquired, it happened that a suggestion would be made: you might like to sell to my brother, my cousin, my uncle, because life might not be so pleasant as it has been. Pets were killed. Rubbish was tipped onto doorsteps of elderly widows. Vandalism was done to houses. And the old people sold their homes to these people for undervalued prices to escape the threat...

There are now, I believe, 300,000 muslims in Australia in a population approaching 20 million. As I understand it, 200,000 in Sydney, the bulk of the rest in Melbourne and Perth. If you subtract the Indonesian and Malay muslims, who are nice people in my experience and come to Australia mainly for education, the ugly face of Islam in my country is Arab Islam....

There are comparatively few of them here, yet there’s still such insistence that we defer to their cranky sensitivities. Happily, hardly anyone in Australia is listening. Patience with the MC/PC [multicultural/politically correct] creed broke down completely after the Tampa hijack in 2001 when hundreds of illegals rescued from a sinking boat by the Norwegian ship committed piracy on the high seas in order to force the captain to land them on Australian territory.

Australia sent SAS troops to repel the landing, John Howard won a landslide election, changed the migration laws and illegal arrivals of muslims have ceased. Nobody bothers now because they know they will be sent to a denuded, bankrupt Pacific Christian island to endure years of legal proceedings. Might as well stay in a nice islamic country such as indonesia or malaysia, eat good food and pray at the local mosque.

Years after the decision by our Prime Minister to refuse entry to uninvited aliens, the Netherlands, Denmark, Switzerland, Sweden have all reversed course. I believe Australia woke up in time. Not sure about Europe, though, less so the UK.

The solution

I would like to ask a question of those of you who argue that, by fighting against terrorists, we make the world more dangerous: what happened to Europe, which has accommodated every crazy, unreasonable demand from these extreme Muslims? Did it make Europe safe? Is Europe peaceful?

  • The riots last year in France by Muslim sons of Algerian immigrants continued for weeks; hundreds of cars were torched every single day. Now, after the riots have "ended," such burnings have dropped to their normal level... of about a hundred cars each day.
  • Also in France, a professor whose only crime was writing an article critical of Islam has lost, if not his life, his ability to live. (This is nothing new... does anybody still remember Salman Rushdie after publishing the Satanic Verses in 1988? He is still in hiding today, eighteen years later.)
  • In Denmark, a newspaper was bombed because of a silly Mohammed cartoon. (Iran then retaliated by holding a "Holocaust cartoon" competition, evidently on the theory that Christians in Denmark were driven to draw cartoons of Mohammed by the Jews of Copenhagen -- all eight or nine of them.)
  • In Holland, a movie director who made a movie about the Muslim abuse of women was assassinated in Amsterdam, shot to death in broad daylight at the corner of Linnaeusstraat and Tweede Oosterparkstraat.

These are all countries which refused to participate in the Iraq war. It made no difference to the extreme Muslims, who killed, bombed, and burnt anyway.

But countries such as the United States and Australia, who deal head on with Muslim extremists, do not face the same problem. During Clinton era, when the United States did nothing to defend itself -- and even went to war against Christians on behalf of Muslims in Bosnia and Kosovo -- the US was attacked by Muslim extremists every single year. Since President George Bush started to fight back, American targets have not been attacked.

Compromise, appeasement, or even obedience and "dhimmitude" will not stop extremism. Standing up to the Islamists and fighting them when necessary is the only way.

If they lose, their morale will suffer, and they will withdraw. In any event, dead extremists cannot become any more extreme.

September 29, 2006, 現時間 07:50 PM | コメント (5) | トラックバック

September 28, 2006

イスラム脅迫に負けたドイツオペラ座の恥

ヨーロッパ , 宗教と文化 , 対テロ戦争

本当にヨーロッパの連中は腰抜けだ。ここ2〜3日欧米で話題になっているのがこのニュース。以下、朝日新聞の記事より。

オペラにムハンマドの切られた首、独で上演中止決定

ベルリンのドイツオペラは26日、11月に上演を予定していたモーツァルトのオペラ「イドメネオ」の公演を中止すると発表した。イスラム教の預言者ムハンマドらの切られた首が出てくる場面があり、地元警察から「イスラム過激派などの反発を受ける危険性がある」と警告を受けたためという。

発表によると、公演はドイツ人のハンス・ノイエンフェルス氏(65)が演出。11月に4回の公演を予定していた。03年の初演時にはムハンマドのほかキリストや仏陀の首が出てくる奇抜な演出に批判が出ていた。今年7月、警察がオペラ側に警告していた。

