May 17, 2015

去勢男たちに乗っ取られた現代フェミニズム

先日から、小山エミが韓国人慰安婦の問題で話題の人になったらしいという話をしているが、実はそれとは全く無関係な調査をしている最中に、またまた小山エミの名前にぶち当たり、何故私は彼から逃れられないのだろうと苦笑してしまった。実は前々からフェミニズムが男から女(MTF)に転換した去勢男たち(トランス女と呼ばせてもらう)に乗っ取られつつあるという話を聞いていたが、そのことについて色々検索していたら小山エミが2001年に書いたトランスフェミニズムマニフェストなるものを発見した。それを読んでいて、小山について長年そうではないかと思っていた疑惑がやはりそうだったのかという確信に変わった。結論からいえば、小山自身が男から女へと転換を図ったトランス女だったということだ。

カカシが小山のことを当初かなり誤解した理由は、私自身が非常にナイーブで、LGBTやトランスによるフェミニズム乗っ取りについて全く無知だったということにある。カカシが小山のことをレズビアンと呼んだり、レズビアンフェミニストの話をしたりしたときに、小山が『カカシさんに説明してもわからないと思う』と書いたり、ラディフェミに対して少なからぬ敵意を抱いているという印象を持ったのも、今思えばそういうことだったのだなと納得がいく。ま、小山の写真をみれば、あれが普通の女性でないことは一目瞭然なのだが、女性だという先入観を持ってみていたので、唖然としてしまった覚えがある。(ミスター苺は常に「あれは男だ」と言っていたが。)

2014年8月発行のニューヨーカーに載ったミッシェル・ゴールドバーグの記事が解りやすくラディフェム(極フェミニスト)対トランス女(について語っているのでそちらの記事を読みながら現在のフェミニズムについてちょっと考えてみたい。

最近、トランス女を女として認めているリベラルフェミニストたちと、トランス女はあくまで男であり、女子トイレとか女子更衣室や、女性のみを対象としたイベントにトランス女たちを入れるべきではないという姿勢をもったラディフェムたちとの間で大きな亀裂が生じている。だが情勢はラディフェムたちにかなり不利。ラディフェムはトランス女たち率いるリベラルフェムたちに圧倒されており、今やフェミニズムはトランス女と呼ばれる去勢男たちに乗っ取られてしまっているのだ。

最近になってトランス女たちの権力が顕著となってきたが、実は、トランス女たちによるフェミニズム乗っ取りはもう40年以上も前からその兆しをみせていた。

最初にフェミニストたちの間でトランス女の存在が問題となったのは、1973年にロサンゼルスで開かれた西海岸レズビアン大会で当時はまだ珍しかったトランス女でフォークシンガーのべス・エリオットの演奏を許可するかどうかでもめたことにあった。大会の主賓演説をしたロビン・モーガン(女性)はトランス女について、

私は男を「彼女」とは呼ばない。32年間男中心社会で苦しみ生き延びてきて「女性」という肩書きを獲得した。それを女装して数分間町を歩いてひやかされた(多分それも楽しんで)くらいの男が、よくも、よくも、私たちの苦痛がわかるなどというな。 いや、我等が母の名において、我らの名において、我々は断じて彼を妹などと認めてはならない!

と語った。ゴールドバークはこういう意見は最近では少数派になったがラディフェムと呼ばれる人々の間では強く信じられた信念だという。カカシとしてはラディフェムのほうに肩を持つね。トランス女たちは自分らは男の身体で生まれたが頭脳は女性だと主張するが、ラディフェムは男らしいとか女らしい考え方とか行動というのは、男中心の社会が決め付けたものであって「中和された服従」なのだと主張している。

ゴールドバークは、ラディフェムの考える性別はアイデンティティーというよりも社会の地位と受け取れるという。つまり、男として生まれた人間はたとえ後に女になることを選んでも、男としての有利な立場は一生保持されるというもの。女になるという選択権があるということ事態、男に女の立場など理解できるはずがないというわけだ。であるからトランス女を女性として認めよと要求するのも男としての権限を振りかざしているに他ならないというのだ。