中止決定に対し、連邦議会与党、キリスト教民主同盟の文化担当議員は「テロリストへの敗北になる」と語り、今後論議を呼びそうだ。

ムハンマドをめぐっては、今年初め欧州の新聞が風刺画を掲載したことにイスラム諸国が反発したほか、ローマ法王ベネディクト16世の発言が波紋を広げたばかり。

例によって朝日の記事は説明不足なのだが、このオペラ、初演は2003年で、決して今さら出てきた新しいものではない。しかも劇中に出てくる切断されたなま首は、モハメッドのものだけでなく、イエスキリスト、お釈迦様、ポセイドンらの首も出てくるのだという。そしてこれらの首はモーツァルトのもともとのオペラとは全く無関係なんだそうだ。

私はモーツァルトのオペラは結構知ってる方だと思っていたのだが、モハメッドのなま首が出てくるオペラなんて知らないなあと考えていたばかりだった。これは演出家ハンス・ノイエンフェルス氏の独自の解釈で種々の宗教を冒涜するのが目的だったらしい。はっきりいってモーツァルトオペラへの冒涜ともいえる。

初演の時はあまりの悪趣味に、観客から罵声が浴びせられ、キリスト教徒や仏教徒からも批判の声があがっていたようだ。だがその時は言論の自由だのなんだの偉そうなことを言って批判を無視していたらしい。ところがイスラム教団体から脅迫状が2〜3届いたら突然脅えてさっさと幕を閉めるこの腰抜けぶり。キリスト教徒や仏教徒は抗議の手紙くらい出すだろうが、まさか殺しにはこない。本当の脅威には立ち向かう勇気がないなら、最初からこんな悪趣味なものを作るべきではなかったのだ。

私は芸能人や芸術家といわれる能無し芸人の偽勇気にはうんざりする。決して暴力を振るわれたり出世の妨げになるような圧力はかかってこないと思う敵には勇ましいことをいい、表現の自由だなんだと言って人々を侮辱しまくるが、本当の危機が迫ってくると勇気などなんのその、表現の自由もあったればこそ、さっさと日っぽを巻いて逃げ隠れする。なんという情けなさだろう。

私はこんな悪趣味のオペラは永久に幕を閉じるべきだと思う。だが、イスラム教の脅迫に怯むくらいならどんな悪趣味のオペラでも永久に上演すべきである。またしてもヨーロッパはくだらないことで我々の勇気を試すはめになった。はた迷惑もこの上ない。

September 28, 2006, 現時間 07:44 PM | コメント (0) | トラックバック

September 19, 2006

言論の自由は私だけに

宗教と文化 , 対テロ戦争 , 音楽芸能関係

ここでも何度か紹介したが、私は元カントリーウエスタンの女性ボーカルグループ、デキシーチックスの熱狂的なアンチファン(笑)。彼女たちが2003年のイラク戦争前夜に行った反ブッシュ発言以来、私は彼女たちの人気ががた落ちしていく様子をずっとほくそ笑んで見守ってきたが、このたび、その「苦悩の」三年間を記録した自慰記録映画"Shut Up and Sing"「黙って歌え」がトロントで行われた映画祭で発表された。(注:この映画の題名は保守派の作家、ローラ·イングラム執筆の本の題名からとったもの)

私はこの映画を見る気など全くないが、すでに映画を観た映画評論家の話から拾ってみよう。

印象に残るのは、大統領が「大統領がテキサス出身なのを恥かしく思う」とリードボーカルのメインズの舞台上での発言が巻き起こした激しい反響についてインタビューされているのをメインズがテレビで観ているシーンで、抗議をしてラジオ局がグループの曲をかけなくなり、アルバムの売り上げが激減したことについて、「デキシーチックスは思ったことを言う権利があります。」とブッシュは司会のトムブローカウに答えた。「でも発言することでファンがレコードを買わなくなったからといって気分を害するべきではありません。自由はニ方通行なのですから。」

この映像を見た後でメインズは大統領の「気分を害するべきではない」という発言を繰り返しあざ笑いながら、「なんて馬鹿な奴」と叫んだ。彼女はカメラに向かってブッシュに話かける「あんたは馬鹿な(放送禁止用語)だ!」

は!あんたらの気分を害しただって? 傷付いたって? かわいそうで涙がでるよ。 トロントで行われた試写会後の記者会見に関する記事では、なんと副題が「言論の自由への困難な道」となっている。

アカデミー賞を二回も受賞しているバーバラ·コポル監督とセシル·ペック制作の、カントリーのアイドルから勇気ある自由表現のシンボルへと成長していくマグアイアー、妹のエミルロビンソンそしてメインズの姿を描いたドキュメンタリー...

「彼女たちはテキサス出身です。人々は彼女たちをその枠のなかにはめようとしました。でもこのすばらしきアメリカ女性たちはその枠から飛び出して公言し後に引きませんでした。」とコポル監督は語った。

彼女たちは後には引いてないかもしれないが、泣き言でうるさいほど騒ぎ立てた。彼女たちにとって「言論の自由」とは「何をいっても批判されない自由」ということらしい。彼女たちは何をいってもいいが、他人がそれを批判しようものなら、それは彼女たちの言論の自由を迫害していることになるというわけだ。

私はイスラエルの対テロ戦争を支持したというだけで、何度「シオニストの豚」と呼ばれたか知れない。だがそんなことでいちいち傷付いていたら保守派のブロガーは勤まらない。(笑)

言論の自由が本当に迫害された例をみたければ、911ドラマ、「911への道」の脚本を書いたサイラス·ノーラスタ氏の話(Syrus Nowrasteh) を聞くのが一番だろう。ABC制作のこのテレビドラマシリーズが民主党とクリントン前大統領によっ放映が妨害されそうになったことは以前にも書いた通り。だが、ノーラスタ氏や制作関係者の人たちは普段は人種差別や人権といったことに神経質になっている左翼新聞からひどい扱いを受けたという。(マイク·ロスさん、紹介)

7月に記者が私に人種によるレッテル張りをされたことがあるかときかれたら、喜んで、「ありません」と答えただろう。だが同じことはもう言えない。ロサンゼルスタイムスなどは私を人種、宗教、出身国、政治思想によって判断した。しかも5つのうち4つは完全に間違っていた。彼等にとって私はイラン系アメリカ人で、保守派のイスラム教徒ということだった。新世界の勇敢な記者らには私が (アメリカの)コロラド州、ボルダー市生まれだということには何の意味もなかったらしい。私はイスラム教徒でもなければ、とくにこれといった宗教団体に属していない。私は生粋のアメリカ人だ。私がそういうレッテル張りが貴新聞の新しい方針なのかと尋ねると記者は答えなかった。

このような攻撃の対象となったのはノーラスタさんひとりだけではない。彼にきた脅迫状はもとより、スタッフの身辺をいろいろ調べあげ、ディレクターのデイビッド·コニングハムさんの父親が青少年キリスト教布教団体の創設者と知るや息子のコニングハム氏が狂信家でもあるかのように描写し彼の宗教的偏向が番組制作に影響を与えたとでもいわんばかりの報道をしたという。今日の左翼社会では家族にひとりでもキリスト教徒がいるというだけで公平な判断ができないと判断して差別することが許されるのか、とノーラスタさんは問いかける。

この自分らの言論の自由は守られて、他人の言論の自由は迫害されてもかまわないという考え方は、ここ数日間おきているイスラム過激派によるローマ法王へのヒステリックな反応と酷似している。ローマ法王がなにをいったにしても、ローマ法王暗殺を訴え、キリスト協会を焼き、アフリカの小児病院でイスラム教の子供を含めた子供たちを助けてきた尼さんを殺すなどもってのほかだ。

そうやってローマ法王のひとことに怒り狂っている自分達は「信じないもの」としてユダヤ人やキリスト教徒を侮辱しているだけではなく大量に殺しまくっているではないか。いや、イスラム教徒同士ですら宗派が違うというだけで、イスラム教の祭日を狙ってモスクを破壊したりしているではないか。それでも私はラーバイや尼さんが爆弾しょってベイルートのレストランをふっ飛ばしたなんて話はきいたことがない。

気持ちが傷付いただって? ばかばかしい! お前らの神の名の元で我が同胞が毎日何人殺されてると思ってるんだ!