トランス女たちや、その支持者たちはトランス女が受けるひどい差別や嫌がらせなどからトランス女の間での自殺率が高いことなどをあげてラディフェムの考えがいかに偏見に満ちたものであるかを主張する。だが最近トランス女たちの権力は目にあまるものがあり、ラディフェムたちのほうがずっと虐待されている。

去年の5月にオレゴン州のポートランドで行なわれたラディフェムの演説会も最初はクエーカー図書館の会議室で行なわれるはずだったのが、土壇場になってトランス活動家による抗議によりイベントがキャンセルされてしまい別の場所に移動せざるおえなかった。こういうことは何もこれがはじめてではない。2012年にロンドンで行なわれたラディフェム大会は、当初コンウェイホールで行なわれることになっていたが、大会はトランス女の参加を拒否していたことと、反トランスとして有名なシーラ・ジェフェリー女史が演説をするということで、トランスジェンダーの活動家らによる圧力に屈してコーンウェイホールは大会の開催を拒否。結局ラディフェム大会は別の秘密の場所で開催された。カナダのトロントで開かれた2013年のラディフェム大会もまたトランス活動家により土壇場で場所を変えざる終えないという状況に追い込まれた。

ラディフェムたちはトランスによる時として暴力的な妨害に対して「ジェンダー批判の鎮圧」だとして抗議したが時すでに遅し。トランス側はラディフェムは差別的なヘイト団体だというレッテルを張り、新しくラディフェムを侮辱する言葉としてTERF/ターフ(trans-exclusionary radical feminist. トランス阻害過激派フェミニスト)という単語を作り出し、ラディフェムたちの弾圧により力を入れている。

トランスによるラディフェムへの攻撃は尋常なものではない。ツイッターでのラディフェム攻撃は脅迫まがいのものが多く、ある若いブロガーはナイフをかざしたセルフィーを撮って「ターフをつれて来い!」というサインをかざしたりしている。こういう命を狙うような脅迫状が多くなったため、ラディフェムのウェッブサイトではそういうコメントを記録するまでになった。ラディフェムでディープグリーンレジスタンス(DGR)というエコ(環境)フェミニストグループを作ったリーラ(?)・キース(Lierre Keith、女性)はトランスたちはラディフェムが彼らを女性と認めないことにひどく腹を立てていると語る。

キースのグループ自体、かなり過激なエコテロリストグループらしいが、その暴力的な姿勢よりもトランスに対する姿勢の方が問題視されている。彼女たちの考えでは男としての特権を持って生まれた人間がどんな手術をしようと女になどなれない。それは白人が日焼けして黒人だと主張しても認められないのと同じだ。このディープ、、が始めて会合を開いた2011年、男から女への転換中の男性の女性専門寝室への入室を拒否した。「男性が支持者として会合に参加するのは結構ですが、女性が寝る部屋や女子トイレへの使用は許可できません」と言うのが理由。あったりまえだろうと思うが、これが問題なのか?

キースのこの態度がトランス派にはかなり気に障ったと見え、去年の2月キースがオレゴン大学で環境保全法についての演説をするはずだったのが、トランス支持派の生徒会の猛反対を受け、命の危険すらあるということでキースは6人の警察官に護衛されて壇上に立ったという。

最近は、一旦は自分はトランスだと思い込んで転換への道を歩み始めた人々が、やっぱり自分はトランスではないと気がついて元の性に戻ろうとする人が少なからず増えている。カカシは女から男へ転換しようと決心して男性ホルモンを一年以上も打っていた人が、やっぱり止めることにしたと涙の宣言をしているユーチューブビデオを何本か発見した。彼女たちは自分のなかで「男っぽい女」でいることが本当の自分なんだとやっと納得できた人たちである。