デキシーチックスがぶつぶつ言ってる偽の脅迫などとちがって、我々文明社会へのイスラム教過激派による脅迫は本物で深刻だ。我々はこれを軽々しく扱うことはできない。だが我々はこの脅迫におびえて沈黙するなどということがあってはならない。言論の自由はなんとしてでも守らなければならない。

それで、うるさい雌鳥たちはというと、元ファンたちは彼女たちのコンサート切符を買わないことで「言論の自由」を表現している。前回に比べ彼女たちの観客は半数に減ったという。しかも球場でのコンサートに固執したため、損害は何百万ドルにのぼるそうだ。これで彼女たちの気持ちが傷付こうとしったことか。

はっきり言ってどうでもいんだよ、あんたらの気持ちなんて、、、

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September 19, 2006, 現時間 06:31 PM | コメント (1) | トラックバック

September 17, 2006

平和な宗教

宗教と文化

ローマ法王がイスラム教は乱暴な宗教だと批判したことに抗議して、イスラム教徒はイスラム教が平和な宗教であることを態度で示そうとした。

<法王発言>ソマリアで修道女ら2人射殺 背景に聖戦批判か  【ヨハネスブルク白戸圭一】ソマリアからの報道によると、イスラム原理主義勢力「イスラム法廷連合」が支配する首都モガディシオで17日、イタリア人のカトリック修道女と護衛の男性の計2人が射殺された。ローマ法王ベネディクト16世の「聖戦」批判発言がイスラム世界で反発を招いており、法王発言への反発が背景にあるとの観測も出ている。  ロイター通信によると、修道女はモガディシオ北部の小児病院で働いていた。背後から3発の銃撃を受けたとの情報もある。イスラム法廷連合の関係者はロイター通信に対して、法王発言に反発したイスラム原理主義者による犯行の可能性があるとの見方を示している。

コメント、、、無し。

September 17, 2006, 現時間 01:29 PM | コメント (4) | トラックバック

August 15, 2006

政教分離という宗教迫害  首相靖国神社参詣に思う

宗教と文化

小泉首相が終戦記念日の15日に公約を守って靖国神社を参詣した。アメリカの新聞でもこのことは日本の首相が中国や韓国の圧力に立ち向かうものだとして評価されている。非常に喜ばしいことである。

私は長年外国暮しをしているせいなのかどうか分からないが、どうして一国の首相がその国の英霊が祀られている神社を参詣することで、諸外国に云々いわれなければならないのか、またそれにたいして日本の政治家がどうして諸外国に遠慮して参詣日をずらすなどという政策をとってきたのか、私には皆目理解できないでいる。

確かにA級戦犯が何人か祀られているとはいえ、日本のために命をなくされたかたがたの霊を慰めることがそれほど悪いことなのだろうか? また、政教分離の立場から首相が神社を政治家として参詣するのは好ましくないという意見もあるが、神道は日本文化の基盤でありその伝統を守ることに何の罪があるのだろう?

アメリカでも政教分離を唱える無宗教者によって、公共の場に掲げられる十字架や十戒の刻んである壁画などが、アメリカの政教分離の政策に反するとして訴訟が起こり、アメリカ各地で宗教的な印がどんどん消えていくという悲しい状態が発生している。そのなかで、カリフォルニアでおきたこの事件もスケールは違うが共通点がある。

ソレダド山に戦争記念碑が祀られているのだが、そこがカリフォルニア州の公地に建てられていることから、この記念碑に立つ十字架が政教分離のカリフォルニア憲法に反するとして、無宗教者が訴えていた。カリフォルニアの最高裁はこの原告の訴えを聞き入れ、即刻この十字架を取り除くようにとカリフォルニア政府に要求した。そこでブッシュ大統領は即座にこの土地を州の土地ではなく連邦政府に所属する土地とすることを上院議会に提案し、それが本日可決された。

しかし、ここまでして十字架を英霊の祀られる記念碑から取り除かねばならないという人々をみていると、彼は無宗教なのではなく、反宗教なのだと感じる。彼等の目的は政教分離ではなく宗教特にキリスト教への明らかな弾圧である。

私は神道の信者でもなければ、キリスト教徒でもないが、これらの宗教的な印をみることで特に自分の宗教が迫害されるという気にはならないし、政府が私に無理矢理これらの宗教を押し付けているとも思わない。むしろ公の場でキリスト教徒でない人々の気分を害さないためという理由でクリスマスや復活祭の飾りがどんどん消えていくのを非常に寂しく思うくらいだ。

ジュデオクリスチャンはアメリカ文化の基盤なのであり、そのシンボルはアメリカの伝統を意味する。日本において神道や仏教のシンボルがあちこちにみられるのも全く同じ意味がある。

だいたい政教分離というのは、政府が国教を築きそれを国民に強制してはならない、という法律のはずで、公共の場からすべての宗教的な儀式やシンボルを取り除かねばならないとか、政治家が特定の宗教儀式に参加してはいけないという意味ではないはずだ。いやむしろそのような干渉は政治家個人の宗教の自由を迫害するもので、ひいては宗教そのものへの弾圧でさえあると感じる。

August 15, 2006, 現時間 12:02 AM | コメント (1) | トラックバック

July 31, 2006

ユダヤ人って何者?

宗教と文化

どうも中東のニュースが多いので、ユダヤ人に対する偏見をもった醜い意見がブログでも掲示板でも飛び交うが、私がちょっと理解できないのは、この「ユダヤ人」という表現だ。

ご存じの通り、ユダヤ人という人種は存在しない。ユダヤ教徒は世界中に散らばっているが、その人種は白人、黒人、黄色人種と種々いろいろである。アラビア地方にすむユダヤ人はセマイトと呼ばれる人種だが、それをいうならアラブ人もセマイトだから人種としては同種である。

これは無論イスラエル市民という意味ではない。イスラエルにはキリスト教徒もいればイスラム教徒もいるので、これは成り立たない。

ではユダヤ教徒という意味かと思うと、そうでもない。毎年クリスマスツリーを飾って、冠婚葬祭以外には徒歩でいけるほど近くにあるお寺に足を踏み込んだこともなく、飲茶の時に豚まんを6個は食べるミスター苺がそれでも自分はユダヤ人だといいはるくらいだから、信心深さとは無関係のようである。(厳密にはユダヤ教は母方から受け継がれるので、ミスター苺はオーソドックスの信者としては受け入れられない。)

では俗にいう「ユダヤ人」とは誰のことをさすのだろうか?

ミスター苺とカカシが最初に出会った頃、(もうかれこれ27年になる。うっそ〜!)しょっちゅうユダヤ文化の話をするミスター苺に「あなたにとってユダヤ人であることがそんなに大切なの?」と聞いたことがある。ミスター苺は「君にとって日本人であることは大切なことかい?」と反対に聞き返してきた。彼にいわせるとユダヤ人とはユダヤ教徒という意味よりも、ユダヤ民族としてユダヤ文化を保持して生きてきた人々のことだという。だからユダヤ文化は国籍とか宗教ではなく彼の人間形成の基本となっているのである。それは私の人間形成が日本文化によって育まれたものであるのと同じことだ。

ここでどうも最近日本の方々が誤解しているユダヤ人像についてひとこと、ふたこといわせてもらおう。

ニオコンといわれるアメリカの新保守派イコールユダヤ系だと思ってる人がいるが、実はアメリカのユダヤ系はどちらかというと左寄りで民主党支持が多い。アメリカでジューイッシュといわれるユダヤ系の人々の多くはミスター苺も含め世俗主義で、リベラルである。ユダヤ系が多いニューヨークやロサンゼルスなどは圧倒的に民主党支持であることでもそれがわかる。

ユダヤ人が世界の金融業をコントロールしているという陰謀説だが、、Show me the moneeey! (その金みせろ〜!訳:カカシ)

失礼しました。今夜はニューヨークです。

July 31, 2006, 現時間 08:42 AM | コメント (2) | トラックバック

June 24, 2006

過激化する欧州のイスラム教徒たち

宗教と文化

リアルクリアポリティクス(RCP)において非常に気の滅入る記事(英語)を読んだ。これはピューグローバルアティテゥードプロジェクトが行った世論調査の結果である。(英語に自信のある方は上記の記事から世論調査の原文へのリンクから書類を開くことができる。)

下記はRCPより:

まずイギリス在住のイスラム教徒がドイツやフランス、スペインなどのイスラム教徒よりもずっと過激化しており、イスラム教徒と西洋文化との共存やイスラム教徒が西洋社会に在住することに関して、一番悲観的な考えをもっていることがわかった。驚くことに911同時多発テロがイスラム過激派によるものだと信じているイギリス在住イスラム教徒は17%しかいないということだ。スペインの33%、ドイツの35%、フランスの48%に比べると極端に少ない。

今さら驚くべきことではないが、ピュー世論調査によれば、欧州在住のイスラム教徒にる反ユダヤ教徒感情は相変わらず根強く、場所によっては増えているところもある。国別にイスラム教徒のなかでユダヤ教徒に嫌な感情を持っていると答えた数を多い順に並べると、ヨルダン98%、エジプト97%、ナイジェリア76%、インドネシア72%、パキスタン71%、トルコ65%、スペイン60%、イギリス47%、ドイツ44%、フランス28%、となる。まあヨルダンやエジプトはしょうがないとしても、欧州での60%〜28%という数は多すぎる。