しかし、性転換が難しいとしたら、逆戻りはもっと大変だ。それは身体にかかる負担もそうだが、トランスを拒絶したとしてこれまで仲間としてつきあっていた人たちから背信者として攻撃を受けるからである。そんななかの一人、ヒース・アトム・ラッセル(女性)は大学在学中にトランス治療を始め大学のトランス人権団体から祝福されていた。しかし四年生のときにシーラ・ジェフェリー著の「アンパッキングクイアーポリティクス(同性愛政治解体)」という本を読み、FTMは男性優位社会に迎合する行為だという主張に感動し性転換をやめたという。カカシが発見したビデオでの告白では、彼女にはレズビアンとしての良きロールモデルがおらず、女が好きだから自分は男であるべきだという間違った考えに感化されてしまったのだという。

彼女の体験はシーラ・ジェフェリーの新作「ジェンダーハーツ」にも登場するんだそうだ。カカシはジェンダーハーツは作品紹介の部分しか読んだことがないが、やっぱりちゃんと読むべきだな。

シーラ・ジェフェリーはオーストラリア出身で今はロンドンの大学教授で、フェミニズムに関する本を9書も書いている権威あるフェミニスト。普段なら新作発表はロンドンの大学書店で行なわれるのだが、今回大学側から厳重な警備が必要だと警告され、新作発表は招待客のみで行なわれることとなった。またジェフェリー女史は、ロンドンの大学にある自分の事務所のドアから名札を外したという。トランス女は女ではないと主張しただけで命まで狙われるとは何と言う恐ろしさだろう。

フェミニストがトランスジェンダーに批判的な本を書いた例はなんと1979年にまでさかのぼる。元尼さんのレズビアンフェミニストジャニス・レイモンドが書いた「ザ・トランスジェンダー帝国、シーメール(彼女・男性)の作成」彼女は尼から医者に転向した人で、医者の立場から性転換手術による身体的精神的な弊害について書いた。レイモンド女史は女性から男性への転換手術について、「すべての転換は女性の身体を強姦するものだ。「トランスセクシュアルによるレズビアンフェミニズムは女性の性と精神を冒涜するものである」としている。このような考えは40年前は主流メディアからも斬新な考えとして好評を受けた。それに比べてジェフェリー女史の「ジェンダーハーツ」はメディアからはほぼ完全無視の状態。時代は変わったものである。

レイモンド自身、彼女に対する風当たりが近年ひどくなってきたことを感じている。彼女は今、トランスに関する問題よりも人身売買についての研究に専念しているが、去年の8月ノルウェー政府からの招待で売春婦登録に関する法律について語るはずだったのが、行ってみると招待が引き下げられていた。それというのも彼女はトランスフォビアだという投稿が主流新聞に載ったからだという。

トランスというか、ジェンダーに関する考えが劇的に変わったのは何と言っても大学だ。特に文科系の大学では生徒はどんな性別の代名詞を使いたいか聞かれるのは普通だという。日本語ではあまり彼とか彼女という代名詞は使わないが、英語だと他人の話をするときはhe/sheの区別が必要。ところが最近は “ze,” “ou,” “hir,” “they,” なかには“it” なんてのもあるんだそうだ。カカシも最近フェイスブックでは20いくつの代名詞があると聞いてぶっとんだくらいだから。面倒くさいから中性の「あの人」みたいな言葉をつくったらいいんじゃないのかと思うね。

最近では大学の保険が性転換手術の費用負担をしたりするところも増えているんだとか。ハーバードやエールやドューク、カリフォルニアのUCシステムもそうなんだとか。医療といえば、先にあげたラッセルが大学で女性は妊娠によって弾圧されているという話をしたとき、他の生徒からまじで「でも女性でも男の場合はどうなの?」と聞かれたという。なんだそりゃ?