傾向としては世界でのユダヤ人嫌いは減るどころか近年増えているという。2005年の調査とくらべ、増加率の多い国としてはインド22%増、スペイン19%増、トルコ5%増、ロシア4%増、フランスとイギリスはそれぞれ1%増となっている。ユダヤ人嫌いがわずかに減った国はインドネシア4%減、パキスタンとフランスで3%減、ヨルダン2%がある。

ユダヤ人への反感もさることながら、もっと恐ろしいのはアルカイダのような残虐テロリストや自爆テロなどを支持すると答えたひとの数が多いことである。

ヨルダンではザルカーウィの手下による結婚式場自爆テロによる被害が影響しているのか、自爆テロへの支持がかなり減っているが、フランス、スペイン、イギリス各国では、在住のイスラム教徒の15%が自爆テロによる無実な一般市民殺害を支持すると答えたという。(ドイツでは7%)そしてイギリス、ドイツ、スペインで12%がこれらの国々に住むイスラム教徒の「多くまたはほとんど」の人々がアルアイダのような過激派イスラム教を支持していると答えたという。

CIAの調査によると、欧州在住のイスラム教徒の割合はイギリス2.7%、ドイツ3.7%、フランス5~10%となり、スペイン在住のイスラム教徒数は約50万人。

簡単に計算して、ヨーロッパ在住の90万から150万のイスラム教徒がアルカイダのような過激派を支持し、自爆テロを奨励するということになる。これは彼等自身が爆弾しょったテロリストになるという意味では決してないが、テロリストの思想を反映する人間がヨーロッパにこれだけ在住しているということは、西側自由社会にとって非常に危険な状況である。

コメント:

アルカイダのようなテロ組織が世界で自由に行動するためには、地元からの援助が必要不可欠である。テロの件数を統計にとれば、テロが頻発するのがイスラム諸国であることがわかる。これはテロの犯人たちが地元の援助をうけながら地元民のなかに紛れ込むことが容易にできるからである。

本来ならば、欧米諸国での活動を好むはずのアルカイダが欧米において自由にテロ行動ができないのも、アラブ系のテロリストが欧米社会のなかに紛れ込むということが困難だったからである。アメリカでおきた911事件にしても、実際に飛行機を突っ込んだテロ犯人の他に彼等をアメリカ国内で援助したのは皆外国人だった。スペインでも311鉄道爆破テロでもモロッコあたりからはいってきた外国人犯人たちの仕業であった。

だが、この間のカナダの件といい、フロリダの件といい、最近では地元で生まれ育った人間がアルカイダに同調して積極的にテロ活動にいそしむという傾向が出てきている。これは自由社会に住むものにとって由々しき事態である。

自由社会のいい点でもあり弱点でもあるのが、異文化への寛容性だ。我々は異教徒の宗教の自由を制限しないし、彼等が自分らのモスクでどのような危険な思想をあおっていてもそれを監視したりすると、すぐに人権擁護団体なるものがプライバシーの侵害だとか、言論の自由迫害だとかいって大騒ぎをする。

だが、イギリスのモスクへ何度もいったことがあるというあるイスラム教徒から聞いた話だと、イギリスではモスクがテロリスト養成の予備校になっているということだ。

イスラム過激派は自由社会の寛容の隠れ蓑のなかで、着々と自由社会崩壊の陰謀を企てている。これを放っておくことは我々の将来を実に危険な状況へ追い込むことになる。対テロ戦争はイラクだけではおさまらない。欧米およびアジア諸国に潜むイスラム過激派による世界征服の企みは今後も世界の自由社会を脅かすであろう。

そのことを自由社会にすむ我々は一人一人しっかりと自覚する必要がある。プライバシーも宗教の自由も大切だが、排他的思想を肝要に許容するということは、排他主義を取り入れることとなり、結局は自由社会の崩壊へとつながるのである。だからこのような思想との戦いは人権擁護と国家警備との微妙なバランスをとりながらやっていかなければならない難かしさがある。モスクの監視、テロリストの電話盗聴、テロ団体の金融情報の監視など、テロリストの行動を監視する貴重な手段を、反射的にプライバシーの侵害だの、人権迫害だのと何も考えずに批判すべきではない。

それもわからずこのような危険なテロリストに国家機密を垂れ流すアメリカのメディアのことを考えると、腹が立つというより呆れてものがいえなくなる。ああ、情けなや。

June 24, 2006, 現時間 01:55 PM | コメント (0) | トラックバック