もっと複雑で笑っちゃうが冗談じゃない話がある。フェミニストといえば人口妊娠中絶の権利を主張するのが定番だが、ニューヨークの人工中絶基金( the New York Abortion Access Fund)という中絶費用が出せない若い妊婦たちへの費用提供のための基金では、去年の5月、妊婦を「女性」と呼ばないことに決めたという。女性というと女から男へのトランス男たちを排除することになるからだという。何でトランス男が妊娠するんだよと聞くのは野暮なのだろうか?NARALとか中絶専門施設のプランドペアレントフッドなどにも「女性」という言葉使いをしないようにという圧力がかかっているそうだ。

こういう言葉使いの変化について批判するのはシスジェンダー(cisgender)の特権にしがみつく行為だというのが若いフェミニストたちの言い分。シスジェンダーというのは要するにトランスではない人たち、つまり正常な人間のことをさす。左翼リベラルってのはやたらとくだらない言葉を作り出して、周りにその言葉使いの使用を強制する。単に正常人と呼べ、と言いたいね。

古いタイプのフェミニストたちはこういう新しい考えについていけない人が多い。サラ・セイント・マーティン・リン(41歳女性)は昨年ベイアリアガールスロックキャンプの委員会から辞任を要求された。それというのも彼女がミシガン女性音楽祭the Michigan Womyn’s Music Festivalに関連しているというのが理由。女性という意味のwomanをわざわざWomynとつづるほどの過激派フェミニストたちの音楽祭は、女性に生まれた女性のみの参加しか許可していない。

この音楽祭でトランス女が追い出されるという事件がもう20年以上も前にあったという話は小山エミのエッセイを読んで知ったのだが、その後手術後のトランス女はいいのではないかという話が持ち上がり、その際手術前のトランス女たちが抗議してはちゃめちゃなことになったらしい。まったく事実は小説よりも奇なりというが本当である。

さて俗にミシフェストと呼ばれるこの音楽祭は毎年8月に開かれている。創設者はリサ・ボーゲルで始まったのは1976年、彼女がまだミシガン大学の学生だったころに始め、いまでもボーゲルが主催している。音楽祭とはいうものの、音楽もさることながら、大事なのは毎年何千という女性が集まり、キャンプを設置し女性だけの女系コミュニティーを作ることに意義があるのだとボーゲルは言う。人によっては豪華なコスチュームで現れる女性もいれば、素っ裸で歩き回る女性もいる。もしも世の中が女性だけだったらどういうふうな社会になるだろうというファンタジーの世界を作り出すのが目的だという。

彼女にとって夜一人歩きをしても安全を感じられる場所は大事なのだという。ここは女性が無防備でも安心できる場所であり、こんなところは他にないと。「明日、誰でも大歓迎ということになったら、それはそれでクールな場所かもしれないけど、我々が我々であることの深い意味での自由な意識は変わると思います。」

トランス活動家たちからすれば、トランス女は女性にとって危険な存在だといわんばかりのボーゲルの考えは非常に侮辱的に取れる。

トランス女で生物学者のジュリア・セラノ(MTF)はトランス女が居ると普通の女性が不快になるというのは、ゲイやレズビアンが更衣室にいると不快だというのと同じ理屈だという。セラノについてはジェフェリーの新著のなかで「フェミニズムを自分の変態的性欲に合わせるべく変えようとしている」としてかなり手厳しく批判されている。セラノは今や現代フェミニズムの新星として大人気者、大学の講演などでひっぱりだこだ。抗議がキャンセルされたり警備が必要なラディフェムたちとは大違い。

2003年、セラノは約百人のトランスたちとキャンプトランスなるキャンプを設置しミシフェストに抗議した。この抗議キャンプは最初にトランスたちがミシフェストから追い出された1994年から時々開催されていた。それまではミシフェスト参加者との遭遇は比較的平和的だったというが、その年はトランスキャンプがあらされケーブルが盗まれたり水源が止められたりという嫌がらせがあったという。

それ以後、トランスたちの作戦は、ミシフェスト参加ボイコットを使った嫌がらせへと変更された。おととし、ミシフェストで長年レギュラー出演していたザ・インディゴガールズは突然、トランス参加を認めるまではミシフェストでの演奏はしないと宣言。去年のヘッドライナーのハンター・バレンティーノも同じ理由で参加を辞退。逆にミシフェストで演奏したパフォーマーたちは別の場所でボイコットを受けたりしている。ファンクシンガーのシェリー・にコールは彼女のバンドがミシフェストに出演するとわかったとたん、ブルックリンのショーから下ろされてしまったという。.

ベイアリアガールスロックキャンプの幹部から辞任を余儀なくされたセントマーティンリンは、首になるまで自分がラディフェムだという意識はなかったという。だが、ミシフェスト攻撃運動やラディフェムへの攻撃が過激化していくのをみるにつけ、女性として生まれた女性のみの大会は存続されなければならないと強く思うようになったという。

トランス活動家のサンディー・ストーン(MTF)は、ラディフェムたちはトランス女たちの邪魔をしないで欲しい、ラディフェムを避けるのはトランス女の責任ではないという。

カカシが思うに、ラディフェムはトランス女たちの邪魔をしているのではなく、トランス女たちがラディフェムの区域に侵入しようとしてくるのを防ごうとしているだけだ。ラディフェム主催のミシフェストをボイコットするのはいいとしても、何故ミシフェストに無理やり参加を要求しなければならないのだ?

トランス女という去勢男たちにフェミニズムが乗っ取られてしまったというのも皮肉な話ではあるが、トランス女たちの横暴はフェミニズム乗っ取りだけでは済まされない。今や過激派トランス活動家によるトランス女を女子トイレや更衣室に入れろという運動は全国各地で起きており、カリフォルニア議会は市民の許可も得ず勝手にトランス女の女子専門施設入室を許可する、バスルームビル(いわゆるトイレ法)を通してしまった。これについてはミスター苺やカカシもその抗議署名運動に加わり、次の選挙でトイレ法廃止案を投票項目に加えるべく運動に参加している。(前回は署名数不足といういいがかりをつけられて項目に載らなかった。)カリフォルニアのトイレ法はいまのところ施行差し止め中。にもかかわらず多くの学校で不法な施行がすでに始まっている。

左翼リベラルのやることは常に保守的な組織を破壊することにある。だが、トランス女を女性専門施設に入れろというのは、一時期男性のみだった商工会やビジネスクラブに女性の入会を許可しろというのとはまるで違う。またゲイやレズビアンを軍隊に入れろというのとも違う。なぜかと言えば、ゲイやレズビアンが傍にいて不快になる人が居たとしても、それ自体軍隊の仕事に支障はきたさない。また、更衣室などで同じ性の同性愛者が居たとしても、それ自体危険な状況ではない。

だが、女子トイレや更衣室に男性が居ることは、単に女性が不快になるだけでなく、女性の安全を脅かすことになる。それはトランス女が危険だというより、トランス女を装う変態男たちの使用をも許可することとなるからである。

以前にも書いたがカリフォルニアのトイレ法は、自分が女性だと思っているだけで女装もしていないどう見ても男にしか見えない男が女子トイレや更衣室に入室するのを許可するという信じられない法律なのだ。ある個人が頭のなかでどんな妄想を描いているかなど他人に解るはずがない。これは幼児わいせつ癖のある変態男でも、自分は女だと主張しさえすれば女子トイレに入れるとなれば、女性の安全など絶対に保てない。

今なら、女子トイレに入ろうとする男がいたら警備員が注意をすることも可能だが、トイレ法が通れば普通の男がずかずか女子トイレや更衣室に入っても誰も文句は言えないのである。この間のプラネットフィットネスで起きた事件など、文句をいった女性会員が会員権を剥奪されるなど、まるで常識が通らない世の中になりつつある。

ラディフェムたちがトランス女たちに圧倒されていることは、これまでのラディフェムのやり方からして「いい気味だ」とかいってやりたい気もしなくはないが、トランス横暴の被害者はラディフェムだけに収まらない。そこが重大な問題なのである。

May 17, 2015, 現時間 11:29 AM

